終章

終章

「とりあえず終わったか。」

道子は、海辺の会社での三日間の「研修」を終えて、また自身の勤める病院に戻ってきた。いつも通り、研究室に行き、ほかの医者たちに向けてあいさつしたのだが、医者たちは道子に振り向きもしなかった。

「ちょっと、戻ってきたんだから、なにか言いなさいよ。」

ちょうど近くを通った同僚の医者に対し、道子はそういったのだが、

「道子先生、俺たちは忙しいんですから、勝手なことはしないでくれませんかね。」

と、その同僚の医者は、いやそうな顔をして、そういうことを言った。

「大体ね。道子先生が変なところに行っている間、俺たちは、大変なことがあって、もう、対応にてんてこまいだったんですよ。ほら、あの丸山さん。丸山さんを覚えていますか?」

丸山さんは、新しい薬の実験台になると言って、快く承諾してくれた、患者の一人だった。

「その丸山さんがどうしたの?」

道子が聞くと、同僚の医者が、ちょっと口をとがらせて言った。

「道子先生に言うと、またワーワー騒ぐから、あんまり言いたくないんですけど、、、。」

「何よ。いいなさいよ。そこまで言いかけたんだったら、いうべきでしょ!」

道子がちょっと強めに彼に言うと、その同僚の医者は、うーんと考えこむふりをした。

「もう、もったいぶらないでちゃんと言って!」

もう一回道子が詰め寄ると、

「丸山さんは、昨日の夜なくなられましたよ。」

と、同僚の医者はぼそっと言った。

「うそでしょ!」

「本当ですよ。これだから道子先生には言いたくなかったんだ。確認のためもう一回言いますが、昨日、亡くなられたんです。」

「だって、私が休暇取る前には、ぴんぴんしてたじゃないの!」

道子が、病院を留守にすると宣言した時も、丸山さんはにこやかに笑って、行ってらっしゃい、先生といっていたはずだ。それなのになんで?

「ぴんぴん何てしてません。あれは研究熱心な女医に、わざと明るく見せるための芝居だって、ご家族が言っていました。道子先生が、あんなに強く言うから、本当は嫌だけど実験に協力しなきゃいけないんじゃないかって、丸山さんは悩んでいたそうです。あんな新しい薬なんて使うから、うちの主人は逝ってしまったじゃないか!もう、人間と実験用のラットと一緒にしないでくれって、奥様からさんざん怒られてしまいました。もう、なんで、担当医でもない俺たちがそんな風に怒られなくちゃならないんですか!」

同僚の医者は、また嫌そうな顔をして道子を見た。道子はヒヤッと全身が冷たくなった。

「ちょっと待ってよ!だって丸山さんは、あの時しっかりと、実験に協力するって、ちゃんと言ったのよ!」

「だから、道子先生。変な勘違いはしないでくださいよ。道子先生みたいに、あんなふうに感情的になって、実験の事を患者さんに押し付けたら、誰だって、そうしなきゃいけないんじゃないかと思っちゃいますよ。道子先生、患者さんからこういわれていることを知らないんですか?あの女医は、確かに薬の知識はあるけれど、愛想とか、そういうことはてんでダメだって!」

道子は思わず卒倒しそうになったが、なんとかして正気を保ちながら言った。

「そんなバカな、、、。」

「道子先生。僕たちの連帯責任なんて、言わないでくださいね。もともと僕たちは、手術も何も役に立たない病気の患者さんを診ているんですから、どうしてもやるせなくなるのは分かりますけど、それにかこつけて、変に焦って、気まぐれな研究をするのは、あんまり勝手ですよ!」

そんなにあたしは、患者さんにとって悪い人だったんだろうか。さらに同僚の医者は続ける。

「本当に、苦情がたくさん出てますよ。まあ確かにね、僕たちがあつかっている病気というのはですね、一度かかればもうだめになっちゃうっていうのは、誰でも確かですけど、死ぬのを速めるために、この病院に入院させたわけではないって、丸山さんのお母さんが激怒されていました。息子はたった一人の息子ですし、実験用のラットみたいに簡単に繁殖できるもんじゃない、先生方はそれが鈍っているんじゃないかって、暴言までいわれたんですよ。」

「そんな。あたしは、患者さんに危ない橋を渡らせるようなことは、した覚えがないですよ!」

「やっぱりわかってないんですね。道子先生は。患者さんではなくて、単なる実験用の動物としか見てないんですねえ。だから人が亡くなっても、そうやって平気な顔をして居られるんだ。その悲しさとか、わからないんですか。」

