況や吾が下僕をや




 全くもって、夕紅とは素晴らしい色だ。

 紅と一口に言ってもそれは様々なモノを内包している。赤や橙はもちろん、紫や青、桃、白、灰、ましてや黒まで、その実、全てを混ぜてできる黒よりも多くの色を宿しているのかもしれない。そう思えてしまう夕紅から俺は目が離せない。世界中の、どんなに高名な作家、俺が好きなミレイだってあの色を描き出すことはできまい。

 崇高なあかだ。

 あの刹那にだけ存在することができる色。

 …この世の何より心理に近い。



「君は随分とアレを嫌うが、一体全体、私には美しく映る」

「私には汚らしく見えますよ。第一下品だ」



 しかしこれを嫌う友人が、そう言った。

 名を桜三おうみという。

 これがまた男の俺でも惚れ惚れしてしまうような男の子おのこである。自分はどちらかと言うと筋骨隆々、相反し巻毛で長めの前髪が憂めいて人を焚き付けるような容姿だが、桜三は丸縁の大きな眼鏡が似合う文学青年と言った感じだ。睫毛に縁取られた目は儚さと図太さを帯びこちらを見つめ、形の良い紅い唇からはその実罵詈雑言が飛び出す。

 とは言いつつも口調は丁寧なので、言葉の下にある意味を大抵理解しない者が多い。

 何せその美しさはルバイヤートのようなのだから。


 そんな友人とは長い付き合いで、よもや大学まで一緒になるとは思わなんだ。途中で退学するかと思えばそんな節は全く見せず二回生の半ばまで来た。その頃には二人共女好きで名は知られており、あやかりたい輩共がひっきりなしに駆けつけてきた。

 何にあやかりたいって?そりゃもちろん俺の才能と美貌、桜三の家名と才能にだ。

 去る者追わず来るもの拒まず、しかし多少の選別がそこにある。俺たちが連れ歩いても遜色ない人間でなければ、俺たちが夜中を歩き理由が消えてしまうからだ。


 ルバイヤートの君と、ある夜中を歩いていた時だった。

 路地裏で一人の女を二人で共有している場面を、名を忘れた学部生に発見される。の間ではよくあることだったのだが、そいつにはよほどおかしく見えたらしい。次の日大学に行くと有る事無い事吹聴されていて、俺のクラブの中身を話すことは許されないと固く言いつけていたのにも関わらず、だ。

 つまりはそいつの学籍を処分する事態にまでなってしまったのだ。

 全く、本当に品のない人間だった。しかも俺が気に入ってクラブに入れたものだったから罰が悪い。散々桜三に詰られていまだに笑い話にされているからたまったものじゃない。


 ああ、それにしても、本当、桜三と共に女を侍らせるのは気分がいい。

 ベルベットのソファの中心に二人で座って、左右には極上の婦人がいる様はさながらアラブのハレムであり、遜色ないだろうね。


 そこで紫煙を燻らせ

 唇を這わせ

 時には啄ばみ

 疑念の内に情欲に溺れてしまうあの、様



「さて、何が欲しいって問われたら何を思いつく?我が相棒」

「そうだな、やはり女でしょう。唾液をあの曲線に流れさせたい」

「天下の結城様の側にずっといるとやはり性癖も移ってしまうのかね」

「ふ、流石の俺もそこまで変態的ではない」

「この間人妻にサド役をやらせたと聞いたが」

「…背徳は誰でも背負いたいものさ」



 そう、背徳を背負いたい。

 背徳とは何か考えたことはあるか?

