さよならまーくん 下
レトルトカレーを鍋に入れて、温める。
今日はママの帰りが遅いので、一人の夕飯だ。
沸騰し始めた鍋の中では、泡が盛り上がっては消えてゆく。それを眺めながら、私はまた岡部君のことを考えていた。
恋ってなんだろう。私はどうしたいんだろう。どうすればいいんだろう。
恐らく幾ら考えても、私の疑問には答えが出ないだろう。それでも私は思考を止めることが出来なかった。
帰り道も、家に帰ってからも、こうして夕飯の準備をしている時も、私は同じことをグルグル考え続けている。
「なんなんだろ、私……」
辛口のカレーを一口。私は誰も居ないリビングを眺めた。
「まーくん?」
カレーをもう一口。私はまだ、誰も居ないリビングを眺めていた。
「まーくん?」
私はスプーンを置いて、立ち上がった。
トイレから押し入れまで、家中を探し回る。
「まーくん。ねぇ、まーくん?」
背中がぞわぞわする感覚。とても嫌な予感がした。いや。これはもう予感じゃない。確信だ。
「まーくん……」
まーくんが姿を現さない。
私を常に守っていてくれていた存在が、今、居ない。
「どうして」
私は部屋着のまま、家を飛び出した。今日通った道を全て確認しようとしたのだ。落とし物じゃあるまいし、見つかりっこないことは分かっていた。でも、今何か行動を起こさなければ私はきっと気が狂ってしまう。
小学二年生。あそこのクリーニング屋の側で馬鹿にされた時、まーくんは優しく慰めてくれた。
小学四年生。まーくんと話していることを皆から気味悪がられた私に「大丈夫だよ」と言ってくれた。
小学六年生。父親が居ないことをからかわれた私を強く抱きしめてくれた。
中学三年生。教科書を隠されて泣いていた私の涙を、そっと拭ってくれた。
この街は、まーくんとの思い出だらけだ。
でも、思い出しかない。まーくんは、何処にも居ない。
「なんで消えちゃったの……? どうして?」
私は「なんで」とか「どうして」とかいう言葉を繰り返して、時折髪をクシャクシャにしたり、涙を流したりした。宵闇に溶け込んだ私の姿は、他人から見ればお化けのように見えるかもしれない。
結局まーくんは見つかることがなく、私は家に戻って、自室のベッドに寝転んで休んだ。
私が岡部君のことばかり考えていたから、拗ねてしまって、出てこないのだろうか。それとも、別の何かで私に愛想を尽かしたとか?
「……」
本当は、分かっているんだ。
答えを出したくないから、悩んでいるふりをしているだけで。
幾ら悩んでも答えが出ないんじゃない。答えを直視できないだけなんだ、私は。
私はきっと、岡部君のことが……。
「あれ?」
自分の勉強机が視界に入る。
机の上には、見覚えのない紙切れ。どうやら、ノートの切れ端みたいだ。
私はベッドから起き上がり、ふらふらとその紙切れに向かう。
「私の、字……」
紙切れを手に取ると、そこには文章が書かれていた。少し丸くて、小さな字。見間違うはずもない。そこにある文章は、明らかに私の字で書かれたものだったのである。
しかし、私はこんな紙切れに何かを書いた覚えはなかった。
「なんだろ……」
私は首を傾げながら、書かれている文章を読む。
『僕が消えたことを、悲しむ必要は無いんだよ。それは君が大人の入り口に一歩足を踏み入れたってことなんだ。悲しむどころか、寧ろ、君は喜ぶべきなんだよ。大丈夫。誰にも見えなくたって、僕は君のことをいつでも見守っているから』
私はこれを、いつ書いたのだろう。
分からない。分からないことだらけだ。でも、一つだけ明確なことがある。
まーくんは、消えた。もう会えない。
そして私はそうやって、大人になっていくんだ。
「まーくん……まーくんっ」
その夜、私はベッドの上で、最愛の恋人の名を何度も呼びながら泣いた。
例えまーくんが私の思い込みから生まれた存在だったとしても、彼は、確かに存在していた。私を守ってくれた。色々なものを残していってくれた。
まーくん、ありがとう。
さよなら。
さよならまーくん。
次の日。
私はあくびをしながら、昇降口で上履きを履いていた。沢山泣いたせいで、今日は寝不足だ。
教室の方へ向かおうとすると、廊下で岡部君に会った。
「おはよう」
「おはようございます」
岡部君は気まずそうに目を逸らす。昨日の別れ際を思い出したのだろう。
「昨日ね」
私は岡部君の隣に並んで、話し始めた。岡部君は少し驚いた様子で、私の方を見ている。
「失恋したんだ、私」
私が昨日の体験を端的に口にすると、岡部君の表情が固まる。
「例の、好きな人と、ですか?」
「そうそう」
私が頷くと、岡部君は真剣な表情で私の目を見た。
「……その、もし気分転換とか、したかったら。いつでも言って下さい。あ、いや、振られたばっかりの人に言うことじゃないかもしれないけど」
岡部君が勝手に慌てだすので、私は笑った。
「じゃあ、今度お願いしようかな」
言いながら、私の胸はじんわりと温かくなっていた。
身体が羽のように軽く、自然と口角が上がってしまう。
まーくん、見てるかな?
私、今、『初恋』に浮かれてるよ。
終わり
さよならまーくん かどの かゆた @kudamonogayu01
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