第2話

 香奈美とは、大学を卒業してからも半年ほどは、遠距離恋愛を続けていた。けれども夏の終わる頃、二人の関係も終わった。別れの理由が何だったのかは、思い出せない。許しがたい裏切りや受け入れ難い何かがあった訳ではない。つまり、どこにでもある話だった。

 街の様子がこんなにも変わってしまうくらいの時間が経ったはずなのに、香奈美はかつてのまま、何一つ変わっていなかった。たとえ数瞬の横顔だったとしても、見間違えることはないと、何故か盛生は思った。こちらには、気付いたのだろうか。なぜこんなところにいたのだろうか。同じビルのどこかのオフィスで働いているのだとしたら、これからも出会う機会があるかもしれない。不思議な緊張感が高まった。

 しかし、香奈美を乗せたエレベーターの行き先表示を目で追うと、どうやら二階で止まったようだ。そこはオフィスではなく、バスターミナルになっているはずだった。各地へ向かう高速バスや、空港バスなどが複数乗り入れている。バスに乗り込むのだとしたら、行き先は無数にあり得る。想像で追うことができる状況ではなかった。

「バス……か」

 小声だが、思わず言葉が出ていた。安心したのか、残念に感じたのか、盛生自身にもよく分からなかった。

「メシでも食って帰ろう」

 自分でも得体の知れぬその思いを押しやって、盛生は歩き始めた。とりあえず今日は、堺にある実家に帰る予定だった。「なんばウォーク」と書かれた案内表示に沿って地下街を歩く。確か昔は虹の街という名前だった。内装はすっかり変わっているが、歩いていると位置関係からなんとなくかつての街並みを思い出す。あの頃と現在の両方の風景の中を歩くような、不思議な気分だった。

歩きながら、あの頃の友人の一人が心斎橋にワインバーを開いたと年賀状で知らせてきていたことを思い出した。ちょうどいいから、ちょっと寄ってみるか。そう思いついて、OsakaMetroのなんば駅を過ぎたところで地上に上がり、南海難波駅とは反対に、戎橋に向かう。

 戎橋そのものもずいぶんきれいに改装されていて、形もかなり変わっていた。道頓堀川沿いは遊歩道もできていて、橋から降りられるようにもなっている。歓楽街というよりも、観光地のそれに近い感じがした。事実、平日だというのになかなかの混み具合だったが、やたらと外国の言葉が耳につき、大きなスーツケースがいくつも行き交っている。混雑は東京も変わらないが、道幅が狭いために、より混んでいる感じがする。

 そのまま心斎橋筋を北に向かった。人ごみをかき分けながら心斎橋大丸に近づく。そういえば、ここで出会ったのだ。


 当時、中元や歳暮の時期の百貨店の食料品売り場は、学生アルバイトの祭りだった。いちいち公募していたらきりがないからだろうか、アルバイト学生がそれぞれの大学のサークルやゼミなどのネットワークを使って、後輩を紹介していく。そうして代々どこそこの店はどこそこの大学、どこそこの店はどこそこのサークルという具合に、一種の縄張りのようなものがあった。

 サークルの先輩の紹介で、盛生がその和菓子屋のアルバイトに入ったのは大学二年生の夏休みだった。忙しい時にはそれこそ息つく暇もなくなるが、期間中ずっとそんな状態ではない。営業時間内は売り場でおしゃべりをしているわけにもいかず、客足が絶えるとただじっと立っているだけの時間が結構あるのだ。畢竟、他の店舗にも目が行かざるを得なくなる。

 通路を隔てて向かい側の並びの三軒目に、香奈美は立っていた。盛生のいる店の制服は白衣だったが、香奈美たちの店はブラウスにチェックのベストだった。襟元のスカーフリボンがポイントになっている。

 なんとなくその付近を見回していた時、手を前に組んで、少し上向き加減で澄まして立っている香奈美と目が合った。はじめて顔を見たという訳ではないが、名前も知らない相手だった。

 しかし、目が合うと妙に気になった。なぜこちらを見ていたんだろう。ひょっとして、自分に関心を持ってるんじゃないだろうか。なまじ他にすることがないだけに、いろいろと想像は膨らんでいく。気になって彼女の方を見ると、何となく先方もこちらのことを意識しているようにも思えてくる。

 一度気になり始めると、加速がつくものらしい。盛生は始終香奈美の方を意識するようになった。接客対応をしている間も視野の隅にとらえていたし、定位置に見えなければ、無意識にその姿を探していた。

 そんな様子をアルバイト仲間たちが見逃すわけがない。同じ店にいた中林哲也にあおられた盛生は、休憩に行く際に香奈美のところに立ち寄って、

「あの、良かったら、終わってからお茶でも行きませんか」

 と声をかけた。今どきの若者たちだったらもっと器用なアプローチもできるのだろうけれども、ポケットベルすら持ち合わせなかった時代の、それもアルバイト中の盛生には、それが精一杯だった。

「ごめんなさい」

 顔を真っ赤にしてうつむいてしまった香奈美を見て、盛生の方が動揺した。

「あ、いや、こっちこそ」

 そのまま逃げるようにして、従業員食堂にかけ込んだ。

 あっさり振られて、そのまま終わったものだと思っていたのだが、幾日か後、その日のアルバイトを終えて従業員の通用口から退勤する際に、中林に捕まった。

「飯田、この後なんか予定あんのか」

 唐突な申し出に驚いたが、特に予定もなかったのでその旨返すと、

「ほんだら、メシでも食いに行こうや、一緒に」

 と言われた。中林と一緒にいるのは、香奈美と同じ店でアルバイトをしている佳子だった。どちらかと言うと愛想の良くない盛生と比べて、人なつこい性格のこの男は、いつの間にか同じフロアの中に、ネットワークを広げていた。

「なんや、お前。俺をたきつけるだけたきつけといて、いつの間に。ほんま、油断も隙もない……」

 そこまで言ったときに、佳子の後から出てきたもう一人を見て、盛生は絶句した。

「そやろ。実は香奈美ちゃんな、お前に声かけられて、びっくりしたんで反射的に断ってもうたらしいんや。ほんまは断ろうと思ったわけやないらしいねんけどな。 それで横で見とった佳子ちゃんが、俺に相談してくれたっちゅうわけや」

 なんやねん、それ。盛生は声をかけたときと同じように真っ赤になってうつむいている香奈美と、意地の悪そうににやついている中林の顔を交互に見ながら、自分の耳も赤くなっていくのをどうすることもできなかった。


 そんな風にして、盛生の大学生活の後半の風景の中には、いつも香奈美や佳子や中林がいるようになった。

 あっという間に四年生になり、就職活動を始めるにあたって、盛生は東京に出たいという思いを香奈美に打ち明けた。

「私は神戸を離れられへんわ。もちろん大賛成っていう訳じゃないけど、盛生君の人生やもんね。反対するの、おかしいもんね」

 涙を懸命にこらえながらそう言った香奈美に、盛生は

「毎日電話するから。休みの度に必ず帰ってくるから。どのみち、実家が大阪なんやから、帰ってこざるを得んしな」

 と半ば冗談交じりに守れるあてのない約束をしたが、案の定実際に東京での生活が始まると、毎日の電話も、休みの度に帰るとの宣言も、ものの二ヶ月も続きはしなかった。そうして、半年を待たずに、別れてしまったのだった。



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