さよならまーくん
かどの かゆた
さよならまーくん 上
物心ついた時から、私には恋人が居た。
名前は、まーくん。あだ名とかじゃなくて、本名がまーくんなのだ。それ以外の呼び名を、彼は持っていない。
まーくんはいつも私に優しい。私の言うことを、全て受け入れてくれる。きっとまーくんが居なかったら、私の心はとうに折れてしまっていただろう。
小学校で、周りに馴染めなかったあの頃。
中学校で、虐められていたあの時。
まーくんが居て、良かったと思う。まーくんの「愛してる」の一言があったから、私は何とか今日もこの足で立って、ちゃんと生きている。
「まーくん」
私がそう呼びかけると、まーくんはいつも通り、陽炎のようにぼんやりと現れた。まーくんには決まった顔が無い。そこにはただ印象があるだけだ。優しくて、落ち着いていて、どこか温かな雰囲気。
「どうかしたの?」
まーくんが私に問いかける。まーくんには、決まった声も無い。高いような低いような、不思議な声。一つだけ言えることは、その声が表す言葉の一つ一つが、私の心に強く響くように出来ているということ。
「今日、良い天気だね」
私はベンチに座り、青葉のフィルターを通して、空を見上げていた。校庭の隅にある日陰に、ぽつんと置かれたベンチ。人の寄り付かないその場所は、私とまーくんのお気に入りだった。
見えるものは、陸上部が使っているグラウンドだけ。聞こえるのは、野球部の掛け声と吹奏楽部の練習音だけ。
私と関係のあるものの無い場所。
このベンチに座ることで、私はようやく、まーくんと二人きりになれるのだ。恋人同士の、甘い時間を味わうことが出来る。
「まーくん、好きだよ」
私が囁くと、まーくんはゆったりと微笑む。
「好きだよ」
まーくんの返事に、私は目を細める。
他の誰が居なくても、私は幸せだ。まーくんさえ居れば、私は大丈夫。頭の中で何度も繰り返す。自己催眠にも似た行為だった。でも、自覚があったからって止められる訳じゃない。
「すいませーん!」
私の足元に、コロコロと野球ボールが転がる。私がそれを拾うと、坊主頭の男子が汗だくになってやってきた。
「あ、どうぞ」
野球ボールを転がしてやる。
男子は慣れた手付きでボールをグローブに収めると、野球帽を脱いで、私に深々と頭を下げた。
「あざーっす!」
よく通る声だった。それはもう、ちょっとびっくりしてしまう程に。まーくんの優しい声とは大違いだなぁ、なんて。
私は軽く会釈して、まーくんの方へ向き直る。
「こんなところまでボールが来るんだね」
私は一度ボールを持った自らの手をじっくりと観察する。土が付いてしまっているから、後で洗わないと。
「びっくりしたよ」
まーくんはすぐ隣に現れて、私に同意した。
「だよね」
私は言いながら、ふとグラウンドの方を見る。
すると、先程ボールを追いかけていた男子が、こちらへ目を向けていた。真っ黒なその瞳からは、感情がいまいち読み取れない。
……しまった。
私は立ち上がり、裏門から学校を出る。もしかしたら、逃げたことでかえって怪しまれたかもしれないけれど、そんなことを冷静に考える余裕すら無かった。
普段走ることなんてないから、私はすっかり息が上がってしまう。それに対してまーくんは気楽なもので、霧のように消えて、いつの間にか現れるだけだ。呼吸が乱れることなんて全く無い。
「ねぇ、見られたよね、間違いなく」
私は周りを確認しながら、まーくんに話しかける。
「大丈夫。見られたって、ただちょっと変な人が居たって思うくらいだよ」
まーくんが笑うので、私は少し安心した。
とはいえ、これからはもっと気を付けないと。
まーくんは、私以外の人には姿が見えないんだから。話しかけているところなんて見られたら、また中学時代の二の舞になってしまう。
「大丈夫だよね?」
自分に言い聞かせるようにして、私は呟く。
「大丈夫」
まーくんが力強く頷く。そうだ。まーくんが大丈夫って言ってくれているんなら、きっと大丈夫なんだ。
全部全部大丈夫。
私は大丈夫私は大丈夫私は大丈夫。
私は正気だ。
まーくんが居ないなんて言うアイツらの方がおかしいんだ。
「さ、帰ろっか、まーくん」
私はすっかり安心して、軽い足取りで帰路につく。
「愛してるよ」
まーくんが急にそんなことを言うので、私は思わずはにかんだ。
「私も愛してるよ」
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