明くる夜の彩のくに

百舌鳥

 小刻みに揺れる電車の振動が座面越しに三浦翔の身体に伝わる。冷房の効いた車内にすら窓越しに追いかけてくるのは、昼下がりのうだるような七月の陽光。ホームで電車を待っている間にぐっしょりと汗に濡れて肌に張り付いた学生服の白いシャツは、まだ乾かないらしい。

 できるだけ早く、直接会って頼みたいことがあると。要約すればそれだけの内容に、数時間かけてネットの海に溢れるマナーサイトで必死に例文や言い回しを探して作成したメール。返信で相手が指定した時刻が、今日の18時だった。土曜日のおかげで授業は半日、学校を出てから向かっても十分に間に合う。役職から考えて多忙であろう彼がわざわざ割いてくれた時間に、口にしなければいけない頼み事を考えると喉がひりつく。

 罪悪感から逃れるように、膝に抱えた学生鞄を抱きしめて翔は目を閉じた。15両編成は大宮を出たばかりだ。視覚を閉ざしたのちも続く列車の音と振動。止めどなく続く低い響きは、緩やかに二年前のあの夜の記憶と入れ替わってゆく。




 読経の声が聞こえる。目の前に座す僧衣の人物から響く低音に交じり漏れ聞こえるすすり泣き。一番派手に響いてくるのは翔の右隣、小さな身体を更に小さく縮こまらせて嗚咽を漏らす母方の祖母だ。左隣に正座する叔父を挟んで座る父方の祖父母の方からも、押し殺すような嘆きの声が聞こえる。

 もぞりと身じろぎをする。中学の校章を着けたままだった冬服の詰め襟の内側が、八月の熱帯夜に蒸れて気持ちが悪い。落ち着かない。この場にいるという実感が湧かない。正面、経を読む僧侶の前方にあるのは二つの棺。


 ――長野にある取引先から戻る途中の事故だったと聞いている。両親の乗った社用車を、自身の乗るトラックの運転席もろとも原型を留めないほど押し潰した運転手が所属していた運送会社は、違法な長時間労働を社員に敷いていたとして警察の捜査を受けているところだ。遺体は、見せてはもらえなかった。

 事故の日の前夜。行ってくるねと手を振った両親の笑顔と、目の前の二つの棺が頭の中でどうしても結びつかない。

(それよりも)

 ちら、と背後に視線をやる。広い式場の最前列に座るのは翔や翔の祖父母といった故人の肉親。そして、その後ろにぎっしりとひしめく顔も知らない喪服の大人達。創立十数年の小さなベンチャー企業とはいえ、両親は創業者夫妻かつ社長と副社長だ。それだけの影響力を持っていたということだろう。

(なんで社葬になんかしたんだよ)

 正確には翔達遺族との合同葬といった形式であるそうだが、関係ない。斜め後ろに座る月島に心の中で毒づくが、両親の立場や業務に関連した事故という経緯を踏まえれば致し方ないとは心のどこかで思う。月島は両親の企業に創業当初から勤める役員であり、家族ぐるみで親しい付き合いがあった。事故の報を受け、真っ先に学校に居た翔に連絡を取ると同時に翔に代わって葬儀の手配をしてくれたことには感謝している。だが、葬儀場に押し寄せた、仕事上の縁があったと名乗る人物達が不快なのには変わりない。

 中学生の子供には理解のできない理由でやってきた黒一色の集団は述べる弔辞も一律で代わり映えがしない。皆が同じような文言を述べ、父と母がどんな人物だったかを翔の知らない舞台で語っていく。幾人かに一人は翔に目を留めては、口々に可哀想に可哀想にと口にする。まだ事態を受け入れられない中で、大人の世界の住人から一方的に降り注ぐ憐憫を社交辞令でやり過ごす、その繰り返し。


(それで、とうとう耐えきれなくなって葬儀の最中に倒れたんだっけ)


