さよならまーくん 中

 学校に来て、授業を受けて、お弁当を食べて、授業を受ける。

 はい、これで一日終了。

 今日発した言葉は、「13です」の一言だけ。数学の時間にあてられてしまったのだ。


「まーくんが居てよかったよ」


 放課後。誰も居ない廊下で、私は喉を押さえる。


「どうして?」


 いつの間にか正面に居たまーくんは、不思議そうに首を傾げた。


「まーくんが居なかったら、私の喉は退化してたかもしれないじゃない。あー、うん。一応声は出てる」


 私は何度かちゃんと声が出ているかの確認をする。ずっと一人だと、そもそも声を発することが無い。こうした会話が無ければ、私は正しい声の出し方を忘れてしまっていたんじゃないだろうか。


「人間の機能は、そう簡単に無くなったりしないよ」


 まーくんは真面目な顔をして、壁により掛かる。私はその隣に立った。足元にあるのは、一人分の影。恐らく、私とまーくんが混じり合った影だ。


「あのっ!」


 すると、突然声を掛けられた。大きな声に驚いて、私は顔を上げる。

 そこには、昨日ボールを拾いに来た野球部員が居た。汗と泥に塗れていた練習中とは違い、制服をきちんと着ていて、小綺麗な印象だ。

 一体、何の用だろうか。

 私は警戒して、身体の重心を自然に後ろ側へ移した。何かあったら、逃げてしまおう。例えば、誰も居ない場所に話していたことについて聞かれた時なんかは、絶対に逃げるに限る。


「今、少しだけ、時間良いですか」


 緊張した面持ちで野球部員が問いかけてくるので、私は一応頷いた。話を聞いてからでも逃げることは出来るだろう。

 私の反応を確認した野球部員は、ずんずんとこちらへ向かってくる。


「え、ちょ……」


 そして、私が何かを言う前に、手を掴んできた。


「俺、先輩のことが好きです! 一目惚れしました!」

 

 野球部員は、真っ直ぐな目で私を見る。


「俺、岡部 進って言います! もし良かったら、付き合ってください!」


「……え?」


 現実に、思考が追いつかない。

 私、今、なんて言われた?


「わ、私! 好きな人が、居るから!」


 気付いたら、私はそんなことを叫びながら逃げていた。

 そっか。

 人間って、本当に動揺すると、どんなに久しぶりでも大声を出せるんだ。




 家の近くにある、小さな公園。

 私は古いブランコに座って、ただ俯いていた。


「……びっくりした」


 告白されたことなんて、初めてだった。しかも、一目惚れって。昨日見たあの一瞬で、好きになったってこと? 私ってそんなに美少女だったっけ?

