くそばばあの店

新巻へもん

第1話 女の武器

「はあ。マジやってらんない」

 私は目の前に積み上げられた皿を前にうんざりしていた。ここはステラ婆あの店の洗い場だ。山のような汚れた皿を1枚取って洗っている間に新たに2枚がやって来る。今までやったことのない皿洗いをそんなに早くできるわけが無かった。


 ついこの間まで、私はこの町の金持ちの家で不自由なく暮らしていた。小奇麗な家に住み、召使いがいて、服も装飾品もねだれば何でも買ってもらえる。月に2度ほど泊まりに来る旦那の相手をすればいいだけだった。ちょっと年を食っていたが苦み走ったイイ男だったし苦痛ではない。結構上手だったし。


 そんな生活が終わったのは、旦那が別の家で突然死したからだった。今まで顔も見たことなかったおばはんが使用人を連れて乗り込んでくると私を家から叩きだしやがった。ほとんど着の身着のままで追い出されたが、最初のうちは高をくくっていた。私ほどの器量なら、新しい旦那ぐらいすぐに見つかるだろうと思っていたのだ。


 ところがそれは甘い考えだとすぐに思い知らされる。元旦那の正妻だとかいうおばはんが裏で手を回していた。私を囲おうとするならモルト家を敵に回す覚悟をする必要があるんだそうだ。良く分からなかったが、私の新しい旦那はなかなか現れなかった。


 安売りをするつもりは無かったが、こっそり持ち出した金が底を尽きそうになり、娼館に行くか、酒場で一夜限りの相手を見つけるかをせざるを得ないようになるまで追い詰められる。そして、私の男運は尽きていた。酒場で見つけた傭兵をしているという流れ者はとんでもない野郎だった。


 男は私を裏道に引きずり込む。

「ちょっと、こんなところで、やめてよ」

 声をあげる私の頭を殴りつけ、目から火花が散った。目をぎらつかせながら相手の男が私の服を引き裂く。そのとき、すぐ脇の小さな扉がパッと開いた。恐らく店の通用口なのだろう。エプロンをつけた逞しい女がぬっと出てくると手にした太い棍棒で男を打ち据えた。


「ウチの裏は安宿じゃないんだ。こんなところでやめとくれ」

 男は完全に伸びていた。後で知ったがこのステラ婆あは若い頃は冒険者をしていて相当名をはせた戦士だったらしい。

「あんたもこんなところで商売をするんじゃ……」


 途中で私の顔を穴のあくほど見つめる。

「何か、私の顔に……」

「ふーん。そういうことかい。あんた、その気があるならウチの店に置いてやってもいいよ。どうせ行く場所もないんだろ?」


「何をすればいいの?」

「最初は皿洗いかねえ」

「馬鹿にしないでよ。誰がそんな仕事」

「まあ、好きにしな。その格好で出歩いて襲われたいなら止めやしないさ。まあ、ウチの裏じゃうるさいから他所でやっとくれ」


 私は胸や腹がむき出しになっていることに今更ながら気づく。宿代が払えなくて追い出されたぐらいで、服を買う金も無い。私は敗北感に打ちひしがれながらも、婆あの差し出した手を握った。


 婆あの店は料理が旨いという理由で繁盛している。確かに賄い飯は上品さには欠けるが美味かったのは否定できない。ただ、不満だったのは私を店に立たせてくれないことだった。婆あの店には街の金持ちも結構客として出入りしているのに。


 注文を取ったり、料理を運んだりする方が皿洗いより楽そうだし、うまくすれば上客を捕まえられるかもしれないという目論見は、婆あによって打ち砕かれる。

「あんたの持ち場はここだよ」

 大量の皿を洗ううちに私の手は荒れてしまった。


 もう一つの不満は、私にあてがわれた部屋が窓も無い屋根裏部屋だったこと。一応、ちゃんとしたベッドがあり、寝心地は従前使っていたものより劣ったが、疲れのせいでよく眠れはする。知り合いになった隣の部屋の女は天国のようだと言っていた。

