後
「やあ、翔くん。元気だったかな?」
「ええ、まあ」
浦和の法律事務所。通された部屋に入ると、大量の分厚い本とPCに囲まれて高遠が座っていた。二年前、叔父の紹介で引き合わされて以来高遠には本当に世話になっている。叔父が後見人になるにあたっての法的な手続きや、生活費がきちんと振り込まれているかの管理などをしていると聞いていた。正式な後見監督人についたケースが裁判沙汰にもなった経験もある身からすれば、翔くんの件は楽な仕事だと。会うたびに高遠は言っている。実際、叔父と翔の間にあるやり取りは毎月の送金だけだ。叔父が両親の遺産に不必要に手を加えることも、翔が叔父に何かを要求することもなかった。そう、つい二週間前までは。
「あの、例の件について叔父からの返答は」
問うたのは、毎月学費や生活費といった名目で振り込まれる金額に祖母の入居費を足してもらえないだろうかという頼み。正直に言えば、叔父が首を縦に打ってくれるかは微妙なところだった。父の弟と母方の祖母。ほぼ赤の他人であり、接点である両親はこの世にない。直接電話で話を持ちかけたときも、はっきりと拒否されたわけではないが渋った回答だった。
「あー。その、先方はあんまり乗り気じゃないみたいだねえ」
案の定、高遠の答えも芳しくない。ずんと心が締め付けられるが、額を思うと無理もない。それでも祖母の境遇を思うと、湧き上がる苛立ちを堪えきれなかった。吐き捨てるように口にする。
「本来は僕のお金なのに」
「まあまあ、落ち着いて。叔父さんも、意地悪でそうしている訳じゃない。ご両親の口座の動向は僕がしっかり見てるけれど、不審なお金の出入りはない。彼は保護者としての務めを誠実に果たしているよ」
「なら、どうして」
「翔くんを思ってのことだ」
高遠が壁際の書棚を指す。ぎっしりと詰まっているのは長ったらしい題の記された小難しい法律書。
「そこにある何冊かはね、丸一冊が親族間の介護問題でこじれたケースや関連法律・制度で占められている。介護はね、人間の生活を簡単に壊しうる」
翔もなんとなく察するところはあった。超高齢化社会に伴う老老介護問題や介護疲れからの無理心中。どこか自分には関係ないと思っていたそれらの悲劇が、気づけば間近に迫っていたことに気づかされて血の気が引く。
「まあね、おそらく叔父さんが優先したがっているのは君の将来への備えだ。翔くん、今は高校二年生の夏だったね。将来についてはどう考えている?」
突然自分のことを聞かれてどきりとした。
物理が得意科目だったので、一応は理系に進んでいる。通っている一貫校は、自称とはいえ一応は進学校だ。自分も大学受験を経て進学、卒業後に就職するものだとは曖昧に思っていたが、これといったビジョンはない。恐る恐る、決めていないと口にした。高遠の目に心配そうな色が浮かぶのを見て、思わず肩を縮める。
「誤解しないでほしいんだけど、君を責めている訳では全くないよ。今は目の前のことでいっぱいいっぱいなのは知っている。……ご両親に将来を相談できないという要素は、君が考えている以上に影響が大きい。叔父さんが心配しているのは、まさにそこだ」
両親、と耳にしただけでびくりと身体が跳ねた。翔の動揺を見てか、取り繕うように高遠が言葉を続ける。
「逆に言えば、将来さえはっきりと見通しがつけば叔父さんも追加の送金を許可してくれそうな見込みがある。……そうだな、翔くんは埼玉をどう思う?」
突然変化した話題に、翔は目を瞬かせる。
「埼玉、ですか?」
「そう。好きか嫌いか、ってレベルの話でいい」
「それは……どっちかって言えば好き、です」
両親との思い出の詰まった土地だから。高遠の求めている答えも分からずに、思ったままを口に出す。これで良いのか不安でいる翔とは対照的に、高遠は満足げに頷いた。
「じゃあ、東京はどう思う?」
「東京も、好きです。都会はいろんな物やお店、情報があって刺激的だし楽しいから」
「よく言ってくれた。ちなみに、都会と言っても日本にはたくさんあるけど、他の街はどうだい? 例えば横浜に大阪、仙台に名古屋。最近は新幹線だってできたからね、札幌にだって行ける」
