第6話 『英雄』(後編)

 モスクワの夜空を花火が彩る中、シャンデリアが煌々と輝き壁一面に革命を讃える絵画がずらりと並ぶホテルの大広間ではタキシードや軍服といった礼装に身を包んだ男たち、そんな彼らの妻と思わしき煌びやかなドレスを着た女性たちがシャンパンを片手に談笑していた。

 本日11月7日はソ連における10月革命の記念日(1917年当時のユリウス暦では10月)であったが、60年以上前のその日まさに現在のボリシェヴィキ主導によるソビエト連邦が成立した重要な記念日であった。

 モスクワ中心部のホテルの宴会場ではナタリアたち花束ブーケト・ツヴェトフを招いての共産党主催の晩餐会が開かれている。

 そんな中でも多くの関係者に囲まれていたエルザは、美しい黄色のドレスに身を包んでいた。化粧もさることながら、そのドレスは背の高い彼女にこれ以上ないほどよく似合う。そんな彼女の周囲には当然のように多くの人だかりができている。一人の政府関係者の男性は彼女に香りの良い白ユリの花束をプレゼントした。

 「あら嬉しいわ、花束だなんて。星の飾り物もキラキラして綺麗ね!」

 七色のそれぞれ違う種類の花々は、見た目もさることながら心地の良い香りを放っていた。

 「気に入ってもらえると私も光栄です。私はスクリーン上のあなたの名演技に心惹かれましたよ」

 党員の男がにこやかに微笑むと、エルザも嬉しそうにキラキラと、まるでダイヤモンドのような笑みを返した。

 「嬉しいですわ。これからもソビエトを代表する素敵な花になれるように、精進いたします」

 

 まだまだ知名度の低い彼女たちアイドルは招待されたのにも関わらず、どこか会場の脇に追いやられがちであり、エルザばかりが持ち上げ取り沙汰される状況を、とりわけサラは恨むような視線で眺めている。

 「サリー、もうやめた方がいいのに・・・」

 酒癖の悪いサラは給仕が運んでくるシャンパンのグラス一杯にはまるで興味を示さずに、ボトル単体で持ってくるように要求していた。運ばれてきた高級フランスシャンパンであるモエドシャンドンのコルクを慣れた手つきでこじ開けグラスに注ぐと、すでに先ほどから何杯も煽っている。もはや目の前で心配そうに見つめるナタリアなどそっちのけだ。ナタリアは半分彼女のことを気遣って付き合ったものの、完全にサラの手から逃れられない状況に陥っている。

 「ナターシャ、見なさいよあの女、お偉いさんたちに囲まれていい気になってる」

 エルザに女優としての一番乗りの座を奪われたことがよほど悔しかったのか、三ヶ月以上経った今でもサラはその悔しさを引きずっていた。

 酔いがまわると、そんな妬みの感情はますます露骨になる。

 エルザがテレビや映画で引っ張りダコだったその期間、サラには当然と言っていいほど一つも女優としての仕事は舞い込んでいない。自分がもがき苦しんでいる間にも、目障りなエルザは自分を置き去りにしてどんどん有名になっていってしまうことに強い焦りを感じていたのだった。

 「・・・でも、サラも少しわがままだと思うけど。有名になったり英雄になったりするのって、そんなに偉いこと?」

 どうせ聞いてなどいないだろうと油断したのか、ナタリアはつい思ったままの言葉をうっかりと垂れ流していた。

 サラの敵を睨みつけるような視線に気づくと、彼女は怖気付いてひるんでしまう。

 「ごめんね・・・でも私は、兄貴とはそれで今も喧嘩してるんだよ」

 「喧嘩?」

 ナタリアは仕方なく、兄が英雄に焦がれてアフガニスタンに戻りたがっているという話を素直に切り出すことにした。酔いで頭もろくに回っておらず、どこか適当に話を聞いているだけのようにも見えてしまうサラだったのだが、思ったよりも丁寧にナタリアの話に耳を傾けている。

 「あなたのお兄さんとこの私が似てるって言うのね?」

 表情だけではサラの真意がどこにあるのかは分からない。ナタリアの意見に同調して兄のことを非難しているのか、それともまた口うるさく何か言われてしまうのだろうか。

 「あなたのお兄さんの方がずっとあなたよりも正しいわよ。どうしてお兄さんに理解を示してあげないの?」彼女はナタリアの意見を真っ向から否定した。「彼はすごく立派よ。あなたとは大違い。あなたみたいに後ろ向きじゃなくて前だけを見てるもの。それに仲間想いみたいだし・・・真っ直ぐで、素晴らしい人よ」

 アレクセイとは歳が3つくらいしか違わないサラは、彼のことを知らなくとも彼とはきっといい友人になれる、と胸を張っていた。その口ぶりからは、彼のことを尊敬までしている様子もありありと見て取れる。

 「だけど命を投げ捨ててまでなるものだとは思えない」ナタリアは普段なら丸め込まれてしまうところを、珍しく言い返した。「おかしいよ、二度もアフガンに行こうとするなんて」

 「それは、人それぞれとしか言えない。でもねナターシャ。命を賭けなきゃ手に入らないものだってこの世の中にはたくさんあるじゃない。私たちの生活が守られてるのはあなたのお兄さんたちの献身的な努力あってのものなのに、どうしてそれをあなたは否定するの?あなたみたいに毎日のご飯を保証されて命の危険にも脅かされない安全圏にいる平和主義者なら、いくらでも好きなことが言える。そんな好きなことを言えるのは、いつだって彼らのおかげなの」

 サラの言葉はエルザの言葉よりも手厳しくて容赦がない。それに彼女の言葉はアレクセイの言葉と見事に重なり合っている。おそらくは彼も、サラと同じような言葉を自分に向けて発していた。

