薄明光線

十森克彦

第1話

 時間にすれば、僅か数秒の間の出来事に過ぎない。エレベーターを降りる際、入れ替わりに乗り込んできた、数人の内の一人。すれ違ったその横顔に、盛生の目はくぎ付けられてしまった。

 肩まであった髪は短くまとめられ、あの頃好んで身につけていたデニム生地のシャツではなく、白いブラウスに身を包んだ、落ち着いた出で立ちだった。けれども、肩から下げたハンドバッグの紐を左の手で押さえながら、こころもちあごを上げて歩く姿と柔らかく引き結んだ口元。二人の間に流れたはずの時間など幻だったのではないかと思わせるほどに変わらない佇まいだった。

 めくった頁に予期せず現れた挿絵のように、香奈美は盛生の前を通り過ぎて、今しがた盛生自身が出てきた二畳ばかりの小さな空間に吸い込まれていった。


 飯田盛生は、今年に入って大阪支社を立ち上げるプロジェクトを任されることになった。大学を卒業して以来ずっと働いてきたのだから、人生のほぼ半分を東京で過ごしたことになる。それでも、大阪で生まれ育ったという残り半分の要素を買われての、今回の抜擢だった。人事部長に呼び出され、関西弁を話せるからだ、とその理由を真面目に告げられた時には正直なところ、開いた口がふさがらなかった。

無論それは盛生にとって大きなチャンスには違いなく、プロジェクトが完了した暁には相応のポストが与えられることになるだろう。大阪に生まれ育った盛生が大学卒業後の進路として東京の会社に就職先を求めたのは、ひとえに東京での暮らしにあこがれたからだが、今となっては無論のこと、そんな暮らしはとっくに満喫しきってしまっていた。そろそろ望郷の思いが頭をもたげ始めていたところに、舞い込んできた話でもあった。

 大阪支社のオフィスとなるべき物件を求めて、何件目かの内覧を終えたところだった。OCATという名のそのビルについて、最寄りがJR難波だと聞いた時には、何かの言い間違いかと思った。長く離れていたとはいえ、大学を卒業するまでは住んでいた大阪である。少々建物が変わったところはあっても、大体の地理はまだ忘れていないつもりだった。

「JR、ですか。難波だったら地下鉄か南海ですよね。それとも近鉄ですか」

 と聞き返したのだが、その若い不動産屋は少々怪訝な顔をしながら、

「いえ、JR難波が最寄ですね。こちらになります」

 とタブレットの画面に映っている地図を示してきた。盛生はその指先をたどって、彼の示すところを理解した。湊町。確かそういう名前のJRの駅があった場所だ。難波という名前に変わっていたのか。あまり足を運んだ覚えもないので詳しくは知らないが、確か昔は貨物の路線があり、ミナミの中心部の雑踏に比べれば、広々として、建物も低層だった印象がある。

 車に乗せられて来た盛生の目の前に突然あらわれた天井の高い、近代的なその建物と周辺の街並みは、記憶にあるそれとは全く別のものだった。まるで田舎から初めて出てきた人間のように口を開けてそれらを見上げながら、計算してみると、卒業してから今年でかれこれ四半世紀にもなるのかということに気付き、少しあきれた。今更ながら、過ぎた時間の長さをつくづく実感する。

 記憶にある大阪の街は、学生だった頃の盛生だけを置き去りにして、見知らぬ街に生まれ変わっていた。

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