 罪を背負ってしまったという感情。普遍に反してしまった懺悔。己が欲望の深淵。重責。


 凡そ良き事とは言われない其れ等。


 俺はそれらを背負いたい。そしてそれが何よりも崇高な欲望だと、桜三には話して聞かせた。すれば奴も同意を示す。


 意外や意外。

 奴はあの顔と言動に似合わずロマンチストだったのだ。

 彼は言う。如何にして背負おうか。この世には静かな女しか要らない。静かなに抱かれて眠りたい。一等柔らかな肉に溺れて泡は女の口の中。


 のけ反らせた背は足のしなりと共に滴を、落とす。

 しかしそれは御前様ではなく、我が友人。

 それを見守り汗を拭ってやるのが御前様。


「あぁ…これでは言葉など不要の感性かもしれんな」


 校舎の窓から差し込む光は、夕暮れの淡い闇はその言葉を甘美なものに変えるのに充分すぎるほどだったのを覚えている。

 俺たちの放蕩生活は、以降、時折、しょっちゅう、団体ではなく二人だけで。


 あの会話から”背徳”が生まれたのだ。



 日々、高尚なものを生み出した。ルバイヤートを吐きだし頭の中に住み着いた男女を紙面で泣かせアカが入ればまた言葉を探す。幾枚もの原稿用紙が言葉という言葉に埋まり、俺たちの下敷きになった。刊行した雑誌に幾つもの書評が寄せられすれ違う教授陣からはまるで自分の事のように俺たちを褒めちぎる。

 そうしてまた、原稿用紙は生み出され踏みつけられた。

 何処からともなく舞い込んでくる紙幣は夜毎減っていく気配を見せない。極彩色のカフェーで両手に薔薇と牡丹を抱えようとも、足元に空き瓶がいくら転がろうとも気にする事はなかった。自らを先生と呼び慕ってる風の人間どもを相手にしていれば、薔薇も牡丹も椿も芍薬も百合も全て手に入るのだ。まるで神になったような気分。頭の中で酷く陽気なジャズが響いて口からは有る事無い事全てが現実として孵った。巫山戯て自殺しかけたことはいつの間にか女に殺されかけた話になっていた。


 紫煙の向こう側に見える桜三の斬とした瞳を見つめ返し、舐め上げるように動かせばそれは合図となる。

 喧しいサックスに身を任せれば狂乱が眼前に迫り来るのだ。

 昼から夜へと変わる夕暮れのように、極めて曖昧な女の身体が白いシーツに沈むのだ。


 とはいえ慣れというものが存在する。


 いつしか、転がる酒瓶を見て、気づいた。

 心の何処かでぽつねんとした寂しさというものが理解できてしまったことを。いや、寂しさというよりも虚しさか。

 畳を汚すことに何の意味があっただろうか。誰か


 カフェーでレモンタルトをいただいたとしよう。

 これに意味づけをしたことに誰が気づいた?

 まことしやかにささやかれる事実に、誰が俺たちを結びつけただろう。


「それでは、しばらく大人しく慎ましく」




 再び花弁の海から浮き上がってくるのに一年を要した。久方ぶりに誘った桜三に問われてしまうほどの期間であった。

 何故浮上できたかと言われれば、それは一年ぶりに同じテーブルについた日のことを思い出せばいい。


「最近二人きりがなかった理由を聞いても良いでしょうか」

「うん、まぁ、ただ単にいささか飽きたんだ。恐怖が薄れてしまったとでも言おうかね。僕の名声や、家名や、そういった傷ついたら困るものが一向に傷つけられる気配がないことが、めっきりやる気を削いでしまった」

「カナリヤでも買えば良いんですよ。最近流行りでしょう」

「可愛い声で泣けど僕の下から聞こえる声には勝てないだろうよ」



 少し浮かれているのだろうか。

 それはきっと桜三も同じだ。店に入ってきた女を、それまでつまらなさげにフォークをいじっていたが(それでも何処となく嬉しそうではあった)、すぐにあの眼を向ける。君が行った方がいいだろう、どうにも君はああいった女を弱らせるきらいがある。桜三は席を立ち俺の隣に檸檬色のワンピースを連れてきた。最近流行りの型のその服は安っぽい顔を夫人に仕立て上げるのに充分な役目を果たしていた。けれどその安っぽさが今の俺たちには必要だった。少し背伸びしてここにやってきたような、働く女性、それも文壇に上がろうともがく女性、煙草を燻らせる姿が連想できた。


 少し揺れる眼は顔は好物の一つだ。

 いや違う。

 流行に身を任せていればどうにかなるだろうという考えの元の安っぽさ。洗練さの欠片もない女に声をかけるのは桜三の役目で、首筋に顔を埋めるのは俺の権限だ。作家先生様をやらせていただいているのは名目上俺だからだ。