だんだんと、高遠が何を聞きたいのか分かってきた。
「えっと……仙台とか名古屋は行ったことがないので、なんとも言えません。ですが、やっぱり東京がいいです。故郷を、あまり離れたくないから」
「そう、その通り。いやあ、何を隠そう僕も埼玉の出身なんだけどね」
笑って高遠が口にした高校名に翔は目を剥いた。県内随一の進学校として名高い市内の男子校だ。といっても成績は下から数えた方がずっと早かったけどねと高藤は笑うが、翔からすれば全く謙遜に聞こえない。
「埼玉はね、東京に次いでおっそろしく交通の便がいいんだ。空港こそないけれど、代わりに新幹線がある。東北や上越は勿論、最近は北陸や北海道だって行ける。でもね、一番は東京へのルートだ。東武線、西武線、埼京線に高崎・宇都宮線。ちょっと変則的だけど八高線に埼玉高速鉄道なんてのもあったかな。東京から新幹線や空港へ乗り継げば、国内どころか世界のどこだって行ける」
「でも、僕は」
「分かってる。埼玉の中でも遠い地方でもなく、東京がいいんだろう?」
頷く。埼玉の大学に進学したくない訳ではない。それでも、東京の持つ選択肢の多さと魅力には抗えなかった。それに、東京ならば埼玉から通える。高遠もそれは見抜いていたのだろう、先ほどの問答はいわば翔の背中を押すためのものだった。
「確か理系だったね。気になっている分野は? なければ得意科目でもいい」
「得意なのは物理です。気になっているのは、特に……いえ」
高校の学習範囲でこそないが、興味を惹かれている分野があった。
「有機化学系、化学繊維や高分子化合物の合成に興味があります」
「ん? ずいぶんニッチなとこだね、どうしてだい?」
「両親の、専門でした」
そうだった。両親の会社が扱っていたのがまさに独自に開発した化学繊維であり、アパレルブランドと提携してそこそこ利益をあげていたはずだ。
「なるほど。じゃあ、こことかどうかな?」
高遠が手元で操作していたPCを持ち上げ、画面を見せてくる。表示されていたのは東京の大学がいくつか。高遠の話を聞く限り、いずれも企業など提携するなどして有機化学系の研究に一定の業績を挙げている大学らしい。
「そうだね、この辺なんかどうだい。翔くんの学校からも毎年十数人ほど合格者が出てる、立地も通えない程じゃないはずだ。就職も上手くやればそこそこの会社に勤められる」
示された大学名のメモをとり、高校の担任と相談すると答える。目指す方向を決めて、改めて叔父に相談することとなった。
「ああ、そうだ。すぐに必要だって言ってた延滞料金、どうにか工面できたと言ってたけどどうしたんだい?」
翔が礼を告げて部屋を辞そうとしたところで、思い出したように投げかけられる高遠の声。ぎくりと立ち止まった。かき集めても足りなかった25万円の存在を高遠は知っているはずだ。ここは知っていることを正直に告げることにした。
「両親に世話になったという方に、ご厚意で貸していただきました。返済はできる時でいいと言われたので、高校を卒業し次第すぐにでもバイトを始めてお返しする予定です」
「そういえば翔くんのところはアルバイト禁止だったね。貸してくれた人はどういったところの人なんだ? 月島さんみたいな会社の方かい?」
「いえ……詳しくは聞いていません。昔の会社関係者としか」
「そうか。ちょっと聞くよ。――その人は、信頼できる人物かい?」
高遠の声が真剣味を帯びる。斎賀のことを警戒されている。とっさに言葉が翔の口を突いて出た。
「斎賀さんは、信頼できる人です! 祖母とも面識があったらしくて、そのご縁で貸していただきました。名刺だって貰ってます、明応製薬で働いていらっしゃるそうです」
「明応製薬? ふうん、そうなのか。ちょっと分野はずれるけど、確かに有機化学系と言えばそうだね」
社名の効果は大きかったのか、鋭くなっていた高遠の目つきが和らぐ。疑いは若干和らいだらしい。。
「進路の予定を立てて、叔父さんとよく相談するんだよ。君まで悪い大人に騙されることのないように。昔の会社関係者というなら、その人にいろいろと聞いてみるのもアリだね」