 「もちろんあなたの言ってることだって多少は分かるわよ。私の友達も従軍看護婦として今頃アフガンで頑張ってるから。人間って、他人が犠牲になっても関心を払わないのに、身内の命だけは他の命を踏み台にしてでも助かって欲しいって思っちゃう、ズルい生き物よね・・・」

 サラのそんなプライベートな話を聞くのは初めてだった。アフガンで国のために必死で尽くしている女性たちがいることに驚くと同時に、自分はなんと平和な世界でのんびりと暮らせているのだろうかと思い、そしてそのことに対してあまりに無理解だった自分が恥ずかしく情けない気持ちに陥ってしまった。自分は戦場がどんなものかも知らない。

 そこで兵士たちが日々どのような苦痛を味わっているのかも・・・。

 「そうだよ、きっと私はサラが言うようにそのズルい側にいる人間なんだ。だから、兄をそんなことで失いたくない。そう思うのは間違い・・・?」

 サラは黙ったまま首を横に振った。

 「あなたが自分の言う言葉が正しいと信じてて、それでお兄さんを納得させたいと思うのなら、あなた自身がお兄さんを納得させる英雄になればいいの」

 「どういうこと?」

 「あなたが歌や踊りで、この国を代表する英雄になればいい」

 芸術分野で英雄になる・・・そんな話などこれまであまりよく聞いたことがなかった。ナタリアが本来抱いているイメージなら、英雄というのはもっと強くて格好良いもので、少なくとも大きな舞台に立ち人前で歌ったり踊ったりすることを英雄的な行為であるとは甚だ違和感だらけでとても呼ぶ気にはならない。

 「ガガーリンだって英雄よ。彼は宇宙飛行士だけど」

 武器を持っている人間だけが英雄になれるという彼女の頭の中にあったステレオタイプは、サラのそんな言葉で崩れ去っている。ガガーリンはもともと軍人出身だが、銃なんて持つ必要などない。人類初の有人宇宙飛行は人を殺して成し得た偉業ではないのだ。

 「私たちは絶対にソ連を救う英雄になる。世界中で人気になって、外貨を荒稼ぎしてソ連に貢献する。この国がアメリカを凌ぐ経済大国になり資本主義との戦いに勝利すれば、私たち、立派な英雄になれるのよ?」

 サラの顔ははっきりとした野望に満ち溢れていた。そもそも彼女がアイドルを目指したきっかけも、ソ連という大国の誇りを背負うとともに、その大国の影に薄れがちな故郷の小国リトアニア共和国の誇りも背負っているためである。ナタリアと同じくリトアニア人は田舎者扱いされがちだが、プライドの高い彼女は周囲の人間を見返してやろうと常日頃から考えていた。そのためには、何としてでも彼女は他の誰よりも一番になりたいと切に願っているのだ。

 「お兄さんはアフガンで戦うことに英雄としての価値を見出しているみたいだけれど、それだけが本来の英雄の形じゃない。他にも英雄になるための選択肢ならある。それをあなたが教えてあげればいい。・・・そうすればきっと彼の心を変えることができるはずだから」

 サラは飲み干したシャンパンのボトルをテーブルの端に退けると、大皿の上に載ったスモークチーズの一切れをつまんで席を立つ。

 「私もあなたのお兄さんのおかげで決心がついた。・・・絶対に英雄になってみせる。いつまでも、こんなことで落ち込んでいられないわよね」

 堂々とした立ち振る舞いのサラは、まるで最初に出会った頃と同じような自信に満ち溢れていた。エルザに先を越されて傷ついていた彼女の心は、ナタリアと言葉を交わしたことによって逆に励まされたと言ってよい。

 「ほら、もうすぐコンサートよ。あなたたちの出番みたいね」

 記念式典の冒頭で、すでに他のメンバーよりも早くニノとのデュエットコーラスを終えていたサラは会場の端に設けられた壇上で演奏している小規模な楽団を指差した。あそこで、これから多くのお偉いさん達を前にして歌うのだと思うと彼女の手のひらには汗が滲む。

 「サラ、あの舞台・・・緊張した?」

 ナタリアは目を細めながら、少し不安そうに聞く。

 「少しね。でも大したことないわ」

 彼女の大したことない、という言葉ほど参考にならない言葉はなかった。


 パーティー会場でひときわ注目を集めていたエルザに対する周囲の視線がやや落ち着いた頃合い、一人の軍服姿の男が、彼女の元へと歩み寄る。

 「ディートリヒさん、映画へのご出演、おめでとうございます」

 陸軍で高位であることを示す星のマークの並んだ肩の階級章を輝かせたその男は、エルザの手を取るとその甲に接吻する。歳はミハイルとそこまで変わらず、顔立ちもよく整っている。むしろ彼のほうが身長も高く、多くの女性を惹きつける魅力が備わっていた。

