富士のよく見える町



 今年の春は、遅れてやってきた。


 卯月に入ったというのに、まだ視線を日陰にやればごく僅かではあるが雪の塊が泥に混じって残っている。

 いつもなら桜の花が咲き誇る時期だというのに、寒さにやられて、まだみんな蕾を開けたがってはいない。

 寒さが苦手な直彦は、もう少し南の地に行けばよかったと今更ながらに後悔した。寒さが苦手と言うが、夏になれば今度は暑さが苦手と言うことになるのだが。



 今回は、東の都へと旅路を進めていた。

 今は亡き師匠の旧い友人から、描いて欲しい絵があると誘いを受けたのだ。

 その人は、まだ年若い直彦のことも買ってくれていた。その人の頼みなのだから、断るわけもない。

 まだまだ東の都に着くには日がかかる。幸い、夏までに着けばよいと言われていたため、急ぐ必要はどこにもないのだ。

 直彦は気分転換に、富士の山がよく見えるという町に立ち寄った。



 多くの人たちが行き交う街道ということもあり、昼間から賑わっていた。

 この町でも、よく見なれた着物姿の人たちに紛れて、外国の服を着ている人たちがちらほらといる。

 数年前までは外からもたらされた物は全て怪しいとされて嫌煙されていたのに、今じゃ当たり前のように日常に溶け込み始めているから不思議だ。

 かくいう直彦は、そんな外の空気に染まるでもなく、あくまで自分の気風を維持し続けていた。


「もし、どこか安く泊まれる宿はありますか」


 おいしそうな饅頭を数個買いながら、店の親父さんに尋ねる。


「この町では安いっつっても端から端まである。極端に安い宿屋なら、屋根があるだけマシと思えるところになるよ」

「なるほど。……やっぱり宿もたくさんあるんだなぁ」

「そりゃあ、ここらは東へ行くなら必ずと言っていいほど通る場所さ。そうなりゃ、旅人のための宿屋も自然に連なるってもんよ」

「それもそうか」


 結局は自分で探すのがよさそうだ。その結論にたどり着き、店をあとにする。


「あ、もう一個だけ聞いてもいいですか?」


 ふと思い出し、進めていた足をぴたりと止める。


「なんでぇ?」

「ここ近辺にお寺はありますか?」

「寺? ……あぁ、あるよ。ほれ見えるかい。あの橋を右にそれてしばらく行った、少し小高いとこにある」


 はっきりとは見えないが、指さされた先に少し小高いところがある。木々に囲まれた中にでもあるのだろう。

 直彦は店の親父さんに礼を言い、その寺に足を向ける。



 言われたとおり道を進むと、左手に少し長い階段が見えてきた。おそらくあの上が目当ての寺だろう。

 一段一段登りながら、ふと後ろを振り返る。


「いい景色だ」


 少し高い位置にあるから、いい感じに町を一望できる。上方よりには富士の山もうっすらと見えた。

 後でまた来ようと決めながら、残りの階段を上がる。



「どなたかおりますかー?」


 階段を登りきると、直彦は奥の寺に向かって声をはる。

 何度か声をかけていると、ちらほらと小さい子供たちの顔が見え隠れした。


「どちら様か」


 しばらくすると寺の中から、初老の坊さんが姿を現した。


「旅の者です。数日ここに泊めてくれませぬか」

「……ここはいわゆる預り寺。お主を置くからには、お主は我らに何を与えてくれるのか?」

「必要なら、少しばかり金を持っています。泊めてくれる代わりにそれを払いましょう。あとは、絵を描いている。何かに役立つのなら使ってください。半月ほどばかり、居座らせていただきたい」


 頼む、と頭を下げると、少ししてから「狭いところですが」と了承の意の返事が返ってきた。


 坊さんが奥に引っ込むと入れ替わりに、中年の女性が表に出てきた。


「遠路はるばるようこそ。ここで子どもたちの面倒をみている幸代さちよと申します」

「直彦と申します。よろしくお願いします」


 幸代に案内され、寺の中へと足を踏み入れる。




 宿屋を探す際に、その町に寺があるのならそこへ立ち寄る。その辺の宿屋と違い、寺によってはこのように身寄りのない子どもたちを預かることがある。そういったところは無償で泊めてくれたりもする。その代わりに、知識や自分が提供できるものを渡す。持ちつ持たれつの関係なのだ。

