第3話
大丸の前を通り過ぎ、長堀通の手前を右に折れると、小ぶりで洒落た店が並ぶ通りだった。そういえば、ここにはソニータワーがあったが、それもすっかり別のビルになっている。しばらく歩くと、年賀状に書かれていた通りの店名が、ガラス扉の上にネオンサインで浮かび上がっていた。外からのぞくと、カウンターだけの店には、他に客の影はないようだった。戸を押し開けると、カランカランというベルの音が鳴る。
「いらっしゃい。なんや、飯田やんけ。やっと来たんか」
と遠慮のない声が飛んできた。年賀状をよこした中林の声も、あの頃と全く変わらなかった。赤と白を基調にしたすっきりした店内は、バーというよりブティックかなにかのように見える。念願の開店、と書かれていたが、カウンターの中に立っている姿だけはすっかり頭頂部が薄くなった中年だった。
「すっかり見違えたなあ、どこのおっさんかと思った。いや、開店の案内ももらったけど、さすがにそのために戻ってくるわけにいかないからな。大阪で仕事があったんで、いい機会だと思って寄ってみたんだ。いい店じゃないか。でも、客の姿がないけど、大丈夫なのか」
遠慮ない声に遠慮なく答えながら、一番手前のスツールに腰掛ける。
「余計なお世話や。今日は平日やしな、大体このあたりに客が入るのはもっと遅い時間からや。これでも、それなりに繁盛してる方やねんぞ」
繁盛しているかどうかは知らないが、まめな中林らしく、グラスの並べ方から店の内装まで、こだわって作り込んであるのがよく分かる。これはこれで大したものだと思う。とりあえずサラリーマンを続けてきて、恐らくこのまま定年を迎えるのであろう自分と比べると、多少うらやましい気がしないでもない。
日頃はビール派なので、よく分からない。お勧めのでいいや、と言うと、中林が盛生の前にワイングラスを置き、赤ワインを注いだ。なにやら横文字で説明されたが、よく分からないし、そもそも関心がないので聞き流す。東京に行ってから、香奈美だけではなく中林や佳子ともほとんど連絡をとることがなくなっていたので、なんとなく気恥ずかしい。
「こっちにはいつまでおれるねん」
「明日の朝には、一旦東京に戻る」
注がれたワインを一口、なめてみる。渋みが口の中に広がって、鼻が少し膨らんだ。まあ、こんなものか。
「相変わらず忙しそうやな。でも一旦戻るっていうことは、また来るんか」
「まあな。実は大阪支社ができるんでな。その準備に来てるんだけど、多分そのまま大阪勤務になる」
「ちゅうことは、ええと、二十五年ぶりに大阪かあ。結構粘ったなあ、東京で。すっかり標準語しゃべってるやん。やっぱりずっと東京におると、関西弁やなくなるんか」
と中林が感心したように答えた。標準語、だと。盛生は人事部で、関西弁を話すから、と言われたことを思い出した。関西弁をあえて使ってきたつもりもなかったが、東京の人間からすれば立派な関西弁に聞こえていたらしい。しかし、大阪にずっといた友人からは、標準語と言われた。この二十五年の間で大阪からは離れ、しかし東京にも馴染み切れなかったということか。要するに、どちらでもなくなってしまったということなのか。なんとなく、複雑な気分になってしまった。
「二十五年か。大阪もすっかり変わったよな。JR難波って聞いて、びっくりしたよ」
「そこかあ。だいぶん情報旧いよなあ。あれはあれで二十年くらい経ってるはずやけど。そういえば、そごうもなくなったん、知ってるか。大丸が広うなってたやろ」
「そごうが、なくなったのか。そういえば来るとき、大丸の横を通りながらなんか感じが違うなあとは思ったけど」
「お前にとっては青春の大丸やもんな」
いまどき、くっさい言い方をする男である。
「あそこのバイトで彼女と知り合うたんやもんな。ギョク行ってこい、言われて声かけたんやったよな」
「ま、そん時はふられたんやけどな。それにしても、ギョクって言葉、久しぶりに聞いたな」
食事休憩を表す、申し合わせ用語である。学生時代は、面白がってプライベートでもアルバイト仲間の間で使ったりもしていたが、当然のことながら、卒業してから口にすることも耳にする機会もなくなった。本当に久しぶりの言葉を、味わうように口にしてみる。
「昼飯のギョクに、休憩はキュウか。懐かしいなあ。あれ、もう一個、なんかあったよな」
「トイレのサンサン、やな」
「サンサン、そうやった。ギョクとキュウはなんとなく分かるけど、トイレがなんでサンサンなんやろって言うてたな」
アルバイト先での申し合わせ言葉と同時に、関西の言葉も全般的に思い出してきた。不思議なもので、話しているとどんどん気分も言葉も学生時代に戻っていく気がする。そうそう、こんな感じやった。ということは、やっぱり標準語訛りになってたんか。いまさらながら、関西弁でもなく恐らく標準語でもなかっただろう、自分の言葉を奇異に感じた。
「確かに、それはいまだに謎やな。それにしても、大阪に帰ってくるんやったら、東京は引き払うんか。家族とか、どうなってんねん」
「東京に嫁さんが一人、子どもが二人。二人ともまだ高校生やから、とりあえずは単身赴任、ていうことになるかな」
「大阪で生まれ育って、単身赴任で大阪に来るか。なんやけったいな感じやなあ」
後藤はすっかり薄くなってしまった頭頂部をさすりながら、感慨深げに言った。
「せやけど、二十五年か。憧れの東京暮らしは満喫できたやろう」
「うん。もう十分やなあ。いや正直、東京におることがうれしい、と思ったのは最初の二年くらいだけやったけどな」
盛生はワインを舐めながら、東京で暮らし始めた頃のことを思い出していた。
「二年、か。そんなもんかなあ。まあ、東京言うてもあんまりイメージもわけへんけど。俺なんか東京へはディズニーランドに行った時くらいやから、よう分からん」
「東京ちゃうけどな」
中林にすかさずつっこむ自分に、ああ、大阪におるんやなあということをしみじみと感じる。
「そやけど、わざわざ彼女置いて東京に行って、結果、うれしい思えたん二年だけか。なんか、もったいないなあ」
中林が、ワインを取り出して注いでくる。ボトルの底を持って注ぐ姿がなかなか様になっている。学生の頃は若干気障な雰囲気があったが、それなりに見られるようになった。外見だけでなく、いい具合に年を重ねてきたのだろう。恐らく会話の内容はあの頃と大して変わらないのだが、こういうところで中年がワイングラスを傾けながら話していると、それなりに味があるように思えるから不思議なものである。
わざわざ彼女置いて東京行って、か。なかなかよく覚えてるじゃないか。こっちはできたら忘れようとして、奥の方にしまいこんであったのに。盛生は少々面倒くさいと思ったので、香奈美と思われる女性に先刻すれ違ったということは、とりあえず伏せておくことにした。
「それにしても、何で別れてん、お前ら。ええ感じやったのに」
「さあなあ、覚えてないわ、もう。今どうしてんねんやろうなあ」
盛生は先刻すれ違った香奈美の横顔をこっそり思い出しながら言った。
「なんや、お前知らんのか」
「聞けるわけ、ないやないか」
盛生は小さく、そうつぶやくように応えた。中林にどう映ったのかは分からない。背中越しに、ワイングラスが整然と並べて吊られている。カウンターを照らすダウンライトがその一つ一つに映って、なんだか漁火のように見えた。
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