第52話 猫探し⑦ アウルヴァングに住まう者


 息が詰まるほどの狭い船倉の中で、イヴルは不快げに目を眇めていた。

 形のいい唇も引き結ばれて、への字に歪んでいる。


 原因は目の前にいる〝店長″のせい。

 天井に一つきりしかない照明カンテラに照らされた男は、歳の頃四十前後だろう。

 白髪の混じる金髪を短く刈り込み、くすんだ緑色の目は昏い感情を宿していた。

 執事とまではいかないが、それでも整ったスーツ姿と、右手の薬指に嵌めた金の指輪を見るに、船夫と言うには少々無理がある。

 そんな男は今、片手で子供イリスの肩を掴んでいた。

 もう片方の手には、蒼い液体の入った注射が握られ、イリスの首筋に当てている。


 隙の無い視線がイヴルを見据える。

「……下がれ。このガキを殺されたくなかったらな」

 言いながら、男は注射の針をイリスの首へさらに押し当てた。

 服装に見合わず実に荒っぽい口調だが、多分〝オーナー″や客の前では違うのだろう。

 それは置いておいて、もう僅かでも力が入れば皮膚を突き破ってしまう針に、イリスは色を失った顔でイヴルを見つめた。

「イ、イヴルさぁん……」

 イリスの声は完全に泣いているが、目から涙は零れていない。

 恐怖のあまり涙腺が別の方向へバグってしまったらしい。


 はぁ~……と、重いため息がイヴルの口から吐き出される。

「勘弁して下さい。どうして貴女がここにいるんですか……」

 眉間に手を当てて、頭を振るイヴル。

「ご、ごめ」

「聞こえなかったのか?下がれ」

 謝るイリスを遮って、男は再度命じた。

 今にも死にそうな真っ青な顔で、イリスは口を閉じる。

「はいはい」

 適当な返事をしながら、イヴルの足が一歩だけ下がった。

「そのまま失せろ。追ってくるな」

 さらなる要求に、イヴルは面倒くさそうな表情を綺麗な顔に浮かべた。

「それは別に構わないが、その前にその子を離せ。ネロを無事渡すまでは、俺の雇い主なんでね」

「ネロ見つけた────」

 目を見開いて、思わず声を弾ませたイリスだったが、

「黙れガキ!!次に口開いたらぶっ殺すぞ!!」

 男の強い恫喝の言葉に、恐怖からギュッと再び口を閉ざした。

 僅かに針が刺さったらしく、イリスの首筋から細く血が流れる。


 今にも失禁しそうなイリスを舌打ちして見下ろすと、男は肩を掴む手により力を込めて、今度はイヴルを睨みつけた。

 痛みから表情を歪めるイリスなどお構い無しだ。

「雇い主……。傭兵か旅人か。子供に使われるとは、恥ずかしくないのか?」

「別に?適正以上の報酬も貰ったし。むしろ年齢如きで判断なんて、お前はずいぶんと器が小さいんだな」

 ピクッと男の眉が一度跳ねる。

 イラッとしたのは確かだろうが、ここで激昂するほど浅はかではないようだ。

「……挑発しているなら無駄だぞ」

「それは残念。釣られてくれれば楽だったんだがな」

 肩を竦め、全然残念そうでないイヴル。

 その耳が、一度微かに跳ねた。


「……まあ、それはそれとして。ちょいと訊ねたいんだが」

「素直に答えると思ってるなら、お前の脳みそには蛆でも湧いてるに違いないな」

 辛辣な返答に、イヴルはふっと失笑した。

「そう身構えるな。至極簡単な事だ。〝オーナー″の名を知りたいだけさ。〝店長″であるお前なら、知っているはずだろう?」

「黙れ。自分の立ち位置が分かっていないようだな。こっちには人質ガキがいるんだぞ」

「おお~。見事なまでの三下が吐きそうなセリフ~」

