無慈悲な追跡者プロトタイプ・「走る少年」第3話

「城崎温泉だろ」




 京都の隣は兵庫、大阪、奈良、滋賀、福井。だが福井と滋賀を通過して来た手前両県は考えにくい、となると兵庫、大阪、奈良のいずれかとなる。その三府県の中で耳目を集めているのは兵庫県であり、そして城崎温泉であった。

 以前100回以上におけるカラ出張があった事で大変話題になった温泉地であるが、関西人以外には知名度が低くこの騒動で初めて知ったと言う人も多かった。そういう理由によりあちこちで同時多発的に城崎温泉と言う名前が言い出され、そしていつの間にかそれでほぼ確定となった。




 女将は言葉がなかった。温泉地が恒久的な不況に見舞われる中大量の客が来てくれるのはありがたい。

 しかし、その大量の客のほとんどがまともに湯治を楽しむ気などかけらもない様子である。


「最近の人は必要だと感じた所には遠慮なくお金をつぎ込む代わりにそれ以外はとことん削るって言うけれどねえ…」


 その滞在客の多くが素泊まりであり、正直金払いは悪い。

 城崎は蟹の名産地としても有名である。今は五月末なので新鮮な蟹はないが、その事を伝えてもほとんどの人間が残念がっていない。蟹も温泉も興味ない、じゃあ何しに来たんだと言う話である。

「たかがあの程度の事で騒ぐ価値があるんですかね」

「…………あるんでしょうね、私たちにはわかりませんよ」

 地元の湯治客と思しき七十半ばと思しき老女の言葉に呼応するかのように、女将はようやく声を出した。

「男の人たちの方はまだわかりますよ、でも女の人はねえ…」

 新聞社やテレビ局、雑誌社と言ったマスコミ関係の人間、そういう所に写真を売り込んでやろうと考えるフリーのカメラマン、そして単に趣味でカメラをやっているアマチュア、そして面白半分で見に来た連中。今城崎温泉に集まっていた男性はほとんどがそういう人間だった。

 一方で女性はこれまで述べた人種の人間もいたが、その多くが一般的な主婦だった。

「あたしが子供の頃は戦中戦後すぐって事もあって物がなくて、その分なのか知らないけど随分とおおらかだったのにねえ……最近の子たちは本当に怖いわ」


 先程神戸から来たと言う主婦たちと出くわした時の事を思い出し老女は震えた。



「いくらなんでもああいう物言いは」

「あの人と違って見過ごせないと思っているから来たんでしょう、その事を示す必要があるから、はっきりと言っただけです!」

 芦屋辺りの出身と思しき育ちの良さそうな四十代の女性の目は、その外見に全く似つかわしくない歪んだ輝きを放っていた。

 彼女もまた、あの裸の少年が城崎温泉に現れると信じて疑っておらず、そしてその少年を捕まえる事に執念を燃やしていた。

「同じ女性、同じ母親として協力してくれると思ったのに…あんな裏切り行為をされるとは思いませんでしたよ」

 一方的な物言いであるが、彼女の声を聞いている誰も首を横に振れなかった。

「たかが一人の子ども相手にそんなに目を血走らせる必要があるのかって、必要があるからこうして出てきている訳じゃないですかねえ!」


 自分にしてみれば精一杯の熱意を込めて全裸で駆け回る少年の持つ危険性を訴えたつもりだったのに、老女はたかがそんな事ぐらいでいきり立つ必要はないと思いますよと返して来たのである。

 今は昔と違って多数のメディアによってあっと言う間にその姿が記録に収められ、日本中いや世界中の家庭に届いてしまう。その姿を目の当たりにした子どもたちにそんな姿を真似させたいんですが、あるいは全裸で町を走っても捕まらないと思わせたいんですか。さらにそう吠えかかったのに老女はどうどうと言わんばかりにゆっくり温泉にでも浸かって考えなさいと言って来たのだ。


