第四章

第四章

「今日で、ここでの研修も最後ですか。」

と、素雄に言われて、約束の三日間も最終日になっていることに気が付いた。

「まあ、それでも、僕たちの仕事はずっと続いていきますからね。それでは、今日も、お宅訪問するわけですが、あんまり、この事業を気に重くしないでくださいね。」

素雄は、にこやかに笑って、さて、行きますか、と、事業所を出て、バス停に向かって歩き始めた。道子も、そのあとについていく。

「素雄さんと、一緒に行くようになって、富士のバス路線をいろいろ覚えたわ。この田舎町に、こんなにバスが走ってるなんて、全く知らなかった。」

確かに道子は、この田子の浦にコミュニティバスというのがあって、それが富士駅まで連れて行ってくれることだって知らなかったのだ。もし、このバスの時刻表通りに時間を使える人であったら、マイカーを持つ必要もないんじゃないかと思われるほど、バスが走っていた。

バスに乗り込んだ道子は、一番後ろの座席に座った。素雄もその隣に座る。バスは、ちょっとクラクションを鳴らして、のろのろ走り出す。

「今日は、どんな人を見に行くんですか?」

と、道子は聞いた。

「ええ、この方です。名前は、太田俊美さん、女性です。年齢は三十二歳。家族構成は、お父様と

お母様と暮らしています。」

素雄は、書類を、道子に見せた。太田さんという女性の顔写真を見て、道子はちょっとほっとする。彼女は、これまでの女性たちと違い、いわゆる「病的なイメージ」が何もない女性だった。

「引きこもって、どれくらいたつんですか?」

と、道子は聞くと、

「ええ、まだ、数か月なんですけどね。何でも、一度は社会にも出て、しっかり働いていたようなんですが、どうも会社とうまくいかなかったらしい。それで、家に引きこもるようになったとか。」

と素雄は答えた。そうなると、意思の疎通も、非常に楽なのではないかと思った。それでは、訪問にはさほど苦労しないかなと、ちょっと期待が持てた。

「次は、靖国、靖国です。お降りの方は押しボタンでお伝え下さい。」

と車内アナウンスが鳴ると、素雄はすぐにボタンを押した。

「あら、ここで降りるんですか。駅まで行かないの?」

道子がそう聞くと、素雄は、はいそうですと言った。バスが、疲れた顔をして、ヨイショとバス停に止まると、二人は、椅子から立ち上がって、運転手さんに運賃を渡し、バスを降りた。このバスは年式の古いものだったらしい。スイカ等で支払うことは、承諾してくれなかった。

まあそれはさておき。その靖国というバス停は、ちょっとした住宅街であった。よくある平穏そうな住宅街で、いわゆる訳ありの人が、住んでいそうな家が連なる住宅街ではない。そこだけでも道子はちょっとほっとしたのである。

「えーと、その太田さんの家はどちらなの?」

素雄は、返事をしないで、住宅街のど真ん中にある家の前で足を止めた。世帯主の名前なのか、表札には、太田希江子と書いてあり、その下に、太田慎太郎と書いてある。つまりこの家は入り婿か。若しかしたら、お母さんが、良家のお嬢さんなのかも知れなかった。

素雄は黙って、インターフォンを押した。

「はい、どちら様でしょうか。」

静かに聞こえてくる女性の声。

「あ、はい。海辺の会社の、吉田と申します。」

素雄が自己紹介すると、

「ああ、そうでしたね。すぐに呼んできますんで、お待ちください。」

と、その人は、そう言った。つまり、お母様か?娘さんの太田俊美さんは、家の中にいるのかな。そう思いながら、道子達が、外で待っていると、

「はい、どうぞお入りください。娘も待っていますんで。」

と、がちゃんとドアが開いて、一人の中年の女性が出てきた。間違いなく母親何だろうが、特に疲労しているような顔つきはしていなかった。それよりも、素直に、家の事情を受け入れようとしているように見える。

