第9話


「じゃ、父さん。ちょっと行ってきます」


 ベッドで横になってる父さんにひと声掛けて外へ出る。

 昼間とは打って変わって、外はもう秋を感じさせる風が吹きはじめていた。

 夏の間、あんなにうるさかった蝉の声はすっかり鳴りをひそめて、秋の虫たちがどんどん大きな顔をし始めている。

 傾きかけた太陽が、俺と佐竹の影を長く道に落とす。


 ダイジナヒト。

 ダイジナヒト。


 その言葉が、ずっと耳の奥で回っている。

 なんだろう。

 どうしてこんな、きゅうっと胸が痛いみたいな、むず痒いみたいな気持ちになるのかな。

 よくわかんない。


 そりゃ、佐竹は俺にとっても大事な人だよ。

 なんたって、あっちの世界から助け出してくれた恩人だし。大恩人だし。

 大事な大事な、友達……だし。たぶん。


「あの、さ……佐竹」

 小さく呼んだら、佐竹はすぐに足を止めた。ばちっと目が合うだけで、とくとくと心臓がうるさくなりはじめる。

「えっと。今日、ありがとな……? ほんといろいろ」

「ああ……いや」

 佐竹はちょっと視線を落として、何か考えたみたいだった。いつもの静かで落ち着いた声と目だ。

「こちらこそ、有意義で楽しい一日だった。礼を言う」

「そ、そんな」


 俺たちはそこからまた、少しの間無言で歩いた。夕方の歩道には、犬の散歩をする人や買い物帰りの主婦らしいひとがけっこう頻繁に歩いてる。

 スーパーのある大通りが目の前にどんどん迫ってくる。

 あの角まで行ったら、佐竹は反対側へ折れて帰ってしまう。


 とうとうその角までやってきて、俺たちはなんとなく足を止めた。

 何か言わなきゃ。何か。


「えっとさ……佐竹」


 なんだろ。なんで俺、緊張してんの。

 たかが、こんなの言うだけのことに。


「ら、来年もさ……来てくれる? 洋介の運動会。あっ、もちろん洋介が『来て』って言ったら、だけどさ」


 佐竹の目がまた微かに笑った。

 そう。

 多分これ、俺だけにわかるやつ。


「ああ。洋介がそう言うならな」

「……そっか。うん」


 胸がほこっとあったかくなる。


「じゃな」

「ああ」


 佐竹がきりりと踵を返す。

 俺は、なんとなくその背中を見送った。

 長く伸びたビルの影が、佐竹の後ろ姿をちらちらと遮ったり解放したりする。

 それをじっと見つめる。


 大事な人。


 ダイジナヒト。


 俺はまだ、知らなかった。

 俺がその言葉の意味をちゃんと知るのは、

 それから間もなくの、秋暮れるころになるのだということを。





「ただいま」

「あ、おかえり」


 リビングにいた俺は、見ていたアルバムを広げて置いたまま立ち上がった。

 洋介の小学校最初の運動会の写真たちが、そのページいっぱいに貼られている。

 なんか変だな、俺。なんで今日は、からこんなの持って帰りたくなっちゃったんだろ。

 懐かしいのは懐かしいけど、よく考えたらまだそんな昔じゃないのに。あれからたったの四年だし。


 玄関から廊下を抜けてリビングに入ってきた佐竹は、ローテーブルの上にあるものを見て一度目を瞬かせた。察しのいいこいつのことだ、すでにこれが何かなんてお見通しだろう。


「今日、遅かったな。バイトお疲れさま。メシ、できてるから」

「ああ。すまない」


 言いながら、佐竹の腕が俺の腰に回ってくる。

 そのまま軽く唇を合わせて、あいつはするっと洗面スペースの方に入っていく。

 こういうことも、だいぶ自然にできるようになった。

 あの頃からしたら、えらい変化っていうか、進歩だよね。


 今の俺たちは、もともと佐竹が実質ひとりで住んでいた佐竹家のマンションで一緒に暮らしている。内藤家は歩いて十五分ぐらいのところだからいつでも戻れるし、実際俺はいつも戻っている。

 なんたって、洋介はまだ小学生だ。もう五年生だから、だいぶしっかりしてはいるけど。まだ子供の洋介を家に一人にしておくわけにもいかなくて、俺はしょっちゅう実家に戻って家事なんかもやっている。

 俺と佐竹は大学生。大学そのものは別になった代わりに、お互い二十歳になったのを機に一緒に暮らし始めたわけだ。


 佐竹が洗面所から自分の部屋へ回って戻る前に、俺は盛り付けておいた料理をレンジに入れ、味噌汁なんかを温め直す。

 部屋着に着替えて戻って来た佐竹は、ダイニングテーブルの上を見てちらっと俺に視線を移した。そこには二人分の夕食が並びかかっている。箸も二膳。


「遅くなるから、先に食っておけといったはずだが」

「そうだけどさ」

 俺はちょっと口を尖らせた。

「やっぱりやだよ。せっかく一緒に住んでんのに。一緒に食べよ」

「……そうか」


 佐竹は少し目を細めてそう言っただけだった。あとは黙って俺がキッチンから渡す皿を受け取ったり、お茶を淹れたりとスムーズに手伝ってくれる。

 俺の方が遅いときは、もちろん佐竹が作ってくれる。今のところ、うまく回ってるんじゃないかなあ。なにしろ、こいつの家事力半端じゃないし。

 皿を並べ終わったところで、佐竹が目でローテーブルの上を示して言った。


「運動会か。いつのだ」

「ああ、一番最初のやつ。覚えてる?」

「もちろんだ。たかしさんが捻挫して大変だった」

 隆さんってのは俺たちの父さんのことだ。

「そうそう! あの借り物競争でさあ。洋介、真っ先にお前のこと呼んじゃって」

「そうだったな」

「なんか、まったく迷わないんだもん。びっくりした」

「そうか」

「あれ、結構焦ったんだよな~。俺」


 そう言ったら、ふっと佐竹が口をつぐんだ。

 なんだろう。俺のことをじっと見ている。


「……確か『大事な人』だったな、お題は」

「あ、うん。そう……」


 ん?

 なんだろう。

 テーブルを回って佐竹がこっちにやって来る。

 腕を引かれて、なんかぎゅうって抱きしめられた。


「な、なに?」

「俺も、お前を選んだな」

「えっ?」


 至近距離から見つめられて、なんか心臓がびっくりする。


「もし、逆の立場だったら。俺もお前を選んで走っただろうと思う」

「えええ?」


 いきなりなに言ってんだこいつ。

 首とか耳とか、急に熱くなってきちゃったじゃんか!

 俺は必死で佐竹の胸を両手でぎゅうぎゅう押し戻した。


「わ、わかった。も、いいから」

「なにがいいんだ」


 俺の抵抗なんかまったく構わず、そのままくいと顎を上げられ、唇を寄せられる。


「メッ……メシ、冷めちゃうから。早く……んううっ!」


 あっという間に、俺が食われた。

 もちろん飯も食ったけど、そのあと改めてめっちゃ食われた。

 ……もちろん、俺が。


 ああもう!

 佐竹のどスケベ野郎っ!


 そんなこんなの俺たちを、アルバムの中にいる一年生の洋介が、はじける笑顔で見つめてた。


                       了

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洋介くんの運動会 つづれ しういち @marumariko508312

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