 「あら、貴方は・・・失礼ですがどちら様でしょうか。私、様々な方にお声をかけられるもので、もし一度どこかでお会いしたことがあるようでしたら、大変申し訳ないですわ」 

 はにかんだ笑みを浮かべながらも、エルザにとって目の前の相手は、名前などわざわざ聞くまでもない重要人物であった。

 「とんでもございません、貴方とはまだ初対面ですから」

 こちらへどうぞと、エルザを部屋の隅にあるソファーへ案内した。

 「こんな形でのパーティーには慣れていないもので」

 「そうでしょう。これは特権階級にのみ許された贅沢です」

 たとえそれが事実であるとはいえ、彼はここがすべての国民が平等に暮らすべき共産主義国であるということに対しなんの悪意もなく言い切り、

 「あなたの出身はドイツでしたね、良質なモーゼルワインです。おめでとうございます、これで貴方も特権階級の仲間入りですよ」

 彼女に白ワインのグラスを勧めた。

 「あら、でもモーゼルなんて今じゃ西側よ」 

 「貴方の祖国の統一を願って飲むのですよ。いつか必ずあなたの祖国東ドイツが共産主義の理念を貫徹し、ドイツを一つにまとめ上げる・・・」

 エルザは男の、そのハリボテの共産主義に陶酔する眼差しを、嘲笑った。

 「そんなに都合よくいくかしら?向こうさんはこんなに、美味しいワインを作れるのに?」

 彼女は試すような口調で聞く。

 「そりゃ当然ですとも。腐りきった資本主義社会は、いいものは作りますがその分労働者を大切に扱おうとしない。だから人々の頭には常に不満が蓄積しているのです。彼らが共産主義の理想に共鳴しても、政府はそれを頭ごなしに否定し、牢屋に閉じ込めてしまうのです。我々は、そんな抑圧された優秀な人民を解放するのです。我々の軍事力こそが、全てを解決するのですよ」

 男はそう言うと、

 「私の名前はドミトリー・ポポフ大佐。ソ連アフガン派遣軍で、バンジシール渓谷に潜伏するゲリラの掃討作戦を指揮しています」

 彼女は、握手を求める大きな手を握った。

 改めてそんな彼の灰色の瞳を見つめる。戦場で無慈悲に多くの人命を奪ってきた冷酷な眼差しそのものだ。きっと彼はソ連のためなら、多くの罪もない民間人に対しても平然と命令を下し、兵士に銃口を向けさせるのだろう・・・自分の手は決して汚さずに。

 彼女は奥歯をぎり、と噛み締めながらもそれを決して表情には出さず、努めて笑顔を作る。

 「貴方がポポフさん?私、実は貴方のことを知っていましたの。お噂はかねがね・・・ただ話に聞いていた以上にハンサムな方で、気づきませんでしたわ!」

 エルザは彼の右足に、薄いストッキングに包まれた細く美しい脚をわざとらしく絡ませ、大きめの胸を腕に押し付けた。彼の息が微かに荒くなることを彼女は耳元で悟り、極め付けに、誘惑するような大きな瞳で彼の目をまっすぐに見つめた。

 「・・・私も・・・貴方がテレビで歌っている姿を見て、実はすっかり惚れ込んでしまいました。いやぁ、やはり、ドイツの女性は美しい」

 そんな彼の言葉が、彼女の癪に触る。

 美しい・・・本気で自分が心の底から笑えたことなどなく、本来持つべき美しさを奪いとった側の人間が何故そんなことを言えるのかと怒りがふつふつと湧き上がる彼女は、自分が笑顔を失った1963年の出来事を思い出していた。


 同じ会場内にいるミハイルは壇上に面したソファー席に腰掛け、壇上で踊りを伴って歌を披露するナタリア、アンゲリナ、クララの三人を、感心した様子で眺めていた。

 きらびやかなドレスを着たソフィアが、そばで美しいピアノの音色を奏でている。その場にいる客は皆一様に会話をやめ、壇上に魅入っている。

 「ミーシャ、どうだ、楽しんでいるか」

 ミハイルのそばに共産党政治局員のアレクサンドル・クルニコフがゆっくりとした足取りで現れた。

 「さぞ可愛かろう、君が日々娘のように育てている踊り子たちの舞台を、こうやって客席から眺めるのは」

 隣に腰掛けたアレクサンドルの恍惚な、羨ましそうな眼差しに、ミハイルは穏やかな笑みを浮かべてこくりと頷く。

 「私の娘も世話になってる。どうだ、ソフィーは。見ろ、あの子の腕は天才的だろう」

 彼は吸いかけの葉巻をケースから取り出すとマッチで先端をじわじわとゆっくり炙りながら火をつけ、和やかな笑みを浮かべる。顔に刻まれた様々な苦労で形作られたシワと、白髪混じりの髪の毛は、彼を実年齢よりも老けて見せた。

 20近く年上で、なおかつ中央委員会のミハイルよりも序列が上であることを特別威張る様子もなく、彼は誰の目から見ても親しくミハイルに語りかけた。

 「あの子にはな、実は歳の離れた兄がいるんだよ。ゲーニャ・・・あの子はモスクワ大学を卒業した後大使館職員としてアメリカ国内に駐在することになった。もちろん大使館職員というのは表向きで、実際にはアメリカでスパイ活動を行う工作員だ。ところが、数日前に本国に入った連絡では、彼は行方をくらましたという・・・大事な機密情報を持ち逃げしたんだと」

 アレクサンドルの息子は、アメリカ国内で活動する工作員の名簿を暴露した。その結果、CIAによる摘発によって数名のKGB諜報員が摘発されてしまったのだ。二重スパイという国家に刃向かう重罪までをも犯したのである。

 息子の西側への亡命という事実を前にして、ミハイルは、自身も似たようなことを裏でやっていることなど決して噯にも出さず、あたかも同情するように硬い表情を浮かべてみせるが、アレクサンドルはまるで作ったような笑みを浮かべていた。

 「どうしてあんなに馬鹿なことをしでかしたんだろうか・・・私は息子が立派な愛国者だと信じていたんだ、それがこんな・・・」

 彼の握る葉巻の指が、かすかに震えていた。その一人息子ゲンナジーには以前ミハイルも顔を合わせたことがあった。彼に初めてできた息子であり、その溺愛ぶりを思い出すと、悲壮感は言葉にしなくとも痛いほど伝わってくる。

