第2話

「あー、猪股はぐみ?」


 腰くらいまである長い三つ編み、というキーワードだけで人名をぽんと出して来た友人・桐島に感心した。まぁ実際、それでぽんと出て来てくれなかったら八方塞がりなんだけど。人の顔と名前を覚えるのは得意なんだぜ、とドヤ顔していたのは嘘ではなかったみたいだ。


「たぶん、それ。その人何クラ?」

「確か、Fかな。タメだよ、俺らと」

「ふーん」


 なるほど、イノマタハグミはタメだったのか。一個下とかかと思ってた。なんていう俺の感想はまぁどうでもいい。「猪股のこと、何か知ってる?」と聞くと、桐島は目を点にして俺を凝視した。


「何を聞かれるのかと思ったら……! 仏にもとうとう春が!?」

「ちげーよ、バカ」

「じゃあなんでだよ? あの子、結構地味じゃん」


 なんでだよ、と聞かれてから、確かになんでそんなことを聞いたのだろう、と思った。名前を知りたかったのはそうだけど、その先を尋ねたのは、まるで意識してなかったことだったのだ。なんて答えようか考えあぐねていると、桐島が俺の答えを待たずに話しだした。


「あんまり人とつるんでるとこ見たことねーな、そういえば」

「そうなのか」


 確かに、俺が彼女を見た時も必ず彼女はひとりでいたな。おまけに、“優しくしないでください”、だもんな……。

 人と接する時に、優しくされたり優しくしたりするのは大切なことだと、俺は思う。だからこそ、俺はいつでも人に優しくしてあげたいし、困ってる人がいたら助けてやりたいと思う。でも、彼女は違うのだろうか。


「でも、確かに乳はでかい」

「……さよか」

「それでじゃないの!?」

「お前と一緒にするなよ」


 ため息を1つついて、桐島に礼を言う。そこで廊下に目をやると、重そうな教材(丸めた世界地図だろうか)を何本か両手に抱えてフラフラしている人影が目に入った。助けなければ。

 立ち上がると桐島に「どこ行くの?」と聞かれたが、俺の目線の先に気づいて、納得したようにヒラヒラと手を振った。



 その人からひょいっと地図を二本奪うと、ようやく顔が現れた。


「あっ」

「あっ」


 ほぼ同時に声を出した。俺が手助けしたのは、猪股はぐみだったのだ。猪股はあわあわと身体を震わせながら、俺を見ている。……しまったな。今度は許可を取るつもりだったのに。


「ほ、仏さん! また──!」

「いや、違う。今のは事故。俺はお前だと知らずに」

「そうやってナチュラルに優しくするから、こっちだってその気になるんですよ!」

「その気になるってなんだよ」


 思わず突っ込んでしまうと、猪股は「いや、その、えと」と口ごもった。やれやれとため息をついた。

 猪股から奪った筒状のそれをまじまじと眺めてみると、それはやっぱり世界地図だった。端の方にはご丁寧に、“地歴準備室”と書いてある。しかし、結構な重量あるぞ。俺は男だからまぁ大量に持てないこともないけど、女の猪股はこれを三本持ってたわけだから、ふらつくのも当たり前だ。


「地歴準備室だな。ほら、もう一本も貸して。俺が持ってく」

「いっ、いいです! それも、自分で持って行くので、返してください!」

「何言ってんだよ、ふらついてたくせに」

「ふ、ふらついてなんかいません!」


 あくまで俺に頼る気は無いらしい。どうしようか。そう考えて、適当な嘘をつくことにした。


「……俺、地歴室のじいちゃん先生に頼まれごとしてたんだった」

「え?」

「だからこれはついで。その一本は持たん。自分で持て」


 そう言い残して、踵を返して歩き出すと、しばらくしてパタパタと足音が聞こえた。


「……っ、なら、いしょからっ……」

「何?」

「ど、どうせ私のことなんか好きになってくれないんですから、最初から、優しくなんてしないでくださいよっ……!」

「えっ」


 振り返ると、猪股は泣いていた。それはもう、大洪水ってくらい。俺は動揺して地図を落としそうになったが、何とかもちこたえる。


「えっ、ちょ、何泣いて」

「も、もうダメです。好きです。好きになっちゃいました。あれほど言ったのに、仏さんが悪いんですからっ……!」

「悪いとか悪くないとかの問題じゃ」

「いいからさっさと振ってください! まだ好きになったばっかりだから、まだ傷は浅くて済みますからぁ!」

「落ち着いてくれ」


 泣きながら振ってくれと言われたのも初めてだ。こんなシチュエーションで告白されたのも初めてだけど。

 どうしよう。とりあえず、俺は片手で地図を持って、ポケットの中を探った。あ、駅前で配ってた如何わしいティッシュしかない。でもまぁしょうがないか。ビッと点線を切って、中のティッシュを引っ張り出す。猪股は両手が塞がっているし、仕方ない。俺はそのまま猪股の頬を拭う。


