第7話 「Hello,Android. What you are name?」


 果歩はずいぶん親切に、私のことを心配してくれた。その前の、電話が余計に彼女を不安がらせたのかもしれない。それでも、私は安藤さんの件については、少し待ってもらうことにした。

「少し、考えさせて」

 私の言葉に、果歩は静かに頷いた。マンションに戻るという私を引き留め、安藤さんと直接対面する以外の、何かを一緒に考えてくれた。私はまだ混乱していて、何をどうすればいいのかも、考えられないでいたから、果歩の新設は身に染みるほど助かった。

 突然、夜這いをかけてくるようなアンドロイドとは、一緒には暮らせない。

 だけど、果歩が気掛かりなことを言っていた。

「あの日、純からメッセージがあって、家に行ったんだよ」

 思い返せば、私の携帯電話は電源が切れたまま、充電していたはずだ。つまり、私からメッセージを送ることなんてできないはずだし、私自身、そんな記憶もない。

 メッセージを果歩に見せてもらったけれど、メッセージはその時には既に消去されていた。発信元からの操作であることは、確かだ。

 考えられるのは一つ。安藤さんは私のメッセージアプリを閲覧する権限を持っていたし、当然のように、その権利を彼女は行使していた。それに、あの状態の安藤さんが、私の指示を逸脱して、自分で偽りのメッセージを送ることも、きっと可能だろう。

 シンギュラリティは起こりうると考えられていたし、事実、アンドロイドが世間に受け入れられてから、シンギュラリティによる事件や事故は、少なくない件数、起こっていた。

 恐らく、安藤さんもそういった事件の一つとして処分されるのだろう。

 だけど、私を処理に利用しようとした安藤さんが、なぜわざわざ、果歩に助けを呼ぶなんて、回りくどいことをしたのか、はいくら考えても分からなかった。


 父は、決して良い親だとは言えなかった。そして、親である前に、娘である私とは、本当に数えるほどしか接したことがないのだから、親として語るのは論外なのかもしれない。 といっても、私にお父さんと呼べるような人は、父しかいない。私の人生のワンシーンにしか登場しなくても、あの人はやっぱり私のお父さんなのだ、と頭のどこかで、そう思う。

 父は、私を娘と認めてくれていただろうか。私たちが共有した時間は短く、親戚に預けられた子どもとおじさん、と言っても過言ではないくらい、希薄な繋がり方しかしていない。喫茶店でコーヒーゼリーを頼むときも、水族館で安価なキーホルダーをねだった時も、私はいつも父に娘として受け入れてもらっているかが、気になって仕方なった。高価なものを欲しがったり、遠くへ遊びに行きたがるのは、父にとって迷惑じゃないか、とばかり考えるような、私はそんな可愛くない子どもだった。

 父が亡くなった今、私は逆に、私が父を受け入れていただろうか、ということばかり考える。不愛想な子どもの前で、父も恐らくは父親ぶったり、大人なりに親切を分け与えるのは簡単じゃなかったと思うし、父も私と同じことを思っただろう。この子は、私を父親として認めてくれているだろうか、と。

 あの部屋に戻り、安藤さんともう一度会う前に、私は母と会うことにした。果歩の助言だ。

「純の問題が、あのアンドロイドを絡めた家族の問題なら、純のお母さんに聞きたいことを聞くのも、きっと役に立つと思うよ」

 何一つ話さない私に、果歩はできるだけの親切で答えてくれた。だから、私は迷わなくて済む。果歩は私を大切な人だと思ってくれている。だから、私も果歩を大切だと思っていいんだ、と。

「もしもし」

 母とは直接会うことを避けた。母の顔を目の前にすれば、私は不機嫌になって、冷静に話をするどころではなくなってしまうから。

「もしもし、お母さん?」

「ああ、純。今、忙しいから。後でもいい?」

「すぐ済むから」

「んー、分かった。それで?」

「一つだけ聞きたいことがあるんだ。お父さんのことで」

「……電話でいいのね?」

 お母さんは確かめるように聞いた。

「お母さんは、どうしてお父さんと別れたの? というか、結婚してたの? 私が産まれてから、離婚したの?」

「一つだけって言ったくせに」

 こめかみを抑えるお母さんの顔が目に浮かぶようだった。

「パパとママは結婚してなかった。純がお腹の中にいるって分かった時、私たちはよおく話し合って、結婚しないことに決めたの。あの時、あの人は逃げたのよ。ぼくには父親なんて無理だって」

