夕紅とレモン味
朔 伊織
人間と雖も人ならず
嫌いなものがある。
この世でたったひとつだけと言ってもいいくらい、嫌いなものがある。
どうしてそれが嫌いなのかと問われれば、私はよくわからないと答えるしかない。ならばどうしてそこまでそう言い切れるのかと、矢継ぎ早に聞きたくなるだろう。しかしどう考えても、どう捉えても、どれだけ見つめて考えて熟考して深く深く息をしたとしても、私は夕暮れを受け入れられない。
特にあの、今目の前にある、ぶちまけられた紅を。
夕紅と、言うそうだ。
染め上げるあの独特な、薄がかった赤のことを。どことなく紫とピンクと、橙、時には白さえ混じったあの紅はそんな大層な名を付けられているそうだ。博識な友が隣で囁いて初めて私は恨む相手の正式名を知った。
「君は随分とアレを嫌うが、一体全体、私には美しく映る」
「私には汚らしく見えますよ。第一下品だ」
そうかい、それなら仕方がない、友はそう言って家路を急いだ。それに続く。
その友は結城、といった。大層な美丈夫でその上才覚もあるというのだから周囲からは羨望の目線を向けられて止まない。中等学校からの付き合いで、そのまま共に同じ大学に進んだのだが、そこでも、結城は惜しみなく自分の魅力をさらけ出す。当然女どもは誘蛾灯に誘われるの如く結城に近寄り、抱かれ、離れ、それは幾度も繰り返されていた。そのおこぼれに預かるのが私だが、私も充分に顔が整っているので、二人で掃いて捨てていた。
そんなことをしていればあっという間に大学で有名になる。そもそも入学した時点で顔の綺麗な男が並んで立っていれば騒がれるほかないだろう。
多くが大学で知り合う中で、私たちはほとんど一緒の行動をしていたものだから、すぐに同じ中等学校出身だということが露見し、物珍しさで近寄ったものたちは結城の魅力に取り憑かれ、私の家名に寄生し、私たちも付き合う”友”は考えるので選りすぐりの集団が出来上がるのにそう時間はかからなかった。
私たちの一日は存外早くに始まる。
きっちり時間通りに大学に赴き講義を受講する。これグループに属しているための唯一決められたルールだった。私たちは優良な政府幹部候補と作家先生であるので、爛れた性生活を漏洩されたり感づかれては堪らないのだ。幸い生徒たちの噂など聴講態度や寄付金でどうとも捉える教授陣しかいなかった。
此れ幸いとかこつけて放蕩生活は極まっていく。
早くに講義に出席した我々は空が赤く染まる頃を皮切りに、街に繰り出し酒場に入る。そこにはいろんな女が選り取り見取りだ。顔良し金良し感性良しと女が欲しいものすべてを取り揃えた男たちは引く手数多だった。
手を滑らせ
舌を滑らせ
揺れて震えて
交わして
溢れて溢れさせ
染まっていく様。
やはり皆が欲しがるのはそれらだった。
「何が欲しいって問われたら何が思いつく?我が相棒」
「そうだな、やはり女でしょう。唾液をあの曲線に流れさせたい」
「おや、天下の結城様の側にずっといるとやはり性癖も移ってしまうのかね」
「ふ、流石の俺もそこまで変態的ではない」
「はっ、この間人妻にサド役をやらせたと聞いたが」
「…背徳は誰でも背負いたいものさ」
次第に街でも私たちは名が通る。カフェーで個室に通されるようになったのが良い例だ。
その日も、私と結城は行きつけのカフェーで品定めをしていた。紅茶とレモンタルトを頂きながら、あの女がいいだの、弾力がちょうど良さそうだの、痩せすぎだの太り過ぎだのああだのこうだの本日のディナーもといデザートを考えていた。
久方二人だけでの外出だった。幾分それがすぎて、もう一年ほどになるか。故に少し距離感がわからない。いつも第三者という緩和剤でこの、強烈な友人を抑えていた節がある。同性でも直視するには耐えないのだ。こいつは。決して惚れるようなことはないけれど、やはり名声や金に固執するのが天職とも思える男の性は、結城という男を捉えて離さない。
「最近二人きりがなかった理由を聞いても良いでしょうか」
「うん、まぁ、ただ単にいささか飽きたんだ。恐怖が薄れてしまったとでも言おうかね。僕の名声や、家名や、そういった傷ついたら困るものが一向に傷つけられる気配がないことが、めっきりやる気を削いでしまった」