 馬鹿にした様な嘲笑を浮かべたイヴルは、そのまま流れる様に言葉を紡いだ。


「〝答えよ″〝嘘偽りなく真実を素直に″」


 売人である男に掛けたのと同じ魔法。

 それを、イヴルは再び唱えた。

 知識の無い常人であれば、抗いようのない近世魔法。

 当然、男もくだんの売人の様に、ペラペラと口が軽くなるものと思われたのだが。


「は?断る。ふざけているのか?」


 などと、にべもなく断られた。

 おや?とイヴルが不思議そうに首を傾げる。

「〝答えよ″〝嘘偽りなく真実を素直に″」

「……キチガイか?」

 もう一度同じ文言で試してみるが、男から返ってきたのは、さらに酷い罵り文句だった。


 魔法が強制的に分解キャンセルされた様子はなく、どちらかと言えば届かなかった、すり抜けたに近い現象に、イヴルの目が静かに据わる。

 先の様な不快感と言うよりは、警戒と怪訝を織り交ぜた色だ。

 イヴルの口が僅かに開かれ、しかしすぐに閉じた。

 何を聞くべきか、どう訊ねるべきか迷っている感じだ。

 結局、意味が分からないと胡乱げな男に訊ねたのは、

「お前、〝オーナー″から何か貰ったか?」

 そんな、なんとも漠然としたものだった。

「だから、誰が喋るか。いいから下がれ。失せろ。何度も言わせるな」


 苛立つ男がそう言った瞬間だった。

 盛大な破砕音を奏でて、唐突に男の頭上にあった天井が崩壊したのは。


 甲板であり、天井を構成する木材を突き破って現れたのは、千年前の魔法によって肉体を強化したルークだ。

 床を踏み抜いた体勢のまま、イリスを掴んでいた男の左肩に落ちる。

 鎖骨が砕かれる音は、ガラガラと言う板材が床へ落下する音に紛れて聞こえなかった。

 唖然とする間もなく、肩に走った激痛に短く叫び、降り注ぐ木屑に身を晒す男。

 もうもうと粉塵が舞い上がり、視界を覆い尽くす。

 そんな刹那の間隙を突いて、イヴルは動いた。

 男の手から離れたイリスへ駆け寄って抱き寄せると、一気にその場から離脱する。

 扉を潜り、跳躍して階段を省略し、甲板へと躍り出た。


 漆黒の甲板。

 そこでイヴルは、抱きかかえていたイリスを下ろすよりも先に、照明魔法を唱えた。

灯火グロウ

 ほわっと浮かんだ優しい色の光が辺りを照らす。

 黒い床板の甲板は、前方の一部に大きな穴をこさえていた。

 ルークが遠慮なく、思い切り踏み抜いた場所である。

(アイツ、豪快過ぎだろ……)

 等と思いつつ、イヴルは震えているイリスをそっと下ろした。

 途端、へたっと腰が抜けてしまうイリス。

「ひっ……ひっうっ……」

 続いて、溜まりに溜まっていた恐怖からか、声を詰まらせて泣き出してしまう。


 泣くガキは面倒なんだよなぁ~、なんて失礼かつ不謹慎な事を考えつつ、イヴルはしゃがんでイリスの頭に降り掛かっていた木屑を払った。

治癒サナーレ浄化ピュリフ。はい、もう大丈夫ですよ。イリスさん」

 首の傷を治し、念の為に浄化魔法をかけたイヴルを、イリスは真っ赤になった目で見上げる。

「うっ……うっ……ごめ、ごめんなさ、い。わ、わた、し、ネロがしんぱ、心配で……それ、で……内緒で、船、見てたら、そしたら、あの人、に、突然……うぅ~っ」

 つっかえつつ、謝罪とここにいる理由を話し始めたイリスに、なんとなく事情を察したイヴルはため息を吐いた。

「気持ちはお察ししますがねぇ」

 勝手な行動はただただ迷惑です。と続けようとした時、ルークが階段を上ってきた。


 トン、ガンッ!トン、ガンッ!