「もういいです、話す相手を間違えました!」


 彼女の怒声に老女や彼女と同じように衣類を抱えた主婦仲間のみならず周りの人間も怯んでいたが彼女は全く気にしていなかった。


「男どもは何を考えてるんですかね、この一大事を飯の種とでも思ってるんでしょうかね!許される物ならああいう男ども全員ぶん殴ってやりたいですよ!」

 どうして自分の思いが伝わらないのか、どうしてみんなこの目の前にある危機が分からないのか。イライラばかりが募って来る。

「全くどこの誰だかわかりませんけど親はどんな育て方をしたんだか、天使だろうが何だろうがああいう育て方をした親の顔が見てみたいですよ、ねえ!」

 ずっとそうやって吠え続けながら張り込み場所と言うべき旅館から双眼鏡をのぞき続けているその姿は、裸で走る少年よりずっと奇異であった。いや大体において、その裸の少年を捕まえ服を着せるがためだけに神戸から城崎まで移動しているのも十分に奇妙であり人目を引くに足る姿である。そしてそんな奇異な姿を捉えにまた裸の少年を追うのと別の種類のマスコミも城崎温泉を訪れに来る、そして去年と同じようにまた単なるもっけの幸いを素直に受け止められない連中が嫉妬心の発露を崇高なる諫言に昇華したつもりになって調子に乗るなとか言い出す。


 大体、城崎温泉に裸の少年が現れたと言う話は少年が金閣寺を走り回ってから五日経ち六月になっても一度もない。なのに、その五日間の間に城崎からはさほど人が減っていない。そう考えられる理由は多いにせよ現れると断言できる証拠は何一つないのにだ。

 例えばこれまで長野から岐阜、岐阜から福井、福井から滋賀、滋賀から京都と移動して来たのだから、今回も同じように京都と隣接している兵庫及び大阪、奈良に現れるのではないかと考えるのは筋の通った理屈であるが、これまでがそうだから今回も同じと言う保証はどこにもない。

 そしてなぜ大阪でも奈良でもなく兵庫なのか、そして神戸でも姫路城でもなく城崎温泉なのか。その疑問に対しても確定的な答えは何もない、去年城崎温泉で物議を醸した出来事があったからその可能性か高いだろうと言うだけの話であり、これまた確証はどこにもないのにだ。

 城崎温泉に集まっていた傍目から見て裸の少年と同じかそれくらい奇妙な連中がすっかり消えたのは結局六月六日、裸の少年が金閣寺に現れてから十一日後だった。




 その六月六日、裸の少年は再び姿を現した。彼は突然、島根県の松江市に現れたのだ。


「兵庫のどこを通ったんだよ」

「鳥取に出ました?」

「広島に出たのか?」

 金閣寺から松江まで、陸路で行くとすれば兵庫県を通らない訳には行かない。そして、兵庫からは鳥取県を通過しなければ島根県には行けない。鳥取県の南の岡山県は島根県と接しておらず、岡山県から島根県に行くには広島県か鳥取県を通らねばならない。

「なぜまた松江に」

 あの少年がどういう道を通って松江に来たのかは定かではない。されど、今少年が松江にいる事は紛れもない事実なのである。

 その少年についての会話が、俄かには信じがたい事に、松江市市議会議員たちの手により行われていた。たかが一人の少年について、市議会議員たちがである。


「警備に抜かりがあったのではないですか!」

「市役所の警備は現時点で十分と考えております」


 もっとも、少年が松江市の市役所の周りを走っていたとなれば話は別かもしれない。確かに全裸の少年と言う不審者の侵入を許すとは何事だと言う話である。

「一刻も早く少年を保護し、素性その他を確かめる必要があります」

「具体的にどうすべきだと言うのですか」

「警備員を増強、防犯カメラも増設し」

「そんなありきたりな対策しかないのですか、そしてその予算は一体どこから」

「ではどのような対策を取れと言うのですか」

 一応警備員を増やすと言う話だけは強引にまとめたものの、実際に増やすとなると面接その他でかなり時間と手間がかかる。その間に裸の少年がまたどこかに行ってしまったらその新たに増やした警備員たちは何なんだと言う事になりかねない。

