今、その名刺は翔の手帳に挟まれている。家中を引っかき回していたときに見つけたものだ。

(私が助けになれることであれば何でもする)

 名刺を渡してきたときの彼の言葉が脳裏を巡る。本当に信じてよいものか判断がついたとは言いがたいが、今すぐに頼れそうな大人が斎賀以外見当たらないのもまた事実だ。

 直筆で記されたアドレスからの返信で指定された時刻まであと十五分ほど。駅ビルのベンチから合流場所である品川駅改札前に移動した翔の前を、スーツに身を包んだ大人達が通り過ぎていく。

 翔の腕時計の針が18時を指す三分前。予め伝えてあった学生服の特徴を目印にしてか、翔の居る方へ真っ直ぐ歩いてくる男がいた。

「……お久しぶりです、斎賀さん」

「……こちらこそ。あの後、特に変わりはないでしょうか」

 互いにぎこちない挨拶を交わす。やはり仕事を終わらせてからすぐに来たのだろうか、斎賀はスーツ姿にやや膨らんだ黒い鞄を携えていた。落ちくぼんだ目に頬のこけた面相は相変わらずだ。無表情に近い、血色の悪い顔がこの男の標準らしい。

「大事な話、で間違いないだろうか?」

 斎賀の問いに頷く。ならば場所を変わろうと言い置いて、斎賀は歩き出した。

 連れられて来たのは、駅前からほど近いカフェだった。有名なホテルのすぐ前にある、それなりに人は入っているはずなのに落ち着いた高級感を保つ店。奥に位置する壁際の席に、斎賀と対面して腰掛ける。斎賀にメニューを手渡され、好きなものを頼むように言われる。固辞しようとしたが、気にしなくてよいと再度勧められた。何も頼まずにいるのは気まずいという思いと、頼み事に対する罪悪感に負け、一番安かった横文字の炭酸水を示す。呼び寄せられた店員が炭酸水と斎賀の頼んだコーヒーの注文を受けてテーブルを立ち去ったことで、席には翔と斎賀の二人きりが残された。

「それで、頼みたいことというのは」

「……はい。――必ず、お返しします。借用書も書きます。ですから、どうか」

 テーブルの天板に額がぶつかりそうなほど、深く深く頭を下げた。

 お金を、貸してください。かつて向けられる哀れみを拒絶した相手に、血の滲むような思いで告げる。どくどくと心臓が跳ねて胸が苦しい。店内に流れるBGMだけが翔の耳に響いていた。

 返答は、さほど間を置かなかった。声色に何ら変化のない斎賀の言葉が頭に滑り込む。

「幾らだ?」

「……え?」

 良くて詰問、悪くてすげない拒否と罵倒が返ってくると思っていた。その覚悟もしていた。そのどちらでもない返答に驚いた翔が顔を上げると、眉一つ動かした様子のない斎賀の仏頂面。

「幾ら必要だろうか」

「ああ、ええと、その……にじゅう、ご、万円です」

 つっかえつっかえ金額を口にする。子供には勿論、大人にとっても簡単には済ませられないであろう額。それを。

「そうか、分かった。振り込めばよいだろうか、それとも現金で?」

 斎賀はいともあっさりと承諾して、話を先に進めてしまう。願ってもない展開であるはずなのに、質問に答えるのも忘れて思わず声を上げてしまった。

「ちょ、ちょっと待ってください! 理由を、聞かなくていいんですか?」

「聞いた方が良かったのか?」

 そんなことは重要ではないと言わんばかりに。一言で切って捨てられる。相変わらず斎賀の表情に変化はない。一瞬斎賀のペースに呑まれかけるが、もとより理由をきちんと説明するつもりであったことを思い出す。翔が家中を探して必死に現金をかき集め、それでもまだ足りない分を斎賀に無心することになった元凶。思い出したくもないあの出来事を噛みしめるように、翔は口を動かす。

