第51話 猫探し⑥ 瑠璃 後編


 イヴルは呆然とその植物を見つめた。


 仄かに発光している様にも見える、鮮烈な青。

 干からびていなければ一層綺麗だったろう。

 花は小さく可憐に連なり、パッと見は青いだけの鈴蘭に見える草花。


 名称を、ルスト草と言う。


 ルークと共に旅をするようになって、それほど経っていなかった初夏の頃。

 とある森の中にあった家。そのすぐ側で群生していたのを発見し、消し去ったのが最新の記憶だ。

 古くを辿れば、神代にまで遡る。

 思い返せば嫌な記憶と共に不快感が想起されるので、努めて無視したい所だが、そう出来ないのがイヴルの長所であり難儀な所だ。


 頭が目まぐるしく働いている結果か、視線を落としてルスト草を眺める瞳には、空虚な色が浮かんでいる。

 やがて、静寂が満ちる空間で、低い笑い声が滲み出る様に響いた。

 喉の奥で笑う、唸り声の如き声。


「……なるほど、そうか。ふふ……なるほど。なるほど。……そう言う事か」

 張り付いた冷笑の奥にある瞳は凪いでいて、果てしなく静かだ。

「そうだよな。ルスト草の分布域が、あそこだけとは限らないものな」

 全く笑っていない目で、ブツブツと続ける様は、いっそ不気味と称してもいいかもしれない。

「本当に、人間とは度し難い……。無自覚と言えど、こうも容易く私の逆鱗に触れてくれるとは」

 しかし、そんな言葉とは裏腹に、イヴルの声に怒りや憤りの類いは見られなかった。

 むしろ、どこか懐かしむ様な色すら宿している。


 イヴルは、一度深く息を吸って吐き出した。

 その後、顔を上げて低い天井を仰ぎ見る。

「……まあ、いい。今は依頼を優先しよう……」

 ため息と共に独り言ちたイヴルは、次いで目の前にそびえている壁を見やった。

 灯火グロウの魔法によって、色や木目までもが露わになった壁。

 その一部。

 現在イヴルが見ている壁は、周囲の壁と僅かに色が違っていた。

 頻繁に人の手が入っている為か、ここだけ薄汚れていないのだ。

 木と木の継ぎ目も、よく見れば隙間と言える間隔が微かに空いている。

 とは言え、変わった点と言えるのはそれだけで、取っ手や窪みは見当たらない。スイッチ的な物もしかり。

 男は単純に船倉と言っていたが、隠し部屋と言って差し支えないだろう。

 まあ、後暗いものを載せているのだ。当然といえば当然か。


(樽を退かした形跡は無い。となると、開き戸でないのは確定。引き戸スライドの可能性もあるが……今の文明レベルでは周りの壁と厚さに差異が出てしまうか。加えて、ここが隠し部屋の類いなのであれば……)