「わかりました。よろしくお願いします。あ、この方は、ちょっと訳があって、研修に来ているんです。特に何かするわけでもありませんから、一緒に入れてやってください。」

素雄が説明するのも、もう慣れてしまった道子だった。彼女は、にこやかに会釈することもできるようになっていた。

「そうですか。それじゃあ、お入りください。」

お母さんも、特に疑いを持つようなこともなく、道子を中に入れてくれた。

「娘は、こっちに居ます。」

お母さんに連れられて、二人は食堂へ入った。本来なら、娘さんの自室へ案内される事が多かったのだが、今回は、食道で娘さんが待ってくれていた。それが意外だった。

「えーと、太田俊美さんですね。今日は僕たちに顔を見せてくれたんですね。ありがとうございます。」

素雄がそういうと、俊美さんと呼ばれた娘は、ちょっと会釈した。

「どうぞ、お座りください。」

お母さんにいわれて、道子と素雄はテーブルに座った。俊美さんと呼ばれた娘さんが、二人の前に、お茶を出してくれた。

「其れで、俊美さん、体調はいかがですか?」

と、素雄が聞くと、

「ええ、取り合えず、落ち着いてはいるんですけど、どこの病院に行っても気のせいだとか、しっかりしなきゃとか、そういう事ばっかり言われて、もう、誰もあたしの話なんて聞いてはくれないんです。だから、もう、医療なんて信用できるものじゃないなと、思う様になって。」

と、俊美さんはそう答えた。すると、隣の席に座った母親が、

「ええ、そうなんですが、その原因不明の体調不良のせいで、会社にも行けなくなってしまいましてね。今は私たちが働けるからいいんですが、もしこれが長期間続いたらと思いますと、どうしたらいいのか。」

といった。確かに、そうなるのは、心配な気持ちになってしまうものだ。これから先が見えない世界に足を突っ込んでいくことになるのは、誰でも不安な気持ちになるものだろう。

「確かにそうですよね。これからどうなるのか予測ができないのは困りますよね。まあ、精神というのはどうしても長期化するものですから、風邪のように簡単になおるという訳にはいかないですからね。」

素雄がそういうと、母親も俊美さんも、不安そうな顔をした。

「それでは、これから先、どうやって行けばいいのか、どんなサービスがあるのかとか、教えていただけないでしょうか。」

と、母親がそういう事をいう。

「ええ、そうですね、とりあえず、半年間、精神科に通院されていれば、精神科通院費公費負担制度というものが使えるようになります。それを使って下されば医療費は、大幅に下がりますよ。家計は少しばかり楽になってくれるとは思います。其れで、もう少ししたら、障害年金とか、精神障碍者手帳とか、そういうサービスも使えるようになる可能性もありますね。」

素雄は、事実を淡々と言った。

「障害ですか?」

母親がそんなことを聞く。

「ええ、そうなりますが、それが何か?」

「障害という言葉はちょっと、やめてもらえないでしょうか。」

「いえ、それ以外助かる方法もないのですから、はっきりと、申しておいた方がいいでしょう。奏するほかに、精神疾患をもって生きる方法はありませんからね。障害というと、ちょっと言い辛い用語であることは認めますが、会社を退職してしまった以上、それ以外に生き残る方法はほとんどないと思ってください。それに、中途半端に社会とかかわるよりも、資源があるのなら、切り離してしまった方がいいのです。一度、社会から切り離して、医療をしっかり受けられる体制を作ってください。そのほうが、しっかり治せると思います。」

素雄は、静かに言った。

「それでも、障害者という言い方をされるのは、娘がかわいそうだというか、ちょっとしのびないという気がするんですが、、、。」

と、お母さんはそんなことをいっている。

「できるだけ、社会と関わらせてあげたほうが、娘にとってもいいのではないでしょうか。」

道子もそう思った。

「いいえ、それは無理だと思います。日本社会では。一度、社会から外れてしまわないと、精神疾患というのは難しいんですよ。だって、よく考えてみて下さい。大体の人は、精神疾患患者との接し方を知らないでしょう。そういう事ですから、もし世間体が気になるようでしたら、入院させても結構ですよ。そういう事しか今は出来ないですから。それしか、娘さんに出来る事は、ないんですよ。」

と、素雄はそれを否定した。

「お母さん、よく考えて下さい。精神疾患というのは、手がとれて障害者になったのと同じくらい、重大な障害ですよ。ただ、体が動くからって、普通の人と同じような話をするのは、絶対にやめなければなりません。それでは車いすに乗っている人を、無理やり立たせて歩くようなことになりますよ。

