ディナー・パンケーキ・ホットケーキ

叶あぞ

ディナー・パンケーキ・ホットケーキ


## 1

 アパートのドアを開けたとき、玄関を通って微かにバターの香りがした。部屋の奥では、キッチンの前に立つリナの姿があった。

「お疲れさまでした」

「よきにはからえ」

 ナップサックを廊下に下ろして、スーツを脱ぐ前にリナの肩越しにフライパンを覗き込んだ。

「ホットケーキだ」

「お洒落にパンケーキって呼びましょうよぅ」

「袋には思いっきりホットケーキって書いてあるじゃん」

 わたしはシンクの上に置いてあった袋を読み上げた。ホットケーキ粉の袋には誇張気味にふっくらとしたホットケーキの写真が印刷されている。

 こんなものを買った記憶はないから、わざわざリナが持ち込んだものだ。

「おやつ?」

「ディナー」

「マジ?」

「足りませんか? 生クリームも買ってきましたよぅ」

「そういうこと言ってんじゃない。え、甘い物だけで夕飯とか嘘でしょ」

「え、ホットケーキ甘くなくなくなくないですか?」

「どっちの意味で聞いたか分からんけどホットケーキは甘いだろ」

「パンですよー」

「肉を食わせろ」

「今日はリナ、パンケーキって気分だったんですよ」

「パンケーキも甘いだろ」

「パンケーキとホットケーキって何が違うんですか?」

 わたしも知らなかったので答える代わりにスーツを脱いで部屋着に着替えることにした。このままだとスーツがバター臭くなる。

「おい、わたしの着替えを見てないでそのパンケーキとやらをひっくり返せ」

「わっ」

 リナは慌てて視線をフライパンに戻した。

 脱いだスーツをハンガーにかけてクローゼットの中に押し込んだ。スーツは、わたしが持っている服の中で唯一のよそ行きの服だった。

「ささ、ご主人様はそちらの席でお待ち下さい〜」

「その前にシャワー」

 わたしはタオルを一枚掴んだ。脱衣所なんて洒落たものはないので廊下に服を脱ぎ散らかしてユニットバスの浴室に入る。ぬるめのシャワーを出して頭から被る。

 思ったよりもちゃんと話せている自分に驚いた。リナとの付き合いは長いし、自転車の乗り方をいつまでも体が覚えているみたいに、彼女を目の前にすると自然と口が動くようになっているのだ。

 バスルームのカビが気になった。ボロいアパート。前にリナの家に行ったことがある。あれはリナの受賞記念パーティの夜。エレベーター付きオートロックのマンション。ただでさえ酔っていた上に冷蔵庫にあったワインを一人で開けてしまったらひどいことになった。

 この浴室を出て、もう一度リナと顔を合わせても、わたしはちゃんとやれるだろうか。体で覚えていたものが唐突に消えてしまって、わたしの生の感情をそのままぶつけてしまうのではないかと、リナに会うたびにいつも不安だった。

