5. そして二人は
どんな事後処理があったのか、ソフィアの隊の騎士たちは今日一日中ベックウィズの件に追われていたらしい。結局誰一人戻ってくることはなく、ソフィアはヴィクターと別れた後はずっと一人で過ごしていた。
することはあった。これを機に隊に割り当てられた部屋を整理してみた。女性騎士が仕切っていても、騎士団は男性の割合がほとんど占める集団である。そして、どうしてか男性というのは整理整頓が苦手らしい。見苦しいほどではなかったが、改めて見てみるとやはり雑然としていた部屋の、まず書類を分類することから初めて数時間。気が付けば陽が傾いていて、このときようやく戻ってきた先輩騎士一人から帰っていいよ、と言われた。居残る必然性はなかったので、言葉に甘える。
街が橙色に染まる時間。城を出てソフィアは溜め息を吐いた。事後処理に関われないその理由は重々承知している。しかし、一日だけとはいえこうも放っておかれると、除け者にされているようで少し虚しい。
明日こそは元の通りに働ければいい。そんなことを思いながら街の景色に目を向ける。
その視界の端――街の陰に潜むように佇んでいた人影を見つけて目を見張った。
彼はソフィアと目があった瞬間、踵を返した。急いで追い掛ける。思わず名前を呼びそうになったが、思い留まる。注目を浴びるのはきっと良くない。
人影は大通りを中ほどまで行った後に小道に入った。もちろん後に続く。その小路は背の高いたてものに挟まれていて遮る物は多いはずなのだが、条件が一致したのか西日が眩しかった。それでもソフィアの目は、待ち受けていた相手の正体をはっきりと捉えた。
「やっぱり……ユーノ」
やっと追い付いたユーノ・ガスターは、一見普通の町人だった。騎士服ではなく市場に出回る安価で丈夫な服装で、剣も下げていない。前髪を少し切ったのだろうか、目元の辺りがすっきりしていて、それだけで印象がだいぶ変化しているのだが、さらに刺々しい雰囲気もなくなっている。街ですれ違ってもユーノ・ガスターと認識できず見過ごしてもおかしくないほどに、彼は変化していた。ソフィアが見つけられたのは、おそらくソフィアの彼に対する執着心と、ユーノが道行くソフィアをじっと見つめていたことから生まれた偶然だ。もしかして奇跡と呼ぶのかもしれない。
ただ一つ、片手に下げた大きめの袋が気になる。
「どうして」
続きが思い付かず、不自然に言葉を切った。ユーノは自分に会いに来たのか。それとも、見つかったから逃げたのか。
ユーノはソフィアの意を汲みとって答えた。
「最後にお前に会っておきたかった」
ベックウィズが捕まったことで彼の肩の荷は降りたのだろうか。表情も口調も柔らかくなっていた。微笑しているように見えるその顔に、しばし見とれた。
「俺はこの町を出る」
なるほど、そのための荷物だったか。
何故、と口をついて出てきそうだったのを、慌てて押し込める。このまま居残れば彼は罪に問われる。しかも貴族を殺めているのだ。最悪死刑などということになる可能性だってある。彼の性格からして、自ら進んで裁かれそうな気もするが……そうしないのにはきっと何か理由があるのだろう。
ソフィアは問うのをやめた。ただ、彼の決断を受け入れることにした。何より、彼はこれからも生きているのだ。それも復讐に囚われずに。これ以上の事があるだろうか。
「……そうか。寂しくなるな」
自分の気持ちを無理矢理押し殺して笑う。果たしてうまく笑えたかどうか。ユーノは言及しなかった。
「問題児がいなくて清々するんじゃないか?」
軽口に顔を上げる。そう、軽口だ。今までのユーノだったら、そんなことは嫌みでもなければ口にしなかった。それがユーノの心の余裕を表しているようで、ソフィアは嬉しくなった。もう彼を縛るものは何もない。オグバーンやベックウィズを殺すことなく、このような表情ができるようになって、本当に良かった。
「それもそうだな」
今度はうまく笑うことができた。そのまま二人で笑い合う。今まで他の友人とはできても、彼とはできなかったこと。このようなことができる日が来ると、かつての自分は想像しただろうか。否、ソフィアの中のユーノは、呆れた表情やせいぜい失笑をするくらいで、いつも仏頂面だった。もっと早く知ることができたら、と悔やまれる。
