揺れる瞳が映すもの。
霞深夕
introduction
いつか、私が作品として書いた部誌を開いた。
入部して、部誌に収録するために初めて書いた短編はみんなからよく書けてる、と評価されて、照れくさくなったのを覚えている。
普段、ライトノベルや漫画しか読まない私が、まさか書く側になるなんて思いもしなかったけれど。
ぐい、と手を伸ばして机に置かれたそのときの部誌を手に取り、私の作品を開く。
タイトルは、『シークレット・リナリア』
一人の女の子が、好きな男の子の恋路を応援、そして成就させるまでの、ありきたりな、悲恋話。
時計の短針が五と六の数字の間に差し掛かる時間帯。十二月の……クリスマスにしては、日暮れが遅くて、まだ夕日がこの文芸部部室に入り込んで来ていて暖かい。今この部室にいるのは私一人と、壁にずらりと並ぶ本棚と、それに無造作に並べられた本くらい。
先輩は、もう引退してしまったし、夢叶ちゃんは図書委員でかなり遅れてしまうと連絡があった。朔翔くんは、学校に来ていなかったみたい。担任の先生に訪ねてみても、何も連絡がないらしくて次来たら説教だな、と小さく笑っていた。
今日は終業式なのにサボりなんて、私からも注意しておかないとなぁ。
きっとあの子のところに行っていたのだと思う。確信はないし、ただの推測でしかないけど。
立ち上がって、窓を開ける。カラカラと枯れた音とともに、冷えた風とグラウンドで部活動をしている生徒たちの掛け声が聞こえてくる。思わず、「寒っ」と言葉が漏れる。陸上部のマネージャーを休ませてもらって、兼部している文学部の、『卒業する先輩へ』と銘打った部誌を優先させてもらったのだから、本当はこんなことしている場合じゃないのかもしれないけれど。
いかんせん私一人だけなので、どうしても自分に甘くなってしまって進まない。ふと思い立って、向かいの棟の図書室の辺りを探してみると、窓で仕事をこなしているのであろう夢叶ちゃんが小さく視界に写った。
テキパキと仕事をこなしている彼女を見て、何故だか笑みが漏れた。
「寒っ」
やっぱり、今日は寒い。
彼女には悪いけど、今日は先に帰らせてもらおう。冷たい風が吹き込んでくる窓を閉めて、帰宅の準備をする。
彼女に連絡しておかないといけない。忘れないうちにやってしまおうと、スマートフォンを取り出してラーインを開いて、先に帰るねと打ち込んでいたとき、タッタッタッと廊下を走って誰かがこの部屋に近づいて来るのが分かった。
何故だか私には、それが誰なのだか分かってしまって……ガラリと朽ちた木製のスライドドアが軋む音を挙げて勢いよく開く。
──あぁ、やっぱり。
できるなら、彼であって欲しくなかった……なんて言うのは我儘だろうか。
許されるなら、今日は彼に来て欲しくなかった、なんて願望は。
彼は……、息を切らせながら、だけど確かに凛とした表情でその瞳に私を映した。
──そして、エンドロールは始まる。私の、「待って」という嘆きには耳も貸してくれないで。
✳︎
「……悪い、遅れた」
「うん、遅刻だね」
少しだけ悪戯気に笑って見せると、朔翔くんは切れた息を戻しながら、申し訳なさそうに、もう一度、「悪い」と繰り返す。
気持ち程度だけど、先ほどより陽が落ちている気がした。朔翔くんは部室の中を見回して私に尋ねた。
「今日は一人だけか?」
「ううん。夢叶ちゃんは図書委員で遅れるって連絡が来てた。でも寒いし、私一人だけだと集中できないから、続きは帰ってからやろうかなと思ってたところ」
後ろ手でドアを閉めながら質問する彼に、苦笑いを浮かべて、「でも」と続ける。
「朔翔くんが来たなら、もう少しやってから帰ろうかなぁ」
彼女に送るために打ち込んだ文字を、いっぺんに削除してスマートフォンの電源を落として、机の角に腰を下ろす。
今思えば、どこか期待していたのかもしれない。期待していたから、ここに留まらせるように、話しかけたのかもしれない。
酷いもので、そんな期待はすぐに消える。
「いや……悪い。行くところがあるから。今日は、できない」
「それは……」
やめて。
きっと私にとって一番聞きたくない答え。
頭ではだめだと、それを聞くと戻れなくなる、と必死にストップを掛けているのに、止めることは出来なかった。
「夢叶ちゃんの、ところ?」
「……!」
彼は少しだけ驚いた表情を浮かべて、すぅっと息をついてから、小さく頷いた。
「そっ、か……」
とたん、頭が真っ白になる。わかっていた。だから、来てほしくなかった。乾いた空気が肌を撫でる。特に動いたわけでもないのに、息が詰まった。
逃げ出してしましたい。
逃げ出してしまえたのならば、なにもかもを忘れられてしまえたのなら、どんなに楽だっただろうか。思考が停止し始めた、そんなときだった。
「琴望」
彼に名前を呼ばれて、はっと息をのんだ。下がりかけた顔を上げると、私を映す黒い瞳と視線が交わる。
「琴望」
彼は私の名前を呼ぶ。
私はようやく、喉を震わせながら、言葉を発した。決意した。
物語の名前は、シークレット・リナリア。