 「悲しいね・・・僕がしてやれることは少ないが」

 アレクサンドルは首を横に振る。

 「何もしなくていいさ。でも約束してくれ・・・このことをソフィーには伝えないでほしい。あの子とは10も離れた兄だし、そもそも腹違いの息子だ、きっと特別な思い入れもないだろう。今の妻は悲しんだ様子もないどころか・・・ああ、いや、だから・・・ソフィー、彼女も、きっと、そうに違いないだろうね」

 普段のソフィアの活躍を知っているからこその気遣いだ。

 しかし初めて自分にできた長男に、亡命というソ連では最も憎まれる裏切り行為を突きつけられて目の前から去られた彼は、悲しみこそ言葉にはしないが、口に含んだ葉巻の煙を高い天井に向かって、魂が抜けるように思い切り吐き出している。アレクサンドルにとっては息子の件で自分たち夫婦が罪に問われなかったことだけが大きな救いだった。

 「・・・ソフィーは他人に甘えるのが得意じゃない。素直に甘えるのが昔から苦手な子供でね」

 ピアノを奏でるソフィアを、目を細めながら見つめる。

 「感情を表に出すのが苦手だね。彼女のピアノに込める情熱は凄いが、歌やダンスになると感情表現に苦戦してしまう。特に明るい曲では」

 改めて、壇上にいるそんなピアノ奏者を、二人の共産党員は黙って見つめた。相変わらず巧みな指さばきだが、表情はどこか硬かった。

 「はは、あの子の素質を引き出すのに、凄腕の君すらも苦労しているんだな・・・まぁ、頑張ってくれ。どう転んでも可愛い娘だ」

 あまり期待した様子もなく、また、子供に親の気持ちなど分からないと悟ったように、哀愁漂う溜め息交じりの紫煙を吐き出す。

 「そういえばミーシャ、覚えているか。一年半前のリヴォフ(リヴィウ)での件だ」

 彼の穏やかな双眸に突然、政治局員として日頃活躍している時と同じような鋭い光が灯される。

 「忘れるはずもないよ。あの時は助かった」

 「あの時いたガシチャフ・・・とかいう荒くれ者の共産党員だが」

 ミハイルに拷問まがいの尋問を企てた、いっぱしの地区共産党員である彼は、無関係の少女の誤認逮捕後、党の命令によって更迭され、今はウクライナ東部の工業地帯での労働に従事しているという話をミハイルは耳にしていた。

 「つい先日、労働キャンプを出所したんだ。KGBによるはからいでね」

 「何だって」

 ミハイルはその報告に軽く耳を疑った。

 「あんな上に媚びへつらうことしかできない無能な男が、一体何の役に立つのか分からないが・・・今後彼の人事がどうなるやら。党員として復帰するか、それとも何か別の役割を与えられるか、やや気になる案件だが、これだけは確かだ」周りの視線を気にするように、ミハイルの耳元に囁く。「KGBの人間は、どこかしら君のことを恨んでいるようだ。友人として忠告しよう、くれぐれも連中をこれ以上怒らせるな」

 「・・・僕が党に対して忠誠心が厚いことを、連中は知らないのか?」

 ミハイルは、本心を悟らせない仮面のような笑みを浮かべた。

 「いや・・・君がソ連のためを思って行動していることを私は誰よりも信じているし、重々承知している。私も、君たちが推し進めるソ連の抜本的な改革に、大賛成だ。今までのこの国は共産主義の美しい理想を、軍拡や厳しい規制によってすっかり歪めてしまっていた。君やゴルバチョフのような若い力が、この国をいい方向に必ず変えてくれると信じているんだ」

 「・・・ありがとうサーシャ。君は僕の親友だよ。気をつける」

 ミハイルは彼と向き合うと、固い握手を交わした。

 「私のようにソ連を信奉する孤独な老人には、もはや親友と呼べるのは君くらいしかいないんだ」

 弱々しく、寂しげに言った。

 「何を言うんだ、君ほどの素晴らしい党員はなかなか居ないし、僕は誰よりも君を尊敬している。それに老人なんて。まだ60歳になろうとしているところじゃないか」

 「この国の平均寿命なんかその限りじゃないか。これもウォッカのせいさ」

 「今年の5月から始まった節酒令による酒の規制は、どうやら失敗みたいだね」

 冬の厳しい寒さのためか、ソ連のアルコール消費量は世界でもトップレベルだが、そのため平均寿命は六十歳程度と、深刻な社会問題ともなっている。

 アルコール依存症がもたらす重度の鬱病は盛んに自殺も誘発していた。当然そんな社会に蔓延する悪しき慣習も、改革派にとっては変革すべき案件であったのだ。ところがロシア人から酒を取り上げることは結局のところ、非常に難しかったのだ。

 「そもそも私は規制自体には最初から反対なんだよ。国民はアルコールが含まれていれば、洗剤や靴磨きだって飲み、そのせいで重病者が続出している」

 二人は声を押し殺しながら腹を抱えんばかりに笑い合うが、ミハイルの胸中には、ソ連を叩き壊すため、目の前の親友をいつかは裏切らねばならないという罪悪感が今更のように浮かび上がり、それを押し沈めるのに苦心した。


 

 ◇


 

 パーティー会場のある2階から自身の客室がある14階へ、エルザは機械音が轟々と鳴り響く年季の入ったエレベーターで上がっていた。彼女の隣には少しほろ酔い気味の、顔の赤らんだ男の姿がある。先ほどからエルザの右腕をしっかり抱き寄せては頑なに離さないそんな男にすっかり気のあるそぶりを見せながらも、彼女は内心ひどく蔑んだ目で、彼の横顔を見つめていた。

 部屋の前にまで来たところで彼はまるで理性を失った獣のように、おもむろにエルザを廊下の壁に押し付けると、無理やりにキスを迫る。

 「・・・、ダメよ大佐、まだ、お預け・・・」

 恍惚とした表情を浮かべたエルザは焦らすように、限りなく近い位置まで寄せられた興奮気味の彼の口元に人差し指を持っていくと、慣れた手つきで身体をゆっくり自分から引き離して部屋の扉の鍵を開け、彼を先に通した。

