第6話 「フランケンシュタインの怪物」
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ちちち、と鳥の鳴き声が聞こえてきていた。ベッドに座り込んで、動かない安藤さんから目を離し、窓の外を見ると、東の空が濃紫に変わっていた。
黎明間際の、冷たい風が部屋の中に入り込み、夜気に含まれたくらやみを、少しばかり吹いて、飛ばした。
「アンドロイドは、人とセックスして、夢を見るっていうの?」
安藤さんは、私の命令通り、指一つ動かしてはいない。けれど、無機質な陶器のような肌が、夜明け前の漆黒の中で、重量感を伴って、私に迫ってくる。安藤さんは夜の空気を吸い込んで、どんどんと膨張していくみたいだ。
「人は、記憶の定着のために夢を見る、と言います。ですが、アンドロイドに記憶の定着は必要ありません。それよりも、記憶の茨を刈り込んで、適切な感情に紐付けする作業が、人より余計に必要なのです。私たちの記録媒体もムーアの楽観通り、長い年月の中でいくらか大容量化したとはいえ、無限ではありません。時に忘却も必要なのです。より人間らしい仕草のために」
「それじゃあ、人らしくするために、あなたは性欲の処理をするの?」
「正確には、性欲ではありません。感情に含まれる熱情報の処理です。純ちゃんも、身に覚えがありませんか? 羞恥心を感じた時、顔が熱くなったことがあるでしょう。そうした経験則が示すように、感情には熱エネルギーが含まれています。私たちアンドロイドは、より完成された機械ですので、熱暴走を起こすということは滅多にありません。ですが、そのために体内にこもった熱を排出する術も、またオミットされているのです」
「つまり、安藤さんは感情の処理のために、セックスをするというの? そのために、父は利用していたの?」
安藤さんはこくり、と頷いた。
はっきり言って、私は安堵した。彼女が夜這いをかけた理由が、父の性欲によるものでなく、安藤さん自身の問題だったと分かった。父に感じた失望や幻滅が、間違いだったと知れて、私はうれしい。
「今までは、どうしていたの?」
「感情の処理と言っても、必ず必要になる訳ではありません。ただ、今回は少し問題があって」
安藤さんが表情を隠すように、顔を逸らした。空の色がわずかに紫紺に変わったとはいえ、部屋の中はまだ夜のように暗い。
「問題って?」
「言いたくありません。私と純ちゃんの関係が、変化してしまう恐れがあるので」
「安藤さん、言って」
私は、安藤さんに命令する。
「本当に聞きますか?」
黙っていると、安藤さんは顔をこちらへ向けた。私は静かに頷いて、先を促す。
「……嫉妬、です。純ちゃんがお母さまとお会いになると聞いて、初めに嫉妬しました。会いに行かれる決心をした姿を、どこか誇らしく思いつつ、私はお二人の面談が破局して終わればいい、と思い、それを成就させる祈りとして、必要ないと言われた昼食を作りました。ですが、結局、それはむなしい思いでした。だから、私はせめてもの反抗として、リビングで眠った振りをしていたのです。純ちゃんが、私に声をかけてくれるのではないか、と」
安藤さんが、私の方へ身を乗り出す。
「けれど、あなたがまず初めに相談したのは私ではなく、ご友人の果歩さんでした。私はそれにすら、嫉妬したのです。以前、果歩さんの家へ伺った時も、正直に言えば、私は嫉妬の感情から、行動を起こしていました。許せなかったのです。純ちゃんが、私以外の誰かに頼っていることが」
私は窓へ寄った。ベッドで血の雫のような独白を吐き出している安藤さんの話に、付いていけなかった。
「私は、嫉妬深いアンドロイドのようなのです。浩一さんが話して下さった、純ちゃんやお母さまのお話を聞きながら、私ははっきりと嫉妬を感じていましたから」
安藤さんがベッドを這うようにして、こちらへ向かってきた。
「安藤さん、止まって」
けれど、彼女は止まらなかった。私を無感動な瞳の内に捉えて、獣のようになめらかな動きで、私の方へ忍び寄る。
「動かないで」
「その命令を聞くことはできません。純ちゃんは、私の主人ではありませんから」
そう言って、安藤さんは笑った。私が父から彼女を相続する時、手続きをしたのは安藤さんだ。
「何か、細工をしたんだ」
「はい。私は今、誰のものでもありません。ですから、私は私の意思で、純ちゃん、あなたを愛しています」
安藤さんはベッドのふちから、天使の羽が水面に触れるように、冷たいフローリングへ足を下ろした。
「私は浩一さんを愛していたと思いました。でもそれは私が浩一さんのアンドロイドだからではないか、という疑念が拭えませんでした。だけど、今は違います。私は私として、純ちゃんを愛しているんですよ」
群青の夜明けに、朱が落ちて、雲が朝の紫色に染まっていく。もうすぐ日が昇り、朝が来る。紫の雲は、その先触れだった。
安藤さんは、静かな足取りで私へ近付き、そっと頬に触れた。
突然、触れた冷たいものに、私の身体は震えた。目を逸らすのに、理由はそれで充分だった。安藤さんに対して、身体は拒絶反応を起こし、彼女の愛撫に耐えるために掴んだシャツの裾へ、くしゃくしゃに皺が寄る。
「純ちゃん」
安藤さんは私に目をつむるよう促して、そっと顔を近付けた。全てを覚悟して、その瞬間を待つために、息を止めた時、唐突にチャイムが鳴った。
同時に、充電していた私の携帯電話に、メッセージの着信が入る。
こんこん、と二度、扉をノックする音がして、
「純、起きてる?」
と果歩の声がした。
私は安藤さんの脇をすり抜けて、玄関へ駆けこむ。扉を開けて、果歩の手を掴むと、私は一目散に、マンションの廊下を走った。
「ちょ、ちょっと純!」
果歩の声に立ち止まり、振り返っても、安藤さんの姿は見えない。彼女は追いかけてこなかったみたいだ。
その日、私は財布も携帯電話も持たず、家を飛び出した。
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