 シャワーを冷水にして、何度かうがいをしてから水を止めた。体が凍えるように寒くなって、頭の中のぐちゃぐちゃは多少は大人しくなってくれた。

 タオルで髪を拭きながら浴室を出る。

「わ、大胆」

 リナがわたしの体を見ながら言う。

「堂々と見るなスケベ」

「『スケベ』だって。古いですよ、それ」

「うっさい」

「リナ的にはもっと恥じらってくれる方が好みなんですけど」

「なんでお前の好みが関係あるんだ」

「ホットケーキ焼いて待ってたリナへの労いはないんですかぁ? それくらいの特典はあってもいいと思うんですけどー」

「パンケーキだろ」

「んー、でも袋にはホットケーキって書いてありますよぅ?」

「お前の記憶力はゼロか」

 そう言い合っている間に服を着て、リナとテーブルを挟んで向かい側の座布団に腰を下ろした。テーブルの上には山盛りのホットケーキが積んである。

「ささ、どうぞぅ。マーガリンとバターとオリーブオイル、どれにしますか?」

「油だけじゃねえか」

「あとは生クリームと砂糖がありますよぅ。太ったらリナがもらってあげます」

「コーヒー淹れる」

「好きですねえ」

「飲む?」

「今飲んだら夜眠れなくなくなくなりませんか」

「わたしカフェインぜんぜん効かないんだよね」

「先輩の中に流れる欧米人の血がそうさせるんですかね」

「わたしの出自なんて話したっけ」

「適当に言いましたー」

 リナはスプーンでホットケーキの上にバターを落としてぐるぐると円を描いて塗っていた。

 コーヒーを淹れようにもポットがないのでヤカンに水を入れて火にかけた。

「ポット買いましょうよー。せめて電気ケトル。そんなに高くないですよ」

「その金は生活費にあてる」

「うちにあるケトルお譲りしましょうか?」

「うーん」考えるふりをした。「やだ」

「素直になりましょうよぅ。お湯のある生活、素敵ですよ」

「お前から施しを受けると後々面倒なことになりそうだからパス」

「お金、ないんですか?」

 突然リナの声がシリアスなトーンになったので笑いそうになった。

「ほそぼそとやってくよ。バイトも続いてるし……」

「……あの、今日って、出版社に――」

「またボツだった。最後に本を出したのって何年前だったっけ。連続ボツ記録達成かも」

「……うー」

 リナが泣きそうな顔になった。ムカついたので座布団で殴った。

「……何するんですかぁ」

「その顔ムカつく」

「生まれたときからこの顔です。鼻のところはプチ整形考えてましたけど」

「なんで? 顔認証を誤魔化すため?」

「別に悪事を企んでるわけじゃないんですけど……っていうかひどいじゃないですかー。神妙な顔してたのに」

「それがムカつく。売れっ子作家が」

「それは八つ当たりですよぅ。……編集に口添えしましょうか? 私が言えば編集の一人や二人なら飛ばせますよ」

 可愛い声で恐ろしいことを言う。

「それよりも企画にアドバイスしてくれ」

「んー。私は先輩の考えるお話は全部好きですけど」

「真面目にやれ」

「いやいや真面目に」

「真面目にそれなら問題だな……」

 カップ一杯分のお湯が沸騰したのでマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れてお湯で希釈した。砂糖もミルクもなし、黒いだけの泥水を啜る。



## 2


 わたしが小説家としてデビューしたとき、たしかにわたしの人生は順調だった。賞金の二百万円で取材旅行と言い張ってグアムに行ったし、デビューから二作目、三作目と売れ行きは好調で早々にコミカライズも決定した。

 わたしが南沢紗理奈(みなみざわさりな)と初めて会ったのはシリーズ四冊目の打ち合わせがまとまりかけていたころだった。

 当時の紗理奈は高校を卒業してから就職した会社を半年で退職して、そのあとは再就職もせずに、後に本人が語ったところによれば「人生を見失っている」状態だった。紗理奈の母とわたしの母が友人で、わたしの小説の熱心なファンであった紗理奈が人生を「再発見」するきっかけになればということでわたしたちは引き合わされた。

「あの……」

 ファミレスで初めて会ったとき、紗理奈は自己紹介すらまともにできなかった。値段だけで選んだみたいな地味な眼鏡の奥で、紗理奈の目は決してわたしを正視しようとはしなかった。

 わたしは母に無理やり設定された会談を無難に(そしてそれは不誠実を意味する)終わらせればそれで良かったし、ただ自分のことだけを考えて生きてきた二十代の新人小説家には、「作家になりたい」と言った紗理奈に対して型通りのアドバイスしかできなかった。

 それで終わったはずだった。

 翌週、紗理奈がわたしのアパートを訪ねてきた。母がわたしの住所をあちこちにばらまいていたらしい(それについて不愉快な悶着があったけど紗理奈の件とは関係がない)。

 追い返すという手もあったが、そのときわたしは次のシリーズの構想がにっちもさっちも行かなくなっており、精神的に行き詰まっていた。何か気分が切り替わるきっかけになるかもと紗理奈を部屋の中に招き入れた。

 二人分のインスタントコーヒーを淹れて、紗理奈が要件を切り出すのを待った。当時は紗理奈がコーヒー嫌いなのを知らなかった。結局、彼女の分のコーヒーは最後まで手付かずだった。