 と、不思議な音を引き連れるルークに、イヴルとイリスは胡乱げな目を向ける。

 やがて露わになったルークを見て、イヴルは眉をひそめた。

 音の正体。

 それは、ルークが男の足首を掴んで運んでいた事に由来していた。

 トン、はルークの足音。

 ガンッ!は、引き摺られる男が、頭部を階段の縁にしこたまぶつけていた音だ。

 完全に気を失っているらしく、男の身体に力はなく、だらっとなされるがままである。

 肩の粉砕程度で失神するとは思えないので、恐らく内臓か顎に一発、重いのでも食らったのだろう。

 これまで行ってきた事を鑑みるに、一切同情は出来ないものの、ゴミ袋よろしく雑に引き摺られる姿はなんとも憐れだ。

 今の今まで泣いていた、被害者であるはずのイリスも、痛そう……と呟いて顔をしかめている。

 そうして甲板へ上がりきったルークは、無造作に男を放り出した。

 正しく、ポイッと。


 ゴンッ!と落下した男の足が、鈍い音を立てて甲板を叩く。

 イヴルとイリスの視線が男に向かう中、ルークは一瞥すらせずに口を開いた。

「コイツが〝店長″だな?」

 冷たく訊ねながら、自らの身体に付いた木屑をぞんざいに叩いて落とすルークに、若干引き気味なイヴルが頷く。

「ああ、まあ……その通りだ」

「〝オーナー″について、何か聞き出せたか?」

「いや、残念ながら」

 否定の言葉に、は?とルークの目に責める色合いが浮かんだ。

「勢い勇んで飛んだくせに、何も引き出せなかったのか?」

「別に勇んじゃいないんだが。それはともかく、しょうがないだろ?予想外の出来事が二つもあったんだ」

「二つ?イリスちゃんの事以外に何かあったのか?」


「近世魔法が通じなかった」


 そのひと言に、ルークの目が驚きで丸くなった。

 そして、言葉の真意を確かめる為に、難しい表情で口を開いた。

「……通じなかった、と言うのはつまり、キャンセルされたとかではなく?」

「ああ。相殺、分解の類いではなかったな。魔法は問題なく紡げたし発せられたんだが……」

 イヴルはそこで一度言葉を区切ると、男を見下ろしつつ「う~ん……」と唸った。

「なんだろな……。こう……すり抜けていく感じ?暖簾に腕押し……いや、直前で対象を見失った様な?」

「さっぱり要領を得ないな」

 険しい表情を崩さず、ズバッと言い切るルークに、同じような表情を浮かべたイヴルは目を瞑って首を振る。

「仕方ないだろ。俺だって理解出来てないんだ」

 そう言うと、イヴルは短く嘆息を吐いて男に近付き、おもむろにしゃがんだ。

「……殺すなよ」

 警戒感の籠るルークのセリフに、うんざりした様子でイヴルはぶっきらぼうに返す。

「まだ殺さねぇよ。ちょっと調べたいだけだ。身走査スキャン


 〝まだ″の前置きに、眉間の皺が深く刻まれる。

 男の身体能力を調べ始めたイヴルに、さらに念押しの言葉を吐こうとした所で、イリスが待ちかねた様にルークへ話しかけた。

「ねえ!ネロ!見つかったの?!生きてる!?元気!?」

「あ……」

 ぴょんぴょんと兎の様に飛び跳ねて、存在を殊更に主張するイリスに、ルークは一瞬迷う。

 何せ自分はネロの姿を見ていない。

 生きているとイヴルは言っていたが、自分の目で確認していない以上、安易に「生きている」と言っていいものか。

 そこを悩んだ。

 言い淀むルークを見て、嫌な方向へ考えが働いてしまったのだろう。

 イリスの顔に不安の色が濃く浮かんだ。

「……ルークさん?」

 吐き出された言葉も、頼りなく揺らいでいる。


「生きてますよ。ついでに元気です」

 ルークの代わりに答えたのは、仰向けに倒れていた男の懐をまさぐっていたイヴルだ。

 粉塵と木屑に塗れた、実は上等なスーツの内ポケットをひっくり返しながら続ける。

「死ぬ寸前でしたけどね。ちょっとした裏技を使ったので、余程のことがない限り、あと四十年ぐらいは生きられると思いますよ」

 ポケットから出てきた、何処のものとも知れない鍵や少量のD硬貨をまじまじと眺めると、不意に放り捨て、さらに別のポケットを探り始める。

「ホント!?」

「嘘を吐いて何になります」

 食いつくイリスに、イヴルは目も向けず答えた。


 イリスは顔を太陽の様に輝かせると、勢いよくルークを見上げる。

「ネロに会いたい!!ルークさん連れてって!!」

 ここでイヴルではなくルークを選ぶ辺り、イリスの空気を読む能力と言うのは、子供に似合わず確かなようだ。

 だが、その要求にルークは困ったように視線を泳がせた。

「え、えっと……」

 イリスを連れ戻るのに戸惑った訳ではない。

 むしろ、今すぐにでも安全圏に連れて行きたい。ダイナとフィガロも心配している。

 しかし、イヴルの言う〝裏技″が何なのか気になったし、何より〝店長″である男と二人きりにするのに不安を抱かざるを得なかった。

 それは、事が終わったら、イヴルが男を殺してしまうだろうと予想出来たからだ。


 葛藤するルークに、イリスは期待した瞳で早く早くと急かす。

 一方のイヴルは、そんな惑う雰囲気を感じ取ったのだろう。

 ルークを見上げて、形の良い唇を開いた。