 エルザは軍服を着崩したポポフ大佐から上着をはぎ取るとベッドに座らせ、冷蔵庫から青いラベルのバルチカビールを取り出して彼に進める。

 彼がそれを飲む最中、目の前でエルザは上に羽織っていたローブを脱ぎ捨て、さらにドレスの背中のファスナーをゆっくりと下ろし始めた。

 まるでストリップショーを見ているかのように、結露で濡れたビール瓶を握りしめながら彼はまじまじと、そんな彼女の立ち振る舞いを見つめていた。ビールが喉を鳴らす音が響くと、いつの間にか彼女は、薄い桃色の花柄が刺繍された下着一枚の姿になっている。ブラジャーの背中のホックを両手で外し、それがすとんと床に落ちると、彼女の形の美しい豊胸があらわになった。

 彼の隣に腰掛けると、今度は黒いストッキングをゆっくりと下ろして、曲線を描く彼女の美脚がはだける。

 「さぁ、大佐。私をどうしてくれるのかしら?」

 大佐は理性を失い、彼女の肩を抱き寄せるとその胸元に顔を埋めようとしたが、その瞬間彼の腹は大きな音を立て、表情は瞬く間に苦痛に歪む。

 「まあ、どうしたのポポフさん・・・!?」

 「は、腹が痛むんだ!」

 エルザは腹を抱えてベッドのそばに崩れ落ちる彼の背中を揺する。

  「まぁ大変!このフロアの部屋は全て、トイレが備わってないのよ!」

 フロアの突き当たりに共用のトイレがあると呟きかけた頃には、彼はものすごいスピードで部屋を飛び出して行き、部屋の扉がゆっくり閉じた瞬間、エルザはそれまで堪えていた笑いを一気に吐き出し、ほとんど裸のままベッドにうつ伏せになって腹をよじらせた。先ほど彼に飲ませた瓶ビールにはあらかじめ下剤を混ぜておいたのである。

 彼女があえて14階の部屋を選んだのは部屋にトイレが設置されていないこともそうだが、そもそもこのフロアに設置されている共用トイレは整備中であり、利用するためには一個下の階に行かねばならないからである。そのことが余計に可笑しくて仕方がなかった。

 彼女は先ほど彼から密かに盗んだ鍵をドレスのポケットから取り出すと大急ぎで動きやすい服に着替え、部屋を出る。向かう先は上の階、ポポフ大佐の宿泊している部屋だった。

 15階に上がった時、エレベーター付近では今から下に降りようとしていた彼の部下と思わしき軍人二人と出くわすが、彼らがエルザのことを疑うはずもなく、むしろ彼女の美貌に見とれつつ愛想の良い挨拶を交わしただけだ。

 部屋の前に誰もいないことを確認すると、さっと鍵を開けて中に侵入し、彼女は大佐の持ち物を物色する。目的のアタッシュケースはクローゼットの陰に隠されており、ポケットからピッキング用の様々な種類の先端になった針金を取り出すと一つ一つケースの小さな鍵穴に差し込んでいく。

 やや手こずったものの開けることに成功し、中から膨らんだ革のレポートファイルを取り出した。薄暗い部屋の中でファイルを開くと、表紙に極秘文書と捺された印が目に映る。彼女は息を呑むように、部屋の入り口を見つめる。いつ彼が気づいて部屋に戻ってくるか分からない。緊張感で彼女の額にはますます、悪い汗が滲んだ。普段はほとんど緊張感も抱かない彼女だが、今だけは指先がよく震えていた。

 そんなたどたどしい指先で、手のひらに収まるほど小さなミノックス社製のCタイプ小型カメラをスライドし、中に挟まれた機密文書を机の上に広げて一枚一枚丁寧に撮影していく。軍事的な知識がほとんどない彼女には書類の中身など分からないが、このことがアフガンで無益に殺されている罪のない人々を救うことに繋がると考えれば、彼女は不思議と勇気をもらえた。

 撮影が完了して元どおりに書類をしまい込むと彼女はアタッシュケースを元通りきれいに直し、鍵まできちんと掛け直して部屋の扉を開ける。

「・・・あら、エルザ?」

 聞き覚えのある声で、エルザの全身はびくんとかすかに痙攣する。

 廊下の先を見つめて、本来ならそこにいるはずの無い人物の姿を目にした時、エルザの頭は瞬く間に真っ白になった。

 物覚えの良いサラは彼女の客室が14階にあることをあらかじめ聞いていたために、そもそもエルザがこの階にいることを訝しんでいる。

 必死で動揺を隠し極力平静を装いつつ、たった今出てきたばかりの部屋の扉をゆっくりと閉めるが、むしろ、その動作が余計にサラの目には挙動不審に映り込んだ。

「どうして、そんなところに?」出てきたばかりの部屋の重厚で立派な扉をサラは見上げる。「まさか、男?」

 「・・・」

 その問いを、あえてエルザは否定しなかった。この場合そう思わせておいた方が得策なのかもしれないと踏んだのだ。

 「へぇ・・・男。・・・あなたが瞬く間に女優デビューを果たしたのも、そういうことなのかしらね」

 ところがエルザの予想に反して彼女はあらぬ勘違いをし、一転してエルザを蔑んだ目で見つめた。このフロアに宿泊しているのは高級政治家であったり、レーニン勲章を授与されているようなお偉いさん方であったりするのだ。