 どうだ、羨ましかろう。

 お前にこの安っぽさが理解できるか。

 かつて三度目で心中を成し遂げた小説家は言った。貧乏くさい女が好きだと。

 貧乏くさいってのは、つまるところどういうことだろう。

 しけった煙草ではないか。ラベルの剥がれた酒瓶ではないか。

 心中ではないだろうか。


 お前は静かな女が好きだと言ったが、それは矛盾している。

 女とは元来煩い生き物なのだ。愛を囁け、愛を謳え、愛を形に、子を作れ、目でものを言い感情論を持ち出しては脳髄の反射だけで生きている五月蝿い生き物が女であるよ。

 静かな女はもう、それは化物と言ったほうがよほどしっくりする。


 どうだ、お前に、理解できるか。

 この喧しく眉根を寄せる様が。

 お前に、この簡単に溺れる女が理解できるか。

 布ずれの音が虚しいこの温度が。


 …桜三はただタルトを口に運んでいた。

 それで気付けたわけだ。

 背徳を負いたいのではなく、その実、本当は、君のその顔が笑んでいるのを見たい。

 だから俺は甘い言葉を囁き繰り返し腹を裂いていたのだ。


 何故飽いたのかわかっていなかった。興味があると思っていた。自分に自分以外の存在が付加してきた富や爵位なんかが傷つく様を見てみたい。しかし蓋を開けてみればそんなことはどうだってよかった。

 数分前に自分が思った言葉を否定することになり、存外自分も阿呆だったことにも気がついて、余計に肌に噛みつきたくなる。


 俺が妙な執着心を向けるのは目前の美男子。

 人は脳髄に宿るのではなく言葉に宿る。言葉が獅子となり四肢を動かし私史を構成するのだ。そして容姿はいいスパイスとなる。

 やはり俺も所詮目の怪物だったわけだ、桜三の眼光から目が離せない。


 真に求めていることがわかれば、最早留まる理由はない。

 跋扈の日々が再開される。





 こうして花弁に沈んだ在りし日の噂が舞い戻ってきた。噂、というよりも、そうだな、まことしやかに囁かれている事実、とでも言おうか。


 ああ、俺と桜三と二人だけで徘徊した日に必ず女が消えるという愛すべき現実が帰ってきた。


 どうやって謳歌してやろうかほくそ笑んでいたその最中、兄から電報が届いた。中身は他愛無い事ばかりが書かれてあった。兄は妾腹であるため実家に用立てを申し入れることができないのだが、それ故印税を頼りにされてしまうのだ。よく出来た人で、あったのに。詮無い事だ、仕送りを送ることなど、しかし帰りに銀行による算段を立てている時点で結局俺も同情しているのだ。


 眉間に皺でもよっていたのだろう。

 ついと目線を動かすと桜三が覗いていた。些か驚いて酷く上擦った声が出てしまう。



「…君は兄が警官だということを知っているだろう?」

「もちろん、存じておりますとも」

「その兄が、最近遅く返ってくるものだから何かと思っていたんだが…どうやらこの近辺で事件が起きているらしい。だから気をつけるようにと」

「…どんな事件なんです」

「殺人、のようだ。まるで一年前のような」



 思わず書いていないことを口走る。桜三は俺の家のことをよくは知らない。かく言う俺も桜三の家のことは知らない。ただ名のある旧家ということぐらいだ。きっとそれはお互いこのまま変わらないのだろう。だが、だからと言ってこの場面で嘘をつく必要は皆目存在しない。

 何故かこの時ばかりは罰が悪くなった。気づいていなかったが、俺がこの男に嘘を吐くのはこれが初めての事だったのだ。


 それもあって、俺はあまり大学に顔を出さなくなる。

 もう一つの理由は印税を得るため長編を連載する羽目になったから。如何せん流石に大学に通いながら長編を書くというのは労力がかかりすぎる。そういう事で、週に二日足を運べば良い方で、講義に顔を出しても足早に帰るのが日常になっていた。

