第8話

「さたけさーん! 来て、さたけさーん!」


 いや。待てって、洋介! お前、躊躇しなさすぎだろ。

 でも、佐竹は即座に事態を把握したようだった。肩を貸していた父さんに素早く許可を得て離れると、児童席の隙間からすすっとトラック側へ入ってくる。もちろんこの時だけは侵入してもいいことになってるわけだ。


「どうした。何か──」

「はやく! はやく来て、走ってさたけさん!」


 洋介が間髪いれずに叫んで片手を差し出す。

 佐竹はすぐにその手を握り返した。

 つまり洋介を真ん中にして、三人で手をつないだ形になる。


「行こっ!」


 俺たちは走りだし、そのままゴールを目指した。


「わあっ! はや~い!」


 にこにこ笑って洋介が叫ぶ。俺と佐竹に吊り上げられて、時々洋介の足が地面から浮き上がっている。こいつ、わざとやってるな。

 周囲の大きな歓声が耳に届く。よくわからないけど、俺の心拍も跳ね上がった。

 だけど、さっきはなかった黄色い声が聞こえだしたの、きっと気のせいじゃないよなあ。

 この小学校の卒業生らしい中学生の女子のグループが、なんかこっちを見てきゃあきゃあ言ってる。その視線は多分間違いなく、洋介の左側を走ってる奴に集中してる。


「ゴール!」


 なんと、洋介の胸がテープを切った。

 そこから続々とほかのチームがゴールしてくる。

 うわっ、一等? やったぜ。

 誰を選ぶかで一瞬躊躇したけど、佐竹の足の速さで取り戻せたって感じかな。

 ゴール横にいた別のPTAのお母さんが、洋介からメモを受け取り、佐竹を見た。

 なるほど。要するに、この人は借り物の監査役ってわけだな。隣にいたほかのお母さんたちが、借り物を次々と観客や児童に返しに走っている。


「この人が『大事な人』なのね。もう一人のお兄さん?」


 洋介から紙を受け取ったお母さんが、「あら微笑ましい」って顔で笑ってる。

 洋介は一瞬ぴたりと体の動きを止め、大きな目をぱちぱちさせた。いかにも返事に困った顔だ。ちらっと不安そうに佐竹を見上げたりしてる。

 佐竹は洋介とまだ手をつないだまま見下ろして、わずかに苦笑したみたいだった。でも、しっかりとひとつ頷き返す。


(うわ……)


 なんだそれ。めちゃくちゃ優しそうな目、しやがって。

 くっそう。それ、俺しか知らないって思ってたのになあ。

 洋介がたちまち笑顔になった。


「……うん!」


 ぱあっとそこに花が咲いた。

 その笑顔で、もうみんな成功だった。

 いろんなことがあったけど、これで俺たちの運動会は全部ぜんぶ大成功。

 終わり良ければすべて良し、ってね。





「あー、楽しかったあ!」


 みんなで家に帰る途中。洋介はにこにこしながら、何度も何度もそう言った。

 俺は父さんに肩を貸しながら、その隣を歩いてる。佐竹は後ろに続いていた。


「うん。良かったなあ、佐竹にも走ってもらえて」

「うん! お弁当もおいしかったよ。ありがと、兄ちゃん!」

「お、おお」

「さたけさんも、ありがとう!」

「ああ」


 佐竹の声がまた、いつもよりずっと柔らかい。

 ちょっと傾きだしたお日様の光を浴びて、洋介の頬がさらにつやつや輝く。

 良かった。俺も早起きして頑張った甲斐があったよ、うん。

 父さんの足首には、とりあえず保冷剤をハンカチに包んで巻き付けてある。佐竹が「急性期はまず冷やすことだ」って、とりあえずの応急処置をしてくれたんだ。


「父さん、大丈夫? 帰ったら湿布しないとな。俺、一応テーピングとかもできるから」

「ああ。ほんと今日はごめん。洋介も、佐竹くんも」

「ううん!」

「いえ。こちらこそ、何か色々と出しゃばるような真似をしてしまいました。申し訳ありません」


 またまた佐竹が生真面目に謝罪なんかして頭を下げてる。俺の代わりに荷物をほとんど持つ形になってんのに、これ以上何を申し訳なく思うってんだよ。

 しょうがないなあ。ほんとこいつ、相変わらずだ。


 家に帰ると、俺たちはすぐに父さんの手当てをした。とりあえず湿布とテーピングをして、足を高くして安静第一。歩けないほどじゃないから大したことはないんだろうけど、しばらくは様子見だ。

 一応これで自宅で治せる場合もあるみたいだけど、一週間ぐらいたっても痛みがおさまらないときは会社を休んで病院へ行くことになった。


 シャワーを浴びて着替えさせると、洋介はもうふらふらで、めちゃくちゃ眠そうな顔になった。そりゃそうだ。今日は一日、いろんなことがあって相当疲れたはずだもんな。

 ソファのところで麦茶を飲みながら、とうとうこくりこくりし始めたので、俺は洋介を抱き上げて二階の子ども部屋へ連れて行った。ベッドに寝かせた途端、洋介はことんと寝入ってしまった。ほんと子供って、あっという間に電池が切れる。


 小さな手。小さな体。

 こんな小さな胸と頭で、今日は一生懸命頑張ったよな。

 ほんとにほんとに偉かったぞ、洋介。

 俺、お前の兄貴としてほんとに鼻が高い。

 俺みたいなダメな兄貴じゃ心細いだろうけど、これからもよろしくな。


 そうっと日焼けした額を撫でてやってから、音を立てないように立ち上がったら、入り口のところにいた佐竹と目が合った。例によって音もなくここまで来ていたらしい。俺は唇の前に指を立て、一緒に足音を忍ばせて一階へおりた。

 そうこうするうち、そろそろ夕方にさしかかっていた。


「では、自分はそろそろ」


 佐竹が自分の荷物を持って立ち上がる。父さんに挨拶して玄関へ向かうあいつを、俺は慌てて追いかけた。


「あの、佐竹」

「なんだ」

「えっと……えっとさ」


 俺はちょっと考えた。何となく、ジーパンのケツポケットのあたりをごそごそさぐる。いかにも「あ、財布がないや」って感じで。

 なんだろう。普通に話しかけるだけのことが、こんなにやりにくいなんて。

 変に首とか、頬のあたりが熱い気がするし。


──『ダイジナヒト』。


 突然、その一文がぱっと脳裏に閃いた。

 俺はびっくりして、思わず首を横に振りまくった。


(いやいやいや!)


 なに考えてんだ。

 あれはそういう、アレじゃないじゃん。

 飽くまでも、洋介にとっての「大事な人」って話じゃん!


「なんだ? どうした」

 さすがに佐竹が不審そうな顔になってる。

「うっ、ううん。ええっと。ス、スーパーの卵、今日安売りしてたなあって。ほかにも、牛乳。今からちょっと買いに出るから。一緒に途中まで行こうと思って」

「そうか」


 佐竹は特に断る様子もなく、俺がエコバッグや何かを準備するのを黙って玄関外で待ってくれた。


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