「母方の祖母が、詐欺に遭いました」

「……っ」

 斎賀の眉間に皺が寄り、目が苦々しげに細められる。今日始めて、斎賀が感情を露わにした。

「去年の秋に、祖母が横浜市の自宅の階段から落ちて足を骨折しました。命に別状はありませんでしたが、高齢であるせいで日常生活に支障をきたすような後遺症が残るだろうと診断されました。入院中に認知症の初期症状が見られると告げられたこともあり、祖母本人と相談したうえで市内の老人ホームに入ることに決めました」

 翔も、数十年連れ添った伴侶に続いて娘夫婦までもを喪った祖母が肉体・精神ともに弱ってきていることは気づいていた。互いに何回も同居の話を持ち出しては、どちらも現在住んでいる家を離れたくないとの理由で話が途切れていた、その繰り返しのなかで起こってしまった事故。幸いにも大きな物音に驚いた隣人が通報してくれたお陰でただの骨折で済んだが、もし隣人が留守だったらと考えるたびに翔は背筋が凍る。入院中の祖母を医師と共に説き伏せて、たどり着いた折衷案が市内の老人ホームへの入居だ。割高な料金設定と引き換えに手厚いサービスが評判であり、定期的に介護士に連れられて自宅に戻ることもできる。その際には翔もできる限り同行すると告げて、ようやく祖母に首を縦に振らせることができた。

「料金を支払っていた祖母の口座が凍結されたのは、入居から三ヶ月後でした。警察から連絡を受けて、慌てて横浜に向かって、そして詐欺に遭ったことを知りました」

 折もあろうに詐欺師が訪れたのは、祖母が階段から転落する四日前だったと聞いている。警察の言によれば、関東で高齢者をターゲットに多発しているという訪問型の詐欺だという。銀行員や裁判所を騙って高齢者に電話をかけ、不安に陥れたところを訪れた警察官を名乗るメンバーが言いくるめてキャッシュカードや通帳を差し出させる。数ヶ月かけ少額の引き出しを繰り返し、被害者が不審に思わないか確かめたうえで一気に高額を引き落とす手口。

 祖母が高額な施設への入居を承諾した理由、受け取ったうちの半額を振り込んだ翔の母親の生命保険金を。ごっそりと盗まれた。

 大金が一気に引き落とされ、祖母の自宅が無人となっていたために祖母に連絡がつかなかったことから、詐欺と判断した銀行は口座を凍結すると同時に警察に通報した。祖母に話を聞きに訪れた警官によれば、まだ口座には祖父母が蓄えていた分が若干残っているそうだが、祖母の自由になるかたちで返ってくるのはいつになるか分からないそうだ。

「今になって思えば、祖母とすぐに連絡がつかなかったことで発覚が遅れたことも災いしたんでしょうね。施設の人に呼び出されたときには、既に料金を二ヶ月滞納していました」

 料金の滞納者には、滞納分に加えて保証金として滞納分と同じ期間の料金を先払いしてもらう規則になっているのだと。ホームの職員は申し訳なさそうに翔にそう告げながらも、支払いが無理ならば退去してもらうと言外に匂わせていた。仮にホームを去った祖母と熊谷で同居したとして、高校生の身である翔が一日中付き添うのは不可能。そうでなくとも認知症が進行した場合を思うと、最悪の結末が目に見える。

 祖母のために、なんとしてでも二週間以内に四ヶ月分の料金を払わなければならない。だというのに、請求された金額は到底高校生一人の支払える数字ではなかった。翔の自由になる金は、叔父から毎月振り込まれる生活費とその余りだけ。かき集めても、祖母の家に残っていた現金を足しても、足りなかった金額が二十五万円。

「現在、両親の遺産や生命保険金の残りは父方の叔父が管理しています。今、僕……私の口座へ振り込んでもらっている金額にホームの利用料を上乗せしてもらえないか叔父に掛け合っているところです。そうなればお借りしたお金は、必ず、必ずお返しできます。ですから、どうか」

「分かった」

 食いつくような語調になっていた翔の興奮を宥めるように、斎賀の落ち着き払った声が響く。

「口座の番号を教えてほしい。こちらで振り込んでおく」

「……ありがとう、ございます」

 再び深々と斎賀に頭を下げる。まるで二年前の初対面を逆転させた形だなと、心のどこかで思った。

「君のご両親には、昔に世話になったと言ったろう。結香さんのお母上とも面識がある」

 いつの間にかテーブルに載せられていたコーヒーを取り、斎賀が口をつける。つられて翔も自分の側に置かれた炭酸水を口に含んだ。ずいぶんと小さくなった氷が歯にぶつかる感触と、喉を刺激する二酸化炭素の気泡。

