第7話 覚悟

 事故から一ヶ月が経ち、まどかの退院も近いといわれるようになった。

 この間、病室には患者が増えた。「こんにちはあ」と言いながら部屋に入ると、まどかはベッドに腰掛け、ぼんやりと窓の外を見ていた。今日は赤と白の格子縞のパジャマに、太い毛糸で編んだカーディガンを羽織っている。傍らには松葉杖が立てかけてあった。

 入院以前と比べると、さすがに顔や身体つきがふっくらして見えた。でも口には出さなかった。

 俺は持っていたダジャケットをベッドの片隅に置くと「行こうか」とまどかを促した。

 まどかが松葉杖をつきながらも自力での歩行が可能になったことと、病室に入院患が増えたことで、ここ最近の俺たちは、デイルームへ移動して話すようになっていた。

 まどかの母親は、週に二回ほどのペースで、おもに午後訪れている。俺は非番のたびにここへ直行していたが、長居もしなかったので、顔を合わせることはなかった。

 窓際の隅の席に俺たちは座った。

 救急出動件数は相変わらず多いことや、火災の出動はあるものの、延焼する事案はほとんどなく、ボヤ程度で済んでいることを告げる。こんなことを彼女に言ってもどうしたものかと思うのだが、話題がなかった。

 そんなことより、とまどかが話題を変えた。救急要請常習の女性、川本鮎子のことだった。先日、本署に挨拶に来たというのだ。そして、彼女は実家に帰ることになったらしい。

「なんで知ってる?」

 そんなこと、俺は知らなかった。どうして署にいないまどかがそんなことを知っているのかと驚いた。

 まどかはいたずらっぽく「えへへ」と微笑むだけだ。

 が、もっと驚いたことは、まどかが、小田原さんはどうするだろうということを言い出したことだった。

 俺にはわけがわからなかった。そのことと小田原さんが、何の関係があるのだろうか。

「小田原さんは、時々彼女のマンションへ足を運んでいるらしいのよ。二人がデパートで一緒に歩いているところを目撃されたこともあるんだって」

「は!?」

 俺は、返す言葉が出てこなかった。まどかの顔を見つめたまましばらく動けなかった。たぶん、俺の口は、だらしなく開いていたと思う。思考回路は停止した。

 俺は軽く咳払いをして気を取り直した。

「どうしてそんなこと知ってるのさ。あまり他人のことばかり気にして噂してると、そのうち誰も寄ってこなくなるよ」

「いいもん」

 かわいくねえよ、とは言ったものの、邪険にもできなかった。結局話を合わせる。

「ああ、わかった。また石上さんか」

 まどかは小さく頷いた。

「うん、そう。なぜだか知らないけど、石上さんは何でも知ってるの。それと、あの人、ずっと前に小田原さんと一緒に勤務していたことがあるんだって。直接本人と話したりもしたんじゃないのかな。小田原さんも、石上さんのことを気安い相手だと思っているかもしれないし」

「ふうん」

 小田原さんと石上さんは、単なる職場仲間の域を超えているのではないか。ひょっとして過去に二人の間に何かあったのではないか。俺はふと思った。

 同時に、俺たちのことは、果たして彼女にどう料理されているのだろうかと気になった。そして、まどかはそこまで気がついているのだろうか。

「で、救急隊はどうするの。やめる?」

「やめない」

 俺は反射的に言ってから少し間をとった。

「うん、実は、まどかの交通事故をきっかけに、改心したんだよ。結局さあ、要請されたら俺たちはそれに応えていかなければならないんだってことなんだよね。救急事案に該当するかどうかは俺たちの判断することでもないし、制度云々については、もっと偉い人たちが考えることだし。現状が変わらない限り、やるしかないんだ。だから自分がどこまでがんばれるか、挑戦してみることにした」

 まどかは、へえ、と少し目を大きく見開いて「わかった。がんばってね」とだけ言ってくれた。

 俺の気持ちが伝わったのか、退院が近いからか、まどかの顔は明るかった。

「がんばっていればいいことがある、だろ」

 まどかの目尻が下がった。

 あの日の朝、居酒屋で菅野隊長の話を聞いたとき、俺は考え直したのだ。

 道を誤ったのではと悩み、現実から逃げることばかり考えていた俺。よくよく考えてみれば、せっかく自分にとっての新たな道を切り開いたのだ。その道を行けるところまで行ってみようと何故思わなかったのだろうか。そして、これはみんなが乗り越えてきた道なのだ。乗り越えたらまた新しい道が待っているはずなのだ。ここで引き返したら、そこから先を見ることはできなくなってしまう。たとえ壁に突き当たったとしても、逃げずに乗り越えようと努力することで、自分には何かしら得るものがあるはずなのだ。

 あんなことはもうたくさんだとは言ったものの、救急隊である限り、事故形態や傷病者を自分の都合で選択できる余地はなく、その場から逃げ出すことは許されない。対応しないわけにはいかないのだから、そのための準備をしておかなくてはならない。その場しのぎなど許されない。

 自分は必要とされているのだ。だから要請されるのだ。やらねばならぬのだ。そう思うようになった。

 まどかのことにしても、これから先、何をすべきなのかは、俺の心のどこかで答えは出ているはずなのだ。答えから目を逸らしていた。はぐらかしていた。故意に見つけまいとしていたことを自覚し、反省した。

 救急隊は、レスキュー隊やはしご隊のような派手さはない。しかし、赤い車よりも活動の場ははるかに多い。しかもそれは、他人の人生に関わる仕事であり、人の命を扱う仕事である。その責務の重さに、時として押しつぶされそうにもなる。常に緊張の中に身をおかねばならず、受ける精神的、肉体的な疲労、プレッシャーは筆舌に尽くしがたい。

 でも、隊長は言った。

「確かにプレシャーはある。が、相手の立場に立ってみれば、するべきことは自然と見えてくるはずだ。あとは信念をもって、仲間を信じて、自分たちのできうる最大限の行動をすることだ。しかしそれでも、時として報われなかったり、やるせなくなる時はある。だけど、投げやりになりそうになる心を救ってくれるのは、相手からの『ありがとうございました』というひと言なのさ。もちろん扱った傷病者の皆が皆そう言ってくれるわけではないし、ましてやそれを目当てに活動するものでもないけどね」


 まどかの退院が決まった日、俺は、これまでの自分の人生の中で一番高い買物をした。

 それは、まどかに対する俺の気持ちであり、これからの俺自身を鼓舞するためでもある。

 小田原さんからは「給料の三か月分が相場だぞ」と言われたのだが、いったい誰がそんなことを決めたのだろうか。

                                  (了)



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新米、がんばる @july31

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