 この寺は、さほど大きくはないが、手入れも行き届いておりしっかりとした場所なのだと分かる。


 奥の方にある客間に案内されると、戸口の周りにはたくさんの子どもたちが様子を伺っていた。


「よろしくな」


 そう声をかけると、彼らは一目散に散ってしまった。


「今時の子は恥ずかしがり屋なのかね」


 ここ最近はあまり人と接してはこなかったため、今の子どもたちが好きそうなことすら知らない。



 寺の中を一通り見て周り、今度は寺の周辺を歩き回った。

 特にめぼしいものなどあったわけでもないが、寺の裏に整えられた畑があったり、階段脇の日当たりの良いところには花が植えられていたりと、細々とでありながら細かいところまで気が配られているところだと思った。

 子どもたちも、初めのうちはコソコソと様子を伺うように見ていたが、半刻ほど時間が経つと、直彦の周りを元気に遊び回るようになった。


「ねぇねぇ、絵を描くってほんと?」


 まだ小さい女子が直彦のそばに来て尋ねる。


「ほんとだよ」

「じゃあね、じゃあね、猫さん描いてって言ったら描いてくれる……?」


 控えめに、でも好奇心いっぱいのその目に、直彦は自然と笑顔になる。


「いいよ。ちょっと荷物取ってくるから待っててな」


 客間に置いていた画材を取りに行き、また戻る。するとほとんどの子どもたちがわらわらと集まってきていた。


「ちょっと待ってて。描いちゃうから」


 いつも持ち歩く台帳を開き、そこにさらさらと筆を走らせる。

 周りの子どもたちが熱心に直彦の手元を覗き込んでいたが、一度集中したあとはそんなことなど気にならない。


 描き始めてからそんなに時間が経たないうちに、手元の台紙の上には、気持ちよさそうに寝そべる猫が描かれていた。


「悪いな。実物がないから結構ぼかしたけど、どうぞ」


 台紙から1枚引き剥がし、女子に渡す。

 わーわーと嬉しそうに声をあげながら、絵に魅入っていた。


「次は俺!」「私!」「ぼくも」

「ちょっ、落ち着いて。順番な、順番。チビどもからな」


 矢継ぎ早に話され困惑するものの、目の前に嬉しそうにする人を見て、心中はものすごく高揚していた。

 結局幸代が夕飯の準備をすると呼びに来るまで、直彦は子どもたちの要望に応え、ずっと絵を描き続けていた。



 夕飯は、皆で小さな講堂に集まって食した。

 手持ちの保存食ですまそうと思っていたのだが、直彦の分も用意してくれたようで、ありがたくいただくことにした。



 寺の夜は早い。

 夕飯後、各々片付けをして大部屋に行き、しばらくすると声ひとつ聴こえない静寂が訪れた。蝋燭の火も無駄遣いできないため、早く寝ているのだろう。


 直彦もそろそろ寝ようかと思いながら、つい画材道具を広げてしまい、足りないものはないかと調べに入ってしまった。

 どのくらい時間が経ったのか。戸の叩く音ではっと我に返った。


「はい」

「失礼します」


 戸口を開けたのは、おそらく12、13くらいだろうか。この寺の中の子どもの中では年長だろう。


「えっと、何か用かな」

「まだ何か作業をされるようなら、飲み物でもいかがかと思って」

「あー……ううん、大丈夫。俺もそろそろ寝るよ」

「そうですか、分かりました」


「では、おやすみなさい」といい、彼女は静かに戻って行った。


「さて、俺も寝るか」


 郷に入らば郷に従え。直彦は画材道具をしまい、蝋燭の火を吹き消した。


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美しき世界 碧川亜理沙 @blackboy2607

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