「あの……えっと……先生……」

「その『先生』っていうの、やめてほしいな」

 紗理奈が肩を小さくした。これではまるで、わたしが説教しているみたいじゃないか、と思った。

「えっと……えっと……読んでほしくて」

「何?」

「あの……私の……」

 紗理奈が鞄から紙の束を取り出した。紙の片側が紐で綴じられている。表紙に作品のタイトルと作者の名前が書いてある。

「波沢(なみさわ)リナ?」

「ペンネーム……」

「投稿したの?」

 紗理奈は首を振った。

「自信なくて……」

「で、その自信のない自作をわたしに読んでほしいって?」

 意地の悪い言い方になってしまったが、押し掛け作家志望に向ける言葉としては生ぬるいくらいだとわたしは本気で考えていた。

 わたしは紗理奈から原稿を受け取った。次に会う約束をして彼女を帰して、それからわたしは受け取った原稿を読み始めた。

 一言でいえば、波沢リナの小説は最低だった。

 陶酔と憐憫ばかりが先走り気遣いと技術が欠けていた。

 翌週、呑気にアパートにやって来た波沢リナに、わたしは舌鋒鋭く小説の欠点を並べ立てた。

 ……自分が嫌になる。

 思い出したくない。思い出したくない。思い出したくない。

 そのときわたしは最悪だった。リナが小説の批評を求めていたことを免罪符にしていた。つまりわたしは彼女に何を言ってもいい、むしろこれはリナが望んだことなんだ。

 ……まるでサンドバッグに打ち込むように。わたしは作家活動で鍛えた言語野を駆使して彼女の作品をこき下ろした。人格攻撃はしなかった。いや、それは直接的な罵倒を避けたというだけであって、直接的な言葉を使わずに人の心を傷つけるのは、文章表現を学んだ人間には簡単なことだった。

 わたしは、聞いた彼女がもっともダメージを受ける言葉を選んだ。言葉を駆使して人間を破壊するのは、まるでスポーツをしているかのような爽やかさがあった。

「はい……ありがとうございました……」

 意外にもリナは泣かなかった。リナが出ていってから、わたしはビールの缶を開けて疲れた喉に流し込んだ。ストレスを発散してその日は心地よい気持ちで熟睡することができた。

 ――より意外だったのは、一ヶ月後に再びリナがやってきたことである。

「あのっ!」

 一ヶ月前よりも大きな声でわたしに言った。

「別の小説……書いてきました! また、お願いします!」

 そして一年後、波沢リナは小説家としてデビューした。

 波沢リナのサクセスストーリーが始まったころ、わたしの作家人生はゆっくりと終わりを迎えようとしていた。



## 3


 夕飯のホットケーキを食べたあとは冷蔵庫にあった安ワインを二人で飲んだ。お金のないわたしが生活費を削って買ったワインを売れっ子作家のこいつに飲まれるのは癪に障ったが、リナはホットケーキだけじゃなくチーズとピーナッツも買ってきてくれたので今夜だけは大目に見ることにした。

「かんぱーい!」

「はいはい、乾杯」

 この日四回目になる乾杯をしてわたしたちはマグカップに注いだワインを一気に煽った。

「せんぱぁい、私酔っちゃったみたいですぅ……介抱してくださぁい……」

「嘘つけ。いつも酒はピッチャーで飲んどるだろうが」

「前に大失敗したのでそれ以来控えてます。冬に駅で寝るのはさすがに命にかかわるかなーって」

「相変わらず無茶してんな……」

「出版社のパーティだったんですけど編集さんに命令されて知らないおじさんに愛想笑いしてたらストレスが爆発して二次会で焼酎の瓶イッキしちゃいましたてへ」

「よくやるわ」

 そのパーティわたし呼ばれてないな……。まあわたしの顔なんか売ったって仕方ないってことなんだろうけど。

「はぁぁぁ……っ」

「先輩今日は一段とメランコリーですね。どうしたんですか」

「だからまたボツ食らったんだって」

「大丈夫ですよ先輩の小説面白いですもん頑張ればやれるファイトっ」

 わたしはピーナッツを手のひらにいっぱい握って口の中に放り込んだ。ぼりぼりとナッツを歯で砕く感触を楽しむ。酔っ払ってきたので目を閉じると浮遊感が良い感じで気持ちよかった。