「行ってやれ。俺としても、いつまでもここに依頼主がいては落ち着かない」

「だが……」

「今の所、こいつに不審な箇所は見受けられない。今すぐどうこうする訳じゃないから、さっさと」


「イヴルッ!!」


 闇を裂く様な鋭い声。

 目を見開き、突然怒鳴ったルークに瞠目したのも束の間、イヴルの左腕に掴まれた感触が響いた。

 と同時に、何かを刺されたピリッとした痛みも走る。

「っ────!」

 反射的に腕を払って、男から飛び退いたイヴルだったが、すぐにうずくまってしまった。


 発火した様に急激に熱くなる身体。

 定まらない思考。

 乱れる呼吸。

 揺れ動いて止まらない視点。

 急激に心拍を上げた心臓は、耳に移動したかの如く、酷くうるさい。


 一気に襲いかかる体調の変化に、イヴルは悔しそうに歯噛みした。

 半ば無理やり顔を上げれば、自分を掴んだ男の右手が目に映る。

 不自然に上がったままの手には、灯火グロウを反射した金の指輪が、キラリと歪に輝いていた。


「イヴルッ!!」

「旅人さん!」

 慌てて駆け寄る二人に、イヴルはただ荒い呼吸しか返す事が出来ない。

 両腕で、自らの身体を抱えて蹲る姿は、まるで何かを抑えている様だ。

 ルークは急いで膝を付くと、

浄化ピュリフ!」

 そう魔法を唱えた。

 イヴルの身体が淡く光るが、様子に変化はない。

 唇を噛み、未だ苦しそうにしている。

 どうして、と困惑するルークの耳に、不意に男の声が届いた。


「無駄だ」


 抑揚のない声。

 ハッと、ルークとイリスの視線が声のした方へ向く。

 声の出処は〝店長″である男。

 それは間違いない。

 しかし、そこにあったのはゾッとする様な光景だった。


 手を上げたまま、ぐりんっと男の顔は三人の方へ向いていた。

 いや。三人……ではなく、イヴルを見ていると言った方が、より正確だろう。

 男の瞳に意思や意志の色は見えず、機械よろしく、どこまでも無機質で冷たい。

 姿形や声はそのままのはずなのに、明らかに纏う雰囲気は別人のもので。

 それがどうにもアンバランスで、気持ち悪かった。

 そんな男は寝転がったまま、ぼやっとした口から言葉を漏らした。


「僥倖。魂の状態であっても枷は働く。これは報告に値する。記録」

 ギリッと、歯軋りする音がイヴルから発せられる。

 男を睨み付ける瞳には、強い怒りが溢れていた。

「貴様何者だ!イヴルに何をしたっ!!」

 ルークが立ち上がり、スラリと剣を抜いて構えれば、男は妙にギクシャクとした動きで起き上がった。

 生理的嫌悪感が湧き上がる光景に、イリスが息を呑んで怯える。

 が、それでもと勇気を奮い立たせて、イヴルを庇う様にギュッとその頭を抱きかかえた。

 さらに息がしづらくなって、正直迷惑だったイヴルだが、苦情を言う余裕も無い為なされるがままだ。

 やがて立ち上がった男。

 砕かれた左肩がボコッと下がっているものの、痛みを感じた風もなく、首をゴキゴキと鳴らして答え始める。


「我はギンナル。アウルヴァングに住まう者。そこな裏切り者には〝瑠璃″を与えた」


「アウル……ヴァング?」

 聞き覚えの無い名称に、自然と疑問の湧き上がるルークだが、今はその事よりもと考えを改めた。

 表情と気を引き締め、油断なく訊ねる。

「〝瑠璃″を与えた、と言ったな」

「肯定」

「それと浄化魔法が効かない事に、何の関係がある」

「……情報開示請求を受諾。仮称〝瑠璃″は特別配合した物である。従来品と異なり、即効性と定着率に重きを置いている。〝浄化″では成分分解が間に合わない」

「治す方法は?」

「無い。諦めるが良い」


 淡々とした、しかし素直な返答に、ルークは警戒度を上げた。

 何か思惑が無い限り、こんな易々と答えはしないだろうと考えたからだ。

 剣を握り直し、ギンナルに向ける。

「……何故、敵意を向ける。我は答えた。ぬしの血に免じて答えた。我は主の敵ではない」

 心底不思議そうに、ギンナルは首をギチリと鳴らして傾げた。

「毒にしかならない瑠璃くすりをばら蒔いている時点で、お前は僕の敵だ」

「毒?統計調査中、及び調整段階ではあるが、瑠璃は将来の万能薬である。敵視するものではないと進言する」


 ルークとギンナルのやり取りを耳にしながら、イヴルは息も絶え絶えにイリスへ声をかけた。

「イ、リス……さん」

 あまりにもか細い声は、少し前のネロの如く儚い。散る間際の花の様だ。

 それでも、なんとかイリスの耳に届いたようで、彼女の視線がルーク達からイヴルへ落ちる。

「何?どうしたの?辛い?大丈夫?」

 矢継ぎ早に聞いてくるイリスに、イヴルは一度低く呻くと、熱い息を吐き出した。

 身体の奥から強制的に湧いてくる熱と衝動以上に、肉体が変異しかけているゾワゾワとした感覚が、殊更ことさらに気持ち悪くて仕方ない。

 強く唇を噛み締めると、裂ける痛みに加えて、血の味が舌を刺激する。

 痛みで気を紛らわせて理性を保っているが、魔法が使えるだけの集中力は皆無だ。

 この状態を即座に解消する方法は、たった一つだけ。

(……一度、死なリセットしなければ……)

