第53話 猫探し⑧ 出発の朝


 ここに、荒く息をする男がいた。


 ぜいぜいと肩を大きく上下させて、額に滲む脂汗を服の袖で拭う。

 腕を下ろせば、滲んだ汗が僅かなものでないのが分かった。

 生地に大きく広がる染み。

 それを見下ろしながら、男は安堵のため息と共に小さく舌打ちをした。


「おのれ。裏切り者め……」

 消え入りそうな細い声の中に、少なくない忌々しさが混じる。

 窓の無い陰鬱とした空間で、天井から下がる頼りない明かりカンテラに照らされて、男の容貌が露わになった。


 落ち武者の如きざんばらな頭髪は全て真っ白。

 皺だらけの肌は蒼白く、血管が透けて見えるぐらい薄い。

 落窪んだ様な目は鬼火の如く青く、やや折れ曲がった身体は異様なまでに細い。

 ミイラさながらの体躯は、突き飛ばしたらそのまま召されてしまいそうな危うさがある。

 酷く希薄な気配も相まって、幽霊と見間違えられる事もままあるのだろう、年齢八十代半ば頃の年老いた男。


 両替屋の老爺────もといギンナルは、その青い瞳をたぎらせて、焦げ茶色のカウンターを腹立たしげに一度叩いた。

 両手で強く叩かれた机が、けたたましい音を奏でる。

 叩かれた机より、いっそ叩いた方の腕が折れてないか心配になるが、それを気にした様子はない。

 痛みも感じていないようだ。

 そんなギンナルは、机を凝視しながら大きく息を吸い、そして吐いた。

 冷静さを取り戻すかの様に、数度その行動を行う。

 その後、視線を右手薬指に向けた。


 カサカサに乾いた指。一瞬前までそこに存在していた金の指輪。

 だが今は崩れて砂の様になってしまった、元指輪。

 机を叩いた時の衝撃と風圧で、金の粒子は机の上に薄く広範囲に広がっている。

 それを見て、ギンナルは悔しそうに唇を噛んだ。

「……試作とは言え、ようやく形になったアンドヴァラナウトを、この様な形で放棄する羽目になるとは……。だが、これだけで済んだのはある意味僥倖。知り得た戦闘データを一刻も早くあのお方に……」

 そこでふと、口を閉じた。

 暫し動きを止め、考え込む。

 そして再び動き出した時、キョトンとした顔で、はて、と首を捻った。


 記録が、見当たらない。

 アンドヴァラナウト試作の性能調査記録が。

 あの裏切り者の事が。

 確かに記したはずの星幽アストラル体の情報が。

 演算領域に纏め、後は本部へ転送するだけの段階だったはずなのに、それが何処にも無い。

 おかしい。

 と記憶を探る。

 探って、綻びを見つけた。

 虫食いの様に、一部だけ無くなった情報きおく

 だが、異変はそれだけに留まらなかった。

 侵食されていく様に、記憶がみるみる消えていくのだ。


 今さっきあった出来事が。

 昨日の、一昨日の経験が。

 引き上げられたサルベージされた時の記憶が。

 本体サーバーに保存されているはずの記録が。


 毛糸のセーターがほつれる様に。

 バラされていくパズルのピースの様に。

 抜け落ちていく歯の様に。

 ホロホロ。

 ホロホロと。


「あ?」

 何が起きているのか分からず、間の抜けた声しか出ないギンナル。

 さらに、失っていくのは記憶だけではなかった。


 解けて。

 溶けて。

 融けて。


 自我がとけて、逝く。


 痛みは無い。

 ただ、ずるりとした感覚があった。

 ほぼ同時に、ボタボタと、机と手の上に何かが落ちる。

 それは左の眼球であり、血液であり、液状化した脳の一部。

 欠けた視界の中で、不意に悟った。

 ああ、これで自分は終わりだと。

 侮ったつもりは無かったが、それでも考えの甘かった自分に僅かな怒りが湧く。

 一昨日。あの時、あの瞬間、奴に余計な情報を与えず撤退していれば、こんな事にはならなかっただろうに。

 もう少し、今の奴の情報が欲しいと、欲張り過ぎた。


 ボチャッと、もう片方の眼も落ちる。

 カタコトと鳴る音は、恐らく歯が落ちた音。

 五感の中で、最後まで残るのは聴覚だと、誰かから聞いた気がする。

 誰だ?

 ああ、そうだ。

 あのお方だ。

 あのお方の為に、今の自分がある。

 ならば、せめて、せめてこの情報だけでも。

 奴の、弱点だけでも。

 送らなければ。


「で、データ、転送。開始」


 演算領域から情報が発信され、それを受け取ったサーバーから受領の信号が返ってくる。

 コンマ数秒で完了したデータ転送に、真っ暗になってしまった視界の中で胸を撫で下ろした。

 送った内容が極めて少なかったからだろう。

 もしかしたら、幾らか破損しているかもしれないが、あのお方であれば修復解析は容易い。

 このデータ。

 きっと役立てて下さるに違いない。


 まだ死ねないと、張り詰めていた糸が切れるのを、ギンナルは自覚した。

 先ほどよりもスピードを増して、自己が消えていく。

 もはや思考もままならない中で、ギンナルは最期に少しだけ、意味のある言葉を発した。


「オー……ディン、様……」


 ゴボゴボと耳障りな声でそう言い終えると、ギンナルの身体は力尽き、崩れ落ちた。

 重力に従って机に突っ伏した身体は、そのまま重心に引かれて床へ転がる。

 どろりとした悪臭漂う液体が、静かに床へと広がった。


 こうして彼は、誰にも知られず、誰にも看取られず。

 たった一人で、ひっそりと消滅したのである。


 空っぽになった眼窩から、溶けた脳を涙の様に零して。


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 ルークは暖かく穏やかな、涙が出るほどに優しい夢を見ていた。


