第5話 事態急変

 俺たちが傷者をストレッチャーごと車内収容しようとした際、まどかが近寄ってきて、カメラを構えた。アングルが合わなかったのか、後ずさりしたり前に出たり、横に動いたりを繰り返している。

 俺はちょっと意識した。視線をちらりとカメラの方向へ向けてしまった。小田原さんと隊長はそんなことはなく、動きを止めることもない。「どこ吹く風」といった感じだ。

 カメラを意識はしても、視線は傷者だ。当たり前だ。俺は顔と意識を傷者に集中した。

 と、その時、妙な音と小さな叫び声が聞こえた。

 俺だけではなく、小田原さん、菅野隊長、その辺にいた数名が、一斉に妙な音と声の方向に顔を向けた。

 俺の顔は、目は、その方向に固定されてしまった。

 トラックが、まどかを、何かの拍子に荷台脇に引っ掛け、そのまま走っていたのだ。

 指揮隊長が、レスキュー隊員が、大隊長が、走った。叫んだ。

 片側三車線ある駅前大通りだが、左端は駐車車両で通行不能、事故で右車線が通行不能である。二車線がふさがれ、真ん中の一車線のみを車両が通行していた。そこを通過しようとしたトラックに、まどかは引っ掛けられたらしかった。そう考えるしかない。傷者がすべて救出されたとあって、交通整理をする者はいなかったのだろう。

 俺は、自分の動きがひどく緩慢になったような感覚に陥った。言葉は出てこなかった。

 皆の見ている前で、まどかは、崩れ落ちた。

 その直後に悲鳴が上がった。

 俺は、俺たちは、その間、金縛りにあったように動けなかった。

 小田原さんも隊長も、俺と同様、ストレッチャーに手をかけたままだった。

 走行中の違和感に気づいたのか、悲鳴に驚いたのか、消防隊が叫んでいるので驚いたのか、トラックはすぐに停車した。離れていたが、なんとなくわかった。

「おい、とにかくこっちを収容するぞ。向こうのことはそれからだ」

 隊長の厳しいひと言が胸に刺さった。

 そう、今は、衝突事故の傷者を車内収容し、一刻も早く現場を出発しなくてはならないのだ。

 身体をストレッチャーに向ける。

 しかし俺の意識は、トラックの後輪付近に吸い寄せられたきりだった。今すぐこの場から飛び出して、駆け出して行きたかった。

「近くまで行ってください」

 大急ぎで傷者を収容した後、隊長が小田原さんに言った。俺の気持ちを察してくれたのかどうかはわからない。いや、俺とまどかのことは、誰にも告げていないのだ。そんなはずはなかった。

 まどかを、レスキュー隊員、大隊長、指揮隊長、中隊長らが取り囲んでいた。隊長は救急車から降り、駆け寄った。

 俺も降りようとしたが、小田原さんにいさめられた。

 傷病者管理をしていろと言うのだ。当然だった。こちらはこちらで、いつ容態が急変するかもしれないのだ。しかし。

 車内の傷者、車外のまどか、俺は交互に視線を移した。車外には人垣があり、なかなかまどかのことを確認できない。もどかしさがあせりに変わる。自然、気持ちは外に向いてしまう。俺は、自分の立場を今ほど恨めしいと思ったことはなかった。

 そこへ救急車のサイレンが聞こえてきた。誰が要請したのだろうか。タイミングがよすぎる。

 それが合図だったように、隊長が戻ってきた。

「指揮隊長が本部に連絡したら、一番先に傷者を乗せて出発した救急隊が、第一病院からちょうどこっちへ戻ってくるところだったそうだ。処置だけでもと思っていたんだが、よかったよ。彼女、崩れ倒れた時に引かれたようだ。左下腿が変形していたよ。骨折だな。でもまあ、命には別状はないだろう」

 それだけを一気に言うと、隊長はスライドドアを閉めた。

「さあ、こっちはこれからだ。行こうか」

 小田原さんは「了解」と言い、車をスタートさせた。


 たしかに骨折だけならば、とりあえず命に関わることはないだろう。しかしそれでも、いてもたってもいられない気持ちに変わりはない。後ろ髪を引かれるというのはこういう気持ちなのか。俺は車の天井を見上げた。