 イヴルは、震える声でイリスに伝えた。

「剣、を……俺の、後ろ腰に差して、ある……剣を、抜いて下さい、ませんか……」

「え、け、剣?でも、わたし戦えないよ?」

「ぐ……うっ……。ち、違います。とに、かく……抜いて……」

「う、うん」

 言われるがまま、恐る恐る剣の柄を握るイリス。


 抜いた剣は、思わずため息を漏らしてしまうほど美しかった。

 銀色の柄に、金の蔦が巻きついたような装飾が施された短剣。

 蔦はそのまま柄の先にある、透明な球体を枠の様に囲んで伸び、細身の剣身と化している。

 実用性に乏しい、どちらかと言えば観賞用の見た目。

 彫刻師見習いの端くれとして、思う存分眺めて将来の肥やしにしたい所であるが、イリスはその欲求を堪えて、剣をイヴルへ差し出した。


「ぬ、抜いたよ?これをどうするの?」

 イリスは皆目見当がつかないと首を傾げて訊ねる。

 熱に浮かされ、虚ろになった瞳で剣を眺めるイヴル。

「そ、それ、を────」


「〝吹き飛べ″」

 言いかけた瞬間、ギンナルの魔法がイヴルを直撃した。

 短く響いたイリスの悲鳴は、圧縮した空気に吹き飛ばされたイヴルの、甲板を転がる音に紛れて消える。

「うっ……つっ……」

「イヴルッ!」

 不意をつかれて魔法を使われてしまった事に、ルークは忸怩じくじたる思いに駆られつつ、ギンナルに向けて剣を振るった。


 一足で近付き、一呼吸の間もなく剣を振り下ろす。

 上から下への真っ直ぐな剣閃。

 きっと避けられるだろうと予想した、遠慮なしの豪快な太刀筋はしかし、そのままギンナルの左肩に吸い込まれた。

 回避する動作など、何一つしなかった。

 質の良い生地を裂き、皮膚を破って肉と骨を断ち、左腕が身体から離れる。


 驚愕に目を見張るルークの至近距離で、鮮血が勢いよく噴き出た。

 ゴトンと腕が甲板を叩く。

 ビシャビシャと撒き散らされる赤が、黒の甲板へ広がっていく。

 絶句するルークと、息をするのも忘れた様に剣を抱えて硬直しているイリス。

 それでも、ギンナルは悲鳴一つ、顔色一つ変えなかった。

 ただ、右手に光る指輪へ視線を落として、一つ頷く。

「アンドヴァラナウト試作。魔法行使能力に問題なし。記録」

 そう、無表情で独り言を零すギンナルの横を、ルークは走り抜けた。


 真っ青な顔でガタガタと震えて動けないイリスを拾い、イヴルの間近に下ろす。

 そして、間髪入れず二人を背に庇う形で立ち塞がった。

 絶えず流れる血液のせいで、ギンナルの顔色はどんどんと悪くなっていくが、それを気にかける様子は、ギンナル、ルーク共に無い。

 ルークの状況は理解出来る。

 意味不明な名称の連発とイヴルの状態、保護対象イリスの存在。

 この三つが合わさった結果、気遣うだけの余裕が消え失せてしまったからだ。

 しかし、ギンナルについては不気味としか言いようがない。

 このまま放っておけば失血死は免れないだろうに、止血どころか慌てる素振りさえ微塵もないのだ。

 使い捨てよろしく、壊れて使い物にならなくなっても一向に構わない、なんて思惑すら透けて見える。

 そんなギンナルへ、ルークは最大限の警戒感をもって口を開いた。


「〝汝、動く事能わず″!」

 光縛鎖バインド固定クラウィスでは不足と思ったのか、近世魔法を使って、相手の動きを制止しようとするルーク。

 だがギンナルは、ごく自然に、なんの抵抗感も無く一歩を踏み出した。

 意思の篭った魔力が、するっとすり抜けた様な感覚に、〝魔法が届かない″とはこういう事か、とルークは歯噛みする。

 一方のギンナルは、悔しそうなルークを目にしても、その無表情を崩す事は無かった。

魔力透過機能インビジブル・マナの作動を確認。動作、正常。記録。引き続きサンプル採集を実行」

 鉄面皮のまま、極めて事務的な文言を口にしながら、もう片方の足も前に出す。


 魔法が効かないのなら物理で、と考えたのだろう。

 ルークは下ろしていた剣を再度構え、強く床を蹴った。

 前傾姿勢で身を低く保ったままギンナルへ迫る。

 体勢は腰より低いにも関わらず、動きに危なげはなく、一切ブレもない。

 風を身体で切り裂いて肉迫したルークは、剣の切っ先の様な鋭い視線でギンナルを睨め上げた。

 一瞬だけ交差する二人の視線。

 どちらも冷たい瞳をしていたが、違う点が一つだけ。

 ルークに宿っていた冷たさは、怒りから来るものだった点だ。

 憤りを理性で押し殺し、その激しい感情の波を、右手に握っていた剣へ篭める。


 そして、先ほどとは反対の、下から上へ袈裟斬りを放った。


 刹那の瞬間、冷徹に光る剣閃。