 こんがりと焼きあがった、香ばしい匂いのするパンと豆のスープ。

 それに彩り豊かなサラダ、湯気の立つブラウンシチューが乗った食卓を、親しい人達と囲む夕餉ゆうげの光景。


 優しい父と母。

 まだまだ手のかかる、危なっかしい弟妹ていまい

 お節介な叔父と叔母。

 もはや兄弟と言っても過言でないほど親しい悪友。

 淡い気持ちを抱いていた幼馴染みの少女。


 そんな懐かしい人達と、ルークは他愛ない会話を交わし、賑やかに笑い合う。


 浮気のバレた叔父が、奥さんにフライパンで殴られ、その後肥溜めに落とされた話。

 飼っている牛が無事出産を終えた話。

 誰と誰が近々結婚する話。

 収穫期の予定の話。


 絶え間なく、つらつらと続く会話を聞きながら、夢の中のルークは涙を流していた。


 この何の変哲もない日常が、儚くもろいものだと知っているから。

 この平和が、もうすぐ崩れ去ってしまう事を知っているから。

 この光景が、遥か昔に通り過ぎた出来事だと知っているから。

 これが夢だと自覚しているから。


 束の間の夢の中ででも、彼らに会えた事が嬉しかった。

 千年経って、今なお鮮明に覚えているのは、燃え盛る村と凄惨な光景で、だからこそ、こんなにも穏やかな彼らの顔と声を、夢とはいえ再び見聞き出来るとは思わなかった。


 それが嬉しくて。

 それが悲しくて。

 それがやり切れなくて。


 胸が詰まるほど切ない夢に、ルークの涙腺は耐えきれなかった。

 笑顔でボタボタと涙を落とすルークを見て、全員から心配する言葉がかけられる。

 ルークは、くしゃっと顔を歪めて俯くと、緩やかに首を振った。


 なんでもない。

 気にしないで。


 そう言えば、さらに優しい言葉が返ってくる。

 不安な事なんか何も無いと。

 魔族と人類軍の戦線は遠く離れていて、こんな辺境まで来ることは無いと。

 この村はなんの特産も無く、立地的にも重要度はかなり低い。

 だから、大丈夫だと。


 その言葉が、ルークには尚更辛かった。

 そうはならなかった現実を知っているから。

 どれほど惜しんでも、嘆いても、現実の過去は変えられず、過ぎ去った日々は戻らない。

 彼らを、この優しい人々を、今のルークが守る事は出来ない。

 ただ、それでもせめて。

 いや、だからこそ。

 もう少しだけ、ほんの刹那でもいい。

 この優しい夢にひたらせて欲しい。


 願うルークは、泣きっ面のまま顔を上げて、どこまでも純粋な笑顔を浮かべた。

 戦慄わななく唇を無理やり開き、


 そうだね。


 と答えて。


 それは千年と少し前の夢。

 ルークが勇者と呼ばれる前。

 女神達と出会う前。

 平凡な村で平穏に過ごしていた頃。


 現在の記憶と願望が滲む、儚い夢だった。


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 ふっと、ルークは目を開けた。


 ぼうっとして働かない頭のまま、やや見慣れた天井を見上げながら、おもむろに手を目元へ持っていく。

 指先に、まだ温かい雫が付着した。

 暖かかった夢の残滓はしかし、現実の冷たさに触れて急速に温度を失う。


 じわじわと滲み出る様な虚しい気怠さを感じつつ、ルークはベッドに横たわっていた身体をゆっくり起こすと、服の袖で静かに涙を拭った。

 そして、嘆息を一つ吐く。

(……いい歳して夢で泣くだなんて、僕もまだまだだな……)

 未だ微かに感じる、胸を締め付ける感覚。

 それを深呼吸一つで振り払うと、ルークは視線を上げて周囲を見回した。


 ファキオに来てからずっと寝起きをしている場所で、つまりここは猫目石の宿部屋だ。

 腰には見慣れた深緋こきひ色の外套と剣帯が巻かれ、服装はいつものまま。

 剣だけが、剣帯から外された状態で壁に立て掛けられ、すぐ手に取れる位置にある。

 閉ざされたカーテンの隙間から漏れる光は眩しく、外が快晴である事を示していた。

 光の強さからして、早朝ではないようだ。

 部屋にあった置き時計へ目を向ければ、針は9時35分を示していた。

 何故こんな時間に自分はベッドの中にいるのだろう。

 と考えて、すぐさま思い出した。


 ギンナルと名乗る相手との会話の途中で、急に意識が途絶えたのを。


(イヴル!あいつ!!)


 一気に頭に血が上り、意識が完全に覚醒する。

 憤りそのまま、布団を跳ね除けて剣を取り壁際に立つと、鋭い目付きでイヴルの姿を探した。

 すると、隣のベッドがこんもりも盛り上がっているのが目に入った。

 寝ているのか、布団が僅かに上下している。

(……そこか)

 ルークは波が引くかの如く殺気を下がらせ、足音を立てずにイヴルのベッドへ近寄った。


 剣を突き立てるつもりはない。

 ここは宿で、自分の家じゃないのだから。

 一時いっとき借りているだけの身で、家具を破損させる真似はしない。

弁償云々うんぬんの話ではなくて、これは常識の問題。


(あの無駄に整った顔を崖崩れみたいにしてやる)