「暖かい食事がとれるし、殴られないし、それに寝床が藁じゃないのよ!」

 まったく言っている意味が分からなかった。


 ***


 一月もすると皿洗いにも慣れた。すると、今度はイモやにんじんの皮むきをやらされ、すぐに手が小さな傷だらけになる。

「時々でいいから店に立たせてよ」

 私が頼んでもステラ婆あは、フンと笑うだけだった。


 この頃から、私は心の中で、婆あと毒づくようになる。一応、行き場のない身を拾ってくれたことは恩にきていたし、周りの連中も皆ステラ婆あを誉めそやす。

「ぶっきらぼうだし、とっつきにくいけど、あんなにいい人はいないね」

「この恩は一生忘れないわ」

 でも、そういう声の中でも私はそんな気にはなれなかった。


 3食にはありつけるとはいえ、給金は極わずかであり、与えられたダサイ服では表通りも歩けない。昔を懐かしむ気持ちが知らず知らずのうちに婆あへの恨みへと変わっていく。もっとも逆らうことは難しかった。まるで丸太のような腕は私の首なんか簡単に折れそうに思えたからだ。


 そんなある日、ステラが店に居ない日に私は表に出て接客をしてみた。接客用の服を着た私の姿に男どもの視線はみんな釘付けになる。高い酒が飛ぶように売れ、その日の売り上げは過去最高を記録する。その事実を得意げに告げた私に対して、ステラ婆あは何も言わず、諦めたような表情をしただけだった。


 その翌日、ステラ婆あに厳命されて、イモの皮むきをしていた私に店の中の喧騒が聞こえてくる。

「つまり、モルト家を敵に回そうというのだね?」

 私は厨房の入口からそっと覗く。私の元旦那の正妻が手下を連れて乗り込んで来ていた。


「言ってる意味が分かりませんね」

 ステラ婆あの声が固い。手には肉切り包丁が握られていた。

「あなたにとって大切な人間ではないでしょう? それを引き渡すだけでトラブルを回避できる。どうしてそうしないんです?」


「うちの夫はね。一度手を差し伸べた相手はその後、手を払われても見捨てなかった。いい男だったよ。私にはもったいないぐらいのね。その夫の遺言だ。背いたらあの世で会わす顔が無くなっちまう。あの世でも、もう1回添い遂げるつもりなんだ。邪魔しないでおくれでないかい」

 婆あの内側から得体のしれないものが膨れ上がり周囲を圧倒する。


 乗り込んで来ていた戦士風の連中の顔色がさっと青くなり、元旦那の正妻の耳元に口を寄せて早口に何か言う。

「分かりました。でも、店に出すのはやり過ぎではなくて?」

「それは私の監督不行届。お詫びしましょう」

 その言葉を聞くと乗り込んで来ていた連中は去っていた。


「あんた馬鹿じゃないの?」

 その日の夜、隣の部屋の女は私を罵った。なんでも、私の元旦那の正妻はこの街の有力者なんだそうだ。夫が囲っていた女に並々ならぬ憎しみを抱いていて、私以外の女たちは悲惨な人生を送っているらしい。


 娼館に高額の前借金で売り払われ最低価格で毎日客を取らされたり、荒野を行く隊商に売り払われたり、正妻の下で毎日こき使われたり、それはそれはもう酷い有様なのだそうな。娼館の女は体を壊し、隊商の女は山賊に襲われ行方知れず、正妻の下女も過去の美しさは見る影もないとのことだった。


「あんたはさ、ステラ様に拾われただけ幸せだったんだよ。折角世間から身を隠せたのに、それを無駄にしちまって。モルトのおばはんが乗り込んで来ても追い返してくれたステラ様に感謝しないと罰が当たるよ」


 最初はまともに取り合わなかった。が、店の人間が元旦那の正妻がいまだに私をめちゃめちゃにする気でいるという話をするので、気が滅入ると共に、ちょっとだけステラ婆あに感謝した。そして、その話は単なる噂ではないことを思い知ることになる。


 ある日の事、店で使う香辛料が切れてしまった。本来、庶民相手の店で高価な香辛料を使うことが珍しいのだが、ステラ婆あは極少量ながら香辛料を使い味を引き立てる術を知っている。私は元々かなり贅沢な生活をしていたので香辛料の種類や良し悪しについて店の他の者よりは詳しい。ずっと店に閉じこもってばかりだったので交易商の店までお使いにいくことを志願した。


 最初は渋っていたステラ婆あだったが、最後は了承し、まっすぐに行って寄り道せずに帰って来るようにと言った。私はウキウキしながら久しぶりの外出に心を躍らせる。交易商の所なら、他の街の有力商人が出入りしている可能性もあった。この街から連れ出してもらえるかもしれないとの淡い期待も胸に抱きつつ歩いて行く。


