第6話 観音さま
まだ昼にもなっていないのに、生ビールのジョッキと焼き鳥、モツ煮込み、漬物が目の前に並んでいる。
たまには趣向をかえてみようという小田原さんの意見に乗ったのが間違いだった。せいぜい駅近くの喫茶店になるのだろうくらいにしか思っていなかったのだが、まさか酒になるとは。
隊長に聞きたいことがあったからついて来たものの、そうでもなければ俺は早々に退散していただろう。
ひなびたビルの一階にある、こじんまりとした居酒屋。カウンターは七席。四人がけのテーブルが三つ。午前中だというのに、店内はほぼ満席状態だ。
聞くところによると、こういう店は、タクシー運転手、消防、警察官、電力マン、ボイラーマン、ガス関係者、鉄道マン等々、いろいろな夜勤者を当て込んで、朝から店を開けているのだという。俺ははじめて知った。
「そうかあ、独身貴族はいいなあ」
「いいなあって、隊長も独身ですよね。俺よりずっと貴族じゃないですか」
「そうそう。バツがひとつついてるけどね」
「『そうそう』言う小田原さんも独身だよね」
菅野隊長がちょっと頬をゆるめた。
「で、真田は彼女はいるのか」
小田原さんは右手の小指を立てた。
「ノーコメントです」俺はひと呼吸置いてから答えた。
そうか、と隊長は腕を組んだ。小田原さんは「バレバレだぜ」と笑っている。俺は話の矛先を変えねばやばいことになると思った。
「でも隊長はさすがですよね。この間の交通事故、今思い出しても感動ものですよ。自分なんか、気が気じゃなかったですから」前の当務の交通事故のことしか思い浮かばなかった。
「こっちだって気が気じゃないさ」
隊長は言っても仕方がないなという風な、投げやりな言い方をした。そして小田原さんの顔を見た。
「何が」小田原さんが気づいた。
小田原さんは、隊長だろうが大隊長だろうが、いわゆるタメ口で話すことが多々ある。どちらかというと年齢優先、年功序列の考え方が根底にあるらしく、階級役職に関係なく自分より若い者に対しては敬語を使いたくないらしい。したがって相手が自分よりも若ければ、たとえ階級が上でもタメ口で話したり、「お前」呼ばわりしてしまう。ただ、ウチの菅野隊長はそういったことに目くじらは立てない。話題がそれたことに、俺は心の中で胸をなで下ろした。
「寝不足大、疲労蓄積大、今日みたいな時はいつ事故るかなってひやひやもんだよ」
ちなみに、今回の出動件数も十二件。運転担当の交代はなかった。
「そんなことないでしょう。出動件数の増大なんか今始まったことじゃないんだし。それに、今まで三十年間無事故ですぜ」
「たしかに事故は、ない。が、違反、二回」
たちまちのうちに切り返してきた隊長に、小田原さんは小さく咳払いをすると、持ってきたスポーツ新聞に目をやった。新聞は、今朝出勤してきた職員から貰ってきたものだ。
で、小田原さんがやり込められおとなしくなったところで、早速俺は、あの交通事故で隊長が実に手際よく傷者をさばいたことに対して話題を振った。
「あのう、お聞きしたいのですが。この間の交通事故のとき、どうしてあんなに手際よく傷者をさばくことができたんですか。普通だったら傷者の容態を観察して、程度を判断してから適応医療機関の選定に入るわけですよね。それが、救出されるそばから搬送先が決定されていたわけですよね。俺には分からないんですけど。どうして観察もしないで搬送先が決まっていたんですか」
小田原さんは急に顔を上げ、ふふんと自慢げに鼻を指でなでた。
「そんなこと、お前、この人はなあ、伊達で指令本部にいたわけじゃないぞ。あの程度の事故ならお手のものだよ。ねえ、隊長」
小田原さんは既に酔いが回ったのか、上機嫌だった。機嫌がよいと口も回る。セーターの袖をまくった。
「そんなことはないよ。それと、こういうところで〈隊長〉はやめて下さい」
菅野隊長はかぶりを振った。
「とにかく、この人は別物だからな。っていうか、この人はなあ、指令本部じゃあ伝説の人なんだぜ、お前」