 ルークは、鞘に納まったままの剣を握り締めて、布団を勢いよく剥ぎ取った。

 問答無用で剣を叩き込もうと腕を振り上げるが、それは途中でピタリと止まった。

 イヴルの顔面をぶっ壊す事に躊躇した訳では無い。

 ただ、不意の衝撃がルークの鳩尾みぞおちを襲ったせいで、振り下ろす事が出来なかっただけの話である。


「い────っ!?」


 鈍器にでも殴られたかの様な鋭く重い痛みに、短く悲鳴を上げて後ろへ下がった。

 突撃を食らった腹を押さえて、何がと視線を巡らせれば、どったんばったんと縦横無尽に部屋を走り回り始めた猫二匹が映る。

 赤い首輪をした鍵尻尾の黒い子猫と、青い首輪をした新雪の様に白い猫だ。


「は?ね、猫??」


 呆然と呟くルークの目の前で、ハンガーラックを蹴倒し、チェストの上にあった飾り棚の観葉植物を落下させ、カーテンを引き裂いていく猫達。

 二匹共、尻尾の毛が思い切り逆立っており、元の二倍以上に膨れ上がっている。

 察するに、ルークが急に布団をめくった為、驚いたのだろう。

 そこからさらに、物が破壊される音や目の前を横切る別猫の存在と、立て続けに起こる予想外の出来事に興奮が冷めやらないらしい。

 止まる事なく飛んで跳ねて駆け回る猫達に、ルークは唖然とするばかりで動く事が出来ない。

「ち、ちょ……ちょ……」

 あわあわ、おろおろと剣を片手に右往左往する。


 そうしていると不意に、扉が開くガチャッと言う音が鳴った。


「うるせぇなぁ。廊下にまで音漏れてんぞ?何やってん、おっと!」

 入ってきたのは、蓋の閉じられた大きめの片手鍋と厚い木の鍋敷きを持ったイヴルだ。

 迷惑そうな呆れ顔をしている足元を、二匹の猫がササッとすり抜けていく。

「ネロ!スノウ!危ないでしょ!」

 叱り飛ばしたのは、イヴルの背後で大きめの盆を持っていたイリスである。

 乗っているのは大皿に盛られたサラダと取り皿が四つ、バターの香る焼き立てのロールパンに水の入ったコップ二つ、あとはカトラリーの入った小さい籠が一つだ。

 イリスは初日に会った時と同じ、灰色のエプロンワンピースを着ている。

 怒られた二匹の猫は急停止すると、イリスにまとわりついて、にゃあにゃあと何かを訴える様に鳴いた。


 猫がなんと言っているか分からず、イリスは困り顔でイヴルを見上げる。

「なんて言ってるの?」

「あ〜……。気持ち良く寝ていた所を、あそこのバカが急に布団をひっぺがしたから驚いた。だから自分達は悪くないってさ。……っておい……マジかよ……」

 通訳している途中で、猫から部屋へ視線を戻したイヴルは、その惨状を見て愕然と零した。

「え?あ……わぁ……」

 絶句したのはイリスもだ。

 顔色を失って立ち尽くす。

 手にしていた盆を落とさなかったのは奇跡に近い。


 しっちゃかめっちゃかになった部屋の中で、鞘に納められた剣を片手に棒立ちになっているルーク。

 カーテンが暖簾のれんよろしく縦に裂かれたおかげで、部屋は若干明るい。

 ハンガーラックは横倒しになり、鉢に植えられていた観葉植物はあえなく墜落して、下にあったチェストにぶつかり見事なまでにパッカリと割れている。

 焦げ茶色の土は飴色の床に散乱し、一部はベッドにまで飛散していたりと、なかなかな有様だ。

 それだけでなく、猫の身体はどうやら照明にも当たったようで、丸いランプが振り子よろしく盛大に揺れていた。

 置き時計に被害が無いようなのだけが救いだ。

 ……若干位置が変わっていたが。


「……お前ら、何してくれてんの?」

 イヴルの苦々しいセリフ。

 この〝お前ら″の中には、猫達だけでなく当然ルークも含まれている。

「ぼ、僕はその……ベッドの中にいるのはイヴルだとばかり……」

 しどろもどろで弁解するルークに、イヴルの表情はより険しさを増した。

 その手に持っていた武器ものを見たからかもしれない。

「いやいや。よしんば俺がベッドで寝ていたとしてもよ、お前何しようとしてたんだ?その手のものは何??」

「いや、これでお前の顔をどしゃめしゃに殴ろうかと」

 至極当たり前の様に、ルークはさらっと告げる。

 ちょっと水を飲みに。のノリである。

「怖っ!!何で急にバイオレンスだよ!!おっかな過ぎんだろ!!」

「仕方がない。お前が元凶だからな」

「はあ〜〜〜〜??」

 急に何言ってんですか?さっぱり身に覚えがないんですけど〜??

 と顔面にありありと書いて、ルークにメンチを切るイヴル。


「二人ともケンカやめて!とにかく、お部屋どうにかしないと!」

 そんな二人の間に入って仲裁したのはイリスだ。

 荒れ果てた部屋に足を踏み入れ、まだ無事だった窓際のテーブルの上に盆を置く。

「お掃除の道具、持ってくる!」

 言うや否や、急いできびすを返すイリスに、同じように部屋へ入ったイヴルは声をかけた。

「いえ、片付けは自分達でやりますから、お気になさらず」

「え?でも」

 足を止め、振り返ったイリスに、イヴルはさらに言葉を重ねる。

「元々はアイツの不手際ですし、何よりイリスさん、今忙しいでしょう?」

 その問いかけに、うっと言葉を詰まらせるイリス。

 確かにイリスは今とても忙しかった。


 最後の朝食をイヴル達に提供し終わった後、控えている仕事は食器の洗浄に宿部屋の掃除、シーツの洗濯等々と山盛りだ。

 母親であるダイナと二人でやっても、なかなかな仕事量である。

 父フィガロは本日の予約の確認と食材の調達、経理関係の計算で忙しい。

 猫目石は大きい宿ではないし家族経営である為、慣れてしまえばこれも生活の一部なのだが、それでもまあ忙しい事に変わりはない。

 ネロを探す間、イリスを気遣って宿の手伝いを免除していたが、無事見つかった現在は通常シフトへ戻っている。

 例え原因がルーク側にあるとしても、ネロを見つけてくれた恩人であり、客であるイヴル達に部屋の掃除をさせるのは、正直心苦しい。


 そんな思う所が重なって、イリスは迷っていた。

 う~と唸って、イヴルの申し出を呑むか呑まないかで、思考が揺れ動く。

 ついでに身体もウロウロと動く。

 行ったり来たりするイリスを見て、呼応する様にネロ達の目も追う。

 尻尾までフリフリだ。


「掃除道具も結構ですよ。魔法でなんとかしますから。さ、これ以上はダイナさんから苦情が来てしまいます。お早く」

 イヴルは手にしていた木製の鍋敷きをテーブルの真ん中へ置き、さらにその上へ鍋を乗せながら、苦笑してイリスの背中を押した。

 そのセリフで決心がついたのだろう。

 イリスは躊躇ためらいがちに頷くと、今度こそ踵を返した。

「あ、ありがとう。じゃあ、よろしくです。ネロ、スノウ。行こ!」


 軽く頭を下げたイリスは、真逆の色をした猫二匹を連れて、慌ただしくパタパタと部屋から出て行く。

 やれやれとイヴルが扉を閉めようとした瞬間、遠くで微かにカチャッと音がした。

 そっと窺い見れば、イリスがネロ達を三階の自宅へ戻す姿があった。

 さすがに一階へは連れて行けないらしい。

 素直に三階へ登っていく猫達を見て、感心感心と頷くと、イヴルは部屋の扉を閉めた。


 空き巣にでもやられたのか?と言いたくなる様な惨状の部屋を前に、飯と掃除どっちを先にやるか考える。

 荒れ果てた部屋で飯を食う気にはなれないし、さりとて先に片付けを始めれば埃が舞ってしまい、むき出し状態のパンやサラダが被害をこうむってしまう。

 いくら野宿に慣れていて、ちょっとばかし汚れた食事に耐性がついているとしても、ここはれっきとした宿屋だ。

 綺麗で美味しい食事は譲れない。

(……やっぱ先に飯だな)