 避けなければ、右と左で身体が確実に両断される斬撃。

 これはさすがに回避しなければと思ったのか、ギンナルは上体を仰け反らしつつ、一歩足を引いた。

 ヒュッと、視界を駆け抜けていく剣先。

 あともう少しタイミングが遅れていれば、左目は失明していただろう距離である。

 代わりに切り裂かれたのは着ていた服。

 スパッとほつれ一つ起こす事なく、腹付近から肩口へ向けて、見事なまでにスーツは裁断された。

 さらに、生地の向こうにあった肉体に、描いた様な赤い一本線が薄らと刻まれる。

 薄皮一枚とは、まさにこの事だ。


 もう殺しても構わない、とでも言うような殺気の篭った一撃に、ギンナルはそれでも慌てた様子を見せることなく、静かに口を開いた。

「〝動くな″」

「〝拒否する″」

 ギンナルが発した制止の魔法を、ルークは半ば被せるほどの速度で拒否した。

 二人の狭間で分解する魔法。

 金の粒子が火花の様に散る。


 ルークはもう一歩踏み込み、手首を捻って避けられた剣をギンナルの首へ向けて薙いだ。

 咄嗟に飛び退こうとしたギンナルだが、僅かに間に合わず首筋を切り裂かれる。

 とはいえ、動脈まで達するほどの深い傷ではなく、せいぜい血が滴る程度の浅い傷。

 本来なら動きに支障は出ないはずの軽傷で、しかしギンナルは急に体勢を崩した。

 左腕を断たれ、おびただしい量の血液を失った結果だ。

 ガクッと膝が折れ、重心が後ろへ傾く。

 そうして微かに瞠目するギンナルへ、ルークは腰の入った膝蹴りを思い切り食らわした。

 腰椎を砕くのもいとわない威力で放たれた蹴りは、綺麗に後ろ腰へ的中してギンナルの身体を浮かせる。

 メシャッと、骨の潰れる気持ち悪い感触が膝を通して伝わってくるが、ルークは努めてそれを無視し、追い討ちとばかりに剣の柄でギンナルの鳩尾みぞおちを殴った。


 内臓が傷付いたらしく、ギンナルは吐血しながら床へ叩き落とされる。

 普通なら気絶しているはずの損傷。

 そんな中、ギンナルは歪な動きで上体を起こした。

 が、さすがに立ち上がる事は出来ないようで、ギリギリと頭を動かして、極寒の眼差しで自分を見下ろすルークを見た。

「素晴らしい連続攻撃だ。賞賛に値する」

 敵とは思えないほどの素直な賛辞に、ルークは盛大に顔を顰めた。

 不快、と明確に顔に書いてある。

 そしておもむろにしゃがむと、ギンナルの右手が動かないよう剣をてのひらに突き刺して固定し、続けて顔面を荒々しく掴んだ。

 ……いや、少し語弊があった。

 掴んだのは顎だ。

 ぐわしっと鷲掴みにして持ち上げ、ルークは感情を押し殺した低い声で訊ねる。


「言え。お前の目的は何だ?」

「我が目的はすでに告げた。〝瑠璃″の治験である」

「言え。お前は何者だ?」

「すでに告げた。我はアウルヴァングに住まう者なり」

「言え。アウルヴァングとは何だ?」

「アウルヴァングは、ニダヴェリール及びミズガルズ合同開発実験施設の名称である。正式名称、アウルヴァングの住居」

「……何だそれは?」

 あまりにも長たらしい名前に、思わずルークは主語を無くした質問をしてしまう。

ギンナルは、ゴギリと首を傾げた。

「質問内容は明確に願う」


 どう問えばいいのか、ルークは迷った。

 多分、聞けば答えてくれるのだろう。

 今現在、拍子抜けするほど素直に答えているのだから。

 だが返ってきた答えを聞いて、理解出来るかどうかはまた別だ。

 恐らく、と言うかほぼ間違いなく、別の疑問が湧き上がってくるに違いない。

 疑問はさらなる疑問によって上塗りされ、どんどん厚さを増していく。

 歴史書ばりに分厚くなった疑問を、短時間で解決するのは不可能だろう。

 それどころか、なるほど、と納得出来るようになるまで、どれだけの質問を重ねればいいのかすら見当もつかない。

 だからこそ、ルークは施設名等の疑問などより、よほど直接的な要求をギンナルにした。


「……今すぐ、その治験とやらを中止しろ。そして金輪際するな」


 結局、ルークにとっての詰まるところはここなのだ。

 誰が、何が、何処が、よりも害悪行動を今すぐに止める事の方が重要なのである。


 ギンナルは、ルークを真っ直ぐに見つめ返して答えた。

「それは出来ない。これは、〝ユグドラシル″の総意である」

 また訳の分からない単語を、とルークはうんざりした面持ちで眉間の皺を深くした。

「死にたいのか?今すぐ僕の言う通りにしろ」

「死?別に構わぬ。端末である〝器″がいくら壊れようと所詮は〝器″。我は何の痛痒も感じぬ」

「……何だと?」


「まさか、〝ユグドラシル″の名前をまた聞くことになるとはな」