 携帯のカメラを起動して、自分の顔を写してみる。

 まぁ、見た目の美醜なんて人それぞれだとは思うけれど。とにかく、一目惚れするほど可愛くは無いんじゃないかな……。

 心が揺れれば、身体も微かに揺れる。ブランコから音がした。重く鈍い響き。お腹の底の方まで響くような感覚。


「まーくん」


 私はなんとか自分を冷静にさせたくて、恋人の名前を呼んだ。

 しかし、まーくんはすぐに現れない。


「まーくん?」


 私はブランコから立ち上がり、辺りを探す。よく見ると、まーくんは公園の端にある街灯の裏に寄りかかっていた。


「どうして隠れてたの?」


 私がまーくんの所へ駆け寄ると、まーくんは優しく笑う。


「驚かせようと思って」


「これ以上驚いたら、心臓が忙しくて死んじゃうよ」


 私は自分の胸を押さえる。告白されたこと、まーくんがすぐに来なかったこと。色々な理由が入り混じって、私の心臓は普通では考えられない程に動いていた。

早い鼓動を意識すると、思考まで早まってしまう気がして、私は手を離す。


「告白」


 まーくんが空を見上げて、独り言のように呟く。


「何?」


「告白、断っちゃって良かったの?」


 まーくんは、とんでもないことを口にした。


「いやいや、まーくんっていう恋人が居るのに、二股になっちゃうじゃん」


「そうだね」


 まーくんは頷いて、やっぱり、いつも通り私に同意した。


「それに、一目惚れなんて、ようは単なる思い込みでしょ?」


「思い込みじゃ、いけないんだ?」


 その瞬間。

 いつもぼんやりとしている、まーくんの目が。

 はっきり、くっきりと見えた。

 茶色がかった瞳で、左目に黒子がある。少しタレ目で、まつ毛は結構長い。


「ちゃんと好きじゃなきゃ、付き合っても長続きしないよ」


 私はその目を、正面から見つめた。


「ちゃんと好きかどうかって、誰が決めるんだろうね」


 まーくんは腕組みして、ううむと唸る。

 私はまーくんの態度に苛立った。一体何なんだ。私とあの野球部員をくっつけようとしているのだろうか。私の恋人は、まーくんだけなのに。


「そんなの知らないよ!」


 私が声を荒らげると、まーくんは消えていた。でも多分、呼べば来るだろう。不思議な予感があった。

 私は手元の携帯が起動しっぱなしだったことに気が付く。電源を消そうと画面を見たら、自分の顔が写る。そうか、カメラをつけてそのまま……。


「あれ?」


 さっき見えた気がする、まーくんの目。それは、私の目と瓜二つで。

 恋人は似るって言うけれど、黒子の位置まで同じだなんて、なんて偶然だろうか。


「あ、もうこんな時間」


 画面の表示されている時刻を見ると、かなり遅くなっていた。

 帰らないと。

 私は大慌てでブランコから立ち上がり、道路の方を向く。


「……あ」


 公園の入口に人が立っていて、気付いた私は思わず声を上げた。


「……誰と、話してたんですか」


 ほんの数時間前、私に告白した岡部君が、そこには居た。呆然とした表情で、少し青ざめている。


「えっと、電話してただけだよ」


 動揺が透けて見えるような、明らかに震えている声で私は言う。


「……好きな人と、ですか?」


 岡部君は曖昧な笑いを浮かべて、それから地面を見つめた。

 私は岡部くんの問いにどう答えたら良いのか分からず、黙り込んでしまった。当たりなんだけど、その話題を掘り下げられるのは、困る。


「ごめんなさい」


 私の困惑を感じ取ったのか、岡部君は野球部員らしい深々としたお辞儀で謝罪をしてくる。


「つい、変なこと聞いちゃって。答えたくないですよね。本当に、すいません」


 岡部君は瞳を潤ませて、鼻を啜った。

 その様子は、私の心を酷くざわつかせる。

 純粋に、疑問だった。どうして、ここまで私のことを好きなのだろう。話したこともない相手をここまで想えるのは、何故なのか。


「岡部君は」


 気付けば、私は彼の名前を呼んでいた。

 彼は素早く顔を上げて、私の目をじっと見る。次に出る言葉を、固唾を飲んで待っている様子だ。


「岡部君は、見えないものを信じたり、する?」


 何を聞いているのだろうか、私は。

 岡部君はぽかんとした顔をしている。私は言った瞬間、自分の言葉を少し後悔した。

 岡部君は目を逸らし、口の中で何やらモゴモゴと言った後、急に真剣な表情になって、私の肩を掴んだ。


「信じるっていうか、今まさに、そういうものに動かされてる感じです」


「動かされてる?」


 話の意図が読めず、私は岡部君の言葉をそのまま口にする。


「どうしてこんなに先輩を好きだって思うのか、俺にも分からないんです。理由らし

きものは幾つも浮かぶけど、明確な原因はどうやっても見えなくて。でも、一つだけ確かなのは……」


 岡部君の瞳が、少し揺れる。


「何か分からないけど、めっちゃ好きです」


 一体どういう告白なんだ、と思った。

 これは私の勝手なイメージだけれど、告白っていうのはもっとこう、理由がちゃんとあって、はっきり見える形があるものなんじゃないのか。

 あれ、でも、それじゃあ。

 私はまーくんの何が好きなんだろうか。

 私はまーくんと、いつ出会った? いつ恋人になった?

 分からない。


「振られてるのに、何言ってるんだって話ですよね。それじゃあ、さようなら!」


 上擦った声。岡部君は耳まで真っ赤にして、早足で公園を去っていった。


「あ、これ、やばい」


 足元がぐらつくような感覚。

 今私はどんな顔をしているのだろうか。

 熱中症のような、インフルエンザのような、とにかく異常な熱を帯びて、私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。鼓動に合わせて甘く疼く胸の内は、目視できない。

 どうなっているのか。自分にも分からなかった。

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