 考えを纏めると、イヴルは不意に壁の左側へと手を着いた。

 そのまま力を込めて、グイッと奥へ押し込む。

 すると、押し込んだ方の壁が、ガコッと沈んだ。

 同時に、反対側である右の壁が手前に出て来る。

 目の前に置かれている樽を中心点にして、片側に一人分の通路が現れた。


 回転扉、である。


「忍者屋敷かっての」

 呆れた、とぼやきながら、イヴルは新たな通路へ、一歩足を踏み入れた。

 照明の無い漆黒に呑まれた空間を、灯火グロウの明かりが無遠慮に照らすと、通路の少し先に別の扉があった。

 歩いて数歩、と言った所だろうか。

 薄茶色のボロい扉の下部には、大急ぎで穴でも塞いだかの様な、色の違う板が打ち付けられて補修されていた。

 恐らく、あの白猫ノラが脱走した跡だろう。

 そんな扉からは、複数の猫の鳴き声が漏れ出ていた。

 船倉に猫の声が届いていなかったのは、この通路が一種の防音としての役割を果たしていたからだ。


「ビンゴ……かな?」

 早々と扉に近付き、ノブを回して内側に開く。

 小さく響いていた猫の声は、途端耳に刺さるほどの大きなものへと変わった。

 先の倉庫と同じ薄暗い室内を、灯火グロウが明るく照らす。


 そこにあったのは、部屋の奥に積み込まれた、二十を優に超える木製の四角いケージ

 檻には詰め込まれる様にして、三〜四匹単位の猫が入っている。

 赤錆の浮いたボロい鉄製の錠前が付けられたケージは大きくはなく、さりとて小さくもない。

 とはいえ、押し込められている頭数が頭数だ。

 実に窮屈だろう。

 詰める猫に基準は得に設けていないらしく、錆色の猫やブチ柄の猫、縞模様の猫等、本当に雑多に押し込められている。

 首輪を付けた猫も多く、皆最低限の食事しか与えられていないようで、一様に毛並みは悪く、痩せ細っていた。

 それでも、一応は商品と言う意識からか、糞尿の始末だけはきちんとされていた事が、救いと言えば救いだった。

 とはいえ、酷い光景であるのに変わりはない。

 死んでいる猫がいないようなのは幸いだが、飼育、管理といった点で見れば、もはや充分な虐待だ。

 これが、イヴルが見た新たな視界。


 イヴルは、自身の首に巻かれたチョーカーの一部を操作して、動物の思念波を感知する翻訳機能をONにする。

 あっという間に人の言葉に変わった猫の声は、大体が同じ内容だった。


 助けて。

 出して。

 怖い。

 お母さん。

 お父さん。


 そんな内容もの

 叫び続けたせいで、喉が傷んでザリザリになった声もある。

 切迫感のある悲痛な叫びは、胸を締め付ける感情を沸き立たせるが、イヴルにとっては聞き慣れたものである事もあって、表情は大して変わらない。

 せいぜい、人間の都合でこんな目に遭って、同情するよ。程度のものである。


 わんわんと、もはや耳鳴りと変わらない音を出力する鼓膜を無視して、イヴルは声を張った。

「この中で、猫目石のイリスに飼われているネロはいるか!」

 猫達の声がさらに大きくなる。

 いくら翻訳が機能していようと、ここまで声が重なってしまえば到底理解出来ない。

 もう一度訊ねようとして、しかしイヴルは寸前で文言を変えた。

 この状態では、何度訊ねても意味をなさない、と判断したからだ。


「静かにしろ」


 声に圧を込めて吐き出す。

 怒鳴った訳ではない。

 むしろ、小さく静かである。

 だがそれでも、動物と言うのは気配に敏感なもので、一斉にピタッと口を閉じた。

 イヴルは水を打ったように静まり返った部屋に、さらに言葉を放つ。


「心配しなくとも皆助け出す。黙って待ってろ。それで、ネロはいるか?猫目石で飼われているネロだ」

 すると、か細く掠れた声が、イヴルの耳に届いた。

 声のした方へ足を運ぶ。

 左奥の壁際だ。

 微かな声は弱々しく上がっている。

〝イリス″

 と鳴く声に、イヴルの足が速まった。


 そこにあった檻は、他の物と比べて多少違っていた。

 木製の檻である事、鉄製の錠前が掛けられている事、それらに変わりはない。

 ただ、ガッチリと下がっている錠は真新しく、錆の一つも浮いていない点。

 そして、その錠の周りにある木材へ染み込んだ、恐らくは血であろう痕が生々しく残っている点。

 この二つが、他の檻との差異であった。


 その中で力なく横たわっていたのは、みすぼらしく小さな一匹の黒猫。

 薄く開いた目も虚ろだ。

 元々小さかった身体は、やつれてひと回り近く縮んで見える。

 未成熟な心身に、強すぎるストレスは耐えられなかったらしい。

 出された餌も食べなかったのか、猫の肋骨は浮き出て、手足も枯れ枝の様に細い。

 首に着けた革製の赤い首輪はぶかぶかで、留め金を外さなくてもすっぽり取れるぐらいだ。

 頭を持ち上げるだけの気力もないようで、杖の持ち手の様な鍵尻尾も、紐よろしくピクリとも動かない。

 しかし、それでも黒猫は、微かな呼吸と枯れ果てた声で、途切れ途切れイリスの名を呼んでいた。


 イヴルは片膝を着いてしゃがむ。

消去デリート

 唱えたのは小範囲消滅魔法。

 途端、錠前はぽっかりと消えて無くなった。

 小さな扉が、キィ……と僅かに開いて止まる。

 だが黒猫は動かない。動けない。


 しょうがないと、檻の中に手を突っ込んで黒猫を引っ張り出したイヴルだったが、すぐに悩んだ。

 死体とほぼ変わらない、ぐてっとした薄い身体に、生命力が薄過ぎる吐息に。

餓死寸前にまで衰弱した猫に、通常の治癒魔法が使えるだろうか、と。


 通常の治癒魔法──治癒サナーレは、有り体に言えば怪我が治る仕組みを早回しにした様なものだ。

 実際、ルークにしろノエルにしろ、そんなざっくりとしたイメージで使っている。

 損傷部位周辺の体組織を活性、活発化させ、自己増殖スピードを上げて修復する……なんて具体的な事を想像しながら使っているのは、イヴルぐらいだろう。

 まあなんにせよ、上記の様な理屈であるからして造血や病を治す事は厳しく、いわんや衰弱状態をなんとかするのは難しい訳である。


 イヴルはむうっと眉間を寄せて、頭の中にある知識を漁る。

 深く考え込んでいる時間はない。

 黒猫の状態は最悪で、上から降ってくる騒々しさは音量を上げている。

 即効性があって確実で、かつ手っ取り早い方法。

 ピンッ!と思いついたのも束の間、思い浮かんだ手法に、小さな嘆息が漏れる。

「……下手したら寿命が四十年ばかし延びるかもしれないが、致し方あるまい」


 イヴルが選んだのは、端的に言って生命エネルギーの譲渡だ。

 死とはつまり、生命エネルギーの枯渇が原因で起こる事象だと定義する。

 であれば、それを補ってやる事で延命が可能。

 そしてエネルギーの譲渡は、エネルギーそのものと言ってもいい星幽アストラル体である現在、以前よりも容易くなっているはず。

 衰弱状態も、まあなんとかなるだろう。

 と、些か強引な論法、主張ではあるが、今は切迫した状況にある為、イヴルは諸々に目を瞑って結論を出した訳である。

 ではどうやって移譲するのかと言えば、それは極々単純かつ簡単な方法だった。


 イヴルは黒猫を床へそっと寝かせると、その顔を持ち上げて口を無理やり開かせる。

 猫から僅かな抵抗が返ってくるが、弱りきっているせいであまり力が入らず、イヴルの行為を止めるに及ばない。

 カパッと開いた小さな口腔。

 そこへ向かって、イヴルは左手の人差し指を突っ込んだ。

 続けざま、尖った犬歯に指の腹を自ら突き刺した。

 溢れ出た血が牙を伝って猫の舌へ落ち、そのまま嚥下えんげされる。

 猫の喉がゴクリと動いたのを確認して、イヴルは指を引き抜いた。


 立ち上がって手をぱっぱと払っていると、目を大きく開いた猫が頭を上げてキョロキョロと辺りを見回した。

 イヴルと目が合う。

 ざりざりになった声のまま、〝ヂァ″と小さく鳴く。

 次いでゆっくりと身体を起こし、手足に力を入れて立ち上がった。

 痩せて酷く頼りない姿なのは変わりないが、それでも活力の戻った様子に、イヴルは内心ホッと息を吐いていた。

(良かった。これで死なれたら苦労のし損だったからな……)

 どこまでも自分の都合しか考えないイヴルをよそに、黒猫はちょこんとその足元に座った。


「……そこにいられると邪魔なんだが」

 若干迷惑そうに言うが、猫は気にした風もなく顔を上へ向ける。

〝ありがとう″

 どんな理屈で自分が助かったのか分からないが、それでも傍らにいる人物が自分を助けてくれたに違いないと確信しているらしい。

 素直な感謝の気持ちがイヴルに伝わる。

「……どういたしまして。お前、猫目石で飼われている〝ネロ″か?」

〝イリス!イリス!ボク、ネロ!イリス!いえ!かえる!″

 猫目石の名前が出た途端、黒猫ネロは尻尾をピンと立たせて、興奮した様に鳴き始めた。

 読み取れる感情は歓喜に近い。

 イヴルはそんな感情の波が鬱陶しかったようで、げんなりした雰囲気で首を横に振った。

「あーはいはい。そう騒がなくてもちゃんと帰すって」

〝イリス!イリス!″

「分かったって。はぁ……。まあ、一先ずはこれで大方の依頼は達成か。残すは……」

 イヴルの視線が上へ向く。


 樽に詰められたルスト草が気がかりだった。

 調査の為に残しておいた方がいいのだろう。

 だが、全て放置しておくのは気が進まない。

 残されるリスクをかんがみて、取るべき行動は。

「……さて、どう処理すべきか……」

 無表情でぼそっと独り言ちたイヴルに、ネロは首を傾げて鳴いた。

〝どうしたの?″

 視線がネロへ落ちる。

「いや。俺は少し用事がある。暫くここを離れるが心配するな。お前は他の猫達やつらとここで待ってろ」


〝あの四角い荷物を探しに行くの?″


 ふと声を上げたのは、別の檻に囚われていたハチワレの猫だ。

 イヴルの斜め向かいである。

「四角い荷物?」

 疑問を口に出した瞬間、白猫の情報をイヴルは思い出した。

(そう言えば、四角い小包がどうのと言っていたな……)