「借用書は要らない。君のご両親が遺してくれた財産は、今の君が必要なものだ。高校を卒業してアルバイトでも始めた後なり、就職してからなり、余裕ができた頃に返してくれればいい」

 ことりと斎賀がカップを置いた音が、金銭の話は終わりだと告げるかのようだった。再び会話が途切れる。互いの飲み物を時折口に含みながら、斎賀がぽつりぽつりと問う近況に、二言三言翔が答える。一時期は国内最高気温で良くも悪くも名を馳せた熊谷の夏の暑さ、ちょうど一週間後に行われるそこそこ有名な祇園祭、高校生活と放課後に時折友人達と遊びに行く大宮の繁華街。自分の生活ばかりを語りながら、翔は斎賀のことについて何かを訊ね返すことはなかった。聞きたい気持ちがなかったとは言わない、むしろ曖昧な表現に留められたままの両親との関係性を知りたくてたまらない。だが同時に、ただでさえ厚かましい要求を、こちらが提示した以上の破格の条件で承諾してくれた彼にこれ以上何かを要求する気持ちにはなれなかった。

 空になった翔のグラスがテーブルに置かれる。斎賀のカップは少し前に飲み干されていた。行くかと告げる斎賀に頷きを返す。当然のように伝票を持って行く斎賀に何度も頭を下げて店を出る。見上げた空には夏の短い夜が訪れようとしていた。


「あ、やばい」

 隣に斎賀が居ることも忘れて口にしたのは、再び訪れた品川駅の構内を改札口に向かって歩む途中でのことだった。翔の見つめる先、駅のモニターに映し出されるのは高崎線内で発生した人身事故。発生時刻はつい先ほど、復旧にはしばらくかかりそうだ。

「どうした?」

「高崎線で事故があったようです。まずいな、終バスが」

「ああ。確かに熊谷駅からバスを利用していたな」

 宇都宮線や埼京線があるため途中駅の大宮までは問題なく帰れそうであるが、大宮から熊谷までは高崎線が動かない限りいかんともしがたい。少々遠いが、夜道を歩いて帰るしかないか。そう決めて溜息を吐く翔に、斎賀の声がかかる。

「私の家に泊るといい」

 え、と間抜けな声を発する翔に構わず斎賀は続ける。

「時間を夕方に指定したうえ、遅くまで引き留めてしまったのは私の責任だ。高崎方面は利用者が多い、運行再開直後はひどく混雑するから何本か見送ることになるだろう。未成年を真夜中に歩かせる訳にはいかない」

 無理にとは言わないが、と斎賀は言葉を引きとる。

 斎賀の口にしたのはちょうど翔が考えていたことだった。明日は日曜、学校の心配はないとはいえ、そう簡単に頷く気にはなれない。二年ぶりに会う、借金を申し込んだ、ほぼ初対面の大人の家に泊る。二年前の翔なら思いもよらなかった状況だ。

(無理して帰らなくたって、どうせ心配する人はいない)

 そのとき翔の脳裏によぎったのは、自分一人ではどうにも持て余してしまう空間。決して実家が嫌いなわけではないが、それでもどうしようもない孤独がのしかかってくる空っぽな家に居たくない晩もあった。

「……ありがとうございます。もし良ければ、お願いします」

 大きな借りがある人の申し出を無下にするわけにもいかない。そう自身を誤魔化すようにしながらも、胸の内の寂しさを認めてしまったとき。初めて出会った日に斎賀から感じた孤独を思い出した。


 斎賀の住まいは、山手線を数駅揺られた先にあるタワーマンションだった。斎賀の顔を認証して開くエントランスを抜け、十数階の高さをエレベーターに運ばれる。とある部屋の前で先導していた斎賀が立ち止まり、扉を開けて中へと誘導される。そのままリビングらしき部屋へ通された。

