主人に従順な時計の話。
藤沙 裕
主人に従順な時計の話。
零時。家中の時計が響き出す。
時計というものは、人の感情を吸い取ってしまうらしい。嬉しい、悲しい、憎しみ、愛しさ。秒針が進むごとに、それらは吸収されていく──それが、我が家の言い伝えだった。
だからだろうか。時計が鳴る度に、声がする。時計の方から、いろんな声が。
「おなか空いた……」
「今日は誕生日だ!」
「痛いよぉ」
「寂しい」
「今日もお留守番かぁ」
「ごめんなさい、お父様」
僕の家には昔から、あちこちに時計が置いてある。壁掛け時計、置き時計、腕時計、振り子時計、砂時計。とにかく、時計と名のつくものなら数えきれない程にある。
幼い頃、お爺様は言った。
「時計は鳴るのではない。鳴くんだ」
僕はその場面を、よく覚えている。怖い顔をしたお爺様が太い眉をひそめて、低い声をよりいっそう低くして言った。お爺様の後ろでは、この家で一番大きな置き時計がこちらを睨むようにして、ゴーン、ゴーン、と鳴っていた。心臓が止まるような居心地の悪さを抑え、僕はただ、ゆっくりと頷いて見せた。そうすることでしか、僕は僕のことを守れなかったのだ。
僕の家は、周りの家とはすこし違った。古めかしい洋式の屋敷は、このあたりではだいぶ珍しい。お爺様のお父様──僕から見るとひいお爺様にあたる──がかなりの物好きで、親戚中の反対を押し切って親身にしていた建築士に建てさせたのだという。この家に時計ばかりあるのも、そのひいお爺様のコレクションなのだと聞いている。
家の人間は皆、ひいお爺様の話をひどく嫌う。僕にも、その気持ちはよく分かった。
ひいお爺様は、この家で亡くなった。もうすぐ九十になるところだった。衰弱だったそうだ。
それが、いわゆる表向きの話で、本当は、この家で一番大きな置き時計──無駄に広い玄関を入った目の前に鎮座する、その恐ろしい時計が倒れて、下敷きにされたのだとか。時計を中心に敷かれている赤い絨毯は、その痕を隠すため、だとか。
そんな嫌な噂があったから、家の人間は僕を含めて、ひいお爺様の話と、その時計の話を嫌っている。
ただ、お父様だけは違って、ひいお爺様にも時計にも、随分と好意的だった。だった、というのは、五年前の春、お父様が亡くなったからだ。
お父様の死因は癌だった。家族に見守られながら、病院の寂しい部屋で息を引き取った。
「家と時計を、絶対に捨てるな」
それが、お父様の遺言だ。だから僕たちはしばらくの間、嫌々ながらお父様の遺言を守り続けていた。
最初におかしくなったのは、この家に昔から勤めているメイド長の中年女性だった。後から知ったことだが、彼女とお父様はいわゆるそういう関係だったらしい。使い物にならなくなった彼女に暇を出した後、お母様も気が狂って倒れてしまった。家に残されたのは、家に入って間もない和食が得意な料理長の男と、週に二度だけ家に来る無口な庭師の男、それから僕だけだった。最初は他の世話係もいたが、皆気味悪がってやめていった。
家は、急に静かになった。人の気配はしない。チクタク、チクタクと佇む時計たちだけが、ただいつもどおりに時を刻んでいく。
そして、家に帰って来れば、必ずあの時計と目が合う。僕もあの時計が、幼い頃から嫌いだった。
あれは、五つになった年のことだ。家の中をふざけて走り回っていた僕は、誤って時計をひとつ壊してしまった。それは暖炉の上にあった置き時計で、ひいお爺様がたいそう気に入っていたものだと後から教えられた。ひいお爺様を好いていたお父様は、僕をひどく叱った。まるで、何かに操られているように、それは奇怪にさえ見えた。そうして、お母様が止める声も聞かず、お父様は僕を狭い暗がりへと閉じ込めた。それが、あの時計だ。今でも僕の背より遥かに大きい置き時計は、五歳の子供くらいなら簡単に閉じ込められる。いくつも歯車が耳元で動く音。遠くでチクタクと秒針が進んで、僕を急かしたり、焦らしたりする。すすり泣く僕をよそに、時計はいつもどおりに佇んでいるだけだった。
──ゴーン、ゴーン。
体内から鳴り響くように、時計が鳴った。僕はひたすらに謝り続けた。何に謝っているのかも分からなくなりながら、それでも謝った。どこかから声がするのだ。知らない声かも、知っている声かも分からない。そこに自分の嗚咽や、謝る声も混ざって、とにかく気持ちが悪かった。
「ごめんなさい、お父様」
早く出して欲しいと何度も訴え、もう一回りした時計が鳴る直前に、やっと出してもらえた。
その後のことは、よく覚えていない。後から聞けば、僕は時計から出た瞬間、意識を失ったのだという。
それからというもの、メイドたちは僕を見かけると「可哀想に」などと、ひそひそと噂するようになった。何でも、「大人しくなった」とか、「おぼっちゃまには心が失くなった」とか、「時計が心を吸い取った」だとか。それだけなら、まだ良かった。
問題はお母様で、僕を曲者みたいに扱うようになった。それまで、お母様は僕を溺愛していたのに、だ。
お父様が亡くなってから、お母様はおかしくなった。そう思っていたけれど、本当は、僕が時計に閉じ込められたあの日から、ずっとおかしかったのかもしれない。
***
ゴーン、ゴーン。時計が鳴る。今日のそれは、すこしだけ悲しそうで、けれどもどこか、嬉しそうでもあった。
今日はひいお爺様の命日だ。
僕が生まれる前に亡くなったから、会ったことはない。