 結論、先に食事をとる事にしたイヴルが振り向くと、そこには先んじて掃除を始めるルークがいた。

 手にしていた剣は、いつの間にかまた壁へと立て掛けられている。

 剣帯に装備し直さなかったのは、片付けるのにしゃがんだりする事を考えて、邪魔になると判断したらしい。


 ルークはビリビリに裂かれたカーテンをレールから外し、明るくなった部屋の中で損傷部位を確認すると、今度は大きく広げた。

修復リペア

 ふわっと、カーテンが薄く蒼碧に輝く。

 途端、断ち切られていた糸と糸がみるみる繊維へと戻り、再び繋がって紡がれていく。

 あっという間に、暖簾のれんよろしくだったカーテンは一枚の布へと戻っていた。

 パンッと払って確認しても、カーテンには裂け目どころか綻び一つ無い。

「よし」

 頷き、再びカーテンをレールに戻していくルーク。

 それを眺めるイヴルの瞳は、げんなりとしおれていた。


 そうして、始めてしまったからには仕方ないと、やむなくイヴルも掃除に参加する事になった訳で。

 重いため息を吐きつつ、やるならさっさと終わらせよ……と足を動かした。


 部屋の奥で立派に横倒しになっているハンガーラックへ近寄り、よっこいせと起き上がらせる。

 イヴルもルークも、外套はいつも通り腰に巻いていたので、空っぽのハンガーラックは軽い。

 しかし木製なので、割れや破損が無いか念の為確認する。

 一方、カーテンを戻し終えたルークは、振り返ってイヴルを視界に収めつつ、二つのベッドの間へ足を運んだ。

 そこには、チェストにぶつかって割れ、床に散乱する鉢植えがあった。

 腰を落とし、まずは大きな破片からと拾い始める。


 すると、ふとルークがイヴルへ話しかけた。


「……あの後、何があった?どうして僕の意識を奪った?」

 詰問する様な硬い声と口調は、ルークの内心が滲み出たものだ。

 不意打ちで強制退場させられたのが、よほどお気に召さなかったらしい。

 床に散らばっていた鉢植えの破片を拾うルークの表情は、下を向いている事も相まって暗く見える。


 イヴルはルークの急な質問に驚く事もせず、むしろ奇跡的に無傷だったハンガーラックに安堵しながら、軽く腰を折って床へ視線を移しつつ答えた。

「後って……ギンナルは普通に殺して、ルスト草と瑠璃は普通に処理したが?お前は……邪魔だったから退かしただけだ」

「は?」

 眉間の皺を鮮明にして、顔を上げるルーク。

 邪魔と言われた憤りにプラスして、大事な情報源を殺したという耳を疑う様な発言を聞いたからだ。

 剣山の様な棘まみれの返事に、一部軽く凹んでいた床を見て眉根を寄せていたイヴルは顔を上げた。

 面倒そうな視線がルークに向けられる。


「だってお前、疑問が際限なく出てただろ?あそこで意識奪っとかなきゃ、質問地獄になっていたぞ?」

「それは……そうだが。ルスト草にしろ瑠璃にしろ、重要な情報を握ってる奴だったんだろ?殺して良かったのか?」

「構わない。〝かたる者″であるギンナルの言葉は信憑性に欠けるからな」

「騙る者?詐欺ペテン師って事か?」

「まあ……似たようなものだ。話術で相手を陥れるのを得手としている者だからな。真実を語る事もあれば、息をする様に嘘を吐く事もある。話した内容の内、真実八割の嘘二割とか、そこの匙加減は奴次第。だから信憑性に欠けるのさ」