「緑茶でよいだろうか」

 斎賀の問いに、お構いなく、と答えるのも忘れて。相づちはええ、とかはい、だとかの入り交じった中途半端な声になる。了承の意にとったのか、斎賀はリビングのソファに座る翔を置いてキッチンの方向へ向かう。男の背中が壁の向こうへ消えてようやく、昼からずっと張り詰めていた緊張が若干緩んだ気がした。ぽつんと残されたリビング。広々として見えるのは、実際の間取り以上に家具や物が少ないせいもあるだろう。独身だったのかと今更気づく。

 ソファの目の前にはガラス戸があり、そこから東京の夜景がよく見えた。暗闇に浮かぶ無数の光点をもっと見たくなって、ソファを立ち上がり窓へ向かう。どうやらガラス戸を開ければベランダに出られるらしかったが、流石に人の家で勝手に戸を開けるのは憚られた。

(ん?)

 ふと、ベランダに小さなテーブルが置いてあるのに気づく。木製の天板の上に、室内の照明を反射して鈍く光るものが置いてある。ベランダの薄暗がりに目をこらすと、それが金属製の灰皿であることに気がついた。灰皿の上には、黒ずみ折れ曲がった煙草の山。よく見れば灰皿の後ろに煙草の箱らしき影も見える。なんとなく、見てはいけないものを見てしまった気がして翔は目を逸らした。

 背後で物音がする。振り返ると、自分が座っていたソファの前にあるローテーブルに斎賀がカップを二つ置いたところだった。急いでソファに戻り、礼を口にする。カップを口に運ぶと、緑茶の落ち着いた苦さが口に広がる。そのまま特に会話をするわけでもない空気がしばらく続いたが、不思議と気まずさは感じなかった。

 風呂が沸いたと告げられ、先に湯をつかうよう促される。言われるがまま、斎賀のマンションに入る直前にコンビニで購入した着替えを持って浴室へ向かった。広々とした浴槽に浸かると、筋肉がほぐれていく気がする。

(斎賀さんも、一人暮らしか)

 一人暮らしには似つかわしくないような豪華なマンションだ。もしくは逆に、独身の一人暮らしだからこそこんなところに住める余裕があるのか。借金の申し込みをあっさりと承諾したのも、大企業に勤め生活に余裕があるからと考えれば筋は通る。そこま浮かんだ考えを、斎賀に失礼だと打ち消すように湯船から立ち上がる。承諾した理由にもっと直接的に繋がっているであろう両親や祖母との関係も、本人が敢えて話すのを避けているならば踏み込まないままにしておくべきだ。

 新しい下着と服を身につけて浴室から出ると小さな部屋に通された。客間として使っているといると言われたそこは、シングルベッドとシンプルな椅子とテーブルしかない空間だったが十分すぎた。

「何から何まで、本当に」

「気にしないでよい。今日はゆっくり休んでくれ」

 使った気配はないわりに掃除はされている部屋に一人残り、ベッドに潜り込む。目を閉じると、先ほど目にした灰皿と煙草の山が浮かんだ。子供である翔には煙草の味など知り得ないが、月島が喫煙者だったはずだ。自分は美味しいから吸っているけど、世の中にはストレスやら疲れやらを紛らすために吸っている奴がほとんどだと月島は言っていた。斎賀は、何を誤魔化そうとして吸っているのだろう。

 今日は考えても仕方ないことばかりが浮かぶ。ごろりと寝返りをうって、翔は睡魔に身を委ねることにした。


 翌朝。斎賀に送られて駅まで行き、改めて別れを告げる。口座については昨日の晩に伝えてあった。

「叔父と話がつきしだいご連絡します」

「ああ。また何かあったら連絡をくれ。気をつけて」

「はい。本当に、ありがとうございます」

 深々とお辞儀をして、今度こそ別れた。ホームに上がり、鶯色の環状線に乗り込む。

(明日は学校が終わったら高遠さんのとこに行かないとな)

 叔父との折衝を受け持ってくれる若い行政書士の顔を思い出す。乗換駅までの十数分を斎賀との関係をどう説明しようか頭を悩ませながら、窓の先を流れる東京の景色を眺めていた。

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