そうなんですか、という顔を隊長に向けると「俺はまだ現役なんですけど」と小さい声が返ってきた。「でもあそこでは過去の人だから」と小田原さんはあっさりと言葉をかぶせた。
隊長は少し寂しそうな顔をして笑った。
小田原さんは鼻息を荒くして言う。
「この人はなあ、口も回るし手も動く。反応早いし機転は利くし、その処理にほとんどミスはない。ついたあだ名が千手観音。観音様だとさ」
指令室ではひとりでモニターを三台くらい常に確認していなくてはならず、かつ、機器操作を同時にこなさなくてはならないのだそうだ。
それを聞いて俺はようやく合点した。「そういうことだったんですか。俺は単純に、温厚な〈かんのさん〉だから〈かんのんさま〉なのかなって考えてました」
隊長は「もういいから」という顔で手を振った。
「傷病者に対しては観音様のように優しくて、現場の職員には阿修羅のように厳しかったとも言われたそうだ」
隊長は黙って遠くを見つめていた。小田原さんの話を聞いているような、何かを思い出しているような、だけどどうでもいいような視線だった。
「そうだよねえ、隊長」
隊長は、わざとらしく咳払いをひとつした。
「同じ人間だろう、誰だってできることさ。慣れだよ、慣れ」
「でもな、そんな場面がそうそうあるわけもないし。俺だって、あんな事故があって、それではじめてわかったことだからな。改めてこの人はすげえ人だと思ったね」小田原さんの口は、いつになく回転が早かった。
隊長は噛んで含めるように言う。
「ま、さっきの質問に対する答えはだな、簡単にいうと、事故の形態によって重症度の判断基準がある程度は決まっているということだ。あの場合は、複数の車両の事故で、車は極端な変形、かつ内部には脱出不能者。それだけで十分三次医療機関の対応になりうるということだ。おまけに挟まれていて意識障害もあったしね。つまり、急病には急病の、一般負傷事故には一般負傷事故の、交通事故には交通事故の、それぞれ重症と考えられる事故の態様がある程度決められていて、それに当てはまれば、とにかく三次対応でかまわないということになっているんだ。だから、それがわかっていれば、事故態様の連絡だけであらかじめセンターに連絡しておくことができるということだ。もちろん傷病者の観察情報は後から送るけどね」
俺は、傷者の状態を伝えてはじめて適応医療機関の選定が始まるものとばかり思っていたのだ。
「知らなかっただろう。知っていたとしても、果たして慌ただしい現場にいてそこに気がつくか、それができるかどうかなんだ。泰然自若というか冷静沈着というか、この人は違うんだよ、うん」小田原さんは我がことのように胸を張った。
俺も頷くしかなかった。
しかし隊長は照れくさがった。
「だから特別でもなんでもないって。同じ人間なんだってば。がんばれるときにちょっとがんばっただけだよ」
この、〈ちょっとがんばる〉という隊長のひと言が、俺の心の中で引っかかった。
「本部が偉いとか、現場が下だとか、そういうことではないんだよ。ポンプ隊、救急隊、梯子隊に救助隊と、それぞれ役割があるわけだ。指令本部は、現場から上がってくる情報をとりまとめて、災害現場全体を把握するんだ。現場が見えているわけじゃないからね。その現場から送られてきた情報をもとに状況を把握し判断し、場合によっては現場に指示を出す。将棋を指している本人同士よりも見物している人間のほうが状況をよく見ていることがあるのと同じことさ。だから現場の隊は、できるだけ正確な情報を、できるだけ早く本部へ送ることで、自分たちの活動が効率よく効果的に行えるということにもつながるのさ」
「はあ」
「ま、簡単に言えば、指令本部は、現場の後方支援を担っているということだ。現場の隊と本部は、それぞれの役割を果たしながら皆一致団結して災害に対応しているということだ」
俺は、自分のことがものすごく小さな人間に思えて情けなくなってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます