カルシと老人

虻瀬犬

カルシと老人

「ゲン、今日はカリブーを狩りに行こう。昨日良い所を見つけたろう?」


 じいちゃんは口笛を鳴らしながら僕を呼んだ。庭で穴を掘り返していたことなんか記憶の隅へ、小さな玄関から猟銃を持ったじいちゃんは頬骨を上げて笑っている。どうやら今日の僕は「ゲン」らしい。ゲンと呼ばれる時のじいちゃんは優しいから、大好きなんだ。

 見事なまでの秋晴れで、空気を一杯に肺に溜め込めて地面を踏みしめると、微かに雪の匂いがした。冬は嫌いだ、僕の銀色の毛皮を持ってしても酷く寒く感じる。きっと家の中の「」というものに慣れてしまったからだ。昨日だって、じいちゃんは僕のことを「スティーブ」と呼びながら、すとおぶのついた部屋で泣いていた。僕は心配で仕方がなくて、あったかい部屋の中でずっと一緒に過ごしたんだ。そんなことを思いながら、カリブーの匂いを辿った。この時期にカリブーなんてここら辺だとあまり見ない、苦戦する。


「おかしいな……昨日はここら辺に一杯いたんだけれどな。ゲン、昨日お前も見ただろう?」


 地平線が空に隠れるほど広い草原に出た時、じいちゃんは困った顔で僕を見つめてきた。取り敢えず苦戦している状況は僕たち一緒らしい。辿るにも、最近ここら辺をカリブーは通ってないよ。通ってるとしたら……ジャコウウシ! ジャコウウシの匂いがするよ、じいちゃん。

 匂いにつられて無我夢中になって走り始めた。だけど、後ろの方で大きく嘔吐えずく声がした。


「あんまり走るな、カルシ、俺はもう疲れた」


 じいちゃんからさっきまでの困った顔は消えていた。その代わり、なんだかやつれている様に見えた。眼つきも腰の高さも、頬骨の張り具合も。全部に緊張が解けたような感じだ。

 「カルシ」と呼ぶときのじいちゃんはすぐに休んじゃうんだ。さっきまで僕はゲンだったのに、今はカルシ。確か、僕が赤ちゃんの頃はずっとカルシと呼ばれていたから、本来の名前はカルシっていうのだろう。


「ここは……」


 突然腰を曲がらせて目を細めて周りを見渡す姿は、正に老人だ。さっきまでのしゃんと伸びた背筋で凛々しく猟銃を持っていた姿は、きっと心の奥底へ仕舞っていったんだな。


「猟銃……か。俺はまた……」


 細い、低い、北風のような声が地面から這い出てくるようだった。この声は嫌いだ、じいちゃんが悲しそうなのは嫌だ。

 じいちゃんはごつごつとした震えた指で僕の頭を撫でると、一言「カルシ」と零した。その言葉には「ゲン」と呼ばれていた元気はなかったけれど、最大限の優しさがあったような気がした。


「ごめんな、カルシ。今日はもう帰ろう。街から配給された食料が余っている」


 静かに立ち上がる背中には、秋空を撃つように長い鉄の棒が刺さっていた。


――――――――


 すとおぶのついた部屋で毛布の上で寝ていると、遠くから北風と共に火薬の匂いが降ってきた。僕ははっと起き上がって窓から外を覗くと、雪道の中を緑色の帽子を被った、猟銃と似た物を持っている人がやってきたのを見た。

 じいちゃん! じいちゃん! あれは、あれは危ない人じゃないの?


「カルシ、あんまり吠えるな。あれは兵隊さんだ」


 じいちゃんは唸っているような低い声で牽制した。僕がただ座っていると、扉のライオン錠を鳴らす甲高い鉄の音が聞こえた。じいちゃんが扉を開けると、雪に撫でられた風が入ってきた。


「こんにちは。ここら辺はヴァジームさんしか住んでおられないので、直接お伺いしました」

「ええ、兵隊さん、今日はどんな御用で?」

「はい……近頃戦況が悪化しまして、国境から遠いこの地域でも戦火が及ぶ可能性が出てきました。この地域は広大で、戦火を束ねるには……と言っていいのでしょうか。隠れ兵が潜むにも、敵国からしたらここが最適です。ヴァジームさん、下の街の方には身内や友達はいらっしゃいませんか? 」

「……三年前に妻が他界してからは」

「お子様は」

「十年も前に戦争で亡くなりました」

「辛いことを思い出されたら申し訳ないです。しかし、今の状況だとヴァジームさんの安全は保障しきれません。街の方で暮らしていく、という選択肢はありませんか? この家だって、燃やされる前に売った方が」

「売りません、妻と子と狼の匂いが残る場所で死ねるなら本望ですから」

「……了解しました、上の方にはそう報告しておきます。注意だけは怠らないように」


 重い扉が閉まるまでの時間、扉は留め具と擦れて金切り声をあげていた。じいちゃんは玄関を見つめたまま、茫然としているようだった。


「スティーブ、おいで……」


 僕を『スティーブ』と呼ぶときのじいちゃんは、優しいとか怖いとか楽しいとかそんなんじゃなくて、なんだか悲しさだけの気持ちになる。

 この家は不思議で、僕が生まれた時からじいちゃんと二人だけなはずなのに、色々な人、モノ、動物の匂いがした。僕はもう生きて十五年は経っているけれど、その匂いが色褪せることは無いんだ。特に、僕がスティーブになった時に潜り込まされるじいちゃんのベッドからは、じいちゃん以外にも二つの匂いが濃厚に感じた。なんだか潮のような香りと、汗と、シャンプーの匂い。それらが何度もせめぎ合って、なんだか心地いいような、嫌いな冬のような。そんな感じだった。