皆、僕が時計から出てきた後に態度を変えた。それは、メイドたちやお母様だけではない。一番変わったのは、お父様だった。
お父様が癌だと分かる前から、家の人間はお父様を家から追い出そうと──どこかの施設に入れようとしていた。それは、子育てに見向きもしなかったお父様が、僕をひどく可愛がり始めたからだ。
当時、誰も耳を貸さなかったし、「あの人の話を聞いては駄目」と何度も言われたが、それと同じくらい、お父様から何度も言われたことがある。
「お前はお爺様の生き写しだ」
それは、まさしくひいお爺様のことだった。
大好きな時計の下敷きにされて亡くなった、ひいお爺様。
お父様は、だいたいこんなことを言っていた。
「お前を閉じ込めた時計は、ひいお爺様の血をたっぷりと吸い込んでいた。その中にいたお前には、ひいお爺様の魂が乗り移った」
そして言い聞かせるように、「お前はひいお爺様の生き写しだ」、と。
もちろん、家の人間は誰もお父様の話を信じなかった。お父様が生きている間も、亡くなってからも、それは揺らがなかった。
きっと気付かなければ、僕は今もそうだっただろう。
この屋敷は広いので、なかなか物の整理がつかない。お父様の部屋も、亡くなってから手を付けられないでいた。家の人間が、お父様を嫌っていたからだ。僕だってお父様が好きじゃなかった。けれども、いつまでもそのままにしておくことが、なんだか妙に嫌だったのだ。今思えば、それも虫の知らせだったのろうか。
先月、お父様の部屋を片付けようとようやく思い立った。彼は読書家だったので、本ばかりで気が滅入る。独特な埃の匂いがする。その最中、本棚の奥に、一冊だけ追いやられている本を見つけた。分厚い辞書のようなそれは、アルバムだった。
お父様は、アルバムを作るような人柄とは程遠い。だからこそ、そんなお父様が持っているアルバムの中身が気になる。僕は引き寄せられるようにして、その古ぼけたページをめくった。今の時代、白黒写真のアルバムなど、愛好家以外は作らないだろう。だから、これがお父様の作ったアルバムではないことはすぐに分かった。
そして次の瞬間、僕はアルバムを床に放り投げて、お父様の部屋を飛び出していた。
気付けば洗面所にいた。昼の微睡みが、宙に浮いている埃を照らし出している。鏡の中には、よく知っている僕の顔があった。
それは、ひいお爺様の名前が書かれた写真にひどく似ている。否、似ている、なんてものではない。
まさに、生き写しだった。
鏡に映った時計に目が動く。小さな壁掛けの時計だ。下から持ち上げるようにすると、すぐに壁から外れた。硝子の割れる音がする。荒い息遣いは僕のものか。心臓がうるさい。手元にあった時計は床に落ちて、唯一の仕事であるはずの時の刻みをやめていた。
床に硝子の破片が散乱している。その小さなひとつひとつに、僕の顔が、ひいお爺様の顔が、映っている。僕は、この家で一番まともな人間なのだと思っていた。けれど、本当は──僕は、あの日からずっと、おかしかったのだ。
時計から人の声がするなんて、僕以外に言う人間はいなかった。その声が聞こえ始めたのは、時計に閉じ込められてからだ。時計が吸い取った感情たちが、声が、ひいお爺様の魂と一緒に、僕の中に入ってしまった。それは僕の血液とともに全身を駆け巡って、僕を作り替えた。僕が変わってしまったのは、僕をおかしくしたのは──
家中の時計が、その役目を終えた。ただひとつ、あの時計だけを残して。
僕は部屋に閉じこもり、がたがた震えながら必死に頭を回した。どうすればいい、考えろ、考えろ。この家は呪われている、時計が呪ったんだ。それ以外に考えられない。ひいお爺様が、時計なんて集めたからだ。
ひいお爺様が全部悪い。
ふと、部屋のカレンダーが目に入った。ひいお爺様の命日は──
そうして、僕は今、この大きな時計の前にいる。もうこの広い屋敷には、これ以外に時を刻むものはない。
対峙してみれば、やはりこれは異質だった。機械仕掛けのくせに、生きているような佇まいでいる。だからこそ、気味が悪くて仕方ない。
もうすぐ零時になる。これで、おしまいにしようと思った。
ゴーン、ゴーン。僕の前で、その時計は鳴り出した。
否、鳴いているのだ。
鐘の音に混ざりながら、いろんな声がする。この家の住人だった者の声だ。笑い声、泣き声、すべてが混ざり合って、断末魔のように。
竦む足で、それでも一歩ずつ近付いた。僕はもう、この時計に屈するのはやめたのだ。手にはお爺様のアルバムを持っている。僕も悪魔じゃない。あの童謡のように、大好きな時計の終わりを見届けさせてやろうと思った。
重たいアルバムを両手で上に掲げる。これだけの重さがあれば、きっと──
「お前はお爺様の生き写しだ」
玄関の方で声がして、思わず振り返った。瞬間、背後で時計がけたたましく鳴く。
そうか、僕はもう、時計に魅入られてしまっていたのか。
時計が鳴いている。皆の声がする。
そういえば、何故この時計は倒れたのに、その時に壊れなかったのだろう。修理はしなかったと聞いている。そんなことはどうでもいいはずなのに、何だか笑えてきた。
痛くて声も出ない。身動きも、もうできそうにない。
床に落ちて開かれたアルバムには、僕の顔がある。
あぁ、時計の針を巻き戻せたらいいのに──なんて。
主人に従順な時計の話。 藤沙 裕 @fu_jisa
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