 もちろん問題は裸の少年だけではないにせよ、これまでの警備で他にさしたる問題も起こっていない所に無駄に予算を注ぎ込むような真似をすれば、また行政の無駄と言われかねない。


 そんな県議会議員の苦悩をあざ笑うかのように、また翌日少年は現れた。


 しかも、小学校にである。


「一刻も早く何とかして下さい!」

 年の近い子供が多数いる所を全裸で走られるのは、教師側としては迷惑極まりない話である。しかも時間が水曜日の午前十時と来ては児童たちにとって目の毒そのものであり、もし梅雨の走りの雨が降っていなければほぼ確実に校庭での授業が行われ、校庭を走っていた全裸の少年をより近い距離で目の当たりにする羽目になっていただろう。

 そして少年は金閣寺の時と同じように時速40キロ近い速度で走っていた、物理的にも危険だ。教師たちが慌てふためくのも無理からぬ事である。

「松江に何か問題が…」


 この頃になると、上田や高山にも裸の少年が現れた事が全国に知られるようになっていた。敦賀や大津のように何かあるのか、上田や高山のように何もないのか。


「上田や高山、京都は一日でいなくなりました、けど敦賀や大津には三日以上いました。既に少年は二日間この松江にいます、これは我が松江市に何らかの問題があると警告していると考えます」


 とある市議会議員はそう発言しておきながら具体的にと言われてそれについては皆様のご意見をと逃げたものの、これまでの経緯で行けばそう考えるのも無理からぬ話ではある、あくまでもこれまでの経緯で行けば。

 だが言った本人がその具体例を出せなかった事から議論はその方向に広がらず、結局何も進まないまま少年が松江市に現れてから二日目の県議会は終わった。



 しかし少年が松江に現れてからの三日目である六月八日、事態は急に動いた。




「今回松江市に裸の少年が現れたのは、島根県において言論弾圧が行われようとしていた事に対して、また悲惨な太平洋戦争の体験を忘れようとしている愚かな真似に対し抗議の意を示している物と考える。県議会は速やかにその事を反省し、二度とそのような事態を起こさないようにせよ」




 言葉の長短や細かい部分に違いはあったものの、要約するとその様な物言いになるメッセージが松江市に次々と届いていた。多くはインターネットを介してであったが、手紙も少なくなかった。

「韓国からも来てますよ、あの悲惨な戦争を忘れようとする国民に明日はないと」

 海の向こうからも抗議が来ていると言うのか。

「この件についてどうお考えですか!」

「あの悲惨な戦争を忘れさせ、再軍備を企図しているのではないのですか!」

「改めてお伺いします、なぜあのような事を!」

「知事、一言お願いします!」


 マスコミが松江市議会にあふれかえった。市長や議員たちは話は会議場でと答えるしかなかったが、それでもなおフラッシュと質問の声は止まない。


「………えー、では以前」

 議会の開始直後、議長がまだ始まったばかりなのに疲れ切った様子で声を上げた。

「では以前、公立小・中学校における「はだしのゲン」閉架問題が起きた事についての議論を始めたいと思います」

 自分から閉架を提案しておいて自分で閉架問題と言うとは滑稽な話だが、抗議のメッセージを送りつけた人間もマスコミもみんなその事に関心を寄せていた。

「我々としましてはただただ「はだしのゲン」に描かれし悲惨な描写をまだ人格形成の最中にある子どもたちに見せる事により、子どもたちに心的外傷を植え付ける事になってしまう事を憂えての判断だったのですが、それが言論弾圧・表現の自由に対する挑戦と取られてしまった事は痛恨の極みであり…」

 最後まで言い切らない内に罵声が飛んで来た。

 何が痛恨の極みだ最初からそのつもりだったんだろ、戦争の悲惨さを伝える漫画を子どもたちに見せないなど戦争を望んでいると考えられても仕方ないじゃないかなど、そういう内容の言葉が最初に発言した議員の十倍以上の声量で返って来たのだ。