ふと、波が引いたように笑い声が止まる。途端に訪れた静寂に落ち着きをなくした。互いに互いを意識しながら、視線を逸らす。ここに来て今更照れのようなものがソフィアを襲った。随分なことをしたと思う。その感情が見透かされていたのでは、と思いはじめると、恥ずかしい。
この後どうすればいいのか困り果て、彼の足元に目を落とす。そっぽは向けないが、ユーノの顔を直視することもできなかった。
「ソフィア」
耳元でささやかれた声が熱っぽく、脳内を侵食して溶かしていく。顔を上げると、澱をなくした黒曜石が目に入った。こちらを射抜くように見つめられ、身体の自由が効かなくなる。
さらに追い討ちをかけるように、抱きしめられてしまえば、頭の中は真っ白になった。
夢ではないかと錯覚した。それか、ようやく自覚した感情が幻覚を与えているのではないかと。いや、夢でも構わないから、このまま時間が止まってしまえば良い。
「……ありがとう」
気温が高い夏だというのに。温もりが離れていくのを寂しく思った。後を追うように、ソフィアから距離を取るその手を掴む。
逃げられなかったユーノは、少し居心地悪そうだった。軽く抵抗されたが、逃がさない。
「……ばかやろう」
ソフィアの口から恨み言が漏れる。何故そんなことをするのか。せっかく押し殺した気持ちがまた溢れてきそうになる。
掴んだ手をそのまま、目を閉じて深く深呼吸をする。自分は今までどのようにユーノと接していたのだろうか。それを思い出してから目を開けて、ユーノを見据えた。
「もう、無茶はするなよ」
いつも通り、お節介な言葉が口から飛び出した。
ソフィアの意図を察したのだろうか。ユーノはソフィアに向き直って応えた。
「お前には関係ない」
その声が、いつもと違って優しいのだから、胸がまた熱くなった。
でも、それだけでは足りないと思ったのだろう、彼は自分の腕を掴むソフィアの手を取って付け加えた。
「……もう、ああいうことはしない。止めてくれる奴がいないからな」
包み込まれた手を振りほどく。それからユーノの肩を軽く殴り付けた。本当にずるい。今になって、ソフィアを求めるようなことを言うだなんて。期待させてどうしようというのだろうか。
ばかやろう、と口の中でもう一度繰り返した。
別れの時を察したのだろう。じゃあ、とユーノは踵を返す。
「……元気で」
「お前もな」
今度は何もしない。潮時だ。黙ってその背を見送った。彼のことを思えば、ここに引き留めてはいけない。
でも、やはりどうしても、別れの言葉だけでは物足りなかった。可能性はなくても良い。彼の意思だけでも聞いておきたくて、夕日の光に飲まれていく背中に投げかけた。
「ユーノ。また、会える?」
彼は答えなかった。ただ振り返り、手を振った。
「じゃあな」
魔法のような黄昏時は短い。幻想的だったオレンジ色の景色はすっかり藍に塗り潰され、その藍もまた色も濃くしていた。我に返って時間の流れを自覚すると、どれだけ名残惜しんでいたのかと自ら呆れることになる。
ようやく自覚した初恋はあまりにも苦すぎた。
ユーノは領主を殺した。理由は何であれ、キャメロンがどんな悪人であれ、国政に関わる貴族、まして一領主を害した者は大罪人である。赦される可能性は低く、赦されたとしても貴族の娘であるソフィアが彼と懇意にできる可能性はさらに低い。身分の問題もある。叶う望みなどないに等しく、それを認められないほどソフィアも世間知らずではなかった。
友人としての道も別たれてしまった。
当然寂しく、また悲しい。だが、その一方で清々しくもあった。色々なことに決着をつけられたからだろうか。
「そういえば、両想いだったな」
抱き締められた感触を思い出す。あのようなことをされて、ユーノの気持ちが分からないほど鈍感ではない。友人の抱擁との区別くらい付く。この名残こそが、彼の想いの証明だった。
いったいどうしてそう想ってくれたのか、気になるところではあったが。
「また会えるさ、きっと」
ユーノがくれなかった、ソフィアの欲しかった返事を口にする。ようやく踏ん切りがついた。
そしてソフィアは、小路を後にした。
透澄の翅衣 森陰五十鈴 @morisuzu
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