無慈悲な追跡者プロトタイプ・「走る少年」最終話

 次に少年が来るのではないか。そうマスコミに思われ、結果多くの取材陣の来訪を受ける事になった光市は騒然としていた。

「もうそんなも前の事を言われても…」

 城崎温泉、松江、大津に比べれば確かに才月は長い。

 しかし光市と言う自治体の歴史に深い傷を刻んだ事件を忘れさせるには全然足らない。


「もちろんその事は心得ております、一日たりとも忘れてはおりません」

 上層部からすればそう平謝りする以外ない。十六年も経てば、組織の成員はほとんど入れ替わってしまっている、ましてや責任を問われるような上層部なら尚更である。そんな人間に責任を問うてどうするんだと言う話である。

「今日も少年は松江市を走り回っていると言うじゃないですか」

 光市の職員が言う通り、裸の少年は今日もまた松江市を走り回っていた。


「ヤマを張っていた甲斐があったと言う物…」


 その松江市では三人の男女が異様な程の殺気を醸し出していた。

 一人の男性はビデオカメラを構え、一人の女性は刺又を握り、一人の女性は肩に衣類が詰まったカバンを掛け、手にはトランクスが握られていた。

「先程発見したんです、あの裸の少年を」

 裸の少年は、一昨日とは違う公立小学校に現れた。テレビ局のカメラマンと教育熱心な主婦がヤマカンで選んだ小学校に、彼らの思惑通りに少年は現れたのだ。

「手荒くはありますがこれも本人のため…」

「そう、そして何よりみんなのため、世間のため」

 そしてその小学校の養護教諭もまた少年の保護に対し積極的だった。

 雨の中を全裸で走る様な事をすれば風邪を引く危険性が非常に高い、いや最悪肺炎を起こし命を落としかねない。そんな無茶苦茶な事をする子どもを、これ以上放っては置けない。ましてや他の子どもに真似されてはかなわない、そういう思いが二人の女性を突き動かしていた。二人とも目が血走っている。

 一方でカメラマンの男性もまた、獲物を探る鷹の様な目をしていた。ただし頭の中にあったのは教育的問題ではなく、ひと月近くに渡り世を騒がせて来た謎の少年が確保される決定的瞬間を取りたいと言う功名心だけである。



「来ました!」


 そんな微妙に思惑の異なる三人が張り込んでいた校舎裏に、ついに少年が姿を現した。金髪で、真っ白な肌をし、一糸まとわぬその姿。紛れもなくあの少年だ。


「ごめん!」


 その声と共に、養護教諭は時速40キロで走り込んで来た少年めがけ全力で刺又を突き出した。

 外してしまったとしても、自分自身と正面衝突して止める事ができればそれでいい。時速40キロで走る物体と正面衝突すれば無事では済まないだろう事はわかっている。

 だが養護教諭の顔からはそれでも構わないと言わんばかりの覇気が溢れていた。文字通りの渾身の一撃を放ったのだ。そして、刺又は見事に少年の胴を捕らえた。


「やっ…」


 しかし、少年は刺又を文字通りにすり抜け、そして養護教諭本人をもやはり文字通りすり抜けて走り去って行った。

 後に残されたのは硬直した三人の男女だけである。



「ちょ、ちょっと今…」


 カメラマンの男性からその声が出たのは二十秒は後だっただろうか。その頃には少年の姿などとっくの昔に消えていた。

 二人の女性が絞り出す様に声を上げたのは更にその二十秒は後だったろうか。


「き、消え…」

「映像を、映像を見せて下さい!」


 男性が持っていたビデオカメラには、走る少年の胴を養護教諭の持つ刺又が正確に捉える光景、そしてにも関わらずその少年がまるで透明人間か幽霊のように刺又と養護教諭をすり抜ける映像が映っていた。