 なるほど。

 とルークは納得した。

 嘘か本当か分からない情報に振り回されるのは心身共に負荷がかかる。

 なら、その情報は一旦頭の隅に追いやって、先に進む方が得策だろう。

 と、内心頷くのと同時に、さらに湧いた疑問を口にするかどうかを悩んだ。

 それは恐らく、イヴルの過去に関する事柄。

 おいそれと踏み込んでいいものか、そこをルークは迷った。


 不意に口を閉ざし、難しい顔で自分を見つめるルークを、イヴルは気持ち悪そうに見返す。

「……なんだよ?何見てんだよ?キモいぞ?」

 その最後のひと言で、ルークのイヴルに対する遠慮が消し飛んだ。

 仏頂面で口を開く。


「〝ユグドラシル″」


 途端、僅かにイヴルの目がすがめられた。

 鉄の如き冷ややかさが瞳の大半をめる。

「知っているんだろ?」

「知っている。だが、私から話す事は無い」

 明確な拒絶が篭った冷徹な即答。

 一人称も、より硬いものへと変わっている。

 普段、問えば答えてくれるイヴルにしては珍しい返事に、ルークは軽く面食らった。

 戸惑うルークへ、イヴルは無表情のままさらに続ける。

ただし、知る事を止めはしない。お前の不老不死を解く為に、神代の遺跡を巡る事は必須だ。知りたいのならば、その時に自ら調べるといい」

 突き放しているのかいないのか、どっちつかずなセリフにルークは首を傾げた。

「……でも、教えてはくれないんだな?」

「私が話す事には私の主観が混じる。特に、神代に関する事柄はな。何を見て聞いて感じて、どう判断するかはお前次第だ」

 イヴルの主観が混じる事になんの問題があるのか分からない。

 だから、重ねて訊ねた。

「別にいいだろう?混じっても」

「お前の行動の責任を、私に押し付けられては堪らない」

「そんな事、僕がすると思うのか?」

 そんな軽い人間だと思われているのかと、憤慨する気持ちが言葉に乗り、ルークの口調と雰囲気に刺々しさが増す。

「人は惑いやすい。無意識にしろ、他者の言葉や思想、行動に容易く己を揺らす。例に漏れず、お前もだ」

「僕?」

 ムッとした表情で聞き返せば、イヴルは雪の様に静かな目でルークを見据えた。


「……気付いているか?お前、必要以上にほだされているぞ?私に対して、無駄な情が芽生えていると自覚しているか?」


 小さく息を呑む音が部屋に響いた。

 発したのはルークだ。

 手にしていた鉢の破片が、内心の動揺を反映したかの様に小さく指先を切る。

 ピリッとした痛みが走るものの、ルークはそれに気付かない様子で固まっていた。

 自分でも薄々感じていた事を指摘されて、どう返したらいいのか分からない、と言った風である。

 僅かな沈黙。

 やがてルークは一度目を閉じた。


 つい今しがた見た夢を思い出す。

 平和で暖かな夢。

 しかし現実では、安寧の生活は魔王イヴルによって無惨にも壊された。

 その時の怨恨は、今も僅かに身の内でくすぶっている。

 だが、大半は大戦中に晴らした。

 殺して、殺して。

 魔王イヴルを何度も殺した。

 それこそ飽きるほどに。

 恨みと憎しみが、これでもかと乗った剣を、イヴルの身体に何度も突き立て、斬り裂いてきた。

 だからだろう。

 自分の中で、これはすでに終わった事と折り合いがつけられていた。

 表に残っているのは純粋な怒りだけで、それもこの数ヶ月の旅の中で鎮火しつつある。

 折々に触れて、イヴルの面倒見の良さやフランクさ、妙な真面目さを見てきた。

 親近感が湧いてしまうのも、情が芽生えてしまうのも、極めて自然な事だ。

 価値観が決定的に違うイヴルと、分かり合えるとは思わない。

 容易く相手を変えられるとも考えていない。

 しかしそれでも、と心がほだされてしまうのは、責められる事ではないだろう。

 人は、自分は、過去に生きている訳ではないのだから。


 ルークはおもむろに目を開いた。

 自らの心と向き合った結果か、瞳は静かな光を湛えている。

 続けて出た言葉は非常に素直なもので。

「……否定はしない。確かに僕は、お前に対する敵対心が薄れている。だが、それの何が悪い」

 その言葉を聞いたイヴルは、ルークを真っ直ぐに見返した。

 両者の瞳は同じぐらい強く、どちらも譲る気がないのが見て取れる。

 交差する視線の間で火花が散ること暫し。

 やがてイヴルは口を開いた。


「私はお前の友ではないし、仲間でもない。なるつもりも毛頭無い。どこまで行っても、我らは相反するものだ。忘れるな」


 ルークの意志を試すかの様に引かれた一線。

 明確な拒絶の篭ったセリフに、しかしそれでも、ルークの瞳は揺るがなかった。

 むしろ、だからなんだと開き直った様子で口を開く。

「それはお前の考えだろ?僕には僕の考えがある。過去敵だったとしても、未来永劫敵であらねばならない訳じゃない。友人にはなれなくとも、信用ぐらいはしていいはずだ。ああ、もちろんお前が間違ったことをしようとしたら、全力で止める事には変わりないから、そこは勘違いするなよ」

 ルークの言葉答えを聞いたイヴルは、渋柿でも食べた様に、ぎゅっと顔に力を込めた。

「……生粋の根明ねあかめ……」

「は?」

「なんでもない。そこまで言うなら勝手しろ」


 はあ……と、まあまあ大きめの嘆息が吐き出したイヴルは、再び視線を床へ戻し、凹んでいた箇所へ修復リペアの魔法をかける。

 ぽっと輝くが、さっぱり変わらない。

 ムスッとした顔が、さらに渋味を帯びた。

「ん〜……。ダメ元で掛けてみたが、やっぱ無理か。これは弁償するしかないな」

「……イヴル」

「今度はなんだよ。お前もくっちゃべってないで、さっさと手動かして片付けろっての。飯が冷めるだろうが……」

 砕けた物言いに戻り、ぶつくさと不満を述べるイヴル。

 先ほどまでの冷徹な雰囲気は、すっかり霧散してしまっている。

 そんなイヴルに、ルークは目を据わらせて続けた。

「上手く話を逸らせ逃げられたと思うな」

 そのセリフに、イヴルはこれ見よがしに舌打ちをした。

 執拗しつこいな……。なんて思惑まで透けて見える。

「……全てじゃなくていい。話せる範囲だけでも、話してくれないか?」

 ルークから提示された、譲歩とも言える妥協案を聞いて僅かに考え込んだイヴルだが、すぐに答えが出たらしい。

 腕を腰に当てて、やれやれと言った様子で返した。

「…………面倒くせぇな。なら、一つだけだ。一つだけなら答えてやる。先に言っておくが、大雑把な質問はやめろよ」


 瞬間、ルークの頭はフル回転した。

 一つだけ。

 たった一つだけなら答えてくれる。

 なら、何を聞くか。

 疑問は山の様にあり、訊ねたいことも同じだけある。

 優先順位を決めるだけでも丸一日欲しいぐらいだ。

 それを、この短時間で決めないといけない。


 神代の事。

 ユグドラシルの事。

 施設名や役割について。

 彼らの目的。

 イヴルの過去。


 大別しただけでもこれだけある。

 細分化すればさらに量は増え、キリがない。

 しかも、どれもこれも紐付いており、切り離して考えるのは難しいだろう。

 単品で聞いても、新たな疑問が出てくるのは必至。

 さらに言えば、浮かんだ疑問は大体が昔の事だ。

 当然ながら今とは状況が異なる。

 過去そうであったとして、今もそうである保証はない。

 とはいえ、前提となる基本の情報は欲しい訳で。

 聞くべきは過去か現在か。

 まずはそこからだ。


 なんて事を、ルークは悶々と考えた。

 固まったまま頭から煙でも出しそうなルークを見ながら、イヴルは呆れ顔で指を鳴らす。

旋風ゲイル

 すると、魔力によって強制的に引き起こされた風が部屋に吹いた。

 攻撃目的で唱えられたものではない為、激烈に強い風ではないものの、それでも服をはためかせ髪は乱れさせるだけはある。

 巻き起こした風はベッドや床の上に散らばっていた土をかき集め、床で転がったままの鉢植えを拾い上げた。

 ルークの手にあった破片も、ほぼ強制的にさらっていく。

 宙に浮き上がり、グルグルと回転する鉢植えと植物と破片と土。

 それを見上げるイヴルがもう一度指を鳴らすと、風はゆっくりと収縮を始めた。

 バラバラだった土は次第に一つの塊へと変わっていき、二つに別れていた鉢植えがピタリとくっついて、空いた隙間に破片が埋まっていく。

 そうして、ものの数十秒足らずでパッと見は割れる前と寸分違わない形に戻った鉢植えに、まとまった土と植物をぎゅっと詰め込んだ。


修復リペア

 最後、鉢植えに向かってそう唱えると、鉢植えは優しい淡色に光った。

 風がふわっと消える。

 儚く散らばる風は鉢植えを乗せて、イヴルの手元へと戻った。

 形を固定していた風が無くなっても、鉢がバラける様子はない。

 イヴルはトンっと左手に乗る小さな鉢植えを、右へ左へと回し眺める。

 欠けもひびも見当たらない。

 収まっている植物ものびのびとしており、少し前まで床で無惨に転がっていたとは思えないほどだ。


 イヴルは綺麗に元通りになった鉢植えを床に置くと、続けてベッドに膝をついて身を乗り出し、チェストの状態を見た。

 本当は回り込みたかったが、ルークがしゃがんだまま動かないので、致し方なくの行動だ。

 チェストには鉢のぶつかった痕が残されていた。

 手前の角が凹んでささくれている。

(これも、修復リペアでは無理そうだな)

