第4話

 盛生には、朝からテレビを観たりラジオを聴いたりする習慣がなかった。その日も、何事もなく出勤し、会社についてから社内のざわざわする感じに戸惑った。

「あの、何かあったんすか」

 集まってしゃべっている同僚や先輩社員たちに尋ねると、関西の方で大きな地震があったらしい、とのことだった。

「飯田君は確か大阪の出身だったよな。大丈夫なのか」

 と上司から尋ねられたが、状況を把握できていない盛生は、

「はあ、まあ何かあったら連絡くるでしょうけれど」

 とあいまいに答えただけだった。地震といっても、大したことはないだろう、とその時は思っていた。恐らく、そう思っていたのは盛生一人ではないだろう。それでも皆に勧められ、一応念のためと思って堺にある実家に電話を入れてみた。なかなかつながらなかったことが不安を掻き立てたが、何度かかけ直しているうちにつながり、特に大きな被害はなかったとのことだったのでほっとしたのだった。ただ、電話の切り際に母が言った、

「神戸の方はかなり大変やったみたいやけど」

 という言葉が耳に残った。神戸の方は。盛生の頭の中ではその先は言葉にならず、ただ、神戸の方は、と繰り返すばかりだった。日を追うごとにその被害状況が明らかになるにつれ、平静ではいられなくなった。会社の中でも何かをしようという声が日増しに強まり、内外で集めた義援金をどうしようかという段になって、盛生にそれが託されることになった。一つにはやはり実家のことが気になっているだろうから、様子を見ることも兼ねて関西に戻ってみたらいい、という配慮だった。そんな事情で、震災から三週が経った頃、盛生は義援金やちょっとした救援物資を取引先からも託されて、神戸に向かうことになった。


 特別な根拠はない。とにかく、東灘区まで行ってみようと考えていた。香奈美が住んでいたところだから。それで、何度か足を運んできたことがある。特に地理に詳しいというほどではないにせよ、全く知らない他の地域に比べれば、まだ若干の土地勘はある。その程度の理由だったが、会社からは、被害の出たところに手渡せたらどこでもいいから、任せる、と言われてきた。

 一旦実家に戻って両親の無事を確かめた盛生は、大阪からようやくつながったばかりというJRに乗った。大阪も相当大きく揺れたと聞いていたが、街並みそのものは大きく変わっている様子がなかったので、東京で聞いていたより意外と実際の被害は軽微だったのかもしれない、と思い始めていた。しかし、通常だとあっという間に着いてしまう区間を、恐らく二倍以上の時間をかけて徐行する各停に揺られながら、その想像が全く当たっていないということを、すぐに思い知らされた。徐行運転であるだけに、町の様子がうかがえる。車窓に映る、焼け崩れた風景に、これは大変なことになっていると思わされた。

 JRの住吉駅に到着すると、とりあえず区役所に向かい、区の職員らしい中年の女性に預かってきたものを手渡して、何か手伝えることはないかと申し出た。すると、ちょうど避難所になっている小学校に支援物資を運ぶところだから、それを手伝ってもらえればと言われた。そこらじゅうに段ボール箱に入った支援物資らしいものが積み上げられ、腕章やゼッケンをつけたボランティアらしい大小の集団が忙しく立ち働いている。日頃なら、そんなに簡単に手伝ってもらえれば、なんてことはあり得ないのだろうけれども、それこそ猫の手も借りたいというような状況なのかもしれなかった。


 区役所の名前の入ったワゴン車に一緒に乗り込み、避難所に向かう。

「東京から来られたっておっしゃってましたね。びっくりしたでしょう。これでも、かなり落ち着いてきた方なんですよ。地震の直後なんかはあの入り口付近に棺桶が並んでましたからね」

 大袈裟なことを言っている様子ではなかった。むしろ淡々と話す口調に、深刻な疲れがにじみ出ていた。盛生には、想像もつかない状況で、かける言葉も見つからない。それでも、どちらかというと引っ込み事案な盛生が、何か手伝えることはないか、なんて申し出ることができたあたり、非常時の空気の影響を受けていることは間違いなさそうだった。

 出がけに地図をちらっと見た限りではほんの目と鼻の先のはずだったが、結構到着まで時間がかかった。どうやら、通行できなくなった道を迂回したりする必要があるらしかった。

 避難所といっても、外観は何の変哲もない小学校だったが、足を踏み入れてみると想像とはずいぶん違っていた。シーツやボール紙等で簡易の仕切りをいくつも施してあったために奥まで見通せず、迷路のようになっている。

 一度に運びきれないため、物資の詰まった段ボール箱を抱えて、その校舎内を何度も往復した。運び込んだ先は教室の一つらしく、黒板があったが、そこには算数の式でもなく、理科の実験の手順でもなく、町の名前らしき文字と、数字が書き込まれていた。被害の状況なのか、避難所の人数なのか。いずれにせよ、日頃の営みとはおよそかけ離れた内容なのだろう。盛生は現実の時間の中にあるはずのその場所を、現実とのつながりの中にとらえきれなかった。

「それにしても、どこもかしこもがれきだらけになってしまいましたね」

 物資を運びながら、半分つぶやくように、言った。盛生にすれば、その被害の大きさと今後の復興の道のりの険しさを思ってのことだったが、同行していたその女性職員は、小さく苦笑しながら、

「がれきって、言わんといてもらえますか。私たちの生活そのものやったんですから」

 と言った。震災から数週間だったが、さんざん耳にしてきたのであろうその言葉に、傷つき、疲れ果ててしまっていることが分かった。失言を悟り、慌てて謝った盛生は、

「こちらこそごめんなさい。せっかく手伝ってくださっているのに」

 とかえって詫びられ、ますます答えようをなくしてうろたえてしまった。

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