悲恋
ちえ
第1話
忘れられない恋がある。
高校の時だった。敦子は、初めて付き合った彼女だった。初めて手を繋いだのも、初めてキスをしたのも、初めてそういう関係になったのも。
本当に好きだった。きちんとした別れがあったわけじゃない。
よくある話で、受験勉強が忙しくなった高校3年生の11月、敦子に距離を置こうと言われた。
受験が終わるまで。そう思って我慢した。
携帯もない時代だ。家に電話をかける勇気もない。
受験が終わると、卒業式の日まで敦子とは会わなかった。
卒業式の日、俺は敦子のもとへ行った。
「一緒に写真を撮ろう」
そう言って近づいた俺に、敦子はまるでゴキブリを見るようなひどく冷たい目を
向けた。
「もう、私たち終わってるでしょう?」
俺は敦子の言葉を咀嚼するのにしばらくかかった。
その間に1人の男子生徒が近づいてきた。髪を金色に染め、カッターシャツのボタンは上二つまで全開でズボンは腰で履き裾はいつも地面にぺったりと付いている。学校でも目立つグループの1人、金本だった。
「なになに、敦子?だれ、そいつ?」
金本はガムをくちゃくちゃ鳴らしながら俺を見た。身長が180センチはある金本に見下ろされ、俺は完全に萎縮した。
「えっと、俺は敦子の彼氏で・・・」
金本の目が鋭くなった。敦子が咄嗟に「元、ね!」と言った。
どういうことだ?俺は聞きたくても聞けない言葉を喉に詰まらせた。
「ああ、元カレね。写真撮ろうとしてきたの?未練ある男はモテないぜ〜。ごめんけど、敦子はもう俺のだから。わかったら、とっとと失せろ」
金本が敦子の肩を抱き、追い払うように蹴り上げる素振りをした。
完全に負け犬だった。ただ黙ってシッポを振ってその場を去ることしかできなかった。こんなに好きなのに、涙も出なかった。
俺は東京の大学に進学して、地元に残った敦子とはそれ以来一度も会っていない。
上京して一度だけ敦子の話を聞いたことがある。大学1年生の夏だった。同じく上京した同級生で飲んだ時だった。
敦子と仲が良かった中村さんが、俺の横に座った。俺は、敦子のことを訊いた。元気かどうかそれだけでもいいから知りたいと思った。
中村さんは困ったような顔を浮かべて、歯切れが悪く言った。「春休み以来、敦子とは会ってないし、連絡も取ってないんだ」
「え?なんで?中村さん、仲よかったよね?」
「うーん。なんか敦子、金本くんと付き合いだしてから人が変わっちゃって。ノリが合わなくなったっていうか・・・。佐藤くんと付き合っているときは、もっと穏やかで優しかったんだけどね」
俺は黙ってビールをすすった。まだ飲み慣れないビールは苦い味を口の中に残した。
もう、20年も前の出来事だ。突然敦子のことを思い出したのは、昨日久しぶりに高校の友人と会っていたからだろう。40歳を目前にして、ようやく人生を共にしたい人と出会えたと言った友人は10歳も年下の奥さんとステキな結婚式を挙げた。
あと、この秋と冬の変わり目の空気のせいな気もする。
敦子に距離を置こうと言われたのもこんな空気の冷えた天気の良い日だった。
俺は、リビングに降りた。妻の美沙がキッチンで忙しそうに朝ごはんの用意をしていた。
ダイニングテーブルには、息子の正孝と娘の百合がテレビを見て笑っていた。
正孝は来年から中学生、百合は小学四年生になる。
すっかり俺も歳をとったなぁ、と苦笑い。目ざとく見つけた百合に「何でお父さん笑ってんのー?気持ち悪い」と言われた。
その言葉に傷ついた一方で、まだ口を聞いてくれるだけましか、と慰めた。
会社の先輩の娘さんは思春期真っ只中で、口を聞いてくれないだけでなく、洗濯物も一緒に洗うのを拒まれているらしい。
俺にもそんな時期がやってくるのかと思うと気が重い反面、そんなに嫌われても娘を愛しいと思う気持ちは痛いほどわかった。
最近、親が子供を殺すニュースが多いから尚更、そんな気持ちは理解できないと感じるし子供を愛おしいと思うことが増えた。
「はーい、ご飯できたよー。ほら、パパも座って」
美沙がテーブルにご飯を並べていく。
美沙とは、大学三年生の時にバイト先で出会った。
純粋無垢で、飾り気がなくて、笑顔が素敵な彼女に癒されて、俺から告白した。
付き合い出してからも美沙は変わらなかった。寧ろ、好きだと思う気持ちが増えるばかりだった。
料理が得意なとこも、きちんと感謝の気持ちを表現できるとこも、自分の意見を主張できるとこも、すべてが俺にとって良い刺激で、こんな子と結婚できたら素晴らしい家庭が築けると思った。
その考えに間違いはなかったと、結婚して13年経った今でも思う。
俺はひじきと大豆の煮物に箸をのばした。甘く煮た味付けで、俺が好きな料理の一つだった。
福岡にいる母親から電話がかかってきたのは、夜8時半を超えたときだった。