そのほうがもっと可哀そうだと思いませんか?」

「そういう事なんですか。」

と、お母さんは、ちょっとがっかりというか、落ち込んだように言った。

「それでは、どんな答えを望んでいたんですか?」

道子はちょっと聞いてしまう。

「ええ、まだ救いの道はあると言いますか、なんといいますか、なんだか支援していただけるようなものはあるのだと教えていただけるのだと思っていました。」

お母さんが答えると、

「そんなもの、どこにもありませんよ。もしかしたら、これからは近所の人から、白眼視される生活を強いられることになるでしょう。それでも生きていかなければいけないというのが人生なんです。でも、僕たちは、その代わりと言っては何ですけど、用立ててくれれば、何でもします。お料理も掃除も、洗濯も。もし、娘さんがこれから問題行動をすることが増えてくれば、お母さんは娘さんに付きっ切りでいなければならないかもしれませんから、そういうとき、手伝いが必要になったら、遠慮なく、うちの会社を頼ってくれて結構です。これからは、そういう少数の、理解者だけを頼って生きていくことになります。友人も、親戚も、精神がおかしく成ったものを持っていると言えば、すぐに立ち去っていきますよ。辛い木枯らしのなかに立っている木のような、人生が待っていると思いますが、それもなってしまったものはしかたないと、あきらめてください。」

と、素雄は厳しい口調で言った。道子はそういう事を、伝えておかなくてもいいのではないかと思ったのだが、とりあえず何も言わないで黙っていた。

「私、、、。」

小さな声で、俊美さんが言った。

「私が死ねばよかったのでしょうか。そうすれば、お母さんも、楽になれるのでしょうか。」

「そんなこと、、、。」

道子は医療従事者らしく、そういうことを言ったのであるが、素雄は、厳しい目を変えなかった。

「いいえ、それだけはどうしても避けなければならないでしょう。そういう事は、何処の宗教でも、医療関係者も、やってはいけないというんです。」

「でも、私が死ねば、そういうことは回避されるのではないでしょうか。それをしていれば、お母さんもお父さんも、つらい思いをしないでいられる。」

俊美さんは、そういうことをいったが、

「いいえ、それだけはしてはいけないと思います。どんなにつらい人生でも、生き抜くという事はしなければなりません。これから先、ほかの人たちはあなたのできない事を、どんどん成し遂げていって、あなただけが取り残されていくという事にたくさん直面すると思います。でも、それでもなったものはなったで、受け入れていくしかないんです。その中でも、一つか二つは、幸せだと思われることを、神様はくださいます。これだけは確かですから。それを信じて、なんとしてでも生き抜いてください。もし、つらくてどうしても誰かに話したいんだったら、遠慮なく、うちの会社に頼ってくれて結構ですよ。」

と、素雄は変な励まし方で、俊美さんを励ました。

「なんだか変な言い方ね。素雄さん。」

道子も、そういうことをいうのだが、俊美さんは静かに泣き出した。

「そういう人生しか送れないんですよ。精神だけではありません。病気になるっていうのは、そういう事です。普通の人の人生からすべて切り離すこと。これが一番大事なんだ。でも、切り離したからみえることもあるでしょう。切り離したから得られるものもあるでしょう。其れはきっと、なにか足掛かりになると思いますよ。」

「あの、それは本当にそうなんでしょうか。」

と、お母さんが、心配そうにそういうのであるが、素雄はここでやっと穏やかな顔になった。

「ええ、きっと何か得られると思います。具体的なことは何かわかりませんが、一般的な幸せは何一つ得られなくても、必ず別のことで何かえられるのではないでしょうか。それを得るためには、何十年もたたないとできないことかもしれませんが。」

と、静かに素雄が言う。それでもお母さんも、彼女も不安そうだ。

「今は不安かも知れません。でも、必ず何かつかめると思います。それをしんじて頑張ってください。不安なことがありましたら、何でも話しを聞きますから、直ぐに電話でもメールでもしてくださいね。病院の紹介もできますし、専門的な相談機関も紹介しますから。僕たちはその橋渡しとして、使ってくれればいいのです。」

素雄さんは、ここでやっと優しい顔になってくれた。それでは、良かったのだろうか。こういう結果になって。

「じゃあ、これからも、娘さんに何かあったら、いつでもうちまで連絡をください。僕たちはいつでも待ってます。」

そういう素雄は、ネタがほしいという雰囲気ではなかった。何か契約を取り付ける営業マンというような、雰囲気でもなかった。いくらうちへ連絡をくださいと言っても、そういう事ではなさそうだ。

「それでは、本題に入ります。何か困ったことはありますか?」

素雄が、いつも通りの優しい人に戻って、そう俊美さんに聞く。

「ええ、体調が、思わしくなくて。体が、思う様に動いてくれなくなりました。なんだか年寄りみたいですけど、自分の体が段々使えなくなっているような、そんな気がするんです。気持ちもいつまでも、暗いままですし。ここにいるだけでつらいなんて、今までなかったのに。どうしてなんでしょう。」

