梅雨明け

@ayubungo2002

第1話


 真昼に月がうっすら見える。

六月に入り、うっとうしい天気が続いたが、今日は青い空が広がっている。

それにしても、体がじとっとして気持ち悪い。汗が額を流れる。

僕は今、ビルの屋上の柵から身を乗り出している。

「あー今飛び降りたら風を感じるかなぁ。」

なんだかふわふわした気分のまま、自分の体の重力に任せ、ゆっくりと倒れるように体を傾けた。


あれ……?落ちない……。何か大きな力で引っ張られている。   

「待て待て!待ちなさい!」

そう聞こえた瞬間、体がふわりともとの場所に戻っていた。

あれ、どうして戻ったのだろう。と考えたら、なんだか不思議な感覚が背筋をぞわっと震えさせた。


「君、真っ昼間に何しているんだい。」

振り返ると、誰もいなかった屋上に、人が忽然と現れていた。

「おまえだれ?僕は今から死ぬんだ。ほっといてくれ。」

なぜ僕を止めるのか、驚きと怒りの感情が湧き上がってきた。

「落ち着いて。飛び降りてもかまわない。死ぬには、まず、手順を踏んでからにしてくれないかな。」

「ほっといてくれ。」

いらいらしながら言い放った。

 彼の風貌は変わっていた。背は僕より少し高く、姿はあるのだが、顔がぼんやりとしか見えなかった。手足があるのに、見えたり見えなかったりしていた。

そして、直感で男の人だと思ったのだった。


彼は、ゆっくりと僕の方に近づいて言った。

「私は死の世界へ案内しているものなんだ。死ぬ直前に人は、遺言書を書いてもらわないとあっちの世界に行くときに、いき場所を振り分けるとき、迷子になってしまって大変なんだよ。君、遺言書、書いてないよね。」

と言って僕の方をじっと見た。

「遺言書なんて書いていないよ。」

僕には何も遺すような言葉も、遺すべき相手もいない。


 僕は神木 瞬。平凡な中学二年生だ。父と母は、僕にとても優しく、僕らはいつでも笑顔の絶えない家族だった。そんな幸せのさなか、父の会社が突然倒産した。父は会社の責任を負わされて多額の借金ができた。到底払いきれないような借金と、母や僕への申し訳なさに押し潰され父は、自殺した。これは、昨年のことだ。一方で、母は元々身体が強い方ではなかった。自殺した父をその目で見たショックもあって、みるみる身体が弱り、病気がちになった母は病院での療養を余儀なくされた。しかし、母も昨日亡くなった。


たった一人で僕はどうしたらいいんだ。もうどうでもよかった。誰からも必要とされない僕に一体何の価値がある?凍り付いていた心臓がバリンとわれてしまって、どうしようもない苦しみが僕を襲った。父さんと母さんのところに行こう。僕は衝動的に決心した。どうせなら、晴れた日に死んでやろうと思って、この場所に来た。