 結局、病院到着、傷者を引き継ぎ、ストレッチャーを救急車まで引き揚げ、車内で隊長の帰りを待つまでの間、俺は何をどうしてきたのか、ほとんど記憶になかった。

「活動記録表、書いておけよ。また次ぎ何があるかわかんねえぞ。ボーッとしてたらだめだ」

 小田原さんから言われたが、はあ、と生返事をしただけだった。まどかのことが気になって考えがまとまらないのだ。

「おい、大沢は貝塚整形外科病院に搬送されたそうだ」

 戻った隊長が、開口一番教えてくれた。

「ど、どうしてわかったんですか」

「本部に確認したのさ。あそこなら把握していないわけがない」

 何をいまさらという顔だった。

「そ、そうですか。ありがとうございます」

「なんでお前が礼を言うんだ」

「あ、い、いえ」慌てて口を押さえた。

 隊長はポーカーフェイスを崩さなかった。でも、少し頬が緩んでいるようにも見えた。

 小田原さんはというと、大きく目を見開きくちびるを一文字にし、肩を震わせていた。笑いたいのをこらえているのだ。

「明日になったらゆっくり見舞いにいけるさ」隊長が子供に言い聞かせるような、優しい声で言ってくれた。

 俺は、あえて窓の外に視線を向けたまま「そうですね」と応えた。顔を見られるのが恥ずかしかったのだ。

 事故による傷者と傷病名、程度は、以下のとおりだった。

 事故車1

  傷者① 運転手女三十五歳?全身打撲  重篤。

  傷者② 助手席男二十八歳?全身打撲  重篤。

 事故車2

  傷者③ 運転手女二十六歳 頚椎捻挫  軽症。

  傷者④ 助手席女 〇三歳 怪我なし。

 事故車3

  傷者⑤ 運転手男四十八歳 頸部打撲  軽症。

 事故車4

  傷者⑥ 運転手男二十九歳 怪我なし。

 事故車5

  傷者⑦ 運転手男六十三歳 頸部打撲  軽症。

  傷者⑧ 助手席男六十一歳 頭部打撲  軽症。

 その他

  傷者⑨ 職員 女二十七歳 左下腿骨折 中等症。

 この事故の後、救急出動指令は堰を切ったように流れ出し、翌朝の当務終了まで、結局合計十二件出動した。

 三人ともほとんど眠れていないのだが、交通事故事案の報告を、本署の署長や課長にしなければならないので、菅野隊長は居残りを余儀なくされた。

 小田原さんから、モーニングコーヒーを誘われたらどうしようかと警戒していたのだが、珍しく「今日は用があるからお先するよ」と言われた。俺はほっとした。

 交代が終わると、俺は急いで寮に帰り、シャワーを浴びた。もちろん貝塚整形外科病院に向かうためだ。


 貝塚整形外科病院は、看板こそ整形外科だが、外科、内科、消化器外科、脳神経外科まで診察科目を備えている救急病院だ。地域の人々はもちろん、救急患者の収容率もよく、救急隊からもかなり感謝されている。

 病院入口まで来て手ぶらで来たことに気がつき、俺はいったん病院の外に出た。花屋を探し、そこで適当に花束を作ってもらった。

 案内でまどかの病室を確認し、病棟へ向かった。

 病室の入り口は開いており、ベッドが四つ見えた。

「しつれいします」顔だけのぞかせ、中の様子を伺う。白い壁、白いカーテンが目に飛び込んでくる。

 まどかはどこだと探しながら、おずおずと入る。いた。窓際の奥にまどかが横たわっていた。

 残りのベッド三つは空。部屋に患者はまどか一人だった。見舞いとはいえ、二人きりになると思うと少々緊張する。デートとはまた違うのだ。

「元気かい」

 俺は奥へと進んだ。まどかが恨めしげにこちらを見ている。

 左足の膝上から足底部までをギプスで固定されたまま、まどかはベッドに仰向けになっていた。額に腕を乗せたまま、首だけをこちらに向けた。寮から誰かが持ってきてくれたのだろう。ネイビーのスウェットシャツと短パン姿だった。スウェットシャツは俺が持っているものと色違いのものだ。