と、俊美さんは答えた。

「そうですか。でも、そういうことが自分でちゃんと言えるのなら、お医者さんにもそれを話すことは出来ますか?」

と、素雄が聞くと、

「ええ、出来ると思います。」

と、答える彼女。

「それなら、大丈夫です。それをしっかりお医者さんに言えれば、大丈夫です。それを具体的に、お医者さんに言ってください。精神科のお医者さんは、そういうバカげた話と思われることもちゃんと聞いてくれるはずですから。」

「わかりました。」

と彼女は答えた。

「じゃあ、これからは、長丁場な勝負になると思いますけど、頑張って。」

と、しずかに答える素雄。

「わかりました。素雄さんが居てくれるなら、あたし、頑張ってみます。」

「頑張ってね。」

素雄は、しずかに彼女の肩をたたいた。

「本当にありがとうございます。おかげでちょっと、先の事が楽になってきたようです。私も、これから先どうしたらいいのか、本当に悩んでおりました。周りに、おなじような人生を歩んできた方もいなくって、ほんと、どうしたらいいのか、、、。」

と、お母さんも、そういうのである。きっと文字通り、どうしていいのかわからなかったのだろう。それで素雄たちに、相談を持ち掛けてきたのだ。

「それでは、僕たちは今日はここで帰りますが、また何かあればいつでも呼び出してくれて結構です。愚痴の聞き役でも、何でもなります。僕たちは、そのためにいるんですから。」

と言って、素雄は、しずかに立ち上がった。そうなの?と道子も立ち上がる。

「何かつらいことがありましたら、いつでも言ってください。」

素雄は、そういって、電話番号を書いた名刺を静かに渡した。お母さんは、ありがとうございますといって、受け取った。

「また、何かあったら、電話しますんで。」

そういって、お母さんと俊美さんは、にこやかに二人を玄関先まで見送った。ちょうどバスの時刻が、近かったので、二人は、すぐに家を出て行った。

「ねえ、素雄さん。」

道子は、帰りのバスの中で素雄に言った。

「どうしてあんなに厳しいことを平気で言うのよ。有れじゃあ、患者さんたちがかわいそうじゃないの。」

「いやあ、僕は単に事実を述べただけの事ですよ。それ以外何もありません。」

と、淡々とした態度で素雄は答える。道子はそれがちょっと気に障って、

「でも、あんな厳しい言い方しなくてもいいじゃない。病気になっても希望があるってことを伝えたほうが、いいんじゃないかしら。それは、精神でも体の病気でも同じことだと思う。」

と、一寸きつく言った。

「そうですかねえ。明らかに違うと思いますよ。だって、体の病気なら、色々気遣ってくれるでしょうけど、精神というと、まるで潰れた人形みたいな扱いしかしないでしょう。それは、道子さんも、これまであった人たちを見ればわかるじゃないですか。だから僕は、最悪の話を先にするようにしているんです。そのほうが、より病気と向き合えるんじゃないかって、思うんです。」

素雄の答えは、非常に冷酷というか、そんな気がするのだが、確かに昨日、一昨日とあった人たちは、皆不幸な生活を送っていた。つまり、そうなるしか道は用意されていないという事だろうか、いや、そんなことはないと道子は思った。嫌、思いたかった。

「でも、そうなるかもしれないにしても、最悪な時の話はできるだけしないほうがいいと思うわ。あたしは、研究医だから、あんまり患者さんと向き合うことはしないけど、少なくとも、あたしの仲間で臨床医の人たちは、どんなに重い病気であっても、いきなり最悪の事例になるなんていう話はしないわ。それを言ってしまうのは、やっぱり患者さんたちがかわいそうだもの。勿論受け入れてもらうことはあるかもしれないわよ。でも、いきなり最悪の話をするのは、、、。」

「道子さん。ちょっと、音量を抑えたほうがいいですよ。」

素雄にそういわれて道子は周りを見る。バスの乗客たちは、何だこの二人、何を言ってるんだといやそうな顔をしていた。

「あ、ああ、ごめんなさい。あたし、別に怪しいものではありません。」

道子は慌ててそういうことをいったが、お客さんたちは、嫌な人だねこの人という顔をして、ほとんどの人たちが、次のバス停で降りてしまったのであった。






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