 むうっと唸りつつも、イヴルはさっさと結論を出した。


 修復リペアは、一種の巻き戻しである。

 布や服等の生地系であるなら、糸を繊維にまで戻して再結合させ、そこから元の形へ戻す。

 鉢植えや食器等の焼き物系ならば、接合部分を一旦粘土の状態にまで戻してからくっ付けている次第。

 だからこそ、素材そのものである板や石等には修復リペアが効かないのだ。

 巻き戻した所で、木材は木材、石材は石材に変わりないのだから。


 早々に見切りをつけたイヴルは、ベッドから降りて観葉植物を飾り棚へ戻す。

 その後、他に破損箇所がないか部屋をくまなく調べて回ると、終わる頃には焼き立てだったパンはすっかり冷めていた。

 ソファに座り、その冷めたバターロールを口に含むイヴル。

 パリッとした感触はすでになく、むしろふわっとしている。

 染み出るバターの甘じょっぱさに、これはこれでと舌鼓を打つイヴルは、視線をルークへ向けた。

 未だ、ベッドとベッドに挟まれたままの状態で悩んでいる。

 微動だにしていない。

(どんだけ考え込んでんだよ……)

 眉をへの字にしながら、イヴルは薄情にも一人でさっさと朝食を食べ進めた。


 それから暫くして。

「……決めた」

 ようやく結論が出たルークが動くのと、朝食を食べ終えたイヴルが、コップの水を飲み切るのは同時だった。

 コンッと、コップが机を叩く音が響く。

「長考しすぎだろ。俺もう食べ終えちまったぞ」

 ルークは立ち上がって背筋を伸ばすと振り返り、座っているイヴルを見下ろした。


「聞きたいのは、お前の過去とこれからについてだ」


 ジトッと、イヴルの目が細められる。

「俺のセリフ、覚えてる?一つだけって言ったよな?」

「両方とも〝はい″か〝いいえ″で終わる事だ。大目に見ろ」

 刺すような視線を浴びながらも、ルークは怯んだ様子もなく続けた。

 それを聞いたイヴルは、腕を組み、眉間に皺を寄せて不快感を露わにする。

 が、また長時間悩み込まれても困ると思ったのだろう。

 極大級のため息を吐いた後、渋々頷いた。

「……言ってみろ」


「あのギンナルとか言う奴は、お前の事を裏切り者だと言っていた。その経緯や是非については問わない。ただ、お前がユグドラシルに属していた事、事実として間違いはないか?」

「ああ。アレの言った通りだ」

 という事は……と、ルークは頭の片隅でとある予想を立てる。

 が、それは今は関係ない。

 いちいち話を脱線させては先に進まないので、モヤモヤするその予想を心の奥底に沈めて、ルークは予定していた質問を繰り出した。

「なら、これから先、お前が心変わりをして、再びあちら側につく可能性は?」

「絶対に無い……と、言いたい所だが……」

 言葉を濁したイヴルに、ルークは首を傾げて先を促す。

「……だが?」

 むうっと、イヴルは先ほどとは違う意味で眉根を寄せた。

 静かに目を瞑り、組んでいた腕を解いて、左手で眉間を押さえる。

「……まあ、一応教えておくか」

 目を開いたイヴルは、ルークを見上げながら、首元にあるチョーカーをトントンッと二回叩いた。


「俺の弱点はこれだ」


 急に飛んだ話に、ルークは困惑して目を丸くする。

「どうした?急に……」

「以前話したと思うが、このチョーカーは常時周りに軽度の認識阻害を与えている。覚えてるか?」

「まあ、一応……」

 記憶を探り、頷いたルークへイヴルは続けた。

チョーカーこれの本来の役割は、装着者の自我保護だ」

「自我保護?」

 思いの外重要度の高い内容に、ルークは面食らった様子で聞き返した。

「この星には、〝へーニル″と呼ばれる思考を制御する一種のストッパーがあってな。神代の時に導入され、広がったものなんだが……長くなるからはぶくな。とにかく、これはそれの目を欺き、無効化しているんだ」

「思考制御って何故そんな……」

 禁忌指定魔法にもあるように、この世界ノルンでは本人の同意なしに意志を捻じ曲げる事を禁じている。

 だからこそ、神代時からそんな倫理に反する様なものがある事に、そして未だ存在し続けている事に、ルークは疑問と衝撃を抱いていた。

 途中で詰まって出て来なかった言葉。

 しかし、イヴルはルークの表情を読んで、続くセリフに予想がついたらしい。

軽く肩を竦めて答えた。

「叛乱防止が最たる目的だが……まあ、色々あるんだよ。自意識や感情なんか持たれたら困る理由がな。ああ、適用されるのは神代の者のみだから、現代人お前達に害はない。だから重く考えなくていいぞ」


 そうは言われても、根が真面目なルークは今の話をかなり重大な懸念事項として受け取った様で、深刻な面持ちでイヴルを凝視する。

「その……思考制御を受けたら、どうなるんだ?」

 イヴルが「ん〜……」と悩んだ時間は僅かだった。

「まあ、ユグドラシル側にとって都合のいい人形になるだろうな。制御権はあちらにあるし」

「チョーカーを外したら、すぐそうなるのか?」

「首と言うよりは身体から離せばそうなるが、俺であれば数分程度は持ち堪えられる。とは言え、その間にチョーカーないしジャミング装置をこの身に適用出来なければ……お察しの状況になるな。だから、ユグドラシル側につかないと断言出来なかったんだ。ご理解頂けて?」