 彼は言った。

「なぜ死にたいのか。そして何を伝えたいのか。私はそれを書いた遺書を預かっているんだ。それがないと私も君も困るんだ。」

何が困るか全くわからないが、これは、あの世にいくルールだと思ってくれていいと、説得されしぶしぶ書くことを了解した。


彼は紙を出すと僕の前に差し出した。その紙は白く光っていた。そして白く長い細いペンも添えられていた。そしてふわりと浮いて僕の前で止まった。

僕は紙をもらおうとしたが、その紙は僕の前で浮いて、ペンが勝手に文字を書き始めた。

『20XX年 6月 23日

        神木 瞬の遺言書をここに記す』

彼が声に出して言ってと言ったので

僕は声に出して死ぬことを宣言した。


『僕は死ぬ。未来になんの価値も希望もないから。

僕は父さんと母さんに会いにいく。

さよなら。』

短い遺言書だった。願いは一つ。死にたい。という思いだけだった。

サラサラとペンで書き終えると。その紙はくるくると巻かれて、彼の元に戻って消えた。

彼は

「ハハッ。オッケーだよ。」

笑って、軽い感じでサラリと言われた。真剣な場面で笑った彼に対して無性に腹が立った。

「なんだよ。今までひっぱっておいてその言葉だけなのかよ。いったい遺言書なんて書く意味あったのかよ。」

八つ当たり気味に悪態をついた。まあでも、今から飛び降りる前に決心できてよかったかな。と考えながら、もう一度柵を乗り越えようとした。

さあ、息を大きく吸い込んだその瞬間、また、彼が話し始めた。

「せっかちだね、君は。伝えることがまだあるんだよ。僕の役目は二つあってね。一つは遺言書を預かること、もう一つは遺言書を伝えることさ。」

そう言うと、彼を通してぼんやりとした人間の形をした姿が見えてきた。そしてゆっくりと僕に話し出した。

『瞬へ。

おまえを遺して死んでしまったこと本当にすまない。

許してほしい。

でも瞬の父親になれてよかったよ。』

悲しげな声の父さんだった。

『瞬を一人残して本当に、本当に死んでごめんなさい。

一緒にあなたと生きた時間は幸せだったわ。

どうかどんなに苦しい人生でも一生懸命生きて。お願いです。』

それは母さんだった。そう言って、消えてしまった。

彼の姿がぼんやりと現れると手には両親の遺言書を手に持っていた。それを僕の方に手渡すとそれはボオーッと青白く光って僕の手の中で消えた。

「聞いたかい?」


「父さん。母さん……。」

 僕は心の片隅においやっていた苦しいほどの記憶が蘇ってきた。両親の愛情を欲している思いが溢れてきた。涙が止まらなかった。言葉の意味を理解はできたのだが、それ以上に僕は両親に会いたくてたまらない気持ちを止められなかった。全身の力が抜けていく感じがした。涙と汗が混じって前が見えなくなり、その瞬間、何かに背中を押されたかのような圧力で屋上から足が離れた。僕は、身体がゆっくりと、落ちていく浮遊感を感じた。

その落ちている感じがまわりの時が止まっているかのようで、僕は鮮明に脳に記憶されている。

「あ、そうそう。遺言書を書くとき注意点を言うのを忘れたんだけど。」

下に落ちていく加速がつき始めそうな瞬間にまた、ぐっと空中で引き止まる感覚になった。

「君は死ねないんだ。君の遺言書には感謝と謝罪がなかったから。それは、あの世にいくときの致命的な罰に当たるんだ。それは、絶対自分からは死ねないということさ。そして君は、両親から預かった遺言書の願いを聞かなければならない。だから君は生きるんだ。」

強い口調で彼は僕に言った。

彼は僕の頬を先ほどの白いペンで、遺言実行と書き、手をかざした瞬間、頬に大きな衝撃が走った。

意識がうっすら消えゆく中で彼の声が響いた。

「死ねないよ。両親の分も生きていてくれ。」

その彼の顔が一瞬だけ少年のような、僕の顔に見えた、そして右頬に大きな傷があった。


「死ねないって……。」

僕はビルの屋上から飛び降りたんだぞ……

急に真っ逆さまに落ちていく加速がついて僕の意識はなくなった。


 僕は死んでいなかった。

僕は病室で目覚めた。身体のあちこちが痛いし、点滴やモニターがつながられていて、ピピピという無機質な機械音だけが病室に響き渡っていた。

どれくらい眠り続けていたのだろう。

あの日僕は確かにビルの屋上からから飛び降りた記憶はあった。飛び降りたところに運良く大きな木の枝がクッションの代わりをしたようで僕の身体を包み込んだらしい。その際頭部に大きな衝撃を受けた為、眠り続けていたようだ。助かったのが奇跡であると、医師から聞いた。


「死ねなかったのか……。」

何度も何度もあの日のことを繰り返し思い出した。

一生懸命に生きてくれと言った親の言葉をはっきり覚えている。僕がやけくそになって死ぬことを選んだことを叱っているように思えた。ただわかるのは、苦しみも悲しみもない、感謝もない人生は、終わらせることはできないということ。

ふと目線をあげると病室の窓から差し込む西日が眩しかった。

もう、忘れよう。そう決心した。でも、決して忘れないだろうな。時が過ぎ記憶が薄れても心から消えないだろうな。心の傷を弄ぶかのように僕の頬の傷がいたんだ。


 まだ僕は遺言書を書くことができない。

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