道子は同僚の医者にそんなことをいわれて、がっくりと落ち込んだ。やれれ、本当にこの先生は人間をバカにしているといわれても仕方ないや、なんて呟きながら、研究室を出ていく同僚の医師。道子は初めて、ここでやるせないという気持ちを感じたのである。

そんなにあたしは、医者として、だめだったんだろうか。自分だって其れなりに、患者さんの事を考えてやってきたつもりだったのに。なんでああいう結果になってしまったんだろう。あたしは、あたしなりに、出来る事をしようと思ってやってきたつもりだったのになあ、、、。

「道子先生、ちょっと来てくれません。山路さんの様子が変なんです。」

別の医者が道子を呼びにやってきた。山路さんと言うのは、道子が担当している患者の一人である。

「はい。なんでしょう。」

道子がぶっきらぼうにそういうと、

「だからあ、様子が変なんです。ちょっと来てください。」

「は、はい。」

その医者に連れられて、道子は病棟へ行った。山路さんの部屋に行くと、山路さんはちょうど看護師に、口の周りを拭いてもらっていた。

「どうしたんですか?」

看護師が拭いたタオルは赤く染まっている。道子は山路さんが何をしたのか、は、あえて聞かないことにした。

「先生、お願いがあるんですが。」

山路さんは、道子が来たのを確認すると、道子のほうを向いて静かに言った。

「あの、僕をですね、新薬の実験台から外してもらえないでしょうか。」

「何を言うんですか!」

道子は驚いた顔でそういうが、山路さんは、はっきりと道子に向かってこういうことを言った。

「道子先生がいない間に、インターネットとかで、調べさせてもらいました。普通の膠原病という言い方をするとおかしいですけど、SLEとか、単独で発症すれば、まだ助かるかもしれないが、この病気になると、もうだめなんですってね。まあ、こうなる確率は、全部の膠原病でもたったの一パーセントだという事も調べました。その一パーセントにはまってしまったのは、不運としか言いようがないですが、もう、それならそれでいいですから、そのままにして下さい!」

「だ、だから、助かるために新薬の実験というものをしているのよ、山路さん。それでやる気をなくしてどうするの!」

道子は急いでそういうことを言うが、

「いやあ、やる気がないんじゃありません。ただ、丸山さんがああなった以上、僕は、丸山さんのようにはなりたくないと思ったんですよ。」

と、山路さんは言い返した。そんな風にやけくそになってもらいたくなかった。道子は、この言葉を聞くと、先ほどの医者に言われたこと、正確には、丸山さんのご家族が言っていたことを思い出す。

「あたしが、あなたの事を、実験用のラットと同じだと思っているとでも言いたいの?」

「そうですね。」

と、山路さんは言った。

「だって、僕も、いろんなサイトで調べましたけど、もう助からないってことはどこのサイトでも同じでしたよ。そりゃ、誰だってよく成ればうれしいですよ。ですけど、先生方は、良く成ったとは何も言わないで、薬がどうのこうのとか、そういう事ばっかりでしょ。だから、自分の事をちゃんと心配してくれるかどうか、不安でしかたなくなっちゃうんですよ!」

道子は、さらにがっくりと落ち込んでしまった。

「先生、お願いしますよ。そういう訳ですから、実験するのは、僕ではなくて、ほかの人にしてくれますか。僕たちは、余命わずかというのなら、もうそれでよいですよ。それよりも、こっちでまだやり残したことがありますから、それをやらせていただくという訳にはいきませんか?」

という、山路さんに、道子はちょっとむきになって、

「具体的に何よ!やりたいことって!」

といった。

「じゃあ、言いましょうか。こんなところじゃなくてですね、一寸だけでいいですから、家族のもとに帰って、妻に、今まで生かしてくれてありがとうと礼をすること、あと、息子に、宿題をしてから遊びに行くようにって、言っておきたいんですよ。」

あまりにもちっぽけなことだったので、道子は思わずぽかんとする。

「しゅ、宿題って、、、。」

「だから、うちの息子は高校生なんですが、よく宿題を忘れて、学校に行く前に大騒ぎをしていましたので。」

「高校生なのに、そんなこと言うんですか。」

道子がそういうと、

「はい。それが、一番の悩みでしたからね。僕は父親らしいことは何もしてやれませんでしたし、大きなことをしたわけでもありません。最期に親らしいことをいうのなら、宿題だけはちゃんとやれってことかな。」