 じいちゃんは今日も泣く、なんで泣いているのかは分からない。時々聞こえる「ゲン」という言葉に反応して尻尾を振りたくなるが、やっぱり泣いている。


「俺は……もうスティーブしかいないんだ。お願いだスティーブ、君は死なないでおくれ」


じいちゃんはそう言うと、ぎゅぅうっと僕を抱きしめた。左肩がじいちゃんの涙で湿った、生暖かい。じいちゃんはみたいだな、身体も涙もこんなに暖かい。


―――――


「ゲン、今日はジャコウウシを狩りに行こう。アンドレアが戦争に行ってから、あいつも具合が悪そうだからな。元気をつけてやりたいんだ」


 じいちゃんは部屋の中でうずくまる僕を元気よく、口笛で呼び寄せた。正直こんな真冬の狩りは気が進まないが、じいちゃんが言うなら仕方がない! 今日、「ゲン」である僕は、嫌だと思う気持ちよりもじいちゃんと狩りができるという喜びが勝つ。じいちゃんの背中に担がれた猟銃もかたかたと音を立てて喜んでいるようだった。冬の空は夏や秋に比べても遠くて広くて吸い込まれる。青なのか白なのか曖昧な風情の天井と、白なのか青なのか曖昧な表情の氷雪が眼に余って眩しかった。

 ジャコウウシがいる場所は知っている! 彼らはもしかしたら、この前の場所に居るかもしれない! じいちゃん! じいちゃん!


「おいおい、待てよゲン。あまり急ぐな。狩れるもんも逃げちまうぞ? 」


 じいちゃんはやっぱり困った顔をしながら八の字眉を細やかに動かした。一緒のしかめっ面でも、頬骨が張っているかいないかのそれだけで、じいちゃんの表情はころころ変わる。僕は夏の草原みたいな優しい笑顔のじいちゃんが一番好きだった。

 ふと、鼻の中に何かがよぎった。ジャコウウシ……じゃない、あの兵隊と同じ匂い。猟銃の匂いよりも鉄臭い、あの匂い。

 青である白も、白である青も、全部が一瞬黄色に染まった。その後に来た衝撃は耳の奥、鼻の中、口の水分。ライオン錠の扉をたたく音よりも甲高い音が、じいちゃんを目掛けて火薬の匂いと一緒に向かっていた。僕はそこで、怖くて立ち尽くした。出していた舌は口の中へ、身体は熱を籠り始めて、思い出されたのは幾度なく撃ち殺したあの情景だった。


「痛い……確かにこれは……」


 じいちゃんは息を吸うと共に、喉の奥で高い音を鳴らしていた。火薬の匂いはじいちゃんの胸の辺りでずぐずぐどうごめいていた。鼻の奥で感じたあの鉄臭さは、少しずつ後退していくような感じがした。でも、別の鉄臭さがすぐ近くで匂ってきた。


「……カルシ。カルシ、そこに居るんだよな。お前はまだ、居るんだよな」


 じいちゃんはを呼んでいた。僕は静かに喉を鳴らして答えた。

 なんだか嫌な予感がした。これは、狩りなんだろうか。僕の知ってる狩りは、猟銃で撃った後にばらばらにして二人で分けて食べていた。


「カルシ、お前が看取ってくれるなら……本望だよ。俺は戦争でも生き永らえたくせに、誰も、何も守れやしなかった」


 白い雪の上に吹く北風は、真っ赤に染まっていく姿を撫でるように去って行く。白と青の中の鮮血はよく映えていて目が痛かった。

 駄目だ、駄目だ。二人で食べるご飯はおいしいけれど、ここで僕がじいちゃんを食べてしまったら、僕は一体誰と食べればいいの? 僕はそんなのいやだよ、じいちゃん! じいちゃん!じいちゃん!


「カルシ、あんまり吠えるな……。俺はもう疲れたんだ。最後はお前と……」


 じいちゃんは北風にもならない、細く小さな声で呟くと、真っ赤な世界の中僕を孤独にした。何度も感じたことのある感触だ、動物は銃で撃たれると一生動かなくなるんだ。動くことは無くなる、声を出すことは無くなる、目を開くことも無くなる。残されたのは、僕らが食べるという行為だけ。それだけの為に、銃は生き物を動かなくする。

 じいちゃん、じいちゃん、僕はどうすればいいの。僕はあなたを食べることしか知らない。お願いだから、もう一度名前を呼んで。声が聴ければ食べなくてもいいんだ。声さえ聴ければ。


 吹雪いてきた。じいちゃんは身体から赤い絵の具を流していたけれど、それももう雪に包まれてしまった。僕は、カルシは、肩まで雪に浸かったじいちゃんを見て、頬骨を舐めた後に首へかじりついた。

 あの、ベッドの味がした。

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カルシと老人 虻瀬犬 @kai8tsu

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