「へーニル自体を消す事は出来ないのか?お前ならやれそうだが……」

「やろうと思えば出来る。だが……うん。やんごとない理由によって、出来ないんだ」

 うんうん、としきりに頷くイヴルに、ルークは冷めた視線を向けた。

「……なんだそれ」


 イヴルは、ふるっと大きく首を振った。

「話せるのはここまで。ってか結局長くなっちまったな。お前さっさと飯食え。食器片せないだろ」

 疲れた、とソファに深く身を沈め、顎をしゃくってルークを急かす。

 話が終わった途端、雑な扱いをしてくるイヴルに、未だ不完全燃焼なルークは晴れない表情を浮かべた。

 無言の圧力が一層重くイヴルにのしかかるものの、本人はそれをやり過ごす為の文言を備えている訳で。

「イリスさん達の迷惑になるだろ?」


 効果は覿面てきめん

 ムスッとした顔のまま、特に何か言うでもなくルークはソファに腰掛けた。

 冷めたパンを手に取り、頬張り始める。

 閉じられていた鍋の蓋を開ければ、中にあったのは一人前のコンソメスープだった。

 蓋の裏側に、小さなオタマが吊り下げられている。

 保温に優れた鍋のおかげか、スープはまだ温かい。

 パンを口に含んだまま、ルークは蓋からオタマを外して、スープを取り皿に移し始めた。

 琥珀色のスープと共に、細切りのベーコンと大根、小さく分けられたブロッコリーが、ゴソッと器に盛られていく。

 そうして、料理を黙々と口に運び始めたルークから目を離したイヴルは、視線を上にあげて弁償額について考え始めた。


 クロニカの事もあって、現在木材の価格は高騰している。

 とは言え、傷付いた箇所のみ床板を外して取り替える事が出来るなら、そこまでバカ高くはならないはずだ。

 加えてチェストの修理代、ないし買い替えの代金と、四日間の宿泊費。

 導き出された金額に、イヴルは「はあ……」と深めのため息を空に吐く。

(……ざっと計算して、修繕費だけで今回の依頼料の半分。宿泊費も含めれば、ほぼ実入りは無しか……。散財している訳でもないのに全然貯まらんな〜デア。そんなに俺の事嫌いか?)


「……あの白猫、ここで飼う事になったんだな」

 肩を落としているイヴルへ、不意に声が響く。

 視線を下ろせば、大皿から取り分けずにサラダを頬張るルークがいた。

 ザクッと威勢の良い音が、フォークの先から発せられる。

「ん?おお。責任を取りたいんだってよ」

「責任?なんのだ?」

 オウム返しに訊ねると、フォークに突き刺さったレタスを口へ詰め込む。

 ジャクジャク鳴る音を聞きながら、イヴルはごく自然に答えた。

白猫あいつ、妊娠してるらしい」

 ぐほっ!と、ルークの口から瑞々しいレタスが飛び出た。

 鮮やかな緑がバラバラと散り、焦げ茶色のテーブルを彩る。

「うわっ!きったね!!」

 盛大に噎せ返るルークを気にもせず、イヴルはただ顔を顰めて身を引いた。


 口を押さえて咳き込む事少し。

 漸く落ち着いたルークは、真っ赤になった顔でイヴルを見た。

「に、にん……妊娠って言ったか?」

「言った」

「い、いつ、いつの間に??」

「船倉に捕らえられてる時だってよ。いや〜、極限下での子孫を残そうとする本能の強さって、凄いよな」

 恥ずかしげもなく大きく首肯するイヴル。

 そんなイヴルとは反対に、顔を真っ赤にしたまま、自ら机にぶちまけたレタスの残骸を片付けるルーク。

「ほ、本能……そうか……」

 俯き、ブツブツ呟く。

「まあ、あの白猫にとっちゃあ良い結果だろうよ。これから先、衣食住には困らないんだからな」

「そうは言っても、外で自由気ままに生きる方がしょうに合ってるかも知れないだろ?」

「本に……本猫?にも聞いたよ。その上でここで飼われる事を受け入れたんだ」

「そ、そうか……。消去デリート

 会話の終了と同時に唱えた魔法で、小山になっていたレタスがパッと消える。


 ルークは気持ちを落ち着かせる為、スープをひと口飲む。

 程よい塩気と野菜の甘さに、ほっと人心地ついていると、次なる疑問が浮いた。

「依頼も終わったし、今日にでも町をつのか?」

「そのつもりだ。必需品の補充はお前が寝てる間に済ませてある。……時間的に、本当は明日にでもするつもりだったんだが、予想外の弁償費用が発生したからな。しようがあるまい」

「悪かったよ。ところで、なんで部屋にネロ達がいたんだ?」

 ギュッと渋い顔をしながら、ルークはチラッと浮かんだ疑問を口にしていた。


 言って、そう言えば本当になんでだ?と首を捻る。

 脱走したネロの事もある。

 まともな感性を持った人物なら、脱走対策はきっちり施すはずだし、いわんやイリス達一家は常識を兼ね備えた人物。

 脱走対策はおろか、おいそれと三階から出すとは思えないし、よしんば出したとしても客室にまで入れるだろうか?


 疑問は雪だるま式に膨れ上がり、ルークの顔を曇らせる。

 そこへ、イヴルはさらっと告げた。

「ああ、それ。お前が一人で寝てて寂しかろうと思ってな。俺の配慮だ」

「は?」

 ポカーンと、ルークは間の抜けた顔でイヴルを眺めた。

「そんな長時間じゃない。俺が買い物に行ってる間だから……せいぜい一時間弱だ。粗相しないよう、本猫達にもきつく言って聞かせたからな。しっかり安眠出来ただろ?」

 得意げに胸を反らしてのたまうイヴルに、ルークは薄らと額に血管を浮かび上がらせて首を傾げる。

「いや……は?なんて?」

 それって、この部屋がこんな状況になったの、結局根本の原因はお前イヴルでは?