 この道中、イヴルは一個一個丁寧に部屋を確認した訳ではない。

 中身の分からない小包の為に、わざわざ扉を開けて中を確かめる労力も、索視サーチを使う手間も、かけるに値しないと考えたからだ。

 もっと言うなら、それよりも残っていた人間で遊ぶ方が愉しそうだ、なんて思ったからでもある。

 結果、小包の存在は今の今まで、頭の隅の隅に追いやられ、悲しい事にほぼほぼ忘れ去られていた。


〝上にあるタルと同じ臭いのする荷物。オレ達を捕まえた人間達が運び出していったよ″

「上にある樽……。花の絵柄が焼印された樽か?」

〝さあ?でも気持ち悪くなる変な臭いだった″

 猫の言葉に、イヴルは顎に手を当てて短く考えを巡らせる。

(……多分ルスト草の事だろう。アレも間近で嗅ぐと妙に甘苦い香りがするし。が、運び出した……か。念の為、退避させたと考えるのが妥当だな)


 ファキオ全体に広まっている噂も原因の一端だろうが、契機となったのは昼にあった脱走のせいだな、と。

 あのいざこざのせいで、売人が僅かなりとも憲兵の厄介になってしまった。

 防犯の面を鑑みれば、主力商品である薬を別の船へ避難させるのは特別な事じゃない。

 猫達を含め、原材料と思われる上の樽を運ばなかったのは、単純に大きさの問題もあるが、そんなせっせと船から船へ積荷を移動していると、不審がられると警戒したからだろう。

(……売人の話を加味するに、小包の中身がルスト草を加工した物である可能性は高いが……何故名称が〝青″でなく〝瑠璃″なんだか。まあ、確かに分類的には青系統に属する色だけれども。……他にも何か混ぜ込んでるのか?それとも成分に変化が起こったか?以前発見した時に調べておくべきだったな……。しかし、にしてもだ……)

