エピローグ
「さて、と」
ふいに、シオンの声がすぐそばでして、亜子ははっとして顔を上げた。
いつのまにか、シオンは片膝ついて亜子に向かい合い、透き通るような深みのある瞳でこちらをじっと見つめていた。
人気の無い暗がりの路地にねっとりと肌を舐めるような生ぬるい風が通り過ぎていく。
亜子はぐっと顔をこわばらせた。
「私の……記憶も消すの?」
すると、シオンはふっと口元を緩め、首を傾げた。「なんで?」
「なんで、て……全部見ちゃったし」
「見られてまずいものなんてなかったけど」
「そう……なの!?」
「国見さんは、消して欲しかった?」
「え……」
唐突に、まるで邪気のない涼やかな声で訊ねられ、亜子はたじろいだ。
消して欲しかった――のだろうか?
静かに、でも、確かに、亜子は心臓の高鳴りを感じていた。それは、不思議な高揚感だった。未知のものへの興奮。そして、歓び。
すごいね――と、シオンが口にした言葉が耳から離れない。誰にも理解してもらえなかった亜子だけの世界。音もなく、孤独で寂しいだけだったその世界に、シオンが現れ、認めてくれた。自分でも驚くほど、それが嬉しかったのだ。
そういえば、ずっと望んでいた気がする。小さい頃から、ずっと。こうして、自分の世界を共有できる誰かが現れるのを。
憑き物でも取れたような気分だった。ふっと身が軽くなり、自然と亜子の顔はほころんでいた。
「ううん」と亜子は首を横に振った。「消されなくて良かった」
「そう。じゃ、改めて」安堵したように目を細めると、シオンは手を差し伸べてきた。「手を貸して、国見さん」
片膝ついて手を差し出し、微笑を浮かべるシオンは、まさに王子様そのもので。背後に舞い散る幾万ものバラの花びらが目に見えるよう。もはや、打ち負かされたような気分になりながら、亜子は「うん」とシオンの手を取ろうとした――が、そっと指先が触れた瞬間、シオンは亜子の手をするりと取って、その甲に会釈でもするように軽く唇を当てた。
男子と手を繋ぐことだって最後にいつしたのか覚えてもいないのに。いきなり、手に口付けなんて。亜子の顔は真っ赤に染まった。
「あの……栗栖くん!?」
「こんな心強い協力者が出来るなんて、嬉しいよ。ヴァンパイアだと人に明かすのは掟で禁じられてるんだけど、思い切って明かしてよかった」
「禁じられてるの!?」
思わぬカミングアウトに、亜子の声は裏返った。それはそれで、立派な『反逆』なんじゃ……と不安になる亜子をよそに、シオンは晴れやかな笑みで続ける。
「コソコソして得るものなんて何もない。世界はこんなに広いんだから、味方になってくれる人は必ずいるものさ」
「いや、あの……待って。なんの話?」
「この辺りで組織だった不穏な動きが見られる、て報告があるんだ。『反逆者』はさっきの彼だけってわけにはいかなさそうでね。僕はこっちのヴァンパイアと面識もないし、誰を信用していいかも分からないから、ちょっと困ってたんだ。でも、魔女の国見さんが手を貸してくれるなら、あっという間に片付きそうだよ。ありがとう」
しばらくぽかんとしてから、亜子は「は!?」と頬を引きつらせた。
「『手を貸して』って……そういうこと!?」
亜子の手を取ったまま、ヴァンパイアの王子は天使のような笑みを浮かべていた。
後ろの席のヴァンパイア 立川マナ @Tachikawa
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