第5話

 物資の運搬を終えると、駅まで送りましょうかと言われたが、とてもそんな迷惑をかけるわけにはいかない、と固辞した。それに、もとより一つ手前の駅まで歩いてみようと思っていたということもある。香奈美が住んでいたところが気になっていたからだ。礼を告げて避難所を出ると、すでに日は傾き始め、少し雨も降り始めていた。

 傘を差しながら、歩いた。教えられた通りに歩くと、ほどなく、広い道路に出た。これが恐らく国道二号線だろう。しかし、街灯がなく、車もほとんど通っていないために、まるで雰囲気が違っていた。来る前に頭に入れておいた地図を呼び出しながら、交差点の名称を頼りに大体の位置を追う。やがて、今回地図を見て覚えたのではない名称の交差点にたどり着いた。香奈美を送って何度も来た道。最後に来てからまだ二年も経っていないはずの道だったが、どうしても記憶にある風景と重ならない。

 確かこのあたりに喫茶店があったはずだけれど。そう思いながら、一度通り過ぎた道を引き返してみる。それでも、見当たらない。記憶違いだろうか。交差点を渡ったり戻ったりして、記憶にある風景と照合しようとした。やがて、間違いない、やはりここにあったはず、と確信したところに立つ。そこには、別の建物があった。知らない間に建て替えたのだろうかとさえ、思った。

 しかし、灯りのすっかり消えたその窓枠をしばらく見ていて、気付いた。これは、あの喫茶店の二階のバルコニーだ。それが、幾分形がいびつになりながら、路面とほぼ、同じ高さにあった。バルコニーのサッシから、少し離れたところに見覚えのある看板が地面に張り付いている。ずいぶん割れてほとんど原型をとどめていないが、あの店のものに間違いない。見覚えのある一階部分がすっかりなくなっていた。盛生は声も出せず、しばらくそこにとどまった。


 立っている位置は完全に把握した。ということは、この交差点を斜めに渡った左に、香奈美の住むマンションがあるはず。盛生はまだ二月だというのに口の中をからからにさせながら、そこに向かった。交差点から三軒目の建物を過ぎると、駐車場の入り口がある。その奥に建つ、二棟のうちの手前側。きっと無事だ。元気でいるに違いない。祈るように、心の中でそうつぶやきながら、駐車場の入り口に立った。

 違和感がある。なんだろう。灯りがないからか。それだけではない。向かい合うようにして建っていたはずの二棟が大きく傾き、まるで人の字のようにもたれ合った状態になっていた。そして真っ暗な入り口には、ここへ来るまでに何度も見た、立ち入り禁止のビニールテープが張り巡らされていた。盛生は思わず手にしていた傘を取り落とし、その場に座り込んでしまった。そしてそのまま冬の雨に濡れそぼちながら、しばらく身動きをすることもできなかった。


 香奈美から、クリスマスプレゼントを渡したいので、会いたい、と連絡があったのは別れた年の末だった。会いたくなかったという訳ではない。むしろ、会えば二人の間は元に戻るのだろうという確信があった。それだけに、迷ったのだ。迷ったまま、答えを出せないまま、盛生は就職して初めての年末年始に、帰省しなかった。香奈美とはそれっきりだった。自分から別れを切り出し、もう一度会いたい、という香奈実の与えてくれたチャンスも握りつぶした。

 それからちょうど一年後の、出来事だった。盛生は傾いてしまった香奈美のマンションの前で、電話一本することができない自分に打ちのめされていた。自分がもはや香奈美の身を案ずる資格をすら失ってしまっていたのだということに今更ながら気づかされた。

 せめて無事を確認することだけでも。それすら許されないまま、案ずる気持ちも押し込めてきた、二十数年だった。


 盛生はグラスを干した。中林がさらにワインを継ぎ足そうとしたが、手のひらでグラスにふたをして、断った。なんだかだと言いながら、結構なピッチで呑んでしまっている。

「香奈美ちゃんはあの日、早々にマンションを抜け出して、その時つきおうてた彼氏のところに車で避難したらしい。それからしばらくしてそいつと結婚して、今は名古屋に住んでる。子供もおって、確かそろそろ大学生くらいやろうな」

 中林がグラスを引きながら、さらりと話したことは、盛生がずっと知りたくて仕方がなかった内容である。あまりにもこともなげに言われたため、脳裏にあった疑問への回答として結びつけるのに、少し時間がかかってしまったくらいである。そして、簡単に告げた割にはその情報の詳しさに驚いた。

「なんでそんな細かいことまで、お前が知ってるねん」

「俺はお前とちごて佳子ちゃんとも香奈美ちゃんとも連絡とれるもん。さすがに結婚式まで行ってはないけど、年賀状くらいはやりとりしてるねんで。香奈美ちゃん、結構お前のことは気にしてるみたいやな。お互い、ぶきっちょなこっちゃ」

 埒もない。言われてみれば確かに、香奈美に直接聞くことはできなくとも、中林や佳子に聞けば簡単に分かったことなのだろう。しかしそんなことに思い至るほど、割り切れてはいなかったということか。車に乗って、避難した。そういえば、クリスマスプレゼントを渡したい、と連絡してきたときに、実は車を買ったの、と言っていたことまで、思い出した。


 そうかあ。長い間、押し込めてきた気持ち。何度も浮き上がり、その都度抑え込んできた気持ち。ようやく分かった。佳奈美は無事だった。そして、今は幸せに暮らしている。

 あの日のままで止まっていると思って後生大事に胸の奥に仕舞い込んできた二人の時計は、けれども実は、それぞれが別々の時を刻んできていたのだ。そんなことを確かめもせず、気付きもしないまま、盛生自身だけがあの夜の駐車場にうずくまったままだった。

 ほう、とため息をつきながら、動揺して小刻みに震えている自分の指先を見られたくなくて、盛生は早々に退散することにした。

「今日は久しぶりに実家に泊まることにしてあるから、そろそろ帰るよ。大阪には頻繁に来ることになるだろうから、また今度、ゆっくり来る」

 気付かない間に「関西弁なまりの標準語」に戻ってそう言った盛生は、元来た道を難波方面に向かって歩き始めた。

 戎橋まで来ると、グリコの看板が目に入った。変わらないものもあるんだな。そう思うと少し心が軽くなった気がする。盛生は伸びをするふりをして、その看板の絵柄のように、両手を広げて片脚で立ってみた。街は漸く薄暗く、そろそろ灯りが映えはじめている。

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薄明光線 十森克彦 @o-kirom

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