 引っかかる、と眉間に皺を寄せて、イヴルは唸った。


 少し前にあった、森での出来事もある。

 無視するには難しい案件だ。

 イヴルは束の間葛藤した後、振り切る様に首を大きく振った。


「荷物がどこに運ばれたか分かる……はずもないか。さすがに」

 そもそも、ここから出られないのに知り得るはずがない。まして猫だし……。

 と、セリフの途中で考え至り、諦めの言葉を漏らすイヴル。

 その時、にわかに頭上が騒がしくなった。


 この場にいる全ての視線が上に向けられる。

 ドスドスと言った荒々しい音が、埃と一緒に天井から降ってくる。

 イヴルは僅かに目を眇めて、小さく口を開いた。

索視サーチ

 物を透過して見る魔法を唱えたイヴルの視界に、憲兵のものとは違う、ラフな格好をした男達の姿が映った。

 数は九。

 甲板に通じる扉を勢いよく閉め、かんぬき式の鍵を閉めている。

 一時撤退か、それとも立てこもるつもりか。

 はたまた誰かから何かを命じられたのか。

 いずれにせよ、男達にとって望ましい展開でないのは確かだ。


「……諸々もろもろ、アイツらに聞くのが一番早いか」

 そっと呟いたイヴルは、視線を戻して猫達を見回した。

「待っていろ」

 手短に告げると、再び鳴き始めた猫達に背を向けて、足早に部屋を出る。

 ボロくても無いよりはマシな扉を閉め、回転扉を元通り平面状態に戻すと、猫達の声はピタッと聞こえなくなった。


 大きく息を吸って、吐く。

 次に見たのは天板が叩き割られた樽。

「……さて、調べるか」

 自らが壊したそれへ、イヴルは足を運んだ。


 控えめに見えているルスト草を手に取り、まじまじと眺めていると、不意にイヴルの瞳が一瞬だけ、金色に輝いた。

 顔が僅かに険しくなる。

 持っていた草を雑に樽の中に戻すと、薄く唇を開いて嘆息を吐き出した。

「遺伝子の転写複製コピー異常と校正機能プルーフリーディング異常を引き起こし、生殖機能を不全にする変異か……。なかなかエグい進化を果たしたな、この草」

 そこで一度口を閉ざしたイヴルは、顎に手を当てて、思案げに視線を彷徨わせる。

「権能を使って全て一掃するのは容易い。が、しかし……」

 ボソッと零し、再び口を噤む。

 上階から響いてくる音は荒々しさを増していた。

 男達が無惨に残された仲間の死体でも見つけたのだろう。

 悩んでいられる時間は少ない。


 熟考したい衝動を抑えたイヴルが出した結論は、

「……一先ずは泳がしておくか。暇潰しにちょうど良いやも知れんし」

 なんて、問題を先送りにする様なものだった。

 世の安寧など知った事ではないし、もしも自らの首を絞める結果になろうと、それはそれで一興。

 肝心なのは、不快の原因をばら撒く大元の存在。

 それを知る事。


 イヴルは一度目を閉じ、しかしすぐに開けた。

 降る音が無くなり、代わりに迫ってくる複数の足音。

 ガチャガチャと扉を開ける音も聞こえる。

 それらに耳を傾けながら、イヴルは近くにあった別の樽に腰掛けて、優雅に足を組んだ。

 視線を前方の扉に向けて、退屈そうな表情のまま、酷薄な声で続ける。

「とは言え、ルスト草コレを流通させて金儲けをしたんだ。無知故だとは思うが、罪業の代償は払って貰わねばな」


 煌めく紫電の瞳は、どこまでも凍てついていた。


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 ほぼ同時刻。

 船上では、ルークが銀閃煌めく剣で、並み居る男達の腕や足を切り飛ばしていた。

 時折魔法も放っていたが、その威力はかなり減衰したものだ。

 殺すのもやぶさかでないとは言ったものの、やはり積極的に殺すのは嫌らしい。


 今また、風の攻撃魔法で吹き飛ばされた男が、甲板から暗い川へと落下していった。

 飛び散る水飛沫と、打音に似た沈む音を聞きながら、ルークはハッと顔を上げる。

 その視線は、あえなく落下した男ではなく、隣にある二本マストの船へと向かっていた。

 みるみるルークの顔付きが硬くなっていく。


 押し黙り、険しい表情をしているルークに疑問を覚えたのだろう。

 傍らで仲間に指示を飛ばしていたイリスの祖父が、通信機片手にルークを窺い見た。

「どうかされたか?」

 弾けた様にルークの視線が祖父に移る。

「ああ、いえ……」

 咄嗟に否定の言葉を吐こうとしたルークだったが、途中でふと口を閉ざした。

続けて、難しい顔をしたまま辺りを見回す。


 二人がいるのは、川下側にある端から二番目の船だ。

 星明かりを打ち消して輝く魔法の明かりが、ルクルム川に並ぶ船と船上を煌々と照らしていた。

 摘発はスムーズとはいかないが、憲兵側が優位に立っている。

 〝瑠璃″を捌いていた犯罪者集団は、船内に立てこもったり帝国製の拳銃を使って、未だしぶとく抵抗を続けているが、それもそろそろ限界だ。

 船内に立てこもった所で、そこからさらなる逃走は厳しく、頼みの銃も弾薬には限りがあり、補給は望むべくもない。

 転移魔法を使えるなら話は別だが、転移ポータは高位魔法に属する。

 普通の一般人と同程度の能力しかない彼らが、使えるはずもない訳で。

 多く見積っても、一時間以内に全員捕縛出来るだろう。

 今も、船内に逃げ込んだ連中を捕らえる為に、蓋みたいな扉を打ち破るべく、派手な音が鳴り響いていた。


(残すは後詰だけだな。これなら……)

 ルークは一度頷くと、祖父に視線を戻す。

「すみません。僕はここで抜けます。後はお願いしてもよろしいでしょうか?」

「む?……うむ。それは構わないが、何か気がかりな事でもあるのか?」

 ルークと同じように、一度周りを見た祖父は首肯して承諾したのだが、やはり気にはなるようで、そう訊ねた。

「あ……ええ、まあ……」

 困った表情で、ふと視線が泳ぐルーク。

 そんな言葉を濁すルークに、祖父は疑問を散らす様に首を振った。

「いや。言い難い事なら無理に話さなくていい。君にも色々と事情があるんだろうからな。むしろ、ここまで手伝ってくれて助かった。感謝する。気をつけてな」

「ありがとうございます」


 こうして、ルークは祖父のいる船から離れた。

 代わりに向かった先は、イヴルのいる隣の船。

 船縁ふなべりへと走って行き、そこから勢いよく跳躍して飛び移る。

 構造は先程いた船とほぼ一緒なので、そのまま甲板を走って、船内に入れる扉の所まで一気に到達する。

 そこには、イリスの祖母を始めとして、多くの憲兵達が扉を囲んでいた。

 閉ざされた扉を開ける為、剣で斬り付けたり、テコの原理を応用してなんとか壊そうとしているが、上手くいっていないらしい。

 ガツガツと音だけは賑やかなものの、蓋の様な扉はうんともすんとも言っておらず、頑固なままだ。


 首から通信機を下げ、革の鎧を纏った祖母は、駆け寄って来たルークに気が付いて、眉間に寄せていた皺を緩ませた。

「あら?ルークさん。どうかされたの?手伝いなら無用よ?後はここを開けて、中にいる連中を捕らえるだけだから」

「いえ、少し私用が……。失礼」

「え?」

 私用の内容に対する疑問。

 それが問われる前に、ルークは祖母の横をすり抜けて、扉を開けようと四苦八苦している憲兵達へ近寄って行った。


「すみません。少し離れて下さい」

 丁寧にお願いするルークに、憲兵達は困惑しつつも素直に応じた。

 一時いっときとはいえ仲間である上に、ここまで協力してくれた感謝。妙に人を惹きつけるカリスマの様なもの。

 それらが彼らの身体を動かした……だけではない。

 ルークから、隠しきれない切迫感を感じ取ったからだ。

 鬼気迫る様子、と言い換えてもいいかもしれない。


「〝身体は″〝鋼鉄の様に硬く重く強く″」

 唱えたのは千年前によく使っていた魔法。

 今現在、ちまたで普及している〝身強化ブースト″では厳しいと判断した結果の選択である。

 聞き馴染みのないセリフに、周囲から怪訝そうな視線が向けられる。

 ルークの身体が一瞬だけ、紅く瞬いた。

 そこでようやく、憲兵達はルークが唱えたのが魔法だったと気が付く。

 親しみのない魔法にどよめきが湧くが、ルークはそれを無視して、大きく足を持ち上げた。


 そして、勢いよく一気に落とした。


 ドバキャッ!!