「そうします。進展があればまたお伝えします、本日はありがとうございました」
「うん、こちらこそ。故郷も、言うなれば親御さんが遺してくれたものの一つさ。埼玉に留まるというのなら、ベッドタウンとしての埼玉の利点を存分に活用するといい」
一礼して、今度こそ事務所を出る。学校帰りに訪れた浦和の夜空は、一昨日斎賀の部屋から見上げた東京の空と同じ色をしていた。
「斎賀さん、突然失礼しました。三浦翔です」
「翔くんか。どうした?」
「はい。あの、祖母の件ですが、毎月分を振り込んでもらえることが決まりました」
八月の頭。毎月一日に送金されるいつもの金額に加え、ホームの入居料が上乗せされて振り込まれたことを示す通帳が翔の手の中にある。銀行を出たところで、翔は斎賀に電話をかけていた。
担任との面談の結果、高遠に教えて貰ったうちのいくつかの大学への進学を目指して勉強することとなった。現在の翔の成績であれば、これから一年間の定期試験で高得点をとれば推薦入試枠に入れるらしい。何度もそらんじた大学名と志望理由を書きつけたメモ片手に震える手で叔父の電話番号を呼び出し、将来の心配がないよう真剣に勉強するから老人ホームの代金の支払いを許してほしいと電話越しに頭を下げた。現実主義者の叔父からは重箱の隅をつつくような質問が飛んだが、担任や高遠が予め聞かれそうなことを教えてくれていたお陰で質問攻めを乗り切ることができた、その果てに。
(お前がそこまで言うんだ、いいだろう。そこまで将来のことを考えているのなら、俺の心配は全くの杞憂だったな。八月分から翔の言っていた金額を振り込むよう手配しておくよ)
そして、月が変わって初日。叔父の言葉が確かに実行されたことを示す通帳を握りしめ、翔は斎賀に報告していた。厳密には八月と九月の料金は保証金として払ってあるため、実際に翔の口座から老人ホームによる引き落としがなされるのは十月以降となる。しかし、また何かあったときのためとして叔父からの送金は今月から開始されており、翔も祖母に急な病気が発覚したときなどのために貯金しておくことにしていた。斎賀への返済に充てられないかと一応聞いてはみたが、自身はいいから祖母のために貯蓄しておくべきだと辞退された。
ともかく、これで当面の危機は去ったことになる。
「本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「言ったろう、礼には及ばない」
「でも、僕が自力でお金を稼げるようになるまではまだ時間がかかります。このままでは僕の気が」
「そこまで言うのなら……ああ、もうそんな季節だったな。だったら、君の許しが欲しいことがある」
電話越しに斎賀は言葉を切る。深く一呼吸置いて。
命日に、三浦結香さんの墓へ参っても良いだろうか。
まるで懇願するかのような声色で告げられた斎賀の頼みを、翔は心のどこかで予期していた気がした。
それから数日後。待ち合わせた横浜駅へ先に到着していたのは斎賀だった。流石にスーツ姿でこそなかったが、黒いジャケットを羽織ったフォーマルな装い。夏休みに入った翔はともかく、今日は平日だ。仕事は大丈夫なのだろうか。
「あの、何時までに出なければいけないとかいう予定はありますか」
「無いな。有給を取った」
ここからは京急に乗り換える。横浜市内とは言え、目的の駅までは少し距離があった。赤と白のラインに縁取られた列車から降りたころは、すっかり埼玉の郊外と変わらない景色だ。バスにしばし揺られ、霊園に到着する。霊園にほど近い店で買った仏花は斎賀が支払った。
ここは祖父も眠る、母方の家系の墓地だ。父と共に眠る関西の墓地とは別に、分骨した神奈川の墓地にも母は眠っている。
「あれ?」
目的の墓石の近くに来たところで翔は首を捻った。妙に墓が綺麗だ。前に来てみれば、真新しい線香や花も供えられている。心当たりは一人。
「午前中に、祖母が訪れたようです」
「そのようだな」
自分たちと入れ違うかたちで施設の職員に付き添われて訪れたのだろう。母の命日を覚えてくれていた。その事実に、じわりと目頭が熱くなる。
