Chapter.1

#1

 ぴぴぴっぴぴぴっぴぴぴっ。

 やたらやかましいアップルフォンのサイレンで目を覚ます。おそらく日本人に嫌いな音はなんですかと街頭でアンケートを取ると、三人に二人はケータイのアラーム音と答えるだろう。

 誰だって朝は寝ていたいし、夜は少し夜更かしをしてでも自分の趣味や娯楽に時間を費やしたいものだ。

 かという僕も、三度目のスムーズでようやく起きる気になったのだから、まぁそういうことだ。

 時刻は五時四十五分。明日は予定通り三十分に起きようと決めてからもう四年ほど過ぎた。明日は起きような。

 くぁとあくびをして、布団をめくってベッドを出る。備え付けのクローゼットを開いて、中のプラスチックの衣装ケースの中からTシャツとジャージを取り出して部屋着から着替えた。

 勢いをつけて立ち上がって大きく腰をひねる。ぱきぽきと小気味のいい音が体内から響く。くしゃくしゃの布団を簡単にたたんで、枕元のケータイと机で充電していたワイヤレスイヤホンをケースごとポケットに突っ込む。

 リビングに出て冷蔵庫から二リットルの水のペットボトルを取り出してそのまま口をつける。ごきゅ、ごきゅ、と水が喉を通る音を響かせるこれ、最高に朝って感じ。

 やがて空になったペットボトルを軽く潰してゴミ箱へ放った。

 姉はまだ寝ているようで起きてくる気配はない。洗面台で顔だけ洗って一枚タオルを手に取って玄関へ向かう。

 ナーキの靴を履いて緩んだ靴紐を直すと、鍵を開けて家を出た。

 早朝の春先の風は少し冷たくてぶるりと身体が震える。アパートの階段を下って、すぐ前の電柱の下で軽く準備体操。最後に後ろ手に指を組んで背中を伸ばした。

 ポケットからイヤホンを取り出して耳にはめて、気分に合った音楽を適当に流す。

 ストップウォッチのアプリを合わせて起動してスタートボタンを合図に走り出した。

 高校で陸上部に入ったわけではなく、中学で引退してからもただただ続けている朝の日課。身体が弾ませる度にいつかのことが頭を過ぎって頭痛がするけれど、この痛みを忘れてしまうことの方が今の俺には数倍怖く感じられて、結局これだけはいつまでもやめられなかった。

 走り出すと少しずつ身体が温まってくるのに伴って陽が差し始めてくるので少しだけ熱くなってくる。特にこの時期だと上からパーカーを羽織っていくか悩むので、温度の変化ってのは大層迷惑だ。今日は着てこなくて正解だったな、と頭の片隅で考えながら毎日繰り返しているコースを走っていると、やがて自宅が視界の奥に映った。

 電柱をタッチしたらタイマーストップ。

 十キロメートル、四十五分二十七秒。

 現役の頃と比較しても仕方ないのだが、成長して体格がかつてよりしっかりしているはずなのにタイムが五分以上落ちているのはどうなのかなと。

 短距離なら現役並みには走れるんだけどなぁ……。

 軽くショックを受けながら玄関を開けると、パチパチと焼ける音と香ばしい香りがキッチンの方から漂ってくる。

「おかえり、朔翔。朝ご飯、用意しとくから先シャワー浴びちゃってね」

「ん、分かった」

 言われるがままに一度自室へと戻って着替えの用意をして脱衣所に向かう。

 四十六度に設定されたお湯を浴びながら汗を流す。男のシャワーシーンなんぞに需要はないのでここは割愛。

 風呂を出てハンドタオルを一枚首に掛けて、キッチン兼リビングへと戻ると、先に朝食を摂っていた姉の向かい側に座って既に並べられていた食器に手を付ける。

 トーストの上にベーコンエッグを乗せたのとコーヒーだけという簡単なものだけど姉がこの家に越してくるまでの半一人暮らしの時は、何も食べないことが大半だったので比べるとありがたい。

「朔姉、今日仕事は?」

 声を掛けるとんー? と唸って口に入っていたものをんぐんぐと少し急ぎ気味で咀嚼する。その様子はいつもクールな姉と違って、なんだか小動物みたいだった。

「今日は夜遅くなりそー。晩ご飯はよろしくー」

「了解、何か食べたいものある?」

「ハンバーグかなぁー」

「おっけー、じゃあ作って冷蔵庫入れとくから、今日バイトだから温めて食べておいて」

「わかった、ありがとね」

 それは言わない約束、なんて言えたらかっこいいかなと思ったけれど、あまりにキザなのでやめた。実際、仕送りがあるとはいえバイト代だけでの一人暮らしは厳しいものがあったので社会人の姉が越してきてくれたのは、僕としても助かっているのは事実だ。

 だから補えるところはお互いで補い合うのが佐倉家での決まりだ。いや、実家は知らんけどな。

 食べ終わった食器を洗い場へ運んでシンクに水を溜めて浸けておく。

「じゃあ、学校行くから」

「んー、気を付けてね」

 背中に姉の声を受けながら自室へと戻り制服に着替える。

 この季節まじでブレザー着ていくか悩むんだよなぁ。悩んだ挙句、置いていくことにしてもう着ることは無いかなと、ハンガーに吊るしたブレザーをそのままクローゼットにシュート。超エキサイティングに決めて気分は絶好調、というわけでもないがスクールバックに使っているウェストフェイスのリュックを背負う。

 スマホのSNSアプリを起動して連絡が来てないか確かめてみると案の定もうアパートの前に着いてるとメッセージが届いていたので、行くかぁと重たい腰を上げた。

 いや、まじで学校めんどうだよなぁ。

 高校とかサボってなんぼだろ、と思ってたら今現在アパートの前で待たれている琴谷琴望さんが許してくれないんだよなぁ。ことこと厳しいよぅ……。

 靴を履いてトントンとかかとを合わせるためにつま先を地面に打ち付ける。これ女の子がやってたら萌えるよね。

 最後にリビングに向かって、「行ってきます」と大きい声で言ってから家を出た。

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揺れる瞳が映すもの。 霞深夕 @Kotonone

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