龍神さまが泣いている

藤咲メア

龍神さまが泣いている

「まただ。また泣いてる」


 そう言って、私は波打ち際へ足を向けていた。浜辺の細かい砂が私の足を捕らえようとするけれど、私は意に介さない。細かい砂が足の裏側に張り付く感触を確かめながら、海に少しでも近づこうと前へ進む。けれど、波打ち際に揚がった小舟の上に人影がいるのを見つけて、私は足を止めた。


 小舟の人影の方も、私に気がついた。漁民らしい日焼けした肌が、目に飛び込んでくる。鈍色の空の下では、それはいつもよりやけに黒々しく見えた。


「ヒムカ」


 そいつは、私の名前を呼んだ。


 私はハッとして口を開き、すぐに閉じて真一文字に結んだ。一人で見ていたいと思ったのに。


 私は不満な気持ちを隠そうともせずに、思い切りそいつを無視した。止めていた歩みを再開して、そいつが腰掛ける小舟の縁に私も腰かけた。そこでようやく、私は口を開いた。


「イナギ、今は海が荒れてる。近づいちゃダメよ」


 するとイナギは、くすくすと肩を揺らして笑った。


「それを言うなら、ヒムカもだよ」


「私はいいの」


 言い捨てて、私は空を見上げる。


 太陽の光が遮断された空は、鈍色の雲が広がるばかりで、気持ちの良い景色とは言えなかった。いつもは紺碧色に輝いて見える海も、暗い光を内にたたえてくすぶり続けている。けれど私は、別にこの景色をわざわざ見に来たんじゃない。


「ねえ、ひょっとして、ヒムカも聞こえるの」


 不意に、イナギが私の顔を覗き込んできた。深海の色をした大きな瞳に続い

て、女の子みたいな綺麗で可愛らしい顔が私の目に飛び込んでくる。対して美人でもない私は、それが憎たらしくてますますひねくれる。


「何が」


 怒ったように言うと、イナギも私の隣で空を見上げた。目を瞬かせて、内緒話でもするようにそっとささやいた。


「龍神様の声、だよ」


 私はかぶりを振った。


「声なんて、聞こえない。聞こえるのはーー」


 私は、さっきから潮騒に紛れて耳朶に響いてくる音に耳を澄ました。長く長く引き伸ばされたその音は、鯨の鳴く声によく似ている。ひどく哀切に満ちていて、聞いているものの心をかき乱し不安にさせる。けれどこれは鯨の声じゃない。鳴くというよりかは泣いているようだし、それに、海じゃなくて空から聞こえるのだもの。


 その時、空の上が光った。雷だ。私は言葉を途切れさせて、空を覆う雲に目を凝らす。やっぱり、いた。鈍色の雲の間から、青みを含んだ白い煌めきが顔を覗かせる。


「来た」


 隣でイナギが息を呑んだ。


「来たよ。龍神さまだ」


「わかってる」


 私は早口で答えた。ほとんど声になっていなかった。


 雲の間から覗くそれは、陽光を反射する水面みなものように、キラキラと瞬いていた。しばらくするとゆっくり動いて、雲の中に姿をくらます。けれど、今度は別の場所に現れる。あれは、雲の中にいる巨大な龍の腹だ。今日みたいに曇った日に鯨に似た鳴き声が聞こえると、決まってあれが空に現れるのだ。ここ最近、ずっとそう。イナギも私とは違う場所で、いつもあれを見ていたんだろうか。


「大人はあれを不吉というよ」


 イナギが熱に浮かされたような調子で言った。


「あれが空に現れると、変なことが起きるんだって。季節外れの花が咲いたり、夏なのに雪が降ったり。……僕なんてこの間、あれが消えた後に、鳥が地面に向かって飛ぶのを見た」


 イナギが言うことは本当だった。龍の腹が空に見えると、決まっておかしなことが起こるのだ。だから大人はみんなあれを不吉だと言った。龍神さまが怒っているのだと騒ぎ立て、中には生贄を差し出した集落もあるらしい。私の村ではそういうことはなかったけれど、龍の腹が現れると、皆は恐れて家に閉じこもるようになった。おまけに「龍の腹」や「龍神さま」と口に出すことも憚れるようになって、しまいには「あれ」で通じるようになった。家に閉じこもっても呼び名を変えても、おかしなことが起こるのは変えられないのに。無意味なのに。だから私は哀切に満ちた泣き声が聞こえると、大人の手を振り切って、龍の腹を見に行く。龍の腹はいつも海の上に現れるから、この波打ち際にくるのがいつしか慣例になっていた。