──だからこれは、物語に”描かれなかった”部分。
誰も知らない、秘密を抱えたストーリー。
本来語られることのなかった、舞台裏のお話。
胸元の服を握って皺を作って、なるべく平静を保とうとする。何度も何度も深呼吸して、上下する肩を抑える。それで、いつまでも待ってくれるあなたに甘えるわけにはいかないから、やがて私は言葉を紡ぐ。
「……朔翔くん」
「ああ」
私の視線を、私の言葉を、まっすぐ受け取ってくれるあなたを見て、いつしか震えは止まり、声ははっきりと、あなたに届く。
なぜだか自然と口角が上がる。あなたといると、それだけで勇気をもらうことができた。
うん、やっと言える。
遠回りして、回り道して、ようやく先を往くあなたと同じ位置まで追いつけた気がするから。
ねえ聞いて。
私は、あなたが。あなただけが。
「──好きです。ずっと、ずっと、前から好きです。私と、付き合って欲しいです」
「……ありがとう」
笑って告げる私に、彼は瞑目してやがて笑顔を浮かべて、言った。
「でも、ごめん」
「……うん」
特に涙が浮かびあがる、だとかそんなことはなかった。ひどく胸が痛むけれど、それでも、彼の前では笑っていることができた。
「なぁ。琴望」
「どうしたの」
「好きな人が、いるんだ」
──知ってる。好きだから。
「その人、最初、琴望から紹介されたときは、なんだか何かに縛られてるみたいで、放っておけなくて」
「ふふ、そうだったね。あの子の秘密聞かせてもらったときはびっくりしたなあ」
一つ一つ大事なものを掬い上げるように、二人笑って語り合う。
それが彼の答えだから、私も大切に、宝箱に入ったものを取り出すように、拾い上げる。
「ああ、そうだったな。まさかそんな子に陸上を教えることになるなんて、思いもしなかった」
「ほんと、朔翔くんがあんなに教えるの上手だなんて知らなかった」
「これでも、陸上は全中3位だったからな」
──知ってる。憧れたから。
「それから、一緒にいることが増えて、その在り方が、どこか俺みたいだなって勝手に重ねて、惹かれていた」
「……うん」
「知らないうちに前に進みだした」
──知ってる、あなたが助けたから。
「……それで、無性に焦燥感に駆られて、空回りしてる俺を引き止めてくれたのは、東だった」
「そう……だったね」
「きちんと自分の足で歩けるように、前への進み方を教えてくれた」
──知ってる、彼女とあなたは、よく似ていたから。
朔翔くんは、もう一度息を吐いて私に向かう。
「琴望」
その双眸は、私を捉えて離さない。
「俺は、東が、好きだ」
──知ってる。見てたから、あなたのことを。
「……うん」
「だから、ごめん。琴望と付き合うことは、できない」
「謝らないで。ありがとう、きちんと、振ってくれて」
これで、終わりだ。
これで、私の初恋は、おしまい。
「いいよ、行って。まだ、きっと図書室にいると思うから」
私は大丈夫だから、と笑って見せる。
「……ありがとう」
朔翔くんが小さく呟いてから、ガラガラと扉の裏に彼の背が見えなくなるまでの間、ただ見つめていた。
ふらふらと、少しだけ覚束ない足取りでぱたりと椅子に座る。
教室の中の空気は乾いていて、やっぱり、寒い。茫然と空を眺めていると、こんこんとドアがノックされる。
どうぞ、と言う前に開かれた扉の先には一人の卒業生が立っていた。
「和泉、先輩……?」
「……やぁ、少し忘れ物をしてね」
にこにこといつもの幼い笑顔を浮かべた先輩がぱたぱたとこちらに近づいてきて、不意に私の頭を撫でた。
「何を……?」
急な出来事で赤面する私に、彼女はそれでも優しく撫でることをやめることはしないで、私の頭を包み込むように抱きしめる。
そこで私は彼女の幼い笑みの中に見え隠れしている感情に気付いた。
「頑張ったね」
「え……」
「我慢しなくてもいいんだよ」
言外に、泣いてもいいんだよと言われてしまって、初めて頬を伝っていく感触を自覚する。一度溢れたものはもう心では止めることは出来なくて、止めどなくこぼれていく。
「あ、あぁ……ああああああああ」
和泉先輩の腰に顔を埋めて、私はひたすらに涙を流した。
乾いた教室に私の嗚咽だけが響いた。
私が物語のキャラクターならば、私はメインヒロインになることができない。
──物語の名前は、『シークレット・リナリア』
リナリアの花言葉は、この恋に気付かないで。
好きな男の子の恋を応援して、自分の恋心を隠し通した、悲しいお話。この矛盾点とも呼べる、”今”のお話はプロローグとも言えない、ただの私の独白。
これから語られる物語は、一冊の本。私たちの高校二年生の時のなんてことのない青春物語。
だけど、それを語るのは、きっと私じゃない。私には、語ることが出来なかった。
語り手は彼と、彼女。
もしも、私に語れることがあるとするのなら。
「──私は、彼のとなりに立ちたかった」
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