 残念ながら、いい男を見つけるという目的は達成できなかった。それでも、香辛料の見立ての良さを褒められ、中々にいい買い物をして帰途についた。これなら婆あも文句は言わないだろうし、褒められるかもしれないと虫のいいことを考えて歩いていると、いきなり馬車が横付けして中に引きずり込まれた。さらに後ろから一人の男が私を押し込むように乗り込む。


 馬車は走り出し、私は座席に押し付けられる。馬車の中にはあまり小奇麗とはいえない顔の下半分を覆った男たちが、目だけをギラギラさせて私を見ていた。その内の一人が私の脚に手を伸ばす。私は香辛料の袋を片手で抱えながら、もう片方の手でその手を払いのけようとした。


「がっつくな。この後にお楽しみの時間はたっぷりあるんだ」

「たまらねえな」

「しかし、折角の上玉をもったいねえ。高く売れるだろうに」

「その分、普段はできねえことを好きにしていいとの仰せだ。なるべく苦しませてから……」


 私はこの後に待ち受ける運命を覚る。この臭い男たちに弄ばれた挙句に殺されるのだ。どうやら、元旦那の正妻の怒りは生半可なものではないらしい。特に今までのうのうとその魔手を逃れてきた私には特別憎しみが強いのだろう。こうなったら逃れる術はない。いっそ舌をと思ったが、素早くボロ布が口に押し込まれる。


「こっそり、他所に売っぱらっちまえばいいんじゃねえか?」

「そうもいかねえ。このスケが半死半生のざまを見にくるそうだ。唾吐き掛けてやるんだとよ」

「おお、おっかねえ」

 命だけは助かるかもという希望も打ち砕かれ、私はうなだれる。


 絶望に苛まれる私は馬車が急に止まり前につんのめった。男の一人に抱きかかえられる形になり身をよじる。

「一体どうした? 急に止まるんじゃねえ!」

 馬車がかしぎ、御者が座席から降りたことが伝わってくる。男たちの一人が外に出た。 


 すぐに男は取って返してきて、私を馬車から引きずり出し、他の男達も私を取り囲むようにして馬車を降りる。午後の日差しを正面から浴びて眩しさに目がくらんだが、目を閉じる前に私は見て取った。ステラ婆あがウォーハンマーを手に立っている。その姿は伝説の魔王もかくやという殺気に溢れていた。


「私の店のもんをどこに連れていこうってんだい?」

 男たちは愚かだった。まあ、金と欲望に吊られてこのような仕事を請け負う時点でそれほどの腕ではない余所者の破落戸ということは分かる。


 かく言う私も実際に目にするまでは、大げさと思っていたが、ステラ婆あは圧倒的に強かった。小剣を抜いて切りかかった破落戸は、1回も剣を合わせることもできずに鈍い音と共に地面に転がる。かなり重いはずのハンマーを軽々と操って、婆あは男達を叩きのめした。


 私にナイフを突きつけていた最後の生き残りも、手を柄で打ち据えられた後に鳩尾に一撃を食らってくずおれる。

「アリス。何をぼさっとしてんだい。行くよ」

 婆あは私の口からボロ布を引き抜くと汚らわしそうにポイと投げ捨てた。


「どうしたんだい? 足に根でも生えちまったかい?」

 婆あは私を睨むが、足が震えてしまい一歩たりとも歩けそうになかった。婆あは私を上から下まで眺めるとフンと鼻を鳴らす。

「あたしゃ、そういう趣味は無いんだがね」


 気が付くと私は婆あに横抱きにされていた。

「今まできちんと離さずに持っていたんだ。落とすんじゃないよ」

 その声にしっかりと香辛料の袋を抱きかかえる。


 店に戻ると婆あは文句を言った。

「いつまでしがみついてるんだい」

 その声で助かったという安堵の想いが広がり、私はガタガタと震えだしてしまう。婆あは私の手から香辛料の包みを受け取ると料理人に渡した。

「誰か、この娘を部屋に連れて行ってやんな」


 ***


 婆あの腕前を見てから、ちょっとだけ私は従順にすることにした。自分が短い一生を終えるはずだった運命を捻じ曲げたのは、このステラ婆あということは不承不承ながら認めざるを得なかったからだ。


 ステラ婆あはおっかなかったが、子供には信じられないほど甘かった。店の表側では物乞いの子供がやって来るともの凄い形相で追い払ったが、夕闇に紛れて、こっそり小銭と余りものの食べ物を施しているのは店の者なら誰でも知っている。