「カナリヤでも買えば良いんですよ。最近流行りでしょう」
「可愛い声で泣けど僕の下から聞こえる声には勝てないだろうよ」
結城の好みの女は声が鈴のようで、華奢な、それこそカナリヤのような女だった。そんな女に無理をさせるのが好きだと酔った拍子に言っていたことを思い出す。
レモンタルトを口に運びながら、そういえば何故レモンなのだろうと思った。誰が注文したわけでもない。常連にもほどがあるので、店に入ると紅茶とこのケーキが自動的に提供されるのだが、それがいつから意味を持ち何故このケーキなのかは全く知らない。しかも出されるようになってから種類が変わったことはなかったように思える。試供で出されているわけでもなさそうだし、しかし結城はレモンが好きだと聞いたことはない。
この時初めて尋ねてみれば肯定の言葉が返ってきた。曰く、「鮮烈だろう」だそうだ。
そんな話をしていれば、一刻ほどもすぎた頃だ、一人の女が店のベルを鳴らした。ふと顔をそちらに向ければ如何にも結城好みである。しかも狙ったかのようにレモン色の襟付きワンピースを着ていて、ちらと友人の方を向けば目線が合う。私が行くよりも君が行った方が女は喜ぶだろうよ。それとも最初に
どうもその案がいいだろうということでスツールから腰を上げる。
——お嬢さん、今日は盛況だそうだからどうも席がない。よければ相席していただけませんか。
——いただけませんか、だなんて…でもお兄さんはお困りにならなくて?
——困るだなんてとんでもない。男二人、寂しく暇を持て余していたところです。
楚々としている、が、目はしっかと結城を見ている。見事に釣れたわけだ。
二言三言交わしただけでもうすっかり女は結城のものだ。どうだ、羨ましいだろうと言わんばかりの目がこちらに向けられるが、あいにく結城と私は好みが激しく違う。私はもっと静かな女がいい。いっそ義務と感じているような女がいい。隠れた女の性欲なんぞ見たくもないのだから。
あぁ、それこそ人形のような、純真無垢な、穢れたとしても穢れない女。私が放蕩生活を送る理由の一つ。
だが今日はご来店なさらないようだ。
…ちょうど、いいかもしれない。
甘い言葉を吐き続ける薄い唇が首元に沈み始めたところで、お誘いがかかる。
あの時ああは言ったけれど、レモンタルトさえ頂ければ私は断ることがない。
その日からまた、私は結城と二人で夜を跋扈するようになった。
ある日から、消えかけていた噂が舞い戻ってきた。
酒と煙草と女という、人を使い物にならなくさせるものに溺れていた時だ。
大学の人目につかないところで煙を吹かす。手には簡単なことを小難しく書いた本。一応勉学の徒の自覚はあるのだが、傍の結城はそうでもないらしい。今朝送られてきた電報を一心不乱に読み耽っている。
声をかけると、存外引っくり返った声が返ってきた。いつも冷静沈着な結城が珍しい。本人もそう思ったようだ。
「君は兄が警官だということを知っているだろう?」
「もちろん、存じておりますとも」
「その兄が、最近遅く返ってくるものだから何かと思っていたんだが…どうやらこの近辺で事件が起きているらしい。だから気をつけるようにと」
「…どんな事件なんです」
「殺人、のようだ。まるで一年前のような」
女が一人ずつ消えていく、というものが一年前に起きた殺人事件だ。
夜毎、女が家路の途中で消えてぷっつりとこの世から絶つというもの。遺体は酷く傷つけられ欠けた状態で見つかることが殆どで、噂では、誰かが食っているのだと。
その噂が今一度巷を蔓延っていた。
どこからか女がいなくなった時点で、過去は呼び起こされ、勝手に噂が独り歩きを始める。過去と同じとは誰も言っていないのに。
結城はそれからあまり大学に顔を出さなくなった。
週に二、三見かけたとしも、すぐに何処かへ消えて、すぐに見失った。今までにない行動ばかりで私は戸惑う。他の仲間に聞いても最近は足早に帰路につくと言うだけで詳しいことは何もわからない。
流石に私も不審に思って、講堂から出ようとする結城を引き止めた。かなり驚いたのだろうか。ぎょっとそのガラス玉はこちらを見てすぐに逸らされた。
それがあまりにも結城らしくなくて、思わず私もびっくりしてしまうほどだ。兎も角話をしやすい場所に行こうと言って、あの日結城が電報を読んでいた中庭に移動する。