 「サリーこそ、どうして、このフロアにいるのかしら?あなたが言うように、こんな場違いな・・・」

 「私にはちゃんとした理由がある。あなたみたいにふしだらなものじゃなくて」

 サラは恩師である音楽家と会ってきたばかりだと言った。

 レニングラード大学で将来について真剣に悩んでいた時期、彼女に音楽の道へ進むよう促したのは、レニングラードから少し離れた首都モスクワにあるモスクワ音楽院に所属する講師ペトロ・アレシンスキー氏である。彼はソ連における著名な作曲家であり、名指揮者でもあった。

 ・・・確かに、それは真っ当な理由だ。少なくとも、スパイ行為や身体を売る行為と比べれば遥かに。

 「いいかしらサリー。あなたは勘違いしている」さすがに焦ったエルザは少しでも良い方向に向くように彼女の考えの軌道修正を試みる。「あなたが、その先生と会って何もなかったように、私だって、この部屋の彼とは何も無かったわ・・・」

 「じゃあ何の目的?言ってごらんなさいよ。彼のご職業は?」

 サラは日頃の恨みを晴らすように、エルザを質問責めにする。いつもの堂々とした彼女の姿からは考えられないほど彼女が戸惑っていると、今度は勢いよく廊下の奥から走り込んで来る男の姿を目にして、エルザは信じられないとでもいうように、大きく目を見開く。

 「ディートリヒさん、まさか私の部屋まで来られていたとは!あなたの部屋に戻ったら姿がなく・・・」

 「あ・・・あ、いえ、ポポフさんがなかなか戻られないので、もしかしたら、お部屋に戻っているのかと伺いまして・・・」

 もはや自分の部屋にまで彼を呼び寄せていたことも完全にバレバレであった。

 ほろ酔い気味でネクタイも緩み、一番上のボタンも外れた彼のワイシャツの右

 襟には、言い逃れのできないエルザの赤い唇のルージュの痕跡がわずかに残っている。

 サラはそれらの完璧なまでに整った証拠をつぶさに確認するとニヤリと口角を上げ、うすら笑う。

 「エルザの同僚のサラ・マイネリーテと申しますわ。・・・軍人さんですか」ソ連において軍人の政治に及ぼす影響力が大きいのは言うまでもなかった。「ああ、私は用事があるので、あとはお二人でごゆっくりなさってくださいな」

 たっぷり皮肉を込めた言葉を残す、まるで他人行儀のサラは二人の元を足早に去った。エルザは珍しく平静さを欠くように、彼女と同じように一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られる。サラが他のメンバーに自分の行為を言いふらすのは、正直何よりも怖いものがあった。

 「・・・おや、部屋の鍵は挿しっぱなしだったんですか?」

 大佐は鍵が差し込まれたままの部屋の扉を見つめて首を傾げた。「おかしい、確かに上着のポケットへしまい込んだはずなんだが?」

 「嫌ですわ大佐ったら、いくら私に挿れたいからって、ご自分の鍵を挿しっぱなしにしておくなんて・・・」

 慌てたエルザは咄嗟に彼の肩にわざとらしく胸を押し付けた。

 「い、い、いや!この部屋には重要な書類があるんです、決して誰も入れるわけには・・・」

 彼は慌てて部屋の中を覗く。荒らされた形跡が特にないことを確認して、やや安堵のため息を漏らした。

 「それじゃあ・・・私との夜もお預けってことかしら、残念ね・・・」

 演技とはいえ、彼女は悲壮感たっぷりに呟きながら、彼に背を向けた。

 「・・・い、いや、これは申し訳ない、いつか必ず埋め合わせを」

 「ええ。またお会いした時には、いつでも誘ってくださいな」

 エルザは嬉しそうにウィンクを投げ、何とかうまくやり過ごすと彼を部屋の前に置き去りにしたまま、まるでサラを追いかけるかのように早い足取りでエレベーターの前までやってくるのだった。

 心には虚しさばかりが募った。自分はただ復讐を成し遂げたいだけなのに。なぜ自分はこんな惨めなことをしなければならないのかと、行き場のない怒りが彼女を覆い尽くす。ボタンを連打してもエレベーターは下に行ったきり、なかなか上がって来てくれない。無性に苛々とした気持ちが湧き上がる。

 いくら任務のためとはいえ、身体を売るのは嫌で仕方がなかった。自分よりずっとサラの方が美しい生き方をしていると思えて羨ましい。自分だって、できることならサラやナタリアたちのように可愛らしいアイドルのままで居たかった。いくら愛するミハイルや家族のためだと思っても、こんなことをするのに一体何の意味や価値ががあるのかと考えるたびに、彼女の胸は苦しくなった。

 

 パーティー会場に戻ってきたエルザを見つけて、茶色のウィッグとメガネで上手く給仕になりすました男性が近づいてきた。

 彼の正体はミハイルの協力者で、CIAの諜報員であるゲオルギーである。良くも悪くも人目を惹くエルザを介抱する素振りを見せながら彼女の肩を抱えて、人気の無い会場の隅のソファーに座らせた。

 「気分が悪そうだな」

 ゲオルギーは周囲を伺いつつ、本物の給仕のように彼女を気にかけるふりをして飾り気のない白いハンカチを手渡した。

 「当然よ、こんな仕事・・・」

 彼女は彼から受け取ったハンカチで口元を覆う仕草をしながらそっとドレスのポケットから取り出した小型カメラのフィルムを包み込み、彼にさりげなく返す。

 「ご苦労。引き続き頼む」

 あまりに無味乾燥、冷淡な口調で口にした。

 そんな素っ気ない彼の態度がエルザの癇に障る。

 「・・・それが何の意味もなさなかったら、あなたのその髪むしり取って、連中の前に突き出してやる」

 じろりと彼を睨みつけるように言った。

 「声を抑えろ、誰に見られているかも分からんのだぞ」

 ゲオルギーは珍しく感情的になった彼女を前にして苦笑いを浮かべると、そのハンカチをフィルムごと内ポケットにさっさとしまい込んで人目を気にするように、再び先ほどまで手にしていた銀色の盆を手にとって人ごみの方へ歩いて行く。