 まどかは今にも泣きそうな顔をした。俺は「大変だったな」と声をかけた。

 くやしい、とまどかは嘆いた。

「起こってしまったものは仕方がないよ」

 俺は花束を渡したあと、彼女の頭に手をあて、そっとなでてやった。彼女は声を出さずに一度頷いた。少しは落ち着いたようだった。

「ごめんなさい。みんなに迷惑かけちゃって」

「気にするなとは言わないけど、まずは早く治すことだね」

「うん。でも、足首だから、治るまで少し時間がかかるかもしれないって」

「いい機会だから、ゆっくり休めばいいじゃないか」

 まどかはうん、と応えはしたものの、何か言いたげだった。俺にはなんとなくわかった。

 しばらくの間、まどかは俺の手を握ったまま無言だった。花束が邪魔そうだったので、俺は花束をまどかから受け取り、窓際に置いた。

「実家からは、誰かお見舞いに来るの?」

「おかあさんが、今日の夕方、来るって」

 まどかは傍らのワゴンに置いてある携帯電話に目をやった。

「電話、していいの?」

「看護師さんが、動けないんだから使っていいって。この部屋は機械もないし」

「そうかあ、そりゃよかった。そういえば俺もしばらく実家には電話してないや。ま、それはそうとして、治ったら連れて帰るなんて言うかな、お母さん」

 俺は冗談のつもりで言った。

「わかんない。言うかもしれない」

 笑って否定されると思っていた俺は、返す言葉がすぐには出てこなかった。


 まどかは俺に視線を向けたまま動かない。

 彼女は今、独身寮に住んでいる。もちろんそこは女性だけだ。ただ、最近は後輩も増え、まどかも古株になりつつある。男と違い、所属単位の独身寮がないために、ところてん状態になることは避けられない。したがっていつまでも寮に入っているわけにもいかない。不公平だわよね、と最近よく口にしていた。

 そして親にしてみれば、いくつになっても大事な一人娘だ。嫁入り前で一人暮らし。遠くに出しただけでも気がかりなのに、怪我までされては、親として居ても立ってもいられなくなるだろう。まして寮を出なくてはならないとなれば、どうなるかわからない。

「最近ね、電話するたびに、見合いしないかって言われるの」

「はい?」

 初耳だった。

「ずっと断ってきたんだけど、こんなことになっちゃったから、今度は簡単に断れないかもね」

 いきなりのことだったので、俺はどう答えていいものかわからなかった。でも何か言わないといけない。

「でもまあ、治ってからの話だからさ。それまでによく考えたほうがいいと思う。まどかの人生だもの。見合いしたからって、その人と結婚しないといけないってことはないんだし」

 まどかはぎこちなく頷いた。

 別の言葉を期待されていたのはわかる。今の言葉は、自分でも少し冷たかったかなと思った。でも俺は、無責任なことは言いたくなかった。

 沈黙の時間がしばらく続いた。

 窓の外は、どんよりとした雲で覆われている。また雨が降りそうだ。

「わたし、本当は、実家に、帰りたくないの」

 突然まどかが言った。

「え?」

 俺は振り返って彼女を見つめた。彼女の瞳を見つめた。何かを決意したような、真剣な眼差しだった。

「学生の時、付き合っていた彼氏がいて、今は地元で教員をしているの。だから、もし地元で結婚して、子供が生まれて、学校に入ってって考えると」

「その人と会うかもってか」

 まどかは、ぎこちなく、ゆっくり頷いた。

 考えすぎだよと言おうかと思ったが、やめた。

「田舎は世間が狭いもの。いつ、どこで、誰に何を言われるか分からないでしょう。だから、その人と同じ土地にいないほうがいいだろうって思って都会に出てきたのがホントなの」

「知らなかった」

 言ってないもの、とまどかは頬を少し緩めた。

「せっかく出てきてよかったって思えたのに」

 今度は瞳が潤んできた。

 ん? と俺は自分を指差した。

 まどかは再び天井に顔を向け、両手で顔を覆い、頷いた。

「俺はその元彼に感謝しないとね」

 指の隙間から俺をのぞいたまま、まどかはもう一度頷いた。

 その晩、俺は久しぶりに実家に電話をした。


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