「本当に、お父さんが言ったの?」

「……言わなかった。何も、何一つ。全部投げ出したのよ」

 この時、私は当時のお母さんの心細さを感じたような気がした。全部を自分一人で決められる自由と責任を、お母さんは一身に背負っていたのだ。

「話してくれて、ありがとう。お母さん」

 だから、少しだけ殊勝な言葉が、口を突いて出た。


 マンションの廊下から見える街には、朝の薄もやが漂っていた。雲の多い朝で、日が昇る前の白けた時間にも、青空は白っぽく輝いた。

 私は、すっと一呼吸整えてから、扉を開けた。私の家は、不用心にも鍵がかかっていない。

「ただいま、安藤さん」

 玄関から見えるリビングの隅で、安藤さんは充電する時のように、壁に身体を預け、足を床にぺたりと伸ばした姿勢で座っていた。

 彼女がゆっくりと瞼を開き、こちらへ振り向く。

「おかえりなさい、純ちゃん」

 その表情はにこりともしなかった。

 リビングのベランダに面した大きな窓が、朝の白い光を受けて、キャンバスの額のように、安藤さんを浮き立たせていた。安藤さんの無機質な、陶器のような肌の白さは、朝もやの純白と全く同じ色をしている。

「ようやく、私を廃棄する決意が付きましたか?」

 それは、彼女なりの皮肉なのだろうか。自嘲も嘲笑もしない、ただ単純な言葉に、私は混乱した。どちらとも意味の取れる安藤さんの台詞は、私を揺さぶり、くらくらさせる。

 私は用意してきた言葉を、言いそびれる。

「それで、私はどうなるのでしょうか?」

 安藤さんは髪をかき上げて、耳にかけた。長い指がなめらかに動き、細い髪の束を淀みなく、まとめた。

 私は、こちらを見つめる安藤さんの瞳に、ふいに不安の色を感じた。そんな私の驚きが、彼女に伝わったのか、安藤さんはより自然な仕草で、つと視線を逸らした。

「一つ、聞いてもいい?」

 安藤さんは、答える理由がないというように、私の質問に無関心を装う。秘密を秘密にしておけるだけの力が、自分にはないと悟ったように。

「お父さんのことで、聞きたいことがあるの」

 まばたきを一回。

「……どうぞ、何でも聞いて下さい」

「安藤さんは、お父さんのどこが好きだったの?」

 ふふふ、と安藤さんが笑った。

「本当にそんな質問でいいんですか?」

「うん。それを安藤さんに聞きたいの」

 安藤さんは瞼を閉じて、黙った。それは、ゆっくりと言葉を選ぶための沈黙のように感じた。

「では、私からも、一ついいですか?」

「……いいよ」

「純ちゃんにとって、浩一さんはどんな父親でしたか?」

 はらりと、耳にかけた安藤さんの髪がばらけて、幾筋の、蜘蛛の糸のように垂れた。

 私は記憶の束を開いて、古い糸を手繰る。

「私がはじめて、お父さんに会った時、多分、小学校に上がる前のことだったと思うんだ。もうだいぶ前のことだから、忘れちゃったことも多いんだけど、一つだけ覚えてることがあるの。

 お父さんは私と会った時、自分が父親だって、一言も言わなかったの。

 私はお母さんが迎えに来るまで、知らないおじさんに預けられたと思ってた。お母さんが帰りに、お父さんと何を話したの、って聞いて、私ははじめて、あの男の人が、私の父親だって気付いたんだ」

 安藤さんは静かに私の話の続きを待ってくれていた。わずかに漂ってくる期待の予感を受けて、私は続ける。

「母に連れられて行った喫茶店で、お父さんはコーヒーを飲んでいた。お父さんがコーヒーをあまりに美味しそうに飲むから、私はコーヒーゼリーを頼んだの。そのコーヒーゼリーは、よくある甘いやつじゃなくて、喫茶店の本格的なコーヒーを使ったもので、とても苦かった。今よりもっと幼かった私は、食べられないって、コーヒーゼリーを投げ出すように、テーブルの隅に寄せた。

 お父さんは何も言わずに、綺麗なガラスの器を受け止めて、ゼリーをもぐもぐと食べ始めたの。お父さんは決して私を叱らなかった。私も、お父さんの前で叱られるようなことはしなかったから、怒られた記憶が一つもないの。もちろん、指で数えられるくらいしか会ったこともないんだけど」

 いまだコーヒーも飲めない私にとって、結局、お父さんは訳の分からない人のままだ。何一つ理解してあげられなかったし、理解する機会も訪れなかった。

「私は安藤さんに語れるほど、お父さんのことを知らない」

 それが、私の父への結論だ。

「安藤さんは、お父さんのどんなことを知ってる?」

 そして、私が安藤さんへ出した結論は。こうだ。

「私たちは、もっとお互いを知っていくべきだよね?」

 私は、父が繋いでくれたこの縁を、少しだけ大切に思い始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

セクス・エクス・マキナ 茜あゆむ @madderred

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