持参した花を備え、改めて墓石を拭き清める。斎賀と共に線香をあげ、手を合わせて瞑目した。
隣に立つ彼は何を祈っているのか。母と、かつて何があったのか。僕の知る余地のない事情を抱えて死者を思う彼の気配を横に感じながら。
(母さん)
心の中でそっと亡き人に呼びかけた。僕も、祖母も、そして斎賀も。多くの人を遺して逝ってしまったひと。今でも墓前に来ると、胸に刃物が刺さったような、手足をもぎ取られたような激痛にも似た喪失感に襲われる。それも所詮は、生者のエゴだ。
(どうか安らかに)
生きる者には祈ることしかできない。それだけは隣の斎賀も同様だ。僕が目を開けて少しして、斎賀も目を開けた。
「挨拶は、できましたか」
問えば斎賀はこくりと頷く。そのまなじりで何かが夏の日差しを反射して光った気がした。
最後にもう一度墓石に一礼して、霊園入り口に向かう。歩く途中で、ある頼み事を口にした。
「あの、この近くにあるホームに寄っていってもいいですか。祖母に挨拶したいんです」
斎賀も祖母と面識があるという。せっかくだし顔を見たいと訴えると、意外にも斎賀は一瞬困ったような顔をした。ややあって、斎賀が頷く。了承の意にとって、翔は老人ホームへゆくバスの停留所へ足を向けた。
ホームにたどり着くと、職員は僕の顔を覚えていたのかすぐに施設内へ通された。滑り止めマットを敷いたスロープを上り、階上のある個室の前にたどり着く。そこで斎賀から声がかかった。
「私は、ここで待っている」
「え? でも、斎賀さんは祖母と面識がおありだって」
「昔の話だ。今の私は、宮藤さんに合わせる顔を持ち合わせていない」
きっぱりとした拒否だった。斎賀の言に含みを感じながらも、翔は廊下に斎賀を残して祖母の居室の扉をノックする。声もかけるが返事は無い。眠っているのだろうか。起こさぬようそっと扉を開けた室内に、祖母の姿はなかった。と、いうことは。振り返ると同時、廊下の向こうから声がした。
「ほら、宮藤さん。お孫さんがいらっしゃいましたよ」
介助士さんの声と杖をつく音。慌てて部屋を出たときには、既に。廊下で呆然と立ち尽くす斎賀と、介助士に連れられた祖母が向かい合っていた。
「婆ちゃん!」
声を上げて駆け寄る。祖母の目が翔を認めた。皺の寄ったその表情が『いつも』のように笑みを浮かべることはない。
まずい。今日は、駄目な日だ。耳を塞ぐよりも早く、その声は容赦なく翔の鼓膜に滑り込む。
「はじめまして、お兄ちゃん。どちら様かね」
最愛の一人娘を喪った人物は、こうも変わってしまうものなのか。立ち尽くす翔の横を杖をついた祖母が通り過ぎる。
「こら、駄目でしょう宮藤さん。こちらは翔さん、三浦翔さん。宮藤さんのお孫さんですってば」
「しょう? しょーう? はて、誰かねえ。この年になると、物忘れが酷くてねえ……」
介助士さんの慌てた声に、祖母ののんびりとした声が重なる。
認知症の診断を受けた病院で。忘れるのが怖い、これ以上大切な家族の思い出を失いたくないと怯えて。このまま翔のことまでも忘れてしまうなら、いっそその前に死んでしまいたいとまで泣いてすがってきた祖母は、もういない。
ゆっくりゆっくりと杖をつく祖母の目が、斎賀の姿を捉えた。その唇が──笑みの形を描く。
「巽くん」
祖母の口から出た名前。しばし考えて、それが斎賀の下の名であることに気づいた。
「巽くんじゃないのお、久しぶり」
「……ええ、はい。斎賀巽です」
何かを諦めたかのような顔をして、斎賀が返事をする。膝を折り、腰の曲がった祖母と目を合わせた。
「結香、結香は元気ぃ? あの子、最近全然来てくれないのよお」
三年前、父と共に事故でこの世を去った母の名前。宮藤さん、と血相を変えた介助士を片手で制して。斎賀は、そっと祖母のしわくちゃの手を握る。
「元気ですよ。翔くんという孫も生まれました。……北斗さんと、仲良くやっています」
「ほくと? ほくと、ほくと……」
先ほどの翔の名前と同じように、祖母は娘婿の名前を繰り返す。やがて、斎賀の手にもう片方の手を重ねた。手から離れた杖が軽い音を立てて床に倒れる。