 目覚めたときには出棺も納骨も全てが終わっていた。数日ののちに親戚達が去った家は、ひどく静まりかえっていた。

 翔の母はひとりっ子であり、母方の祖父は数年前に鬼籍に入っている。母の従兄弟はいるにはいたが、翔の生まれる前には既に絶縁状態だった。横浜に住む母方の祖母には何回も横浜での同居を勧められたが、悪いと思いながらも物心つく前から両親と過ごしていた家を離れたくないという理由で全て断っている。父方の親戚は後見人となった叔父を含めて皆が関西に居住しており、頻繁に会える状況ではない。後見人の叔父ですら正月に父方の実家で会ったきりだ。事故からしばらくは母方の祖母がわざわざ横浜から足繁く通ってきてくれたが、階段から落ちたことを期に老人ホームに入ってからは訪れが途絶えている。

 埼玉北部、熊谷市の両親と暮らしていた一戸建て。両親が中学受験をさせてくれたお陰で私立の中高一貫校に通えていたため、高校受験や進学にほとんど影響がなかったのは幸いだった。両親の遺産と生命保険金から毎月振り込まれる生活費をやりくりして、中三のあの夏から二年間、ひとり暮らしている。


 周囲の人間が動く気配に、翔の意識は浮上する。いつの間にか停車していたホームの駅名標には首都の名。合流場所である品川駅はもう目前だ。待ち合わせにはまだ一時間以上あるが、これから会う相手への頼み事を思うと気が重くなる。翔が鬱々とする間にも列車はダイヤ通りに運行し、到着した品川駅で車内から翔を吐き出した。

 喫茶店でお金を払う気にもなれず、冷房が効いた駅ビルにあった適当なベンチに腰掛ける。手持ち無沙汰にスマホをいじりながら、翔は斎賀巽について思いを巡らせていた。



 思えば初対面の頃から、どこか寂しげな男だった。

 斎賀と出会ったのは二年前の冬だった。ある日曜日、ふと鳴らされたインターホンに応えて玄関の扉を開けた先に立っていたのは喪服の男。年の頃は両親とほぼ同じくらいか。顔色の悪い壮年の男の、眼鏡の奥で落ちくぼんだ目がじっと翔を見つめていた。

「こちらが、結香さん……三浦結香さんと、北斗さんのお宅でよろしいでしょうか」

 両親の葬儀が終わってからの弔問客は、斎賀と名乗った男が初めてではなかった。葬儀にあれだけ大勢が押し寄せたというのに、人の訪れはぽつりぽつりと続いている。

「斎賀さんは、父と母とはどういったご関係で?」

 真新しい位牌の並ぶ仏壇へ斎賀を案内しながら。両親の葬儀で叔父が事務的に繰り返していた言葉を口にする。どうせ社交辞令だ、答えに興味は無い。

「……昔。ご両親に、世話になった者です」

 そうですか、と適当な相槌。曖昧な答えにも腹は立たない。子供には分からないだろうと適当に返されるのなんて、とっくに慣れていた。

「こちらです」

 仏間となった和室に案内する。座布団は出しっぱなしだった。位牌と向かい合って正座した斎賀が線香をあげ、手を合わせて頭を垂れるのを背後から見つめる。かすかに香る煙と、尾を引いて響く鈴の音。

 しばしの後、斎賀が立ち上がり、こちらへ向けて座り直した。

「この度は……」

 言いかけて口ごもる。視線が伏せられ、そしてもう一度。今度は翔に向けて頭が下げられる。

「報せを知るのが遅くなり、葬儀に間に合わなかったこと。及び、突然の訪問、誠に申し訳ありませんでした」

「頭を、上げてください」

 額が畳につくほどに頭を下げる斎賀の姿に、一瞬たじろぐ。お茶をお持ちします、と言い置いて逃げるようにその場を後にした。キッチンで緑茶を入れてすぐ、斎賀を正座のまま待たせているのに気づいて慌ててリビングに誘導する。先導して廊下を歩きながら、これまでの弔問客は線香を上げたのち早々に辞していたことと、斎賀に断る暇も与えずに引っ込んでしまったことに気づく。弔問客の相手はこれで数度目だが、ここまで手際が悪いのは初めてだ。我ながら自分が嫌になる。

