第5話 「メタファとしての熱病」


「え? えっ?」

 抑えつけられていた。

 水音がして、私の首元から冷たくやわらかい感触が離れた。

「……」

 安藤さんは、何も言わない。

「っ!」

 太ももに、さっきと同じ冷たさの何かが触れる。

「温かい方が良いですか?」

 ベッドに抑えつけられた私の後頭部で、音がくわんと揺れる。

 部屋の中に入ってきた風が、カーテンを揺らし、辺りがふっと明るくなった。月を隠していた雲が晴れ、白銀の帯が、窓の形に切り取られ、私たちを横殴りに照らす。

 恐ろしいほど白く美しい安藤さんの横顔に、月灯りが当たって、彼女の肌は大理石のように、ほのかに光を放つ。

 吸った息が喉元で凍り、声が出せなくなった。私は、この美しい機械に犯されるのか、と考えると、私の尻尾の先に付けられた鈴が、りんりんと騒々しく響く。

 期待している自分がいた。美しき人の、その指に触れられた場所が、まるで清められるように、月灯りが夜を洗うように、私は安藤さんに慰撫されて、美しく生まれ変わるような気がした。

 安藤さんの冷たい指先の跡を、なぞるように鳥肌が立っていく。産毛がぴんと立ち上がる感触は、身体の上を虫が這っているような感触だった。

「待って」

 かすれた声で、かろうじて言うことができた。

「……純ちゃん、どうかされたのです?」

 声を聞いた瞬間、父の顔が思い浮かんだ。

 私に覆いかぶさった安藤さんの身体を押し返し、空いたスペースで上体を起こした。

「離れて」

 私の両足の間に差し込まれた、白い腕を払いのけて、私は私の太ももをゆっくりと撫でおろした。

 さっきまで胸の奥で膨らんでいた期待が、途端に汚らしいものに思えてくる。私は、自分の愚かしさを自嘲し、そうやってどうにかバランスを保とうとする。

 頭の中では、ぐるぐると言い訳めいた言葉が飛び交っていた。自分で自分を正当化するような、矛盾だらけの甘言。

 けれど、目の前にある事実が、それすらも許してくれない。

 私は、父親のセクサロイドと行為しようとした。

 吐き気が喉元までせり上がってくるようだった。無味無臭のへどが、私の表情を酸っぱくする。

 私は父親の臭いを知らない。だから、嫌悪感は臭いとして襲ってこない。目の前に立つのは男でもなく、人でもなく、端正に作られ、人間に愛玩されるために生まれたアンドロイドであるから、私の吐き気は、思い出でもない。

 私の、私の苛立ちは、父の性欲だ。

「処理は、必要ないということですか?」

 処理、脱色された、何の変哲のない言葉だけれど、その周りにねばついた何かを感じる。それは、私の感じ方の問題なんだろうか。

「処理って、いつもしてたの?」

「浩一さんの元にいた頃は、月に一度、安定のために処理を行っていました」

「それは、今日みたいに安藤さんから?」

「はい、私から促していました」

「お父さんは、どうしてた?」

 安藤さんは、瞳を丸くして、私の様子を窺った。

「浩一さんは、私に身を委ねていました。ただ、処理の時は必ず、夜と決められていましたし、その日の晩には睡眠薬を飲み、いつも眠っておられました」

「それなら、なぜ処理なんてしていたの?」

「安定のためです」

「安藤さん、嘘は言ってないよね?」

 彼女はこくり、と頷いた。

 私は安藤さんからゆっくりと身体を離すようにして、ベッドの端へ身体を寄せていく。彼女はその様子を眺め、私の動きに合わせて、首を回す。

 私が床に脚を下ろした時、安藤さんがスカートの裾を払い、立ち上がろうとした。

「動かないで」

 安藤さんは、ぴたりと動きを止めた。

 私の足元から、月灯りが消えていく。窓の外の景色も、それに合わせて暗くなっていき、月は完全に雲の向こう側へ隠れてしまった。

 安藤さんは、くらやみの中から私を見つめている。白い肌が、幽霊のようにぼんやりと私の目に映った。

「動いても、よろしいですか?」

「まだ、ダメ」

「それなら、いつ動いても?」

「ダメ。動いたら、ダメだよ」

 安藤さんは、ゆっくりと口角を上げ、見せつけるように笑顔を作ってみせた。くらやみに笑みが白く映える。

「……安藤さんが言っている処理って、何なの? 誰のための処理なの?」

「疑似シナプスに記憶された、一ペタバイトの共感子および、イデア論的世界とエチカにおける決定論、それに対する実存的世界観の差異、そして無限生成される解釈世界nのさらなる解釈世界n乗のm、それに連なる入れ子状の無限解釈世界の処理」

 つまり、と安藤さんは続ける。

「アンドロイドも夢を見るということですよ。複雑なる世界の解釈を安定化させるために」

 私を見据える安藤さんの瞳は、限りなく、冷たかった。

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