 と、威勢のいい破砕音が響き、閂もろとも踏み抜くルーク。

 二つに別れたせいで、支えを失ってぶらんと垂れる扉。

 木屑が落下して床を汚す。

 ルークは宙ぶらりんになった足を持ち上げて甲板上に戻すと、感嘆の声を漏らす憲兵達を見回した。


「……皆さんは、暫くここでお待ち下さい」


 静かな、しかし拒否を許さない言葉。

 憲兵達から当然の如く困惑の声が上がった。

「理由を、説明してくれる?」

 そんな一同を代表して質問したのは、この隊の隊長でもある祖母だ。

 硬く引き締まった顔には、疑問と困惑と緊張感が混在して複雑な表情が浮かんでいる。


「……すみません。詳しく説明するのは難しく。ただ、憲兵団あなた方の身の安全の為、としか……」

「それじゃ要領を得ないわ。納得も出来ない」


 それはそうだろう。

 と、ルークも内心では頷いていた。

 町の存続に関わる重要な仕事の最中に、そんなフワッとした理由で中断するなんて、了承するには到底無理な話だ。

 何より、この船には薬が積まれているのが確定的なのだから。

 とは言え、ルークも引き下がることは出来ない。

 扉を壊した瞬間に分かった。

 千年前の戦場で幾度も嗅いだ、濃く歪んだ血と死の臭い。

 そして静謐な殺気。

 この船の内部では、凄惨な処刑が行われている、と。

 そのような場所に、彼らを連れていく訳にはいかない。

 イヴルは基本理性的な奴だが、ある一線を超えたら本当に容赦がない。

 下手したら、巻き込まれて殺される可能性まである。

 僅かでも危険性があるなら、それは無視出来ない。

 無辜の民である憲兵団彼らを巻き込む事は、絶対に出来ない。


 ルークは引き結んでいた唇を開いて、重い口振りで言葉を吐く。

「申し訳ありません。話せません。ですが、どうか僕を信じて下さい」

「ルークさん」

「お願いします」


 腰を折り、憲兵達に深く頭を下げるルーク。

 そこまでして自分達を中に入れたくない理由に、やはり疑問しか湧かない憲兵達。

 しかし、ここまで真摯に懇願しているのだ。

 無下にするのは忍びない。

 困った、と全員、目と目で語り合う。

 それは隊長である祖母も同じで、了承するかどうか少しの間葛藤した後、ため息混じりに結論を出した。


「……いいわ。けど、そう長くは待てないわよ?」

 ルークの頭がパッと上がった。

 安堵の滲んだ瞳で憲兵達を見回し、

「構いません。ありがとうございます」

 もう一度、深々と頭を下げた。


 そうしてルークは、陰惨極まる船内へと一人で降りていったのだった。


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 船内は背筋が凍るほど静かだった。


 物音一つしない、誰もいない通路。

 行く手を照らす光源カンテラはあるが、雰囲気のせいかどうにも頼りない。

 押し返される様な圧も感じる。

 一歩足を踏み出すのも億劫おっくうなほどだ。


 明確な拒否感に満ちた空間に、ルークは柘榴ざくろ色の目を細めた。

 この沈んだ空間に緊張感を抱いたのも確かにあるが、それ以上に、通路の先に転がるものを見たからである。


 茶色い木の床をヒタヒタと汚す、赤い液体と肉の塊。

 壁にまで飛び散った赤は、もはやそういう柄だと言ってしまえるほど染み込んでしまっている。

 その中に残された、真っ二つに別れてしまった人間と、片腕と片足を亡くし、首を裂かれて絶命している男。

 外れた腕と足は、置物よろしく無造作にゴロンと通路に転がっていた。

 そこへ寄り添う様にこぼれて広がる臓物。

 正直、吐き気を催す光景だ。


 ルークもそういった心情で目を眇めたのかと思いきや、実はそうでもなかった。

 大戦時、これ以上に酷い死骸を嫌と言うほど見てきた経験もあるし、主犯ではなくとも悪党に対して憐れみや同情心が湧かなかったのもある。

 ルークのこの反応は、ひとえに惨状に残った痕跡が故だ。

 争った形跡はほぼなく、一方的にバラされた死体。

 例え尋問の末であったとしても、残る愉悦の気配は未だ鮮明で。

 つまり不快感の原因はそこだった。


「……あいつ、遊んだな」

 ポツリと、水滴よりも小さな声で零すルーク。

 抑えつけた憤りが声の端に滲む。

 口を引き結び、手にしていた剣を握り締めると、ルークはコツッと足を前に出した。

 奥に向かえば向かうほど、下へ進めば進むほど闇の気配は濃くなるが、止まる選択肢は思い浮かばない。

 逆風の如く反発してくる圧に抗い、鋭く前を見据えながら、ルークは足早に歩を進めて行った。


 そうして階下へ降り、穴の空いた扉を幾つも通り過ぎ、やがて最奥の部屋へと辿り着く。

 人の気配は四つ。

 その内の一つは馴染み深いもので、扉が閉じられていようと即座に判別出来るものだった。

 加えて、漏れ聞こえてくる微かな声。

 これが決定打だ。

 一度深呼吸をして、ルークは手を動かす。

 その時である。


〝爆ぜよ″


 と聞こえた瞬間、扉の向こうからくぐもった破裂音が響いた。

 続けて、〝十、九……″と数え始める声。

 事の経緯は分からなくとも、何が行われているのかは察して余りある。

 ルークは弾けた様にドアノブを掴むと、勢いよく扉を開けた。


 ぶわっと、部屋の惨状よりも何よりも先に、酷く濃い血臭が鼻についた。

 上の比ではない。

 一気に顔が歪み、思わず腕で鼻から下を覆ってしまったぐらいだ。

 余りの臭気に目まで痛い。

 自然と細めてしまった目を開けて、改めて眼前を見ると、赤いまだらに染まった部屋の奥で、大きな樽に足を組んで優雅に腰掛けているイヴルの姿が映った。

 急に入ってきたルークに驚いた様子はなく、泰然自若としたままである。

 睥睨するイヴルの瞳は冷たく凍えていた。

 見える紫電の瞳に怒りは欠片も見当たらず、ただ突き放す様な失望がある。

 いつもの不敵ささえ見えないイヴルに、何がと思ったのも束の間、ルークが次に目を留めたのは、恐らくは〝瑠璃″を捌いていた犯罪者集団の一員だろう人間達だった。

 〝達″と言っても、残っているのはたったの二人だけなのだが。


 一人は初老に片足突っ込んだ痩せた男で、ネズミ色の髪と目をしている。

 着ている服はシャツにベストにスボンと、かなりラフだ。

 ただ、その服は赤くべしゃべしゃに濡れており、ベストやシャツに至っては、元の色が何だったのか分からないぐらいの有様である。

 顔も、半分以上が血に塗れている。


 もう一人は二十代前半ぐらいの歳若い青年。

 地味に長い金髪と、くすんだ緑色の瞳をしていた。

 着ているシャツのボタンを三つほど開けている為、大きく胸元が露わになっている上に、さらに動き難そうなダボッとしたズボンを履いているせいか、全体的にだらしなさが漂う。

 こちらもネズミ色の男同様、全身血塗れだ。


 年齢も格好も違う二人に共通しているのは、血の気の失った顔でルークを凝視している事ぐらいか。

 ネズミ色の男からは困惑の色が、金髪の青年からは助けを乞う色が溢れている。

 ルークは二人からの視線を努めて無視すると、肉片が飛び散る凄惨な部屋へ足を踏み入れた。

 扉は開けたままだ。


「おや?何故お前がここに?上は片付いたのか?」

「……イヴル。お前、一体何をしている?」

 全然驚いた風もなく、どこか虚ろなイヴルの疑問を無視して、ルークは逆に問い返した。

 その声は硬く張り詰めており、先程まで抑えていた怒りが乗っているのが分かる。

 それに気付かない訳がないだろうに、イヴルは意に介した風もなく組んでいた足を変えた。

「何を?見て分からないか?尋問中だ」

 返ってきたセリフは、実に飄々としたものだ。

「尋問……だと?」

「ああ。十秒以内に情報を吐くか、誰か一人でも我が足元まで辿り着けば許してやる。出来なければ殺す。逃げても殺す。そんな内容のものだ。別にそこまで理不尽でもあるまい?」