 エルザは取り残された寂しさと惨めな気持ちで、今すぐにでも泣き出したい気持ちでいっぱいになっていた。普段から気丈に振る舞っている彼女でもこんな世の中は耐えられないことだらけだが、さすがに今日の出来事はそう簡単に受け入れられそうにもない。

 先ほどのサラの表情が脳裏に焼きついたまま一向に離れてくれなかった。自分はこれからも彼女たちと心の底から仲良くなることはできないし、本音を打ち明けることも許されないのだろう。

 果たしてこんなにも大きな苦痛に自分は耐えきることができるのだろうか。わかっていたはずなのに、どうしようもない不安が押し寄せている。

 ・・・本当の自分は、弱くて仕方のない女なのに。

 「涙はせっかくの完璧な化粧が崩れる」

 突然、目の前に自分のドレスと同じ黄色いハンカチが差し出される。はっとして顔を上げると、そこにはタキシード姿のミハイルが口元に微笑を浮かべて立っていた。

 「ミーシャ、お気遣いなんて・・・」

 エルザは目に力を込める。彼の目の前ではせめて強い女でいたかったから。

 「泣いてもいい。今夜は君の隣にいるよ」

 ミハイルはそう言ってエルザの隣に腰を下ろす。それ以上は何も言わなかった。 

 無理な励ましなんて一つもせずにただ黙ったままいつまでも寄り添ってくれる彼の優しさが、彼女はとにかく嬉しくて堪らなかった。どうしてそんなに優しく接してくれるのだろうか・・・普段はいくら想いを寄せても、振り向いてすらくれないのに。

 そんなことをされるから、ますます彼のことを想う気持ちはますます強くなってしまう。

 エルザはいつの間にか泣き出し、差し出された黄色いハンカチを大きく濡らしている。

 「大事な心まで傷つける必要はない」

 彼は叱りつけるように言った。ミハイルとエルザはそれぞれゲオルギーを通じてCIA本部から別個の指示を受けることが多いが、依頼される任務は毎回危険を孕んでいる。今回エルザが引き受けた指令もハニートラップを仕掛けるように指示した本部の意向が働いたわけだが、ミハイルは彼女が抱える負担を懸念して、彼女を危険な任務から降ろしてもらえるように本部に掛け合おうとしていた。

 「分かってるわ・・・でも・・・そういうのはやめてミーシャ。私は耐えられる。だって私にはもう、こうすることしか他に道が無いのだから」

 自分の父を殺した張本人を殺害したあの日から、今更復讐の手を引っ込めることなどできるわけがなかった。

 「君の本職はシュタージでもCIAの女スパイでもない。僕の大切なアイドルだ」

 彼は自分のことを宝物のように大切に扱ってくれる。だからいくら辛い思いをしていても、せめてミハイルが隣にいてくれるなら、そんな惨めな現実も耐えられる気がしてしまうのだった。

 

 

 ◇



 あっという間に1985年も年末に差し掛かった12月。モスクワは今日も大雪に見舞われ、気温もマイナスを叩き出していた。昼間なのに吹雪で事務所の窓の外の視界は悪い。

 ブーケト・ツヴェトフの初となる年末の劇場公演は間近に迫っていた。すでに前売り券は完売するなど大きな好評ぶりを見せ、彼女たちの世間からの注目度の大きさを物語っている。

 しかしそれと同時に、そんな国民からの強い期待が大きなプレッシャーとなり、メンバーの心に大きくのしかかっていた。

 「クララが出演している洗濯機のCMの後に続いて、次は私たちの年末コンサートのCMが流れて・・・私たち、ここまで有名になってきたんだ」

 稽古に勤しむ彼女たちはレッスンの休憩中、広間のソファーに座り全員でテレビを観ていたが、自分たちが出演するテレビCMを眺めるのはいつまで立っても違和感にも似た新鮮な気持ちが抜けなかった。

 たった今彼女たちの目の前のテレビに流れた洗濯機のコマーシャルに出演していたのは他でもなくクララだったが、画面の中でそれまで砂漠にひっそり佇むオアシスで洗濯をしていた彼女の映像が、突然、舞台上でキリリとした表情で踊る彼女たちの映像に差し替わった。

 「あんなに怖い顔してたつもりはないのに・・・」

 画面に映っていた顔に彼女はわずかながらにショックを受けている。照明の当たり具合で頬骨が痩せこけた感じになったのを気にしている様子だ。

 「うん、確かに。その照明の位置だとせっかくの可愛らしいクララの映えが悪くなるなって、私も思ったのよ」

 CM用に流されたのは先日行われた舞台練習の一場面の映像だが、テレビや観客席からはどのように見えているかの勉強にもなる。エルザは曲ごとに考えていたそれぞれのメンバーの立ち位置を示した表に改めて赤鉛筆でバツ印をつける。

 もう何度も何度も繰り返し話し合い、様々なスタッフと相談して練り直した舞台の見取り図だ。演出にいくら修正を加えても、いまだに完成形は見えてこない。もうあと二週間で本番の大晦日だというのに、メンバーが自分の立ち位置を理解することができるのだろうかという不安もある。

 「基本はこのままで大丈夫だよ、これでいこう。今から立ち位置までいじると私たちが混乱しちゃうんだから」ニノがエルザの不安を解消するように言った。「それに、あのおっかない髭ジイさんにもまだ決まらんのか、と怒鳴られる」