 この街は交通の要衝にあり、多くの旅人が訪れた。中には奴隷商人もいる。荒縄で数珠繋ぎにされた痩せこけた子供達をつれた奴隷商人は、乗っていた馬と一緒に子供達を店の脇の納屋の柱につないで店に入って飲み食いをする。


 子供たちの様子を見た婆あの形相が変わる。手足に残る鞭の跡、ぼんやりと放心した目は確かに見られたものでは無かった。婆あは奥歯を噛みしめていたが、私の方を向くと言う。


「あの客の給仕をしな」

「いいんですか?」

「ああ。それで、頃合いを見計らって、子供たちに食事を与える許可をもらうんだ。ただし、下品な真似はすんじゃないよ」


 言われるまでも無かった。私にかかれば、あの程度の男達を手玉に取ることなど容易い。適度に愛想笑いを振りまいてから、殊勝に切り出す。

「あの。お客様。あの納屋の子に食事を与えても構わないでしょうか。故郷に残してきた弟に雰囲気が良く似た子がいて……」


 ほどなく、許可を得た旨を婆あに報告すると、婆あは歯を見せて笑った。

「さすが、男の心を蕩かす術は大したもんだね。じゃあ、あの客たちにはと食事と酒を楽しんでもらいな」

 私は言われるがまま、新たな料理を客に勧める。

「少々お時間がかかりますが、この店一番の料理、お勧めですよ」


 厨房とテーブルを行き来する合間を見て、私は好奇心に駆られて納屋をこっそりのぞいた。そして、それこそ仰け反りそうになるほど驚く。婆あがそれこそ聖母のような慈愛に満ちた顔で子供たちに食事を与えていたのだ。高級とは言えないが、消化が良く栄養のある料理を振舞っていた。ステラの元気がでる特製スープ。


 先を争って食べ物に群がる子供たちにやさしく言い含める。

「慌てなくていいから。良く噛んでお食べ」

 そして、疑いの目でじっと他の子どもの様子を見ていた年かさの男の子がいると、なんと婆あはガバと抱きしめた。


 熊だって絞め殺せそうな婆あに抱きすくめられてもがいていた男の子は、婆あがずっと囁いているうちに、ポロポロと涙を流し始める。薄汚れた頬に幾筋もの跡を残しながら声をあげずに泣いていた。そして、婆あに促されるままに食事の輪に加わる。

 

 結局、その奴隷商人たちは、3日ほど併設している宿屋に逗留した。行先の道に出た狼の群れを街の騎馬隊が繰り出して追い散らすのを待っていたためだ。奴隷商人たちが出立するときには、婆あは顔を見せなかった。子供たちは何度も振り返りながら引き立てられていく。最後尾にいた年かさの少年、ザックというガキは最後まで後ろ髪を引かれるようにして歩いていた。


 ***


 それから10年近い歳月が流れた。


 二十歳前の小娘だった私も、どちらかと言えば行き遅れと言われる年になる。手入れは欠かさないようにしているのでそれなりに容貌は保っており、言い寄ってくる男がいたが、私の方が興味を失っていた。攫われそうになった一件以来、この店の外には恐怖しかない。


 ステラ婆あは年を取った。特にここ1年ですっかり元気を無くしてしまっていた。信用していた帳簿係の男が大金を持ち逃げしてから、店の方も資金繰りが苦しくなっている。なんとか店は維持できていたが、羽振りが悪くなると同時に店を去る者も増え、以前の活気を失い、灯が消えたように淋しい。


 ある日、この街を治める役人がやってきて、臨時の税を納めるようにとのお触れを告げた。なんでも、この街を含めて近隣を治める伯爵さまが代替わりしたとかで、そのお祝いをそれぞれの街で出すことになったそうだ。店の大きさによって割り当てられた金額は金貨50枚。ステラ婆あは気丈に聞いていたが、とても払えそうな金額ではなかった。


「他のもので払う方法もあるぞ」

 役人は嘗め回すような視線で私を見てから去って行った。厳しい顔をしていたステラ婆あは役人が去ると穏やかな笑みを浮かべる。

「あんたが心配することはない」


 しかし、今すぐにこの店に払える金では無いのは確かだった。店を他人に譲り渡すほかには算段がない。もちろん、一介の女にすぎない私にも尋常な手段で用意できるものでは無かった。いや、一つだけ、私には大金を手に入れられそうな方法がある。私は震える手で手紙を書いた。無学だった私に読み書きを習う手立てを講じてくれた婆あに感謝しながら。