「……うわぁぁぁぁあん!!」

「何で余計に泣くんだよ」

「仏さんが優しくするからぁぁぁぁあ!!」


 あぁもう、困ったな。時計を見ると、次の授業が始まるまでもう少しだった。


「……とりあえず、これ返してこよう」

「ぐすっ、はい……」


 俺と猪股は少しだけ速度を早めて歩き出す。その間、俺らは何も話さなかった。

 地歴準備室は、ほとんど物置と化している。世界地図やら地球儀やらなんか歴史的な置物のレプリカとか、そんなんが乱雑に置かれている。俺は、持っていた二つの筒を壁際に置かれた段ボールに適当に入れた。猪股もそれを見て、同じように筒を入れる。その瞬間に、授業開始のチャイムが鳴り響いた。


「あ」

「……っう、」


 また、猪股の目が潤み始める。やっと落ち着いてきていたところだというのに。


「泣くな泣くな」

「だ、だって、私なんかに優しくしたせいで、仏さんに迷惑かけました……」

「別に迷惑だとか思ってないから」


 迷惑をかけられたとは一ミリも思ってないが、今から教室にダッシュで戻るのはちょっと疲れるな、と思った。そこで、俺は資料がぎっしり詰まった棚を背もたれにして、狭い準備室の床にどっかりと座った。猪股が不思議そうな顔をして泣くのを中断する。


「よかったら、話でもする?」

「あ、あう……」


 嗚咽とも唸りとも取れるような声を漏らした猪股は、少し考えてから、おずおずと俺の隣に座った。だが、うつむきがちで、指先ではいじいじと三つ編みを弄んでいる。


「……猪股って、いつもそうなの?」

「えっ」

「いつもそうやって、人に優しくするなって言うの?」


 やっぱり、気になるもんは気になる。俺は、人に優しくして貰ったら嬉しいし、その分返してやりたいと思う。優しさって、そういうもんだと思うし。でも、猪股は違うのかもと思ったら、聞いてみたかった。

 猪股は、なおさら眉尻を下げて目を泳がせた。言おうか言わまいか、考えている顔だった。しかし猪股はしばらくした後、言葉を選びながらポツリポツリと話し出した。


「……私、両親いないんです。小さい頃、事故で亡くして」


 いきなりそんな話をされるとは思わなくて、思わず息を飲んだ。それが優しさの話とどう関係するのかわからなくて、俺は猪股の次の言葉をただただ待った。


「それで、親戚の人に、お世話になることになったんです、けど……」

「けど?」

「……みんな、最初だけなんです。優しくしてくれるのは。たらい回しにされて、今お世話になってるのは三件目で」

「……三件目」


 頭の中を整理し切れてない俺には、猪股の言葉をオウム返しするくらいしか出来なかった。


「あっ、いいんです。そ、そうなっちゃうのは全部私が悪いんです。私、人より出来悪いし、みそっかすだし」

「……そんなこと、」

「だから、その。人から優しくされることに慣れていないというか。慣れてないから、ちょっとのことで動揺してしまうっていうか。私なんかに優しくしてくれるって思ったら、好きになってしまう、んですけど……」


 そこで、猪股は黙り込んでしまった。でも、彼女の言葉をゆっくり反芻していけばわかる。“最初から優しくなんてしないで”と泣いた、彼女の言葉の意味も。きっと、彼女は何度も傷つけられて来たんだろう。期待しては、裏切られて。だから、あまり人との交流をせずに、独りで過ごしてたのだろう。どうせ裏切られるなら……って。

 でも、それでも、俺は。“優しくしないで”ってのは、ちょっと違うと思う。


「……お前、自分を卑下しすぎじゃね?」

「だ、だって、事実、ですし」

「“私なんかに”って思うから、好きになっちゃうんだろ? そう思わなければいい」

「……で、でも」

「ていうか、そもそも、俺は相手を好きになることをダメだと思ってることがよくわからないけど」

「え?」

「優しくしてくれる人を好きになる……って、誰かを嫌いになるよりは良くない?」

「──……っ」


 鳩が豆鉄砲くらったような、という表現がピッタリな顔で、猪股は俺を見ていた。涙目だった目をパチクリさせたせいで、もう一粒だけ涙が落ちた。


「まぁお前の場合、人を好きになるよりまず先に、お前自身を好きにならなきゃだけど」

「……自分を、好きに……?」

「人の優しさを拒否するよりさ、まずは優しくされる自分を許してやれよ」

「自分を、許す……」

「そしたら、人を好きになることもダメだと思わなくなるんじゃないの?」


 ぽす、と頭に手を乗せた。その瞬間、猪股の顔に熱が集まったのがわかった。耳まで真っ赤だ。猪股が両手で顔を隠した。もうすでに真っ赤なの知ってるし、意味はないと思うんだけど。


「わ、わた、私が」

「?」

「じ、じ自分の事、好きになれたら、仏さんは、私のこと、すすす、すっ好きに、なってくれますかっ……」


 指と指の間から、不安げな瞳で俺を見る。……しまった。不覚にも、ちょっとだけ、かわいい、と思ってしまった。思ってしまったんだけど、なんて答えていいのか分からなかったから、とりあえず「さぁな」と笑っておいた。猪股はやっぱり真っ赤な顔で、自分の膝に顔をうずめたのだった。



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