「……そろそろさー、本出ないとヤバイんだよね。ここの家賃とか……」

「あー。いっそうちで暮らしますか?」

「なんでやねん!」

「別にボケたわけじゃないんですけど」

「だったら余計になんでやねんだよ」

「人間ひとりくらいなら軽く養えますよ。先輩なら三人くらい養いたいです。あ、もしかしてめちゃくちゃお金のかかる趣味があったりしますか?」

「そんなことしてもらう義理ないでしょ」

「でも私ぃ、先輩のこと好きですし。きゃっ、言っちゃった」

「死ねよ」

「なんで!?」

「いや真面目な話」

「私も別にふざけて言ってるわけじゃないんですけどねー」

「そろそろ潮時かなーって思ったり」

「……小説家、辞めるんですか?」

「つーか、今わたしもうすでに小説家じゃないような気もする。本が出てないんだから」

 本が出なければ収入はゼロだ。生計が立ってないのだから小説家という肩書はほとんど実質的な意味を失っている。

「小説家やめて何やるんですか?」

「まあ、普通に会社勤めかな……雇ってくれるところがあればだけど……それまではバイトで何とか……」

「先輩どういう仕事がしたいんですか?」

「特にしたいのはないけど……まあ文章を書くのは嫌いじゃないから、出版とか広告とかそのあたりかなあ。コピーライターみたいなの。ゲームのシナリオライターとかでも……まあどっちも倍率厳しいだろうけど」

「あ、いいですね。先輩って短くてスパッと切れるワードが得意ですし。そういうのだったら私でもやれるし。客商売やるって言われたらどうしようかと思ってました私愛想笑とか絶対無理なので」

「ちょっと待てなんでお前も転職することになってるんだ」

「ん?」

「なんで不思議そうな顔してるんだよ」

 わたしはマグカップに半分残っていた酒を一気に飲み干した。

「なんで私小説家辞めちゃ駄目なんですか?」

「いやお前めっちゃ売れっ子じゃん」

「んー。でも私、先輩が小説家やってるから小説家になった節があるじゃないですか」

「知らねえ」

「楽しそうですね、ライター」

 嫌味ではなく、本気でそう思ってるみたいに、にこにこと無邪気に笑う。

「また先輩に褒めてもらえるように頑張りますね」

「別にお前は頑張らなくていいだろ。売れっ子作家なんだし……」

 わたしと違って次回作も出るし。

 リナが怪訝そうに首をかしげた。かわいこぶってる仕草に見えたが、首を傾ける角度が大きすぎて妖怪のように見えた。

「なーんか、今日の先輩は一段とネガ入ってますね。そんな先輩も素敵ですが」

「……お前さあ、なんでいつもわたしの部屋に来るの?」

「…………アノ、ヒョットシテ、ゴメイワク、デシタカ?」

 リナが死にそうな顔になった。そのまま首が折れてしまうそう。

「いや別に迷惑ってわけじゃないけど……」

「あ、なーんだ、びっくりしました」

「お前めっちゃ売れっ子なのになんでずっとわたしなんかに構うのかなって」

 あのときお前のことをさんざんけなしたわたしなんかに。

「先輩だから、ですよ」

 リナはにっこり笑った。

「先輩はいつまでも私の憧れですから」

「……わたしはお前が憧れるような存在じゃねーよ」

「じゃあ私がもらっちゃいましょうかね」

「んー。やだ」

「ケチ」

 逃げるように、わたしはワインをマグカップに並々と注いだ。もっとアルコールで前頭葉を麻痺させよう。

 リナを見るたびに、過去の自分の傲慢さと、今の自分の情けなさを思い知ることになる。

 リナもマグカップにワインを注ぐと、すすすと机の周りを移動してわたしのすぐ隣で止まった。

「でへへ。酔っているので」

 聞いてもいない言い訳を言って、ぐびとワインを飲んでわたしに寄り掛かる。

 わたしはリナが近づくの甘んじて受け止めた。

 これは、罰なんだ。

「……お前の、それは、『憧れ』じゃないよ」

「恋ですかね」

「『勘違い』」

「似たようなものじゃないですか」

「……どうだろうね」

「でもその違いは私にとっては大事なことなんです」

「似たようなもんじゃないか」

 それはパンケーキとホットケーキみたいに些細な違いでしかない。

「違うんですー!」

 リナはムキになって言うと、こぼさないようマグカップを机に置いて――酔ったふりをしてもそういうところはそつがない。彼女はわたしと違っていつも――わたしの腰に腕を回して、胸に頭を押し付けた。

「酔っ払ってるので、しばらくここで休みます」

「……わたしの胸で良ければ。いつでも貸すよ」

 リナに言った言葉を思い出す。自分のことを思い出す。

 じくじくと、呪いのように、過去の自分がわたしの首を絞めていた。



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