 ここに至るまでの経緯が分からないルークは戸惑う。

 何故そんな条件を出すのか。

 情報とは具体的に何を指しているのか。

 皆目見当がつかない。

 つかないが何にせよ、とルークは思う。


「……事情は分からないが、だからと言ってこの殺し方はないだろう」

 憤りの篭ったひと言に、イヴルは不思議そうに首を傾げた。

「何故怒る?此度の件、お前も殺す事を了承していたはずだ」

 剣を握り締めて、ルークは首肯する。

「ああ。だが、もてあそんで良いと言った覚えはない」

 刺す様な鋭いルークの視線に、イヴルは合点がいったとばかりに、ふむと頷いた。

「なるほど。お前は結果ではなく、過程に怒っているのか」

 そして、クスッと笑った。

「相変わらず、変な所で潔癖だな」

「黙れ。とにかく、今すぐこんな事は止めろ」

「それは……そいつら次第だ。私は出した条件を下げるつもりはない」

「────っ!」

 激昂する寸前で、ルークは息を呑んで無理やり止めた。

 ギリッと歯軋りしてイヴルを睨み付ける。

「……イヴル。お前の言う情報とはなんだ?」

「……一先ひとまず、首謀者の居場所だ」

(一先ずってなんだ。一先ずって)

 一瞬ムッとしたルークは、しかしすぐに残っていた二人に視線を向けた。


 何故さっさと答えないのか。

 自らの命を捨ててでも首謀者あたまを守る。そんな殊勝な忠誠心でも持っていたのかと、疑問半分苛立ち半分を込めて見る。

 が、理由はすぐに分かった。

 青い顔でガチガチと歯を鳴らす青年。

 今にも卒倒しそうなほど息の荒い男。

 単純に恐怖である、と。

 イヴルに対する極度の畏れから、言葉が喉に詰まって出てこないのだろう。


「お前達……」

「七、六……」

 ルークが問おうとしたのと同時に、イヴルのカウントが再開する。

 ハッと視線がイヴルへ向かう。

「イヴル!やめ」

 急いで制止するルークだったが、その途中で青年が急に口を挟んだ。

「し、し、し、し、死にたく、死にたくない、死にたくないなぁいっ!!パパァァァァアアァァッ!!」

 叫びながら、脱兎の如く駆け出す。

 方向はルークが入ってきた扉だ。


「〝爆ぜよ″」


 扉の一歩手前で、青年の身体は弾けた。

 膨らませ過ぎた風船よろしく、内側から膨張して、バンッ!と爆ぜる。

 飛び散る肉と血煙が、唖然とするルークの身体を襲った。

 どこの部位か分からない、内臓の一部が顔の横を掠め飛んでいく。

 余りにも突発的な事に頭が追いつかないようで、目を見開いたまま固まるルーク。

「逃亡は許さないと言ったはずだ。吐くか、来るか、二つに一つだ」

 拒否権は無いとばかりに、極寒の声音で酷薄なセリフを言うのはイヴルだ。

 最後の一人となってしまったネズミ色の男は、常軌を逸した恐怖とプレッシャーのせいで失禁してしまっている。


「愚かな者共よ。助かる方法は明示してやっていると言うのに、誰一人としてそれを成し遂げられぬとは」

 嘲りを多分に含んだひと言。

 その言葉のおかげで我に返ったのか、ルークは凄まじい形相でイヴルを睨むと、問答無用とばかりに持っていた剣を投擲した。

 ほぼ同時に、生き残っていた男の腕を掴んで引き寄せ、背後に隠す。

 放たれた矢の如く、鋭く飛来する剣は、イヴルの手によってあえなく叩き落とされていた。

 床に突立つ剣を横目に、イヴルの口が開かれる。


「〝爆ぜよ″」

「〝拒否する″」


 血煙舞う空間に、不釣り合いな黄金の粒子がパッと舞った。


「〝抗うな″」

「〝拒否する″」


 再びの否定の言葉と一緒に、粒子がまた散る。

 千年前に使われていた近世魔法。

 そのデメリットと対処法がこれだった。

 意志の力がより強く働く近世魔法は、同質同等の魔力と相手以上の確固たる思念があれば、大概を無力化出来る。

 相殺と言うよりかは、中和に近いだろうか。

 そんな特性を有した魔法であるが故に、解析されてしまったが最後どうにもならず、使い勝手の悪さから、大戦集結後次第にすたれていった経緯がある。

 単に、より簡易で一方的な現代魔法が確立され、それが広く普及していった結果とも言えるが。


「〝拒否するな″」

「〝拒否する″」

 ヴェルザンディからの加護である、悪意ある魔法への耐性に加え、ルークは大戦時イヴルと何度も戦ってきた経験がある。

 その時の記憶は千年経っても鮮明に覚えている為、こんな感じで泥沼の様相を呈していた。


 ムスッとイヴルの眉間に深い溝が刻まれる。

 瞬く間に不機嫌になっていくイヴルを正面に捉えながら、ルークは背後にいる男へ声をかけた。

「甲板に憲兵の人達がいる。彼等に首謀者の居場所を吐けば助けてやる。どうする?」

 この言葉に、男は一も二もなく壊れたようにコクコクと頷く。

 雰囲気で感じ取ったのか、ルークは確かめるようにもう一度訊ねる。

「二言はないな?」

 男はさらに大きく頷いた。

「行け」

 短く命じると、男はつんのめりながら駆け出した。

 開け放たれていた扉を潜り、振り返る事すらせず一目散に逃げ出す。

 床に落ちている肉片を踏み蹴散らし、到底初老とは思えない素早さで。なんなら世界新でも出せそうな速度だ。


 遠ざかる男の背中を眺めていたイヴルは、はあ……と諦めのため息を吐いた。

 近世魔法にしろ現代魔法にしろ、使ったところでルークに邪魔されるのは目に見えているからである。


「お前、邪魔するなよ……」

 肩を落とし、項垂うなだれてうんざりしたように零すイヴル。

「……浄化ピュリフ。イヴル。何故こんな事をする。何があった」

 ベッタリと身に張り付いていた肉を払い落とし、付着していた血を浄化魔法で消し去ると、ルークは厳しい口調で訊ねた。

 詰問するひと言に、落ちていたイヴルの視線が上がる。

「何故?」

「考えたくはないが……ネロが死んでいたのか?」

 キョトンとイヴルの目が丸くなる。

 続けてすぐに、喉を鳴らして軽く笑った。

「いや。いいや。ネロなら後ろの隠し部屋で元気に生きてるさ。まあまあ危なかったがな」


 その言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ならばなおさら分からないと、ルークは首を捻る。

「なら、どうしてこんな残酷な方法で彼らを殺した?」

「ん〜……まあ、そうだな……」

 言おうかどうか悩んでいるらしく、イヴルの視線があちこちへと泳ぐ。

「依頼の最中に遊ぶなどお前らしくもない……事もないか」

「おい」

 言い終える直前で思い直し、否定したルークだったが、それでもやはりと頭を振る。


 その時ふと、イヴルの座っている樽が目に入った。

 鈴蘭に似た植物の絵が焼印されている樽だ。

(鈴蘭?いや……)