「巽くん、結香をよろしくね。結香は、結香は本当にいい子でねえ……」
「佳江さん。思い出してください。せめて翔くんのことだけでも、どうか」
そこからは、見ていられなかった。強引に二人の間に割り込み、婆ちゃんと呼びかける。何度か繰り返すうちに、祖母が翔の顔を見上げた。
「翔? おや、よく来てくれたねえ」
「宮藤さん、お部屋に戻りましょう」
介助士さんの手を借りて、祖母を自室のベッドの上へと戻す。ベッドに横たわったときにはもう、祖母は斎賀へ口にしたことなど覚えていない様子だった。それからいくつか、祖母と言葉を交わす。話すうちにだんだんと頭がしゃっきりしてきたのか。先ほどのことなどなかったかのように、祖母は一人暮らしの翔の心配をする。また祖母のもとを訪れて、共に母の墓に参ることを約束して。別れを告げて、部屋を後にする。斎賀は廊下に立ち尽くすようにして待っていた。
「帰りましょう」
喉から出た声は強張っていた。きっと、表情も固く張り詰めているだろう。そこからは、無言だった。バスで駅まで戻り、列車に乗り込む。
列車内にはほとんど人の姿はない。ロングシートに並んで腰掛ける二人の間、痛いほどの沈黙が張り詰めている。
目を逸らし続けるわけにいかなくなった問いがある。興味が無いとのごまかしで、ずっと保留していた問い。
「母さんと、何があったんですか」
目を合わせずに発した問に、斎賀は深く深く息を吐く。血色の悪い唇が紡いだのは、一言。
「婚約者だった」
とっさに斎賀の顔をのぞき込むが、男の目は中空を見つめたまま。列車が大きく揺れる。
「たった一人の、心から愛した人だった」
過去形。斎賀の口にした関係性がどこで途切れたのかは、僕には分からない。いつ、何故、斎賀のいたはずの立ち位置へ入れ替わるように僕の父親が立つことになったのかも。どうして二年前、月島が斎賀に関して言葉を濁したのかも。
「なあ」
誰に言うともない、斎賀の声。翔に語りかけているのか、それとも自身に語りかけているのか。ここではない遠い過去を見つめる眼差しをした斎賀は淡々と口にする。
「かつて生涯を誓うほどに愛した女と、かつて殺したいほどに憎んだ男の息子に。私は、どうするべきだったのだろうな」
再び、無言の時間が流れた。
海の写真を掲げる吊り広告が揺れて、この路線は海の近くを通るのだと気づく。故郷には存在しない海原から吹く潮風に錆びついたような声だった。もしくは。愛したひとを二度も喪った斎賀の感情は、とっくの昔に錆びてしまっているのだろうか。
「斎賀さん」
強く強く想いを込めて呼びかける。時間という名の、全てを錆びつかせる風に浚われないように。驚いたように、斎賀がこちらを向いた。
「本日はありがとうございました。母も、きっと斎賀さんに会えて喜んでいることかと思います」
「ああ──そうだな」
列車がホームに停車し、開いた扉から強い日差しが射す。思わず目を閉じる、その寸前。常に仏頂面のはずの斎賀の口元が、わずかに微笑んだかのように見えた。
横浜駅で、斎賀と翔は別れた。
「それでは、元気で」
「ええ、斎賀さんも。いずれ、また」
「帰りは大丈夫か?」
「ええ。帰りにスーパーに寄らないと。ああ、精霊馬用のキュウリでも買っていきましょうか」
「そういえば盆が近かったな」
「はい。熊谷の家で、親子水入らずで過ごします」
「お二人によろしく頼む」
「勿論」
軽口をたたき合い、そして背を向ける。今度斎賀に会ったときには、進路や斎賀の研究内容についても相談してみようと思いつつ。埼玉へと帰る翔の足取りはどこか軽やかだった。
熊谷の暑い暑い夏が過ぎ去ったのち。業務上の必要で群馬の関連工場と品川の本社を往復することになった斎賀が開き直って中間地点に位置する熊谷のマンスリーマンションを借り上げ、スーパーや駅などで頻繁に翔と顔を合わせるようになることを、本人達はまだ知らない。
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