挨拶は心と心の潤滑油

五十貝ボタン

挨拶は心と心の潤滑油

「はょござっす……」


 扉を開けるのが苦手だ。扉というのは何かしらの「中と外」を区切るものであって、区切ってある場所にわざわざ開けて入っていかなければならない。

 とりわけ、「外から中」に入るのはよくない。人間は獣であるわけだから、ナワバリを持っている。他人のナワバリにずかずか踏み込んでいくのは本当に気分が悪い。私が通らなければならない扉は、すべて自主的に開いてほしい。それなら、私が扉を開けなくて済む。

 本当なら、ナワバリで待ち受ける側になりたかった。でも私にはその機会が訪れたことがない。毎朝起きるたびにくたくたで、休みと言えば何もしない時間だ。

 いや、そんな愚痴はいい。

 とにかく、私はアルバイト先の更衣室に入った。だれもいないのが理想だったけど、運が悪いことに(運がいいことなんてほとんどないけど)、その日は先に人がいた。つまり、更衣室は一時的にナワバリ化していた。

 田尾は鏡に向かって何度も髪を直していた。集中しているようなので、私はそれ以上声をかけずに自分のロッカーで着替えはじめた。

 制服は嫌いじゃない。制服を着ている間は、制服を着た人になれる。私が私のまま値踏みされることからの解放だ。


「ねえ」


 制服に袖を通す直前、田尾が声をかけてきた。私が着替えている途中であることはわかっているはずなのに。私の都合を気にしていないんだとしたら無頓着が過ぎる。わざと私が服を着ていない時を狙ったんだとしたら、もっと悪い。

 とにかく、返事をしないと。私の顔は、なぜかいつもムッとしているように見えるらしい。黙っていたら、また不機嫌なんだと思われてしまう。


「はい?」

「挨拶は?」


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。なんで主語だけで質問するんだろう。私は体の動きを止めて、その質問の意味を考えた。

『挨拶はどうする?』ってことだろうか。これから誰かがきて、私と田尾でその人に挨拶することになっているのだとすれば、私がそのことを知らないはずがない。だから、そんなことを聞きたいわけじゃないはずだ。

『挨拶はどう定義すればいいだろう?』田尾が哲学者ならそういうことをきいたかもしれないけど、彼女はそんな形而上学的な思弁をもてあそぶ人ではない。もう少し実際的なことを聞きたいはずだ。

 三秒ほどでそんなことを考えたけど、私にも今まで生きてきた経験がある。「醤油!」と言われたら「醤油を取って渡してほしい」という意味だ。過去から学んできたのだ。

 田尾が不機嫌な雰囲気を出しているのは私にもわかった。私に分かるということは、彼女は自分が不機嫌であるというアピールをするぐらい不機嫌なのだ。

 だから、たぶん、彼女には挨拶が聞こえていなかったのだ。扉について考えていたから、声が小さかったのかもしれない。


「しました」


 と、答えてから、間違えた、と思った。

『挨拶は?』と聞かれたんだから、『挨拶は(したのか)?』という意味だと思った。でも、田尾が本当に気にしているのは、私が挨拶をしたかどうかじゃない。

 想像するに、それはこういうことだ……『なんで挨拶しないの?』

 釈明や謝罪を求めているならそう言えばいいのに。


「私に届いてなかったら意味ないよ」

「すみません」


 彼女の言うとおり。挨拶するならするで、部屋のどこにいても聞こえる声量を意識するべきだった。

 私は素直に謝って、もう一度挨拶しなおすべきかを考えていた。でも、田尾はその機会を与えてくれなかった。


「挨拶は心と心の潤滑油なんだから、しっかりしないと」


 私はあいまいにうなずいた。

 ほんの少し、怒りも感じていた。田尾だって私に挨拶はしていない。なのに、なぜ挨拶をした私が(たとえそれが聞こえていなかったとしてもだ)責められているんだろう。

 でも、そんなことを言いかえしても無駄だと分かっているから何も言わないことにした。挨拶が潤滑油だとしたら、議論は火種だ。火は使いどころを考えないといけない。八百屋お七のおかげで私は学んでいる。

 悲しいことに、学んでいるのは私だけだった。


「野益さんはまわりの雰囲気読めてない時が多いよ」


 田尾はまだ話を続けようとしていた。

 自分でも、自分の顔が引きつるのがわかった。


「なに?」


 私の顔が気に入らなかったに違いない。田尾は不機嫌さを声色でもアピールしてきた。

 私は話を終わらせるつもりだったのに、「なに?」と聞いてきたのだ。私が何を思ったか、答えてあげないといけない。


「『挨拶は潤滑油』って言いましたけど、それって挨拶をすることで気分がよくなるってことですよね」


 相手の言ったことを確認してから、歩調を合わせるのは会話の技術、らしい。できるだけ実践するようにしている。


「じゃあ、挨拶することより気分がいいかどうかの方が問題です。私は別に、気分が悪くなかった。よくもなかったけど」

「何が言いたいの」


 田尾は不機嫌を通り越していらだちを表明し始めた。私もこんなふうに見えていたんだろうか。

 さっそく何が悪かったのか反省したくなっていたし、今すぐこの会話をやめにしたくなってきた。でも、そういうわけにはいかない。


「挨拶が聞こえなかったのは私のせいですけど、機嫌が悪くなったのはそっちです。ここには私とあなたしかいないから、雰囲気を作ってるのも私とあなたです。そのうち片方が機嫌が悪くなったら、雰囲気が悪くなるのは当たり前で、それって機嫌が悪くなった人の責任じゃないですか?」

「野益さんが挨拶しないからでしょ」

「したって言ってるでしょう!」


 聞こえるように挨拶しないといけないことを私は認めてるし、謝ってもいる。なのになんで『挨拶してない』って言われなきゃいけないのか。理不尽で悔しくて、私は思わず大声を出してしまった。

 火種だ。

 ああ、もう。


「なに?」


 田尾はまた同じことを聞いてきた。いや、ほんとうは何かを聞きたいわけではないことは分かっている。

 私は何を言うべきかを必死に整理していた。頭のなかに台風が来たみたいだった。私が何に怒っているか、どうすれば理解させられるだろう?


「なんなの?」


 せめて脳内台風が落ち着くまで深呼吸をしたかったけど、田尾は待ってくれない。彼女のなかにも、こんなに言葉が吹き荒れてるんだろうか。

 私は目と目の間に熱いものを感じていた。せめてそれをやり過ごしたかったけど、次の展開はもっと早かった。


「お疲れ様ーっす」


 扉を開けて、別の従業員が入ってきた。その人はすぐに異常を感じたらしく、私(いまだに半裸だ)と田尾を見比べて、


「どうしたの?」


 と聞いてきた。


「野益さんが挨拶しないから注意したら逆ギレして……」

「挨拶はしました!」


 これじゃあ、私が挨拶したかどうかで怒ってるみたいだ。

 うまく説明できるだろうか。たぶん、できないだろう。

 私の頭の中の台風は過ぎ去って、代わりに冷え冷えとしたむなしさが全身を覆っていた。

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