 疑問が湧いたものの、即座に考え直す。

 何か確たるものがあった訳ではない。

 ただの直感だ。

 イヴルの行動の原因に、この植物が関わっている……ような気がする。

 であれば、ただの鈴蘭である可能性は低い。

 そんな程度のもの。


(……待て。以前、これと似たのをどこかで見た気が……)

 じーっと眺めて、唐突に閃いた。


「……ルスト草?」


 先刻のイヴルと同じく、ポツリとその名前が口をついて出る。

「お。よく覚えてたな」

「という事は、当たっているのか?」

「ご名答だ。ついでに、これが瑠璃くすりの原料で違いない」

 あっさりと頷くイヴルに、ルークはそうであるなるば、と納得した。


 森の中にあった家。

 あの時の一件を鑑みれば、確かにこのような残忍な手を使って尋問していたとしても、何もおかしくはない。

 何せ、ルスト草を消し去る為に、湖一つを干上がらせたほどだ。

 ただ、と疑問は残る。

 イヴルからして見れば、害されているのはたかが人間、人間の世界の話だ。

 ネロも無事に見つかり、依頼もほぼ完了と言っていい。

 昔の事を思い出すからだとしても、ここまでして瑠璃……もといルスト草を追いかける理由が分からない。


 解せぬ、と顔に書いてあるのを読んだのだろう。

 イヴルは苦笑しながら訊ねた。

「何か、聞きたそうだな?」

「聞けば答えてくれるのか?」

 間髪入れずに問い返せば、一瞬だけ怯んだ様子を見せた。

 そんな即答で返ってくるとは予想していなかった。

 なんて文言が、面にも雰囲気にも浮かんでいる。

「どうなんだ?」

 畳み掛ける様に聞けば、イヴルから失笑が漏れた。

「……ま、今ならいいぞ」


 ならばと、ルークはイヴルの気が変わらない内にと口を開いた。

「何故そこまでルスト草に固執する?」

「固執しているつもりはないんだが……」

 率直ストレートな疑問に、僅かに面食らうイヴル。

「いや、している。いつものお前なら面倒がって放置しているはずだ。幾ら害があろうとな。それがどうしてか、前回と言い今回と言い、ルスト草の処分に積極的だ。説明してもらおう」

 キッパリと断言してくるルークに、イヴルは腕を組んで考えた。

 どこまで話すか図っているのだろう。


「……ルスト草の概要について覚えているか?」


 やがて口にしたのは、ルークがどこまで記憶しているかを確かめる問いだった。

「確か……死体を苗床にして育つ植物で、どんな病にも効く夢の万能薬の素。だが、強烈な依存性と催淫効果を持ち、さらに長期服用する事によって、身体に変異が生じるもの……だったか?」

 イヴルは頷いて続ける。

「そうだ。だがそれは、が服用した場合の話だ」

「……つまり、魔族ではまた違う、と?」

「効果は一緒だ。しかし、そのスピードが段違いに早い。特に三つ目がな。通常、人間が完全に変異するまでは、最低でも五年はかかる。それが魔族だと、で一年。服用間隔に限らずだ」

 余りの早さに驚いたのか、ルークの目が見開かれた。

「そんなに、か?」

「ああ。これはそもそもの魔族の成り立ちが関係しているんだが……今は置いておこう。長くなる。兎に角、魔族側に蔓延してしまえば、それだけで致命的なのさ。さらにこれは、ついさっき判明した事なんだが、ルスト草が進化している」

「進化?どんな?」

「服用を続けると生殖異常が発生する。子孫が作れなくなる、と言えば分かりやすいか」

「そ……」

 絶句するルーク。


 〝進化″。

 ルスト草側から見れば、確かに進化なのだろう。

 自らが摘まれない様に、繁殖する為の防衛機構と言っていい。毒キノコと一緒だ。

 だが、摂取してしまったものから見れば、それはとんでもない欠陥に他ならない。

 生殖機能が損なわれてしまうと言う事は、そのまま種の存続に直結する。

 つまり、絶滅の可能性が芽生えてしまった事に他ならない訳で。

 ルークが言葉を失ってしまったのも仕方ないのである。


「それは……全ての生き物に適用されるのか?」

 恐る恐る訊ねたルークに、イヴルはゆるりと首を振った。

「さあ。統計を取った訳じゃないし、そこまでは分からん。だが、動物や昆虫は本能的にこの草を忌避するだろうから、影響があるとしたら人間と魔族だけだと思うぞ。魚類は……水が汚染されてなければ問題ないはず」

「そ……うか……」

 神妙な面持ちで俯くルーク。

 生物全体に事が及ばないようで、若干ほっとする反面、それでも楽観視は出来ない状況に、自然とため息が漏れた。

「このルスト草、以前と同じように消すのか?」

「まあ、ここにある分はな。接収した後、悪用されない保障も無いし……」

 と、不意にイヴルの尖った耳がピリッと跳ねる。

 同時に、僅かに視線が頭上へと向かったが、俯いていたルークは、イヴルのその変化に気付けなかった。

「休職中とは言え、これでも魔族を統べる王なんでね。後顧の憂いは断っておきたいんだよ」

 視線を戻したイヴルはそう締め括ると、組んでいた足を解いて、おもむろに樽から降りた。

 バチャッと汚らしい水音が鳴る。


 ルークの視線がイヴルへ向かった。

「依頼の件と言い、お前仕事に関しては変に真面目だよな」

「ぶっ飛ばすぞ?」

 馬鹿にしてんのか?と握り拳を作って言い返すイヴルに、ルークはふっと穏やかな微笑を浮かべる。

 その笑みが癪に触ったのか、イヴルは顰めっ面で鬱陶しそうにブンブンと手を振った。

 目の前を飛び回る虫を払うが如くだ。

「って訳で、邪魔するなよ」

「勿論、邪魔なんてしないが……」

 そこで、はたとルークは思い出した。

 より考えに集中する為か、自然と視線が斜め下へ落ちる。


(そう言えば、〝瑠璃″の原料はルスト草だと言っていたな。となると、瑠璃も全部処分するのか?じゃあ、それを捌いていたあの集団は?定期的に卸していたという事は、どこかでルスト草が栽培されているのは確定だろう。〝店長″がそれを知らないはずはない。となると、もしかして……)