 もちろんその間、二人で出かけることはない。

 もちろんその間、女を連れ込むこともしない。


 だからだろう。

 思いがけず桜三に腕を掴まれた。

 案外力が強かったものだからギョッとして、しかしすぐに笑みを作り逸らす。俺はこいつの眼をその時以外直視したくないのだ。


 話をしようと連れられて行ったのは電報を読んだあの中庭で、向き合えば開口一番詰め寄られた。何を急いている、と。



「少し恐ろしくてな」

「何がですか」

「やはり、兄上ぐらいの下っ端でも尾っぽを掴んだことがさ」

「貴方の兄上はそんなに下級なのですか?」

「離縁しているからだろうな。そんなことより、どうしようか。まだ続けようか」

「警察が出歩くなと言っているのだったら、出歩かない方がいいでしょうね。女性などはもっと警戒するでしょうし」

「だが…」

「確かに父の権力も最近は衰えています。それに久しぶりで些かはしゃぎすぎた節が…」

「しかし続ければ…」



 と、いう風に少し弱々しいところを見せてみた。傲岸不遜、厚顔無恥、唯我独尊を地で行く俺にしては珍しい言葉選びだが、ああ、やはり、そうして正解だ。

 君のそんな悩ましげな顔を見れる。

 今夜、カフェーで、とだけ言って去っていった方角を見遣れば、月桂樹の葉が揺れているのが目端に写った。



 カフェーにつくと、神妙な面持ちで彼はそこにいた。しかし話の調子はいつも通りだ。いつも通り冷静沈着で、丁寧に悪意を縁取る言葉たち。


 俺は言った。気にしなくて良いだろう、世間様の口々など。俺たちはやりたいことだけやって生きていく、そう決めただろう。

 俺は腹から溢れるあかを見たい、お前は静かな女を求める、それ以外は消してしまいたい。ほら、利害が一致しているではないか何処までも。

 過程は仲睦まじく分けて、結果はどちらかに譲るのだ。


 …五月蝿い女が消えれば、君は笑ってくれるだろうか。



「ああ下品ですね。誰が貴女の声を聞きたいなど思っていると?全く」



 今夜選ばれた女は結局ナイフの露と化した。

 桜三は煙草を一本取り出して、俺はそれに火をつける。白い煙の向こう側には俺の好きな色があって、俺の宝物がその色に染まりかけていた。

 大変申し訳ないが、今日は俺の番だったらしい。一昨々日の許容範囲限界の女以来桜三の番が回ってこなくて鬱憤が溜まっているようだった。

 が、それも仕方がないだろう。君の条件は些か厳しすぎるのだから。

 だからわざとこういう言葉をくれてやる。


「君は本当見向きもしないんだなぁ。俺はここからが好きなのだが」

「言ったでしょう。どうも好きになれないんですよ。夕紅でしたか、私はその色は嫌いなんですよ」

「はは……まぁまた、これで世間様に秘密ごとができたんだ。喜ぼうではないか」



 するりと腕を首に回して頬に唇を近づける。男にしては襟足の長い髪はさながら絹のようだったが、今は紅に染まっている。俺が一等好きな色。決して絵具などでは表現できない色。唯一似ているのがあの真っ赤な日暮れ夕暮れ。


 …何故嫌いなのだ



「レモンのように鮮烈だろう…一等私が好きな紅に一等似合うのはあの鮮烈さだ。そしてそれは自分の地位を脅かす恐怖に似ている」



 理解しろとは言わない。

 してくれなくて良い。このエクスタシィは俺だけのものなのだから。しかし嫌いとあからさまに言われてしまうのは、少し気分が悪い。

 今は、許そう。

 いつか君好みの静かな女が現れたら、それを夕暮れに仕立て上げるのみだ。

 一等美しい君の笑顔を君の一等気に入りの女の紅で彩ってあげよう。

 そうすれば鮮烈な最後になるはずだろう?



 ああ、この世で一等好きなものがある。

 一等欲しいものがある。

 それはきっと夕紅のように哀傷的で美しく、レモンのように強烈なはずなのだ。

 桜三がたとえ死んだとしても俺は求め続ける。

 その確信だけ胸中にあった。


 ふと目を向けた先には、カナリヤが飛んでいる。








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夕紅とレモン味 朔 伊織 @touma0813

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