8月1日の出発

百々面歌留多

第1話

8月1日。

わたしはバックパックに必要なものだけを詰めて、故郷に別れを告げた。

足取りは軽やかだった。背中につけた重たい羽をようやく降ろした気分というべきか。

街外れの丘の上につくと一度振り返った。

大きくて小さな世界が生まれてからの全てだった。両親も、そのまた両親もずっと命を繋いできた場所は歴史の舞台にもなったとか。

古い時代のことなんえ知ったこっちゃないが。

丘の反対側を下っていくと森へと出る。

子どものころは矮小な木々がちらほらとあるだけの野原だったのに、今では立派な森だ。林床を隠す広葉樹は日傘みたい。

森の玄関から分け入り、道に沿って進む。

緑の世界を抜けた先には家がある。

随分と昔の家でかつては人の住処だった。表札はないが立派な門構えで2階建て。窓ガラス等は割れていて、中はすっかり荒れ放題だ。

窓からお邪魔して居間へと踏み入る。立派なテーブルはすっかりと苔生し、床には物が散乱している。

陶器の欠片やぬいぐるみを踏みつけながら目指すのは奥だ。

扉を三つ抜けた先こそにわたしの求めるものがある。

開けた瞬間から埃っぽいにおいが顔にかかった。口を手で押さえながら跨いだ。ひと際薄暗く陰気が立ち込めている。

部屋の真ん中に鎮座をするもの。

わたしは彼の胴体にそっと手を触れる。

どれほど長い時間、牢獄のごとき場所で孤独を感じたことだろう。並みの人間ならば人恋しくて身も心も窶してしまうかもしれない。

だが彼は鉄の革と機械の骨を持つ乗り物だ。

「今だしてあげる」

内側から鎧戸を開いてやると外の光が部屋を照らす。金属的な光沢を放つ車体。毅然とした佇まいからは無機質な力強さがきらりと光る。

完全に開け放つといよいよ光がまぶしい。

払暁の頃合いだ。

まもなく鶏が啼き始めるだろう。そうなればみなが目を覚まし、いつも通りの朝を迎える。朝7時30分。両親は呆れながら、「起きなさい」と促してくることだろう。いつまで経っても起きてこない娘に怒りを覚えつつ、大股で部屋へとやってきて、ノックもせずに扉をあけ放つのだ。

母が見つけるのはもぬけとなったベッドと机の上に置いた手紙。何が何だか分からないまま自分宛ての手紙を震える手であらためるかもしれない。

わたしが一晩で考えたお別れの言葉を読むだろう。ほとんど即興詩みたいな言い訳をどんなふうに批評してくれるか。

よくやったなんてきっと思わないはずだ。

むしろ娘の不出来な手紙に歯を食いしばり、上下の奥歯が割れるほどの勢いで外へと飛び出すに違いない。

わたしの名前を呼びながら、あてもなくいつもの近所を彷徨うだろう。

だが子どものかくれんぼじゃないんだ。隣の家の納屋に身を隠してやるものか。

彼らにわたしを探すのは不可能だ。何せこの場所のことを知っているのはわたし1人だけ。街の外へと出られる道路はこちら側とは反対に伸びている。

見つかりっこないんだ。

乗り物を外へと出してやる。大の大人よりもはるかに重たい代物だが、前後の車輪のおかげで何とか運ぶことができる。

全身を前のめりにして、腰を入れてやること。

そうすれば牛や馬よりもはるかに楽に前へと出る。わたしが汗水を流すだけだ。こいつは四の五の言わずにわたしの意のままなのだし。

家の柵を越えたあと、ようやく森を抜け出した。隣接するのは古道だ。曲がりくねったこの道はずっと昔の人々が日常的に使っていた道だという。

川のような幅で中央には道に沿って白い線が引かれている。道の脇には鉄の看板が錆びつきながらも立っている。

なんと書いてあるかは分からない。

古い言葉でかつてわたしたちの祖先が用いていたそうだ。老人たちにはわずかに理解できるものがいる。

若い世代は必要がないからと教わっていない。文字の数が多すぎる上に文脈によって複雑に読み方が変わるとか。

昔の人は面倒くさい言葉を使っていたんだねえ。

あんまりにも文字が多かったら、おはようの挨拶だって苦労しそうだ。

正直古い言葉に思いをはせるほどわたしはロマンチストじゃないし、考古学者のような知的欲求もない。しいていえば1つだけ知りたいことがある。

この乗り物の胴体に古い文字が記されている。1文字だがシュンとした印象を受ける形をしている。

いったい何と読むのだろう。

乗り物に刻み込むほどだ。前の持主はこの文字を一段と気に入っていたに違いあるまい。速度に関係をしているのだろう、多分。

古道の真ん中で乗り物に跨る。

いよいよだ。

刺しっぱなしの鍵を回して、手はず通りに動かすとようやく彼も息を吹き返した。

鉄の獣が突如として唸り声をあげる。彼の疼きはまるで武者震いのようであった。今か今かと号令を待ちわびているのだろう。

はやくオレを走らせろ、と訴えかけているのではないか。

ああ、もちろんそのつもりだ。素直に応じよう。お前が走りたがっているように、わたしだって旅をしたい。

小さな世界しか知らないわたしは今日でおしまいだ。

「さよなら、故郷」

薄明の空を仰ぎ見て、わたしはハンドルをぐっと握りしめた。

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8月1日の出発 百々面歌留多 @nishituzura

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