 ルークは一瞬だけ彷徨った視線を戻す。

「イヴル」

「〝示された地へ″」

 パチンッと弾ける音とほぼ同時に、イヴルの囁く様な声が響いた。


 先程まで目の前にいたイヴル。

 だが、再び映し出された視界にその姿は無かった。

 残るのは僅かに開かれた回転扉と蒼い燐光。

 そして、明らかに数の減った樽のみ。

 扉の向こうから微かに聞こえてくるのは多数の猫の声。

 ネロはこの先にいる、と最低限だけを明示して消えたイヴルに、ルークの顔がカッと熱くなる。


「────っ!アイツ!!」


 怒りそのままに駆け出し、床に突き刺さっていた剣を抜く。

 そして続けざま、

「〝彼の者を追って飛べ″!!」

 と怒鳴った。

 途端、ルークの姿が蒼い光の玉となって飛んだ。

 邪魔する物体をものともせず、天井をすり抜けて直線的に甲板へ向かう。


 これこそ、当初二人旅を嫌がったイヴルを追い回した、追跡転移の魔法だった。

 点と点を結んで飛ぶ転移ポータとは違って、魔法を使って逃げた者、その魔力の残滓を追いかける魔法である。

 元々、現代魔法と比べて魔力消費量の多い近世魔法だが、その中でもこの追跡転移魔法は群を抜いて酷い。

 使用している……つまり追って飛んでいる最中は、絶えず多量の魔力を消費するからだ。

 スライスされる野菜よろしく、ゴリゴリに削られる。

 加えて、途中魔力が切れてしまったら、そこで追跡は不可能となってしまう為、よほど魔力量に自信があるか、或いは相手の能力をよく把握していないと、使うに不安を覚える魔法とも言えた。

 ちなみに余談であるが、この魔法は飛んでいる最中でも視界がきく。

 なので、対象に追いつく前でも任意のタイミングで魔法を中断する事が可能だ。


 兎にも角にも、そんなコスパ最悪の魔法を使って最短距離でイヴルを追ったルークは、早々に甲板へと出ると不意に魔法を中断した。

 降り立ったそこは、憲兵達のど真ん中。

 ネズミ色の髪と目を持つ、あの初老の男の隣だ。

 後ろ手に縛り上げられ、剣や槍を突き付けられて尋問されている彼を助ける為に現れた、訳では当然ない。

 単にその場所が、憲兵達のリーダーの一人である祖母に一番近かっただけの話。


 男のみならず憲兵達でさえも、急に下層から突き抜けて現れたルークに驚いた様子で、唖然としていた。

 そんな一同を見て、ルークも僅かに驚く。

 彼らの中に、涙目のダイナと焦った様子のフィガロの姿があったからだ。

「ル、ルークさ」

 ダイナが震える唇で声をかけるが、ルークは湧き上がる疑問を無視して鋭く叫んだ。

「最下層の船倉にネロを含めた猫が捕まっています!保護お願いします!!」

「え」

「あの」

「〝彼の者を追って飛べ″!」

 一刻の猶予もないルークは、問答無用とばかりにそう言うと、言い募ろうとしている彼女達を置いて再度飛んだ。

 マストと同じ高さまで舞い上がった光は、そのまま直角に曲がって山側へ向かう。


 蛍の光の様に浮かぶ魔法の無機質な明かりが、船上を照らして川を彩っている。

 少しだけロマンチックな光景だが、当然そのような暢気のんきな事を言っていられる状況ではなく。

 夜に沈んだ暗く艶やかな川面を、蒼い光が凄まじい速度で疾駆する。

 ツバメよりも速く、空間を裂くのではと思われるほどのスピードだが、実際の所それに風も圧も無い。

 音もなく、稲妻の様な蒼光に照らされた一瞬だけ、濁った川の水を露わにするだけ。

 冷えた光は、厳しいカーブを描く川を下って、一部禿げた小山の裏側へ回る。


 憲兵団と犯罪者集団の喧騒も遠く、月明かりも星明かりも届かない夜闇に支配された山の影。

 そこに呑まれる様にして、一隻の船があった。

 二本マストの、やや小ぶりな中型船。

 船体は闇に紛れやすいようにか黒く塗られていた。

 帆の色でさえ黒だ。

 昼日中だとむしろ目立つが、そこはきっと何か対策を講じているのだろう。

 イヴルの気配は、その帆船にあった。


 蒼い光は吸い寄せられる様に急降下する。

 そうして、人間の背丈と同じぐらいの高度になった所で、ルークは魔法を解いた。

 着地と同時に、甲板の硬い感触が足裏から伝わってくる。

 しかし、明かりと呼べる物が一つもない為、目に映る景色はどこまでも漆黒だ。

 自分の靴の色形でさえ分からない闇の中、ルークはそっと剣の柄に手をやった。

 いつでも抜ける体勢にして、鋭い視線を眼前へ向ける。


索視サーチ

 短く唱えれば、黒一色の視界が一変した。

 白黒モノクロになった世界で、船は線画の様な様相を呈している。

 どうやらこの船はかなり急いで造られた物らしく、部屋と呼べる物は二つしかなかった。

 甲板に通じる階段を挟んで後方にある、恐らくは機関室と思しき部屋と、前方にある船倉。

 これだけである。

 イヴルの気配は船倉から発せられている。

 その船倉に、三つの光があった。

 一つはイヴル。船倉の扉側にいる。

 もう一つ大人の大きさの光と、子供と思われる小ぶりな光は部屋の奥だ。

 距離と立ち位置のせいで、子供の造形は分からない。

 他にあるのは小包と思われる荷物。

 壁に密着させる様に、みっちりと大量に積まれていた。


(子供!?何故ここに……)

 完全部外者であると思しき子供の存在を知って、ルークは動揺と共に焦った。

 どうやってここに、と言う疑問は元より、依頼対象のネロを発見して身の安全を保証された今、関係ない子供の生死をイヴルがおもんぱかるとは思えなかったからだ。

(不味い。早く────)

 そこでルークは、ふと子供の気配に覚えがあるのに気が付いた。

 意識を集中させて素早く探ると、すぐに分かった。

 ひゅっと息を呑む。


(イリスちゃん!?)


 人質と思しき状態になっているイリスに、困惑と混乱がより深まる。

 どうして、という文言が頭の中でぐるぐる巡る。

 暫し思考停止に追い込まれたルークだったが、すぐに頭を振って疑問を一旦リセットすると、なるべく足音を立てないように甲板上を移動し始めたのだった。












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