と、山路さんはにこやかに言った。

「僕の事はちゃんと調べてありますよ、先生。もうすぐ、食事もとれなくなるし、体も動かなくなりますし、いろいろ不幸が出るんでしょ。だったら、そうなる前に、一度家に帰らせて下さい。薬の実験をするのは、僕が植物人間になってからにしてもらえませんか?」

「なんで、なんでよ!」

道子は思わず声を上げてしまう。

「そんなこと言わないでよ!あたしたちは、、そうならないように実験をしているんじゃないの!」

「そうならないように実験をしているんだったら、なんで丸山さんが亡くならなくちゃ、ならないんですか!」

それを言われて、道子は言葉に詰まった。

それを言われたら、道子も返答すべき言葉がなかった。文字通り、何も言えない。

「丸山さんが、亡くなったのは、先生方にとっては、実験台が一つ減っただけの事なんでしょうね。」

と、山路さんはちょっと肩を落とした。

「もういいですよ、先生。先生は、そうするしかできないんでしょう。」

逆にそんなことをいわれて、道子はすごすごと部屋を出て行った。その日、道子はそのあと、何をしたのか、何をしゃべったのか、全く覚えていない。ただ、病院の診療時間が終わって、家に帰ることになった、それだけしか覚えていないのである。

道子は、家に帰りながら、山路さんの事を考えていた。あたしは、山路さんのことをちゃんと患者として診ていたつもりだったのに、道子先生は、患者を実験用のラットと同じようにしているなんていう、すごい批判を食らうなんてどういうことだ、、、!

ふいに、三日間素雄さんと一緒に訪問した人たちを思い出す。

あの人たちは、社会的に言ったら、もう必要のない人たちだ。素雄さんは、あの人たちを何とかして生かそうとしている。単に金儲けという訳でもなさそうだ。どうしてあんな人たちを生かしておこうとするのだろうか。今も、これからも、必要とされる見込みはない人たちを。そして、どうして、これからも必要とされなければならない人たちが、逝かなければならないんだろう。

きっと訪れた三人の女性たちは、しずかに死がやってきてくれるのを待つしかないだろう。素雄さんに助けてもらいながら。彼女たちの事を、今の山路さんや、もう亡くなった丸山さんにいったら、彼女たちを心から憎み、罵倒するだろう。もしかしたら、税金の無駄遣いをするなとか言って、罵るかも知れない。

「どうして、あたしは、あんな人たちのところに行ったんだろう。」

思わず、道路を歩きながら、道子はそう呟いた。そんなことを考えながら歩いていると、彼女の足は、自動的に、製鉄所に向かっていた。理由何てよくわからない。でもなぜかそうしてしまった。時々、理由何てわからないけど、そうしてしまうことは、よくあることらしい。

製鉄所に行くと、外は真っ暗になっていて、中で利用者たちが話している声が聞こえてきた。道子が、玄関の戸を叩いて、返事も聞かずに中に入ると、ちょうど、利用者の一人である女性が、勤め先から戻ってきた所だったようで、下駄箱に靴を入れていたところだった。

「あら、こんばんは、道子先生。どうしたんですか。」

利用者は、にこやかに言った。

「あ、あ、あの、水穂さんいますか?」

道子はどもりながら、そう尋ねた。

「はい。今たぶん、杉ちゃんたちが一緒にいると思いますが。」

「ちょっと、会わせてもらえないでしょうか?」

道子がそういうと、彼女はしかたないなあという顔つきをした。それでも、彼女は、道子を中へ通してくれた。

四畳半へ向かうと、また、咳き込んでいる声がした。其れは、あの山路さんよりもっとひどいものだった。それと同時に、ほら、しっかりせい、という言葉も聞こえてくる。たぶん、咳き込んでいるのは水穂さんで、杉ちゃんがその世話をしているのだろう。できれば、水穂さんと二人だけで話したかったが、それはちょっと無理な話だなと分かった。とりあえず道子は、ごめんくださいと言って、ぼんやりとした頭で、ふすまを開ける。

「何だよ。ラスプーチンに用はないよ。」

と、水穂さんのそばについていた杉ちゃんにそういわれて、そこはちょっとムカッと来た道子だが、同時に水穂さんがまた咳き込んで、杉ちゃんに口の周りを拭いて貰っているのを見ると、悲しくなった。