 湯気を立てる湯呑みを挟み、微妙に気まずい空気の中で最初に口を開いたのは斎賀だった。

「失礼を承知でお尋ねしますが、こちらに他のご家族はいらっしゃるのでしょうか」

「父方の親族は遠方のため、葬儀以来会ってはいません。母方の祖母は時折来てくれますが、今はおりません」

 一人で暮らすようになって以来、いつも若干散らかっているように思えるリビングに二人。何度も耳にした問いに答えると、斎賀の目が見開かれる。

「では、この家にひとりで?」

「ええ。幸い、叔父が後見人となってくれたので」

 金銭面に関してのご心配は無用です、との言葉をぐっと飲み込む。ドラマで見たような遺産を巡る骨肉の争いなんてなかった。現実は、もっと淡泊だった。

 そもそも翔が一人で暮らしていることが黙認されているのも、受け入れる体制がある親戚がいなかったためだ。一貫校に通い、附属高校の進学が決まっている翔をわざわざ遠方に連れて行って高校受験をさせるには相当な手間がかかる。叔父に至っては育ち盛りの子供二人がいるはずだ。ただでさえ後見人を引き受けてもらったのだ、これ以上叔父に厄介にはなれない。翔が横浜への引っ越しを拒んで以降、母方の祖母が翔の家に引っ越す話はあったが、母の実家でもある横浜の家と土地を放置できないという祖母の意向により白紙になった。自分が埼玉の家にこだわるのと同様に、祖母にも母との思い出が詰まった家への愛着が強いのだろうと、そう翔は思っている。

(お前が成人するまでの財産管理は心配するな)

 葬儀ののち、翔を巡って紛糾する親族間の会合で発せられた叔父の言葉だ。それはつまり、裏を返せば金銭面以外は自分でなんとかしろということ。

 翔とて親戚達に感謝こそすれど、非難するつもりは一ミリたりともない。この家に留まっているのは自身が望んだ結果だ。叔父からは毎月十分な額の学費や生活費がきちんと振り込まれており、生活面で不自由はしていない。

 自分の面倒くらい、自分で見てやる。だから。その言葉を口にするな。見飽きた表情を浮かべた斎賀の唇が言葉を紡ぐ前に、先制するように口を開いた。

「──可哀想に、とのご心配は無用です」

 我ながら底意地の悪い言い方だとは思ったが、積もりに積もった大人達への負の感情を抑えることはできなかった。斎賀の唇がぴたりと止まる。図星を突かれたらしい。

「本日は、ご足労いただき有り難うございました。草葉の陰で両親も喜んでいるかと思います」

 これ以上のやりとりを遮断するように立ち上がる。子供の強がりと思われようとも、これ以上初対面の大人に向けられる薄っぺらい憐れみを受け入れるつもりはなかった。理不尽に両親の命が奪われた事実を、自分が寄る辺ない孤児だという現実を、改めて突きつけられるのだけは嫌だった。