 翌日に簡単な返事が来て、さらにその2日後に婆あの店の前に立派な馬車が止まる。元旦那の正妻が降りてきて、店の中に入ってきた。カウンターのところに居た私のところに歩み寄ると、目に炎をたたえながら勝ち誇った笑みを浮かべる。なんとまあ執念深い事だろうか。だが、それが大金に代わるのだ。


 ステラ婆あが寄ってくる。

「とっくの昔に話はついてると思ったがね」

「私が用があるのは、こちらの女よ。手紙を貰ったの。身売りをしたいってね。そうだったわね?」


 わざとらしく聞いてくるのにしおらしく返事をする。

「盛りの過ぎた女につける値段としては破格だけど、奴隷になるというんじゃねえ」

 復讐された他の女たちもあくまで身分は一般市民のままだった。多額の借金に首が回らなくなってはいたものの一応は法の保護を受けられる。一方、奴隷は物でしかない。壊そうが何をしようが自由だった。


「金貨60枚だったかしら」

 後ろに控えていた男が大きな革袋を手に前に進み出る。

「あんた、勝手な真似をするんじゃないよ」

 ステラ婆あに往時の迫力が甦っていた。

「さあ、さっさと済ませましょう」


 ステラ婆あは憤怒の表情をしていた。

「認めん!」

 袋を持った男を睨みつけると男は思わず後ずさりをしていた。次いで、その殺気が私にも向けられて、私も身震いする。


 その瞬間に表が騒がしくなった。数頭の馬のいななきが聞こえる。すぐに立派な身なりをして顔の上半分に仮面を着けた男が数人の男を連れて店に入って来た。取り巻きのうちの一人はこの街の役人だった。いつもは尊大な役人が揉み手をせんばかりにして、仕立ての良い服を着た男の後ろに控えている。元旦那の服も豪華だったが、この男の物には数段劣った。


「ふむ。営業しているかと思ったが……、どうやら取り込み中のようだな」

 仮面の男からは想像よりも若い声が漏れる。低音のいい声だった。場面が場面だったが、その声だけで私の体は疼く。先ほどまで勝ち誇っていたおばさんも乗り込んできた一団の雰囲気に押されていた。


「どうぞ、こちらの席へ」

 ステラ婆あは奥の席にイイ男を案内する。

「手の込んだ物は用意できませんが」

「いや、構わん。馬に揺られて長旅をしてね。体に良さそうなものを」


 男は気さくに役人に陪席を勧めると自分もさっさと席に座る。その周りを固める男たちの固い雰囲気に押されて、モルト家のナントカおばさんも私の方に物凄い一瞥を向けると店を出て行った。見送る私にステラ婆あの声が響く。

「ぼやぼやしてんじゃないよ。お客さんをお待たせしてるだろ」


 役人に呼ばれて葡萄酒を注いで出す。近くで見ると若い男は綺麗に整えられた口ひげをしていた。グラスに口をつけて含むとゆっくりと飲み下す。

「悪くない」

 形の良い口ひげを上げて笑みを漏らした。


「お口に合ったようでなによりです。この街は葡萄の出来はまあまあでして。手ごろな値で良質なものが飲めますが、御前のお口にあうほどの……」

「いやいや。そんなことはない」

 役人は明らかに安堵の表情を浮かべていた。以前ならともかく落ちぶれたステラの店で出るもので感情を害されては後が怖いのだろう。だったら何で連れて来たのか?


 私は空になったグラスに注ぐと厨房に戻る。婆あが深い木皿にスープをよそった。野菜と鶏肉を柔らかく煮たステラの元気がでる特製スープだ。婆あの秘伝のレシピで味は間違いないが、手の込んだ高級料理に比べると見た目と食材のショボさは隠しようがない。こんな料理しか出せないことが我が事のように悔しかった。まあ、体の底から元気が出る料理ではあるのだけど。


 若者と役人の前に料理を置くと役人の顔が曇った。目で私をじろっと睨む。もうちょっとマシなものは出せなかったのか? 私は気づかないふりをして厨房に下がった。パンを入れたバスケットを持ってテーブルに戻ると、若い男は料理の上に首を突き出し深々と鼻から息を吸う。それから、まるで銀の匙かのように優雅に木のスプーンを使ってスープを食べ始めた。