「発言はまだ終わっていません、静粛に!」

 議長の諌止もお構いなしである。

「あの一件は松江市のイメージを著しく傷付けました、そのイメージを早急に回復するためにも二度とあの様な愚かな真似をしてはならないと考えます!」

 もっとも、その問題が俎上に乗せられたのは陳情があったからであって議員自らが提案した訳ではない。

 だが平和憲法を持ち反戦が最大の国是と化している日本において太平洋戦争の悲惨さ、とりわけ二度の原爆の恐ろしさについて伝える事は絶対的な重大事であり、それを抑えようとする事は重大な悪行であった。ましてや民主主義を名乗っている以上、言論弾圧や検閲があってはならない。

「えー…ですからその…我々といたしましても、この件を深く反省し、二度とこのような事態が起こらないように……………………」

「聞こえません!起こらないように何ですって?」

「起こらないように、はい、その…言論弾圧、戦争推奨と取られるような行動を固く慎むべきであると考えます……………」

「では今後、どうすべきとお考えですか、具体的に!」

「それはっ………………」

 最後の方は完全に泣き声であった。

「一時休会とします!」

 やむなく議長はそう宣言して一時的に収拾を付けたものの、議会は全く収まる気配を見せなかった。


 そして三十分の休会を経ての審議再開直後、再び議会は揺れた。公立中学校の校舎の周りを裸の少年が走っていると言う報が飛び込んで来たのだ。

「金髪で純白な体の…」

 間違いない、あの少年だ。

「やっぱりあの少年は我々の暴走を戒めるべく、今またこうして公立中学校に現れたのです!全公立小・中学校において「はだしのゲン」の読み聞かせの授業の導入を行う事を提案します!」

 まずは少年を確保する事が優先だの今はそんな事を言っている場合ではないだのいやそもそもこの話はその少年と関係ないだろなど他に発言する言葉の候補はあったが、真っ先にその発言が出た事で一気に議会がその色に染まった。


「この王六セイジって誰だ?」

 今回松江市に真っ先に抗議のメッセージを送りつけて来たのはそういう名前の漫画家だった。

 まだキャリアは一年、代表作はまだ特になく漫画家としては新米である。作風も小学生向けのギャグ漫画で政治的信条があるようには思えない。そんな新米漫画家が真っ先に動いたのは、売名行為と言う側面も大きいのかもしれない。その王六セイジが多数の漫画家に呼びかけたのか単に偶発的に起きたのかは定かではないが、いずれにせよどこの誰かわからない少年と一新米漫画家が今島根県議会と言う七十万以上の人間の行政を担う地を盛大に揺るがしていると言う現実は揺るぎようがないのである。

「時に思うんですが…次は山口ですかね?広島ですかね?」

 議会の争乱を追う記者たちの中からそんな言葉が飛び出したのは偶然だろうか、必然だろうか。京都から島根にどうやって来たのかはわからないが、それまでの例をたどれば次は陸路で移動できる地に現れるであろうと考えるのが普通である。そしてずっと西に進んでいる事を考えると鳥取に現れるとは考え難い、と言う訳で山口県か広島県かと言う事になる。

「広島じゃないのか、原爆ドームとか」

「俺は山口だと思いますね、何せ光市が…」

 光市。その地名を後輩記者から聞かされた途端先輩記者は立ち上がり人目を避けるようにキョロキョロしながら携帯電話を取り出した。その間も、議場の荒れっぷりは止む気配を見せていない。

「少年の事はすっかり置き捨てにされてますね」

 論戦の議題は完全に表現規制と反戦への取り組みについてになっており、その火付け役であるはずの少年の事は忘却の彼方にあった。

 そしてマスコミも現金な物で、どこの馬の骨かわからない少年についての話よりずっと重要なはずのこの議題についての論戦は翌日以降も続いたにもかかわらず、取材する人数は一日で半数になっていた。

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