 なんて、ピリつくルークの気配を全く読まず、イヴルは続けた。

「猫は癒しってよく言うし、夢見も良かったんじゃないか?」

 ルークはギュッと、持っていたフォークを握り締める。

「ああ……ああ!良かったさ!最高になっ!!」

 怒鳴るや否や、光の様な速さでフォークをイヴルの紫眼に向けて放った。


 空を裂いて飛来するフォークを、イヴルはキョトンとした顔で容易く受け止めた。

 ちょうどカードでも挟むかのように、左手の人差し指と中指でフォークの歯の部分を挟んでいる。

「何怒ってんだよ。夢見良かったんなら喜ぶべきだろ?」

「うるさいっ!!」

 烈火の様に怒るルークに、イヴルは本当に分からないと首を傾げた。


 そんな感じで、不意に訪れたいさかい。

 ルークによるほぼ一方的な口撃と、ただただ不思議そうな表情を浮かべるイヴル。

 口喧嘩とも言えないやり取りは、少しして食器を下げに来たイリスによって仲裁されたのである。


-----------


 時刻は太陽が天頂に差し掛かる頃。

 イヴルとルークの二人は、工芸の町ファキオを後にした。

 約四日余りを過ごした町は、すでに後方で存在感を薄めている。

 存外仲良くなったイリスの事もあり、名残惜しいと感傷的になるのかと思いきや、そこはドライな二人。

 さっぱりとした表情で、緑の草原を歩いていた。


 結局、猫目石に払った弁償金は、二人仲良く折半だ。

 どちらにも原因があるので、当然と言えば当然の結果だろう。

 金額は、ほぼイヴルが試算した通り。

 宿代を含めて、今回の依頼料のほぼ全てがイリス達に返っていった。

 ネロの件に加えて、攫われたイリスを助けた事もある。

 それを踏まえたフィガロ達から、些か温情をかけてもらったものの、二人の手元に残ったのは僅か2000ばかし。

 等分で1000Dずつの収入。

 通常よりも低い実入りである。

 最後の修繕費さえなければ、労力に見合った良い収入だったのだが……まあ仕方がない。

 世知辛いのは世の常だ。


 しかし、ファキオ側から見れば実に僥倖だったろう。

 何せ、町に巣食っていた〝瑠璃くすり″の件を、一夜にして解決出来たのだから。

 ネロを含め、捕まっていた猫達は解放され、野良猫以外は全て飼い主の元へ戻れた。

 依頼板に貼られていた、あの夥しい量の依頼用紙も無くなる。

 今すぐ町の警戒を緩める訳にはいかないものの、少なくともあのピリついた空気は薄まり、町に出入りする為の長蛇の列も改善されていくはずだ。

 〝瑠璃″を捌いていた首謀者を捕らえる事は出来なかったが、それでもおおむね満足のいく結果となった。


 ただの猫探しから始まった今回の依頼。

 予想外に大きな話へ進展してしまったが、それでもなんとか無事依頼をやり遂げられた事に、イヴルもルークも内心安堵の息を吐いていた。

 肩にのしかかった鬱陶しい重荷を下ろせて清々すると、イヴルは薄雲が広がり始めた空へ向けて腕を伸ばす。

 肩甲骨からゴキポキと小気味いい音を一頻ひとしきり鳴らした後、不意にパタッと腕を落とすと、今度は肩をぐるぐると回した。

 今回の依頼、よほど面倒だったんだな〜。なんて考えながら、ルークは呆れた目でストレッチにいそしむイヴルを眺めていた。


 真夏のまとわりつく様な湿気は失せ、カラッとした涼しく軽い風が草原を駆け抜ける。

 太陽が薄雲に軽く遮られているおかげで、肌を炙る様な強い陽射しもない。

 いっそ、一年中この気候であればいいのに、と思ってしまうほど快適な日。

 穏やかに波打つ草を眺めながら、二人はマニアール街道を北西に向かって進んだ。

 会話もなく、茶色い道を黙々と歩いて行く。

 普段から和気あいあいと旅路を進んでいる訳ではないが、今は朝にあった喧嘩が尾を引いている為、こんな有様と言う訳で。

 会話のネタも無いしと、二人は無言なのである。


 するとルークは、ふと隣を行くイヴルへ話しかけた。

「イヴル。やはりよく考えてみたんだが……」

「あ?なんだよ急に」

「ユグドラシルの事、概要だけでも教えてくれないか?」

 リラックスモードだったイヴルの眉間に深い谷が刻まれる。

「くどいな。だから、自分で調べろっての」

「お前の言い分は理解した。しかし最低限の情報ぐらいは教えてくれてもいいだろう?施設名とか、その役割とか。それなら、お前の主義主張にも反しないはずだ」

 しつこく食い下がるルークに、イヴルのムスッとした顔がさらにムスッとする。

 顰めすぎて、もはや潰れてるのと変わらない顔面だ。美貌が台無しである。

 そこから吐き出された声も、実に渋いものだった。

「屁理屈ばっかり捏ねやがって……ガキが」

「屁理屈じゃない。ちゃんと道理に叶っているだろ」

「嫌」

「頼む」


 間髪入れずの懇願。

 〝頼む″と言いつつも、そこに乞う様な気配は微塵もなく、むしろ命令している感じさえある。

 ここから再度、押し問答になるのかと思いきや、存外あっさりとイヴルは折れた。

 ルークの熱意に負けたと言うよりは、また言い合う方が疲れると思ったのだろう。

 ゲンナリと曇った表情で、ピッと人差し指を立てる。

「……分かった。だが、教えるのは当該施設に着いた時で、教える内容もその施設の役割に関してのみだ」

「今、ざっくりとでも教えてくれないのか?」

「ユグドラシルが関与した施設が多すぎる。俺が消し飛ばした施設を含め、末端の末端まで教えてたら時間がいくらあっても足りないし、多分頭パンクするぞ。都度教えていく方が頭に残りやすい」

「……お前がそう言うなら、了解した。なら、とりあえず今はユグドラシルについて教えてくれ」


 イヴルはゴリゴリと頭を掻いた後、悩ましげに訊ねた。

「ユグドラシルは、理念から何から説明すると長い。だから名称だけ教えてやる。正式名称と通称二つあるんだが、お前どちらを知りたい?」

「二つとも」

「ど・ち・ら・だ?」

 満面の笑みで、だが語気強めで聞くイヴル。

 迫力のある笑顔はなかなかの圧だ。

 どうやら、これは譲らないらしい。

 その事を悟ったルークは、顎に手を当てて僅かに悩んだ後、そっと口を開いた。

「……なら、正式名称の方で」

 知るなら通称二つ名より正式な方を、と考えたようだ。


「〝人類進化探求機関″。これが、神代時におけるユグドラシルの正式名称だ」


 滔々とうとうと告げたイヴルの言葉は、いびつな冷たさを持ってルークの耳朶じだに響いた。

 人類の進化。それを探求する為の組織。

 一見して崇高な理念を持っていそうな名称。

 しかし、ギンナルのしていた〝瑠璃″の治験もあって、どうにも後暗さが拭えない。

 ルークはその名称を、忘れないように頭に刻み込んだ。

 これから先、きっとどうあっても関わる事になるだろう予感があったからである。


 そんなルークの首元を、一陣の風が吹き抜けて行った。

 まるで、予感を裏付けるかの如く。


 不吉で、不穏な、鋭い風だった。










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不滅魔王の暇潰し旅 えのころ草 @mikenekomata

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