「龍神さまはどうして泣くんだろう」


「知らない」


 イナギの純粋な疑問を私はぴしゃりとはねのける。知りたいとも思わなかった。ただ私は見ていたいだけなんだ。海面を突き破ってしぶきを上げる鯨の尾のように、雲をくぐって現れる龍の腹を。その煌めきを。


 その時、天地を引き裂くような音がして、稲妻が空を平行に横切った。きっと雲の中を駆け抜けたんだろう。間髪を容れず、また稲妻が雲の中を走った。何本にも枝分かれして、雲の中を駆け巡り、体の芯が震えるような轟音を轟かせる。それが幾度も繰り返された。こんなこと、龍の腹を見るようになってから初めてだった。迸る白い閃光は天のみを駆け、大地に落ちることはなく、鈍色の雲の中を焼き焦がす。


 私とイナギは、気がつくと小舟の縁から立ち上がって空を見上げていた。互いに声を掛け合うことはしなかった。ただ呆然として、尋常ではない空の様子を目に焼き付けていた。


 途絶えることのない稲妻の閃光が、雲の中を照らし、地上にいる私たちの目に龍の影を鮮やかに映し出した。気が遠くなるような巨体だった。その巨体が、稲妻に貫かれてのたうちまわっている。焼け付く日射しに照らされてのたうつ蚯蚓のような有様に、私は心の臓が凍る思いがした。長く響く泣き声はいつしか断末魔の叫びに変わっており、私は耳を塞いだ。目も閉じた。泰然としてそこにあったものが蹂躙される光景は見ていられなかった。たとえ蹂躙されるものが、皆が不吉だと騒ぎ立てるものであったとしてもだ。私にとってあれは、どこか底冷えのする美しいものだった。それが今、焼かれている。


「ヒムカ、見て。すごいよ」


 私とは対照的に、イナギは耳を塞ぐことも目を閉じることもせずに空で繰り広げられる地獄のような有様を見上げていた。私は雷の音と龍の断末魔にかき消されまいと大声で叫んだ。


「イナギ、見てはダメ。見てはダメよ」


「どうして見てはダメなのさ」


「わからない、わからないけど」


 理由なんてない。けれど、見てはダメだと思った。最初は見たくなかったから、聞きたくなかったから自分はそうしたのだと思っていたけれど、それが全部じゃない。禁忌めいたものに触れるような気がしたのだ。龍が焼かれるのを見聞きするのはきっと禁忌だと、思ったのだ。


「イナギ、やめて、私みたいに目を閉じて、耳を塞いで」


 耳を塞いでいても、完全に外の音を遮断することはできない。私は思い切って耳を塞いでいた手をイナギの体に伸ばしていた。イナギの体を押し倒して、二人で地面に倒れこんだ。砂が口に入ったのか、イナギが咳き込む。


「何をするのヒムカ」


「いいから目を閉じて、耳を塞いで」


 言いながら、私はイナギの耳を自分の両手で覆い隠した。その間、ずっと私の耳には聞こえていた。狂ったように吠え猛る雷の音と、龍の断末魔の叫びが。目を閉じていたからわからなかったけれど、イナギは私が耳を塞いだからそんなには聞こえなかったはずだ。けれど、見ていたのかもしれない。イナギが何かを叫ぶのが聞こえた。楽しんでいる風でもなければ、怖がっている風でもなかった。そして気がつくと、何もかもは終わっていた。


 

 目を開けると、空は晴れ渡っていた。雲ひとつなく、陽の光を遮るものは何ひとつない。海は紺碧の輝きを取り戻し、遠くで白いしぶきが上がるのが見えた。さっきの光景が嘘みたいな、平和な世界だった。


 けれど私の耳には、何ひとつとしてその世界を伝える音が響いてこなかった。空を飛ぶ鴎の鳴き声も、浜辺を洗う波の音も、遠くで上がったしぶきが上がる音も。


 呆然と海を眺める私の右手に、何かが触れた。驚いて、半ば反射的に隣を見ると、イナギがいた。私はそれにホッとしたけれど、イナギは目を閉じていた。


 イナギはそこに私がいることを確かめるように、頼りなげな手付きで私の右手に触れている。


「イナギ」


 そう呼びかけた私の声は、私の耳には届かない。けれどイナギには届いたようで、イナギは目を閉じたまま微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍神さまが泣いている 藤咲メア @kiki33

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