「杉ちゃんお願い。すぐに水穂さんに止血剤をあげて。」

「バーカ、そんなものとっくになくなったよ。」

と、杉三はからからと笑った。

「もうよしてくれよ。薬ばっかりこれ以上飲ませたら、逆の効果が出るかもしれないって、帝大さんも言ったよ。それに僕も、水穂さんに危ないことはしてもらいたくないからね。」

「なんでみんなそんなにやる気がないの?治そうとしないのよ!」

杉三の一言が、道子は気に障って、ちょっと強く言った。

「だってさ、僕たちはみんなバカだからさ、危険な旅なんかにでないよ!」

杉ちゃんにそういわれて、

「なによ!それをするように、あたしたちが誘導しているとでも?そんなこと、あたしたちはしてないわよ。よくなるお手伝いをしているんじゃないの!」

と、思わず言ってしまう道子。しかし杉三は続ける。

「どうですかねえ、僕は、偉い人ってのは、どういう訳か、余分なことばっかりやって、どうでもいい人ばっかりを、生かしているような気がするなあ。そりゃ、確かにどうしようもない時だってあるけどさ、僕らは少なくとも、こっちにいてくれるだけで、うれしいのでね。」

そんな風に間延びした声でいう杉三にさらに腹が立つ。

「余分なことばっかりしているのはあなたたちの方じゃない。素雄さんだって、全然生きようという気のない、だめな人たちを手厚くもてなして、生かそうするなんて、全くばかげているわ!」

思わず、思っていたことを道子が言うと、

「はあ、そうですか。そういいますが、じゃあ、どうしてそういう人は作られるんでしょうね。もともと身分制度があるように見せかけているのは、どなたですかいな。繊細で、優れた感性を持っている人を、おかしな教育でおかしくさせたのは、どなたでしょうかねえ。」

と、杉三はでかい声で言った。

「杉ちゃん、もう喧嘩するのはやめて、道子先生を許してやってよ。」

ちょっと苦しそうに息をしながら、水穂さんが言った。

「ダメダメ。だって、ラスプーチンは何時まで経ってもラスプーチンのままだもん。」

水穂さんの背中をさすってやりながら、杉三はそういっている。確かに、私には、素雄さんが扱っているような、三人の女性のような人を相手にするのはとてもできないと思った。そこだけははっきりしている。

そこだけは。

でも、ここにいる水穂さんには、ずっとこっちにいてほしいと思う。それは嘘偽りなく、本当の気持ちだ。

「杉ちゃん、あたしはね。」

道子はそういったが、杉三は、まだ表情を変えなかった。

「おっかしいよなあ、素雄さん所に行ってさ、何も学んでこなかったんか。ああいう所に行くと、偉いからと言って出来ないこともあるという事もわかるし、何よりも、そういうやつを作らないようにすることが、一番大事なんだってことがわかると思うんだけどなあ。ま、ラスプーチンだもんね、お前さんには、わからないか。」

道子は、よくわからないが、どういう事なのよ、、、と、杉ちゃんの顔を見る。

「道子先生、海辺の会社はどうだった?」

「人を馬鹿にして、、、。」

道子はそういうが、杉ちゃんの顔は変わらない。

「あのねえ、僕たちは、お前さんの事咎める気なんて何もないのよ。其れよりもね、お前さんのその悪い癖を治してもらえんかなと思ったんだけどね。だってさ、素雄さんが扱っている人なんて、普通の人では接することはできないでしょう。だから、普通の人じゃダメなのよ。普通の人だから、患者さんから、冷たいなあって言われちゃうんじゃないか?」

そういう事なのか、、、と道子は思った。

つまり、本当に生きていてほしいと感じることが、あたしにはできなかったんだ。

そのためには、どうしたらいいんだろう。

「あのねえ、海辺の会社の人たちは、みんな、条件を付けたりしないで、患者さんを相手にしてると思うんだけどね。だから、海辺の美しゃというんじゃないだろうか。」

杉ちゃんはそんなことをいっている。

「それか、、、。」

道子は、なにかを悟ったような気分になった。

「まあ、どっちみち、偉い奴というか、そういうやつには、わからんか。だから、偉い奴は、素雄さんの扱う人たちには、みんな敵になるのよ。」

杉三は、そんなことをいって、口笛を吹きながら、水穂さんの体をたたいたり、口元を拭いてやったりするのだった。道子は、悟ったと言っても、まだ訳の分からないことをいわれているのではないか、という気持ちのほうが強く、杉ちゃんの発言に、首を縦に振ることは、、、出来ないのだった。

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海辺の美しゃ 増田朋美 @masubuchi4996

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