第3話

 そんなやり取りを猪股としてから何日かが経ったある日。


「仏ーっ! 辞書貸ーしてっ」


 そう言って、俺に辞書を借りにきたのは、去年同じクラスだった須藤という女だ。(スドウ、と呼ぶと怒る。あくまで自分はストウだ、と言われるのだが、別にどちらでもいいじゃないか、と俺は思う。)

 須藤は、ショートカットにした短い髪の毛をぽりぽりと掻きながら、困った、というような顔を浮かべている。いや、困った、というような顔を浮かべようと頑張っているのが見て取れる。そうなのだ、こいつは毎回英語の時間の前になると俺に辞書を借りにくる。


「お前、持ってきてないだろ。最初から俺を当てにしてるだろう」

「あはっ、ばれたぁ? だって辞書って重いんだもん」


 だもん、じゃねえよ。かわいこぶって言ったところで俺は何とも思わんぞ、なんて考えながら廊下にあるロッカーから辞書を取り出して、須藤に手渡──ただ手渡すのはなんかむかついたから、辞書で軽く頭を小突いてから手渡した。須藤は「あたっ」と言いながら額を押さえた。しかししばらくして、へっへー、と気味の悪い笑い声を漏らした。


「何だよ」

「なんだかんだ言いながら、ちゃんと貸してくれるんだよねえ。さすがというかなんと言うか、あっぱれというか」


 須藤はさすが運動部というようなさわやかな笑みを浮かべながら、俺の肩に手を乗せた。


「今度なんか奢るよ、いつも頼りっぱなしだしね。お礼するわ!」

「いや、いいよ。お礼貰いたくてやってるわけじゃないし」

「あんた、本当に高校生? 悟りかなんかひらいてる?」

「当方普通の高校生だけど」


 真顔で返すと、須藤はやれやれといったような顔を浮かべた。辞書を片手に、少し考えているようだったけど、そのうち「じゃあ、」と何かを思いついたようだった。


「あんたが困ったときは、助けてあげるから頼ってきてもいいよ?」

「なんでちょっと上からなんだよ」

「あは。じゃ、あたし行くからー」


 ひらひらと手を振りながら、須藤は自分の教室に戻っていった。あいつはなんというか人徳がある、というか。あっけらかんとしていて友達も多く、俺以外の人間にもあんな風に甘えたり頼ったりしている。甘え上手とか世渡り上手、ともいうのかな。それが誰からも不満に思われていないのは、やっぱりあいつの人格とか人柄にあるんだろうな。……優しくされ慣れてるんだよな、あいつは。ふと、そんなことを考えた。基本的に誰かと一緒にいて、いろんな人の力を借りながら生活している。

 猪股とは、正反対のタイプだな。顔とか、性格から、何から何まで。あの長い三つ編みがなんだか思い出されて、あいつも須藤くらいうまくやれればいいのにな、と思った。須藤に「自分のことどう思う?」とか聞いたら、「んー、天才?」とか返ってくるだろうしな。

……と、なんでそこで猪股が出てきた? 俺は一人で首を傾げる。あまりに真逆なタイプだからか? それにしたって、知り合って間もない猪股のことをなんで思い浮かべたのか。


「……けさん」


 なんというか、あの三つ編みがなんだか視界に映ってるようなそうでないような気がしてだな。……って。


「仏さん……」

「のわあ!」


 驚いた。結構本気で驚いた。声のした方を見てみると、見知った顔──猪股が俺のことを見つめているではないか。普段よく仏頂面だとよく言われる俺だが、今この瞬間は、動揺しきっていたに違いない。……あれ、もしかして、俺が気がつかなかっただけで、さっきからそこにいたんじゃ? そしたら、俺がなぜか猪股のことを考えてしまったのも何となく説明がつく、気がする。あれだろ、ちょっと違うかもしれないけど、サブリミナル効果的な。


「どどどっ、どうして驚くんですかあ……」

「すまん、考え事してたから」


 そう答えると、猪股はもとから下がっていた眉尻をますます下げた。何か困らせるようなことを言っただろうか、と考えていると、猪股は俯きがちに小さな声で呟いた。


「……す、須藤さんのことですか」

「え? 須藤? ……確かに考えてはいたけ」

「やっぱり!」


 俺の言葉を遮るように、猪股は言葉を重ねた。何がやっぱりなのかさっぱりわからないが、とりあえず俯く猪股の顔を覗き込んでみる。すぐに後ずさりされたけど、一瞬見えたその顔は、今にも泣きそうだった。え? え? どうして猪股は泣きそうになっているんだ? 


「あ、の──猪股?」

「わ、わた、私……見てたんです。あの日から。準備室で仏さんとお、お話した日から。仏さんのこと、見てたんです。そ、その、すっすき、だから」


 そんなにストレートに言われると、こっちも反応に困るんだが……彼女はそんなことおかまいなしだ。前から思っていたが、彼女は暴走しだすと止めるのに時間がかかる。


「見れば見るほど、優しくて、仏さんがかっこ良くて。わ、私ばっかり、気持ちが、つ、強くなってくみたいでっ……! で、でも、仏さんは、そんなことないんです!!」

「? ちょっと話が読めないんだけど」

「わ、私が見ていた中で! 仏さんが人に優しくしていたのは32回でっ……! も、勿論その中には女の子も、いて。そのうち8回は、須藤さんに対するもので」

「まあ、それはそうだな」


 数えていたのか、猪股すげーな、なんて考える。32回って、多いんだろうか、少ないんだろうか。ってか、須藤この野郎。毎回辞書貸してればそうもなるわ。

猪股は、悲しそうにも困り顔にもとれる表情を浮かべながら、震える声で語る。


「仏さんは、優しいひとです。だ、だから、私にも優しくしてくれました。でも、それは、仏さんにしてみれば、数ある中の1つにすぎなくてっ……! 私があんなにも大きく心を動かされたあの親切は、仏さんにとっては何でもなくてっ……!!」

「……猪股?」

「それが嫌だって、思っちゃったんです……」


 歯を食いしばって、拳を握りしめて、猪股は言った。その肩は心なしか震えていて、俺は何も言えなかった。


「仏さん、言いましたよねっ……!? ま、まずは自分を好きになれって。でも、出来ないです。無理です。わ、私、最低ですもん……! 汚いです。醜いです。ドロドロでぐちゃぐちゃで、好きになんてなれませんっ……!!」


 猪股は、両手の中指で目頭を必死に押さえていた。でも、泣いてるのは一目瞭然だった。

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