「これは、これは一体何なんですか!」

「こっちが聞きたいですよ!こんな所で合成なんかできますか!」

「じゃあ作り物の映像じゃないとすると一体あの少年は何なんですか、本当の幽霊だとも言うんですかこんな真っ昼間から!」


 合成映像でなければ何だと言うのか。あの少年が幽霊だとでも言うのか、さもなくば何らかの技術で作られたコンピューターグラフィックスだとでも言うのか。


「あるいはこれまでのも全部…」

「ですから…とにかくこの映像は局に持ち帰って分析しますので…!」


 カメラマンはそう言いながらその場を逃げるように走り去った。

 残された二人の女性の内、養護教諭の方は刺又を持ちながら呆然と立ち尽くしていた。

 一方で主婦の方は拳を震わせ顔を紅潮させている。憤怒、赫怒。そんな言葉が似合いそうな形相である。



「……………許せない」



 そしてその形相から放たれた短い言葉は重く響き、呆然自失状態であった養護教諭の目を覚まさせた。


「い、いやその、でも…実際映像の事は…専門家の方に」

「あのカメラマンの方に言ったんじゃないんです!」

「す、すみません、本当にその、捉えたはずなんですが…!」

「いい加減にしてください!」


 授業中の小学校の校舎裏だと言う事などすっかり頭の中から消え失せているかのように主婦は怒鳴り声を上げていた。

 ましてや目の前の養護教諭の腰が抜けている事などは完全に思案の外である。


「あの子は…あの子は私たちの思いを踏み躙ったんです!先生と私の、あの子の健康を気遣う思いを!」

「えっと…」

「私たちにこれほどまで手荒な真似をさせているって言うのにあの子は…!」


 自分はこれほどまでに相手の事を思っているのに、なぜ相手は自分の気持ちがわかってくれないのか。完全なストーカーの論理である。


「あんな羞恥心の欠片もない、天使だか幽霊だか知りませんが、あんな子どものせいでうちの、いや日本の子どもが汚されて行くと思うと…!」


 道には小石の一個も落ちていてはならず、部屋には一かけらの塵もあってはならない。もしそんな世界があったら、それは何と味気なく何と窮屈な世界だろう。

 確かに裸で外を時速40キロで走り回る少年は特異な存在であったが、所詮一億二千万の日本人の中に、八十億の地球人の中に突如現れてたった一人だけの、まだ認識されてから一ヶ月しか存在していない物であり、その影響力は知れている。

 そんな路傍の石同然の物に向かって、この石のせいで自分の子どもがつまずいて怪我をしたらどうするんだとストーカーめいた憎悪を見せ付ける彼女は、おそらくはこの国で今一番滑稽な存在であろう。


「では、私は業務があるので…」


 養護教諭が青白い顔をしながら学校に戻って行く中、主婦は彼女に目もくれる事なく右腕を震わせながら怒りの涙を流していた。








 そしてその日以来、少年は松江市に現れなかった。

 そして山口県光市にも、広島県にも、鳥取県にも、他のどこにも。一日、二日、一週間、十一日…時がどれだけ流れても、金髪に真っ白な肌の、全裸で走る少年はどこにも姿を現さなかった。


「もう出ないでしょう、いい加減諦めればいいのに」


 光市の職員がそう溜め息を吐く先では、もう六月も末だと言うのにも未だに一人のカメラマンがじっとカメラを構えていた。


「結局、あれは何だったんですかね…」

「いまだに結論出てないらしいよ」


 九日に撮影された映像はテレビ局や大学その他で映像の専門家による分析を受けたが、合成やCGと言う判断はできないと言う結論が出ていた。

 要するに、間違いなくその少年は刺又をすり抜けたと言う事なのだ。ただし、あくまで松江市に六月九日に現れた彼はと言う話であり、それ以前に出現した物についてはわからないと言うのである。


「天使とか言う声も一時あったらしいけど…実際そうなんじゃない?」

「天使?」

「そういう人間を超えた存在じゃなきゃ、この現象は説明が付かないだろ」

「まあ…個人的にはそれでいいんじゃないかって思ってるんですけどね」

 かと言って天使だと断言する証拠もない。

「でもさ…今度の事でうちの市は正直嫌な気分になったよな」

「うちだけじゃありませんよ…敦賀も大津も松江も…」


 敦賀はまだしも、大津の住民は少年の出現により忌まわしき事件を掘り起こされ日本中から再び不興を買い大変不愉快な気分になった。松江もまたしかりである。城崎や光に至っては、少年が現れもしないのに少年のせいによって面倒な事になった。

「上田や高山で何かあったか?」

「いえ何も…」

「…なんだよなあ」

 一方で、最初の方に少年が現れたはずの上田や高山では何も厄介事は起きていない。上田も大津も光も、同じ地方自治体である。どうしてこうも違ってしまったのか。


「話変わるけどさ、今年の冬は寒かったよな」

「ええ、僕も雪かきしたぐらいですもん」

「一応うちも日本海側だけどよ、あんなに積もるとは思わなかったぜ」

「上田や高山の人たちから見れば積もってるって言わないんでしょうけどね」

 上田や高山で雪が積もるのと、光市で雪が積もるのは大分違う。裸の少年が金閣寺と松江でほぼ同じ事をやったのにこうも反応が違うのは、それと同じ事なのだろうか。

「明日は晴れるそうですよ」

「そりゃありがたいな、この晴れを有効に使わなきゃなあ」

「昼飯行きます」

「そうだな」

 四日連続雨の続く梅雨の光市にて、二人の市役所職員はゆっくりと席を立った。

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