やはり今日も人はいない。
さて、と私は向き直る。
何があった、お前らしくないぞと詰め寄れば観念したのか、一つ重い溜息を吐いた。
「少し恐ろしくてな」
「何がですか」
「やはり、兄上ぐらいの下っ端でも尾っぽを掴んだことがさ」
「貴方の兄上はそんなに下級なのですか?」
「離縁しているからだろうな。そんなことより、どうしようか。まだ続けようか」
「警察が出歩くなと言っているのだったら、出歩かない方がいいでしょうね。女性などはもっと警戒するでしょうし」
「だが…」
「確かに父の権力も最近は衰えています。それに久しぶりで些かはしゃぎすぎた節が…」
「しかし続ければ…」
それはそうだろう、だが、と反対の声音を作る。私も賛成だ。危険を冒してまで夜遊びを続ける必要はない、しかし、それでは意味がないだろう。よもやそれに気がつかない結城ではあるまい。
私はこの話は今夜あのカフェーで、とだけ伝えて足早にその場を去った。
何故って…私も柄にもなく焦っていたからだ。
夜半、カフェの奥で私と結城は考えていた。これからの身の振り方を。
やはり警察が活発になるのは避けたいのだ。奴らは存外法律というものに忠誠心を持っている。その点を考えた時、これ以上はあまり派手にやらないほうがいいのでは、というのが二人の見解ではあるのだ。
しかし、ここでやめてしまっては。
露見してしまうだろうな。
折角普段から仲間を募って派手に騒いでいるというのに、そして印象付けているのに。境界線は守っている、と。
私はしかし、昼間よりも落ち着いていた。気に入りの女がやっと手篭めにできたからというのもあるのだろう。
故に打開策もすぐに思いついた。
まだ、続けるという打開策。
すぐに実行に移した。
ふ、と吐けば柔らかに上下し
吸い付くようななだらかな曲線は
絹髪を纏う
てらてらと光る頬は私が撫でて
黒子のある背中は結城が滑る
それでいい
そのまま
静かに堕ちろ
静かに艶めかしく
今日こそ見つけたいのだ
そう思った瞬間。
高い声音が部屋に響いてしまった。
途端私の中にあった背徳は消え去って、らんらんと獲物を見抜いていた眼は通常に戻る。
悟ったのだろう。
結城は女をひっくり返して
「ああ下品ですね。誰が貴女の声を聞きたいなど思っていると?全く」
衣擦れの音共にマッチをする音がして、咥えた煙草に火がつく。紫煙を吐き出せば、密室故滞留して眼前は真っ白だ。それにすら紅が映りそうで嫌になる。
「君は本当見向きもしないんだなぁ。俺はここからが好きなのだが」
「言ったでしょう。どうも好きになれないんですよ。夕紅でしたか、私はその色は嫌いなんですよ」
「はは……まぁまた、これで世間様に秘密ごとができたんだ。喜ぼうではないか」
するりと蛇のような腕が絡んでくる。
耳元で、呟いたのは、何故嫌いなのだという問いかけ。
「レモンのように鮮烈だろう…一等私が好きな紅に一等似合うのはあの鮮烈さだ。そしてそれは自分の地位を脅かす恐怖に似ている」
またするりと離れた腕はそのしなやかさを持って、流れ出る紅を掬う。
曰く、この非道徳の中でしか見れないその色を合法的に見るには、夕暮れが一番いいそうだ。あれが一番似ていると言った。そうして日々の興奮を抑える。殺したいその衝動を抑える。
本当、結城とはつくづく好みが逆だ。私は美しい静寂を閉じ込めたい、だけ。卑しい女が相反するそれを身に宿していたらどんなに美しいだろうか。
…嫌いなものがある。
この世で一番嫌いなもの。それは夕紅で、何故かと問われれば不毛だからと答えるだろう。見つかることはないとわかっているが、それでも探し求め続けてしまい、不毛な抜け殻を作ってしまう。そして最も私が求めるところとは反対に位置し、汚れている。
その現実から逃避するには何の因果かレモンが一番いいと思うのだ。夭折の作家が爆弾に見立てたからだろうか?
ともかく紫煙と嫌いなモノに塗れながら私は、カフェーから持ってきたレモンタルトを食べるのだった。
睨む先にはカナリヤが飛んでいる。
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