 ルークの、霞の様に儚く零した言葉は、ほぼ同時に上がった声に掻き消されて、ギンナルには届かなかった。

 ハッと振り返れば、立ち上がってルーク達を見るイヴルの姿が映った。

 いつもは不敵な紫電の瞳には、若干の疲れと憤りが滲み、服は濃灰色と言うこともあって分かり難いが、よく見れば胸部がぐっしょりと濡れている。

 左手には、透明な剣身から赤い雫をポタポタと垂らす封神剣ロキが握られており、自然と自害したのだと察せた。

 イヴルの背後には、意識を失ったイリスが倒れている。

 すやすやと穏やかな寝息が聞こえる為、物理的に意識を失わせたのでなく、魔法で眠らせたらしい。


「〝不滅体″の再起動を確認。記録」


 ギンナルの乾いたセリフが聞こえ、ルークは視線を戻した。

 ついでに、妙な真似はするなと、顎を掴む手に力を篭める。

 ミシリ、と嫌な音がギンナルの顎から発せられるが、手を離す事も力を緩める事もせず、ルークはただきつく睨み付け、言葉をぶつけた。

「黙れ。何もするな」

 地の底から響いてくる様な声音だが、相変わらずギンナルに怯えた雰囲気はない。

 はて、と首を傾げるだけである。

 背後からはイヴルが近付いてくる音が聞こえる。

 ルークは振り返らずに訊ねた。

「イヴル。お前、〝ユグドラシル″がなんなのか知っているのか?」


「当然である。そやつは」


 瞬間。

 ルークの意識は暗転した。

 落ちる寸前に感じたのは、首筋への衝撃。

 疑問を感じる間もない刹那の出来事。

 ギンナルのセリフを最後まで聞く事が叶わなかったルークは、イヴルの鮮やかな手刀によって、呆気なく甲板の上に転がった。

 そんなルークを見下ろすイヴルの瞳は、どこまでも静かに凪いでいる。

 ある意味、ギンナルと同じ無機質さだ。


 ルークによって掴み上げられていたギンナルは、その手が外れたおかげで自由になったのだが、結局の所は甲板上を寝転がる事になった。

 腰骨が潰されているのに加え、右手を串刺しにされたままで、さらに血を失い過ぎたせいだ。

 慌てて然るべき状況。

 しかしそれでも、ギンナルは暢気のんきにイヴルを見上げていた。


「……過去を知られるのをいとうか?」

「……億劫おっくうだ」


 ちょっとした疑問に、イヴルは感情を込めず淡々と事実を述べる。

「いずれ聞かれるのは確定的だが?」

「……ギンナル。私と無駄なお喋りを続けているのは、少しでも私の記録を取りたいからだろう?」

 ふっと口を閉ざすギンナル。

 沈黙は肯定と同義である。

 イヴルは鉄の様な無表情で、突き刺さっていた剣の柄を握った。


「さて。とりあえず、お前には死んでもらう」

「言ったはず。これは端末。いくら壊そうと」

「ギンナル。私が気が付かないと思ったか?端末これ本体お前を結び付けているのは、その指輪アンドヴァラナウトだろう?」


 ひゅっと、微かに息を呑む音が響いた。

 疑問と驚きにギンナルの目が大きくなる。

 同時に剣に穿たれた手が勢いよく跳ねた。

 だが、イヴルが剣の柄をしっかりと握っている為、手は僅かに動くのみで、それ以上は何も起こらない。

 明らかな焦燥感がギンナルの瞳に浮かぶ。

 それを眺めるイヴルの瞳は、紫電から黄昏時の様な黄金へと変わっていた。

 黄昏色の瞳が、ギンナルの顔から右手薬指に嵌められた金の指輪へ向かう。

 そしてひと言。


「さらばだ。騙る者ギンナル


「崩壊せよ!!」

 ほぼ同時に響いた声。

 しかし僅かにイヴルの方が早い。

 ザラッと砂の様に崩れる指輪と、ギンナルから発せられた苦悶の声。

 だがその声はすぐに聞こえなくなった。

 ゴトンッと重い音を立てて、器にしていた〝店長″の身体が落ちる。

 眼球は溶け落ち、眼窩や鼻、耳、口といった穴と言う穴から、とろけた脳が零れて床に広がった。

 完全な死体となった〝店長″の身体を、イヴルは睥睨する。


「……寸でで逃げられたか。一度受けた終焉のほころびは止まらないと言うのに、無駄な足掻きを。まあいい。後は……」


 言葉の途中で、イヴルはズコッとルークの剣を抜く。

 そしておもむろにしゃがむと、気を失っているルークの腰にある鞘へ、ストッと突っ込んで収めた。

 続けて、

浮風エアライド

 と唱えて、空中に風の板を作り出す。

 いつもと同じ様な、人一人分が乗れる程度の小さな板ではなく、そこそこ大きめなものだ。

 自らが作り出した板を眺め、まあこれでいいか、と頷いたのも束の間。

 不意にイヴルはルークの襟元を掴むと、ぞんざいに放り投げた。


 回収される古紙よろしく、ドサッと落ちる雑な音が風の板から響く。