「……待ってください。これを」

 斎賀が懐から取り出したのは、一枚の名刺だった。続いてペンを取り出し、裏面に何事かペン先を走らせる。記されたのは電話番号とメールアドレスだった。

「なにか困ったことがあれば、いつでも連絡を。私が助けになれることであれば何でもする」

 差し出された紙切れを受け取る。今までに直接連絡先を渡してきた大人はいなかった。半ば呆然と見返した斎賀の顔は、真剣そのもので。

 ふと、斎賀の目が伏せられる。ぼそりと落とされた呟きがあった。

「……母親に、よく似ている」


 これにて失礼いたします、と。最後にひとつ礼をして去っていった喪服の背をよく覚えている。

 名刺の表面に書かれていたのは斎賀巽の名と、明応製薬の社名とロゴ。見慣れた図案を目にしたときは、つい背後の棚へ振り返ってしまった。常備薬の箱の中にも明応製薬の製品は多い。中学生でも名前を知っているような、製薬業界の最大手の一角。両親の会社が主に扱っていたのは化学繊維だったが、明応製薬も関わっていたのだろうか。しかし。首をかしげながら社名の下に記された役職名を睨む。長ったらしい文字列の最後に記された単語は、本部研究室長。詳しくはないが、相当な上位職のはずだ。そんな相手が中小ベンチャー企業の訃報を受けて、部下も通さずわざわざ直接弔問に訪れるだろうか。あまつさえ、表に印刷された社用のメールアドレスとは異なるプライベートのアドレスを面識もないはずの遺族に渡すという行動。

 大人の事情など関心が無かったはずなのに、斎賀のことだけが何故か妙に気になった。

 階段を上がった先の自室に戻りスマホを手に取る。登録された番号のひとつへ発信すると、数コールの後に繋がった。

「はい、月島です。どうしたんだい、翔くん」

「こんにちは。突然失礼しました、月島さん。少々伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 回線越しからでも人懐っこい笑みが見えるような電話の相手は、かつて両親が公私ともに全幅の信頼を寄せていた男だ。葬儀の後、役員総会を経て正式に二代目の社長に就任したと聞いている。葬儀を合同葬として手配されたことは思うところがない訳ではないが、社長の座を引き継いだ後も折に触れて気にかけてくれる、翔が信頼できる数少ない大人の一人だ。

「ああ、ちょうど休憩中だったところだよ。で、何を聞きたいのかな?」

「ありがとうございます。会社についての話なのですが、明応製薬と取引している、または過去に業務上で関係していたことはありますか?」

「明応と? それほどの大手との関係だったら俺が知らないはずはない、特に関わりはなかったはずだ。明応について何かあったのかい?」

「いえ……。先ほど明応製薬の本部研究室長という方が両親の弔問にいらっしゃったところだったので、気になって」

「明応の室長が!? うちみたいなベンチャーが睨まれるようなことは何にもしてないぞ!」

 電話口の声がいきなり慌てふためく。やはり、かなりの影響力を有する会社だったらしい。しばらく何かを引っかき回す音が続いた後、いくらか平静を取り戻した月島の声。

「よし、落ち着こう。翔くん、明応製薬の研究室長と言ったね。誰が、どういう関係性で来たのかい?」

「いえ、特には。ただ、昔両親の世話になったとだけ。斎賀巽という名前でした」

「……ああ」

 心当たりがあるなんて言葉では片付かないくらいの、感情のこもった声だった。

「斎賀、斎賀か。そうか、あいつ今明応にいるんだな。ウチの会社飛び出して勝手に出世しやがって。あいつらしいと言えばそうか」

「月島さん」

「ああ、ごめんな。会社としての明応製薬は関係ない。斎賀は昔の関係者として個人的に訪れたんじゃないか。他に、弔問に訪れた仕事関係の人はいるかな」

「……いいえ。ありがとうございます」

 最後に嘘をひとつ吐いて、電話を切った。片手に持ったままだった名刺を手に、リビングへ降りる。ダストボックスの蓋を開くと、ティッシュや包装紙などのゴミに紛れて小さな紙片が散らばっている。不揃いに破かれたそれらは、今までの弔問客達が残した名刺。ぱっくりと口を開けたダストボックスの上へ、斎賀の名刺をかざす。

 今まで繰り返してきたように、名刺を引き裂こうとした指は。しかし、全く力が入らなかった。

 裏側に記された走り書きが、斎賀の真剣な眼差しが、曖昧に言葉を濁した月島の態度が、妙に心に引っかかって。結局、翔は名刺を引き出しへとしまった。

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