第4話

「優しい仏さんが好きなのに、他の人に優しくする仏さんは嫌いです……っ!」

「いのま、」

「なんて……そんな風に一瞬でも思ってしまった、自分が一番、大嫌いなんです……っ! や、やっぱり私は、人を──、仏さんを好きになる資格なんか、なかったんです……!」

「ちょっとま……!」


 猪股は、自分の言い分だけを伝え終わると、一目散に駆け出した。これも前から思っていたけど……あいつ、逃げ足超速い! 

 初めて猪股と会った日は、追いかけるのを諦めてしまったけど──今回は、脚が自然に動いていた。泣きながら駆け出していった女の子を放っておくようなこと、できねえよ。俺の善人魂が黙っちゃいない。


──本当に、それだけの理由か? 

 心の中で、俺は俺に尋ねた。その答えは、逃げた猪股を捕まえてから、考えることにする。


「猪股! ちょっと待て! 話を……」

「追いかけてこないでくださいっ……! わ、私に優しくしたいと思うならっ、追いかけないことが優しさですっ……!!」


 ゆらゆら。ゆらゆら。

 猪股が走るたび、三つ編みが揺れる。手を伸ばせば、三つ編みには手は届きそうになるが、そんな乱暴なことできるかよ。


「それが優しさだってんなら……これは、俺のエゴだ! だから、追いかける!」


 ダン! 

 鉄製の下駄箱は意外に音が響いた。両手を下駄箱についた俺の腕の中で、猪股が「ひいっ」と小さく声を漏らした。


「……泣き止んでくれないと、俺の気が済まない」

「そっそんなこと、言われてもっ……!」


 なんで困った顔するかな。助けてやりたくなるじゃんか。笑ってほしく、なるじゃんか。そこまで考えて、やっとわかった。そうか、これが答えか。


「猪股」

「は、はい……」

「俺、お前に優しくしたいんじゃなくて、笑っててほしいみたいなんだけど。結局俺はどうしたらいいの?」


 そう言うと、猪股は目を白黒させた。うるうるしていた目から、瞬きするたび涙がこぼれ落ちる。あ、なんかこれ、デジャヴ。猪股は、目をしばらく泳がせたあと、困り顔をさらに歪ませた。


「……っ、私にだけ、優しくしてくださいっ……!」


 猪股の口から出た言葉に、俺は思わず笑ってしまった。何だよ、それ。今までさんざん、あんなこと言ってきてた癖に。


「優しくするなって言ったり、優しくしろって言ったり……勝手だなぁ」


 笑ってしまうと、俺を見上げている猪股の顔がさらに自信なさげに歪んでいく。否定したわけじゃない。ただ、ちょっと、嬉しかった。猪股に、優しくしてほしいという気持ちが芽生えたこともそうだけど。その“お願い”が、かわいかったから。


「あ、のー。俺、こういう性格だし、人に世話焼かないと蕁麻疹出ちゃうから、なかなか猪股一人だけに優しくするってのは難しいかもしれない、けど」

「……け、ど?」

「出来る限り、叶えてやりたい」

「……っ!!」


 猪股の肩に、ぽすっと頭を置いた。その瞬間、猪股の動揺がダイレクトに伝わってきて、なんだか可笑しかった。


「ほほほほほほほ、仏さん!?」

「……っていうか、その仏さんっての、やめない?」


 地味に気になってたんだよな。仏って呼ばれるのは慣れてるんだけど、さん付けされるのはなんか違う気がして。それに……、と、俺が猪股から仏と呼ばれることに対するもう1つの違和感に気づいてしまって、それをごまかすように唇を噛んだ。

 猪股は行き場のない手をじたばたさせている。「えと、だって、ほかに、なんて」としどろもどろになりながら、俺に尋ねた。


「睦月」

「へっ……!?」

「睦月って、名前で呼んで。はぐ」

「はぐぐぐぐぐっ!? なっななななななななな!?」


 顔を上げると、猪股──はぐが、顔から湯気が出そうなほど真っ赤になっている。相変わらず顔は困り顔のままだけど。そりゃあやっぱり笑った顔が見たいけど。


「む、つき、さん……」


 こうやって、はぐを困らせるのは、ちょっとだけ、楽しいかもしれない、と思った。そんなの、“仏”失格じゃん、俺。失格っていう表現可笑しいかもしれないけどさ。これが、さっき感じた違和感の正体だ。


「むっ、睦月さん」

「ん」

「むむむっむむむむむ睦月さんっ」

「ん」

「すき、です」

「……何回も聞いた」

「……はい」


 そこで、ようやく、初めてはぐが笑った。眉尻は下がったままだったが、へにゃりと目尻を下げて、頬の筋肉を緩ませた。あ、ちくしょう、かわいい。

 今度は満面の笑みを見たい、と思った。そのためにはどうしたらいいのかななんて、思うのは邪な気持ちなのかもしれない。こいつは、仏の心を乱したただ一人。


「で、でも、だいすきなんです」

「……」


 こういう時、「俺も」って言えばいいの? そんなこっぱずかしいこと出来るわけないだろ。俺はただただ黙り込んで、何も言えない代わりに、はぐの手をぎゅっと握った。



 * * *



 はぐに出会ってから、心を乱されまくりだ。

 俺、完全に“仏”失格だ。名前返上。仏の顔は三度までって言うけど──はぐの前で、優しい紳士のふりしていられるの、何度までだろう。それを伝えたら、はぐはやっぱり困るだろうか。

 あぁ、悟りをひらくまでには、まだまだ修行が足りないな、なんて俺は苦笑いを浮かべたのだった。





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仏の顔は何度まで? 天乃 彗 @sui_so_saku

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