 寝違えそうな酷い体勢のルークを見て、イヴルは満足げに一つ頷くと、今度はスヤスヤと寝ているイリスへ近付いた。

 ルークと同じ様に適当な扱いをするのかと思いきや、そこはさすがに思い留まったらしく、投げ飛ばすような真似はしなかった。

 とは言え、米俵の様に担ぎ上げはしたのだが。

 右肩にイリスを担いだイヴルは、軽く跳躍して風の板に乗る。

 そうして、顰めっ面で目を閉じているルークの隣へ丁寧にイリスを横たえると、立ち上がって口を開いた。

ラン

 ふわっと風の板が動く。

 重力と圧力を感じさせない速度で、イヴル達は空中へ垂直に舞い上がった。


 やがて、灯火グロウの効果も消え、死体もろとも闇に呑まれた漆黒の船。

 その全景が見下ろせる位置で、イヴルは急に風の板を停止させた。

 そしておもむろに、左手に握っていたロキを振り上げる。

 すると、柄と剣身の間にあった透明な球体内部に、イヴルの瞳の色と酷似した黄金の粒子が舞い散り始めた。

 みるみる輝きを増し、瞬く間に金色に染め尽くされる球体。

 それを見て充分と思ったのか、イヴルは振り下ろしざま口にした。

 ごく自然に。

 なんの事は無いと。


「呑め。世界蛇ヨルムンガンド


 剣から迸る黄昏色の光。

 稲妻の様に光は駆け、それはすぐに姿を変えた。


 蛇、である。


 とは言え、普通の蛇でない事は明白だ。

 光を反射すると銀色に見える黒い鱗────黒銀の肌に理知的な金色の眼をしており、自然と畏怖を感じざるを得ない姿をしている。

 だけでなく、何せ図体が桁違いに大きいのだ。

 ざっと大型船を二つ重ねたほどのでかさだが、実はこれでも本顕現ではない。

 本来は全長だけで星をぐるりとひと巻き出来るほどの巨体。

 本顕現させなかったのは、単にそうする必要性をイヴルが感じなかっただけの話だ。

 まあ何はともあれ、今回顕現した大きさでも、口を開ければ楽々とくだんの船を丸呑み出来る訳で。

 つまりは、その為に出現させたのである。


 そして、ヨルムンガンドと呼ばれた大蛇は、大きくあぎとを開いた。

 四本の長くて鋭い牙と、血の様に赤黒い舌。

 ブラックホールの如く、底の見えない暗黒の喉奥。

 空から迫り来るそれらを前に、逃げる直前であった漆黒の船は、為す術なくゴクリと呑まれていった。

 山の一部を削り、水と川底の土を大量に巻き込んで。

 この様子が憲兵ないし町の人間に見られていたなら、かなりの騒動になっただろう。

 だが幸いにもここは山の陰になっており、町側に届いたとしても、見えるのは微かな黄金の閃光だけ。

 さらに、この場にいるのはイヴルを含めた三人のみで、内二人──ルークとイリスは気を失っている。

 つまり、この光景を見たのは蛇を放った当人イヴルしかおらず、イヴルが口を閉ざせば、何があったのか説明出来る者はいないのである。


 欠片も残さず船を呑んだヨルムンガンドは、盛大な水飛沫をあげて川に着水すると、その半身を川に浸けたまま首をもたげてイヴルを仰ぎ見る。

 そして、思考をイヴルに向けて発した。

あるじよ。対象の取り込みを完了した。解析を行うか?″

「ああ。〝瑠璃″と指輪アンドヴァラナウトの解析を頼む」

 思考に割り込む様な、男とも女とも取れない声に、だがイヴルは驚く事もなく、至極当然と頷いて返した。

〝了解。しかし、指輪はすでに粒子状に崩壊している為、完全解析に時間を要する。承知願えるか?″

「無論だ。完了次第報告しろ」

〝了解″


 短い応答の声。

 それを皮切りに、蛇の姿はさらさらと解けて空中に散り、その光の粒子はロキに吸い込まれて消えた。

 球体内に満ちていた黄金の光が消失するのと同時に、イヴルの瞳の色も紫水晶アメジスト色に戻る。

 ふっ……と、疲れたため息を吐く。

 憂鬱そうに天を仰ぎ、白み始めた空を見つめた。


「ユグドラシル、か……。クロニカでの一件で、予想していなかった訳では無いが……」

 嘆息と共に吐き出された言葉は、とぐろを巻く様に渦巻く川の流れに飲まれて消える。

 嫌な過去が頭を過ぎり、悪い予感が身の内から湧き出た。

 暗雲垂れ篭める予想とは裏腹に、鮮やかな青へ変わっていく空。

 そんな、嫌味なほど内心と真逆の様相を呈している空を暫し眺めた後、イヴルはゆっくりと視線を下ろした。


「……戻るか」

 そうして、渋い表情で再度深いため息を漏らした後、イヴルは剣を短剣状態に戻して後ろ腰の鞘に納め、風の板を反転させて、憲兵達のいるファキオへ帰って行った。







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