 カウンターに戻って見るとはなしに様子を伺っていると、若い男はパンを千切って一瞬だけ逡巡する。すぐにパンでスープの残りを拭って口に入れた。身分にそぐわない行動に私はびっくりする。その一方で気に入ってもらえた安堵感と共に、男に親しみを感じていた。


 男が食べ終えたところにステラ婆あと一緒に伺う。こちらが口を開く前に男は上機嫌で言った。

「実に体に染みわたる滋味だった。すばらしい。明日また来る。次はもっと腹を空かしてね」


 立ち上がった男は後ろに控える男から革袋を受け取るとステラ婆あに差し出す。

「食事の代金だ。受け取ってくれたまえ」

 先ほどの私の身売りの代金の革袋より一回りは大きい。でこぼこ具合からすると銅貨じゃなさそうだ。ステラ婆あは無愛想な声を出す。


「代金はお二人分で、銅貨8枚です。御心づけにしても多すぎます」

 若い男はため息をついた。

「私にはこれだけの価値があったと言っても受け取ってはもらえないのだろうか?」

「ええ。受け取れませんね」


 横で顔を赤くしたり青くしたりしている役人に私が思わず笑みを漏らすと役人は私に向き直った。

「お嬢さん。あなたからもマダムを説得してもらえないだろうか?」

「申し訳ありませんが……」

 私は頭を下げる。どうやら、私も婆あと一緒に長く過ごし過ぎたらしい。


 男は仮面に手を添えた。

「若様……」

 狼狽する役人を尻目に男は素顔を晒す。苦み走ったイイ男だった。

「とても、このような物で私の気持ちを表すことはできないが、どうか受け取って欲しい」


 男はステラ婆あに歩み寄り、そっとその体を抱いた。そして湿った声を震わせて言った。

「昔払うことのできなかった食事と私の命の代金です。あの時、もう一度だけこうしたかった……。私はザックです。もうお忘れですか?」


 ***


 感動の対面だったが、婆あは頑として金貨を受け取らなかった。見かねた私が思わず言う。

「そこまで言うなら受け取っちゃったらどうです? どうせ税金で元に戻るんだし」

 そのセリフを聞いた若様ザッカリー・レッケンバッハ伯爵は眉を上げた。


 役人が顔色をまた忙しく変えた後、事情を聞きだした伯爵は莞爾と笑う。

「その布告は私の名において取り消そう。それで、この代金はマダムに預けておくということでどうだろうか? この店の自慢の料理、前回来たときは食べそこなったのでね。ぜひ、試させてもらいたい。では、明日の夕刻に」

 

 一行が立ち去ると、婆あは我に返って残っていた従業員をかき集める。

「いいかい。大急ぎで人を集めるんだ。この店を辞めた連中を残らず集めな」

「あんな恩知らずなんか」

 抗議の声をあげる従業員をジロリと睨む。


「恩知らずだろうが何だろうが、このステラの店の最高の料理を提供するには必要なんだ。2日だけでいいから手を貸すようにってね。もちろん給金は出す。さあ、行った、行った」


 それからの店の中は大騒ぎだった。しばらく使ってなかった竈に火を入れ、刃物を念入りに研ぐ。往時の活気が戻った店内を目を細めて眺めていた婆あはふと私に目を止めて訝しそうな声を出した。

「その化粧と装飾品はどうしたんだい?」


「だって、伯爵さまですよ。伯爵。それにすっごいイイ男だったじゃないですか? 声も低くて渋かったし。あの声で耳元に囁かれることを想像しただけでキュンとします」

「まさかとは思うが、伯爵の御令室になろうなんて甘ったるい事を考えてるんじゃないだろうね?」


 私は笑いながら返事を返す。

「私に伯爵夫人なんて務まるわけがないじゃないですか。そんなわけ無いでしょう?」

 婆あの顔がへえ、といった顔になる。


「もちろん、愛人狙いに決まってます。年に何回か寝るだけで楽な生活ができるんだから狙わない手はないですよ。今度は奥さんにバレないようにして、先々の生活費も貰っておかなくちゃ。さあ、伯爵来たら全力で落とそ」

 

 婆あは、ふーっと深い息を吐くと人食い鬼すら縮み上がらせる声で言った。

「アリス! あんたの持ち場はあっち。今日は表に出るんじゃないよ」

 はあ? 一世一代のチャンスに? 冗談じゃないわよ。まあ、いいわ。隙を見てお店に出ちゃえばこっちのもんよ。


-完-

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