もともと実家へ帰省することは少なかったが、最低一年に一回は帰っていた。しかし、子供が小学生になってからは、2年に一度の頻度に減った。
母親からはこうしてたまに電話がかかってくることがあるが、大体は大した用事はなく、最近の近況報告が主な内容だった。
1週間前に電話をしたばかりだった。何か言い忘れたことでもあるのかな、と軽い気持ちで電話に出た。
「もしもし?」
「あ、広正、そっちで福岡のニュースは流れっとかな?」
「全国版で放映すれば流れるけど、どうしたと?」
母親と話すと自然と福岡の方言が出てくる。
「どうしたとじゃなか。うちのすぐ近くで殺人事件のあったとよ」
母親は興奮を抑えるように言った。俺の地元は自慢じゃないが、福岡の中でも田舎の方で、周りは住宅地か山か田んぼしかない。
そんな辺鄙なところで殺人事件なんて信じられない。
電話を切るとはやる気持ちで、リビングに向かった。9時前にニュースが流れるはずだ。
リビングでは子供達がテレビを見ていた。音楽番組で、福岡出身の大物芸能人が司会を務めている。
俺はソファに腰掛けてニュースが流れるのを待った。
番組が終わると報道に切り替わり、いきなり現場の中継に入った。
目黒区で起きた交通事故だった。今日の午後トラックが歩道に突っ込み、下校中の小学生五人が被害に遭った。二人は死亡し、残り三人も重傷を負った。
本当に胸が痛い事故だ。自分が気をつけていても避けられないから交通事故は怖いし、親として自分の子供だったら、と心配になる。
続いて、政治のニュースや自殺のニュースが流れて、地方のニュースが流れた。
「福岡県の〇〇地区で、本日夕方6時ごろ母親が子供を殺害する事件がありました」
聞き覚えのある地名。見覚えのある景色。母親が言っていたのはこれだな、とわかった。
少し前のめりになってアナウンサーの話を聞いた。
「母親は佐伯敦子被告38歳で、殺害後自ら110番通報をし、近くの警察署が駆けつけ現行犯逮捕しました。凶器はナイフのような小さな刃物を使用しており、娘の奈緒ちゃん5歳の体を何度も刺したと思われます。詳しい情報については、現在福岡県警によって事情聴取が行われています。」
敦子。
まさかな、と耳を疑った。
しかし、現場の様子とともに犯人の顔写真が画面に映ったとき、俺はこれまで感じたことのないほどの驚きと、恐怖を感じた。全身が熱を帯び、手は汗でびっしょりしていた。
写真の女性は眉毛が細く、頰はこけて、やつれた印象を抱いたが、間違いなく敦子だった。
俺は急いでテレビを消した。
百合に「お父さん、何で勝手に消すの?!」と怒られたが、返事をする気力はなかった。
翌日以降のネットニュースで、敦子が旦那にDVを受けていたこと、旦那が他に女をつくり、敦子も新しい男ができたこと、その男が子供を嫌い暴力を振るっていたこと、男から子供を消さないと別れると言われて、咄嗟に刺したこと、を知った。
敦子の話を聞いているのに、違う女性のことのように思える。
何人か友人から連絡が来て、敦子のことなんだと思い知らされた。
犯人は別にいて、敦子は罪を着せられているだけなんじゃないか、とも考えた。
もちろん、そんな考えが虚しい希望だということは十分頭ではわかっていた。
でも、心がどうしても受け入れられなかった。
もし、卒業式の日、いや、高校生のときに、金本のような素行の悪いやつと交流を持つようになった時に止めていれば、こんな事件は起きなかったのだろうか?
考えても仕方がないことを、ふと頭に思い浮かべては何度も何度も考えてしまっていた。
「今日は、デミグラスソースのハンバーグよ」
美沙がフライパンごとキッチンから持ってきた。一つずつハンバーグをお皿に盛り付けていく。
俺は、高校生の時の記憶を思い出した。
敦子との初デート。ファミレスに食事に行って、俺はデミグラスソースのハンバーグを注文した。
緊張して背中は汗で濡れていたのに、熱いハンバーグを頼んでしまって心の底から後悔した。案の定、大きな塊を口に含んでしまい、舌を火傷した。
「あっつー!」と店内に響き渡るほど叫んで水を何度も飲み、気持ちを落ち着かせる俺を敦子は優しく微笑んで見ていた。
窓の外では桜の花びらが舞っていて、ピンク色がよく似合う暖かい笑顔だった。
俺は、美沙の作ったハンバーグを口に含んだ。噛めば噛むほど肉汁がこぼれてきた。ハンバーグとデミグラスソースの調和が取れていておいしかった。
「やだ、パパ何で泣いてるの?」
美沙の言葉に、我に返った。
気づいたら、俺は静かに涙を流していた。
悲恋 ちえ @kt3ng0
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