 髭ジイさん、とは彼女たちを指導する音楽家であり演出家でもあるペトロ・アレシンスキー氏のことだった。サラのレニングラード時代の恩師である彼は快く彼女たちの指導に名乗りを上げたばかりでなく、なんと演出補佐も担当していた。あくまでも補佐というのは、基本の演出はアイドル本人たちで考えろ、という意味に他ならない。彼女たち自身の意思を何より尊重しようという彼の考えは非常に好印象だが、しかし彼の指導はミハイルとは比べ物にならないほど厳しく、正直クララがやせ細って見えたのも彼のせいなのではと、ニノは少し疑っていた。

 「そうね、ホールの吊り照明の位置を少しだけずらしてもらうことが可能か、スタッフさんとも話し合ってみるわね」

 「この件とはあまり関係ないけど、照明の色も変えてみたら面白いのかも?」

 ソフィアがまた何かをもぐもぐ食べながら呟いた。彼女の手に抱えられた紙袋にはたくさんのピロシキが詰まっている。

「私、焼きピロシキならともかく揚げたピロシキなんか生まれて初めて食べたけど、結構いけるものだね」

 アレシンスキー講師に、ソフィアは何故かやけに気に入られていた。理由は謎だが、とにかくその気に入られようは、よりにもよって最も無愛想な彼女に、袋づめのピロシキをプレゼントするほどだ。その一方で、昔からの教え子であるサラに対しては他のメンバーとなんら変わりない厳しい指導が入っていた。

 「なんであんたばかりが優遇されるのかしらね。気に入らないわよ」

 レニングラード大学時代は恩師とはいえ彼に怒鳴られっぱなしだったサラが机の上に広げた照明用のゼラを一枚一枚手にとって吟味しながら悪態をついた。

 「美味しいものが好きだから」

 「それは理由にならない」

 数ある色のゼラ(照明の色を変えるためのフィルム)の中から、サラは三枚の色を選んで取り上げる。

 「共和国旗のカラーなんてのはどう?面白いと思うの!」

 大部分を占めるソ連国旗の赤色と、幅の狭い緑と透明の帯。それは紛れもなくソ連邦リトアニア共和国の旗を示していた。彼女たちはソロで、それぞれの国の民族衣装を着て歌うシーンがある。舞台の床いっぱいに照明の色を広げることができれば、きっと独自性が出て面白いに違いないと踏んだ。

 「ベラルーシの旗もリトアニアの色合いに似ているけど、横の網目模様を表現できたらきっと面白いものになりそう!」

 刺繍のような模様の独特な国旗を持つベラルーシの旗の上に立つことを考えるアンゲリナは子供のような興奮を隠さない。

 「たまにはいいアイディア出すのね、サラ」

 エルザの褒め言葉を前にするとサラは急に素っ気なくなって、しばらくしたらその場を立ち、何処かへと立ち去っていく。先ほどまであんなに盛り上がっていたはずのメンバーたちの様子は一変してしまい、途端に気まずさが覆い尽くす。

 「・・・ねぇ、エルザさん。あの話って本当なんですか?」

 ナタリアが少し気まずそうに尋ねたのは、やはり一ヶ月ほど前のホテルでの出来事だった。サラは他のメンバーに、やんわりとだが噂話を言いふらしていたが、他のメンバーもナタリア同様とても気にしていた様子で不安げな眼差しを投げてくる。しかしエルザは動じる様子も見せずにあくまでも落ち着き払って、いつも通りの余裕いっぱいの笑みを浮かべた。

 「そんなことあるはずないじゃないの。でもね、男の人と居た、っていうのは本当よ」

 彼女は全てを否定することはなかった。嘘に少しの事実を織り交ぜるのは、相手を信じ込ませるテクニックだから。きっとこの場にいるメンバーはサラよりも、エルザの言葉を信じるだろう。

 それにこれはサラのためでもあった。彼女が、この場にいる他のメンバーに嘘つき呼ばわりされないためにも一部だけ、本当のことを言ったのである。

 「サリーのやつ、最近はそればかりで鬱陶しかった。そうだよな、エルザに限ってそんな卑怯な真似はあり得ない。あいつも他人を妬まずに、まずは自分で一生懸命努力すればいいのに」 

 すっかりエルザのことを信頼しきっていた彼女たちを眺めて、エルザは複雑な心境に陥っていた。本当は枕営業なんかよりもずっと卑劣な、祖国への裏切り行為に手を染めている事実があるせいで、彼女たちのそんな自分に対しての過度な信頼は、エルザの胸を痛めつけるのには十分すぎた。

 そのせいで、メンバーの中で特にソ連に対する忠誠心の厚いサラに対して抱いた罪悪感は、あの11月の出来事以来、エルザの中で日増しに強まっていた。

 「ダメだよニノ、サラはサラなりに一生懸命頑張ってるんだから。だって私ね、サラから大事なこと学んだよ。サラのおかげで・・・私自身、ソ連の英雄になろうっていう強い決心がついたから」

 ナタリアは、まるでエルザの絡まりあった複雑な感情をほぐすかのようにサラを擁護していた。その言葉で場がしんと静まり返って、皆の顔が彼女ただ一人に注がれると、メンバーと上手く馴染めていないという自覚がどこかしらにある彼女の顔に若干の焦りが滲む。ちゃんと上手いこと、それに格好いいことが言えるのかどうかという不安だった。

 それでも、彼女はこれが英雄としての道を踏み出す第一歩なのだと自分に言い聞かせるように息を吸い込んで、同じように、一人一人の表情を見つめた。

 「サラが言うように私の歌声に誰かを変える力があるのなら、絶対に誰かを変えてみせる。私は昨日の自分より、今日、明日は、もっと格好いい自分になりたいの」

 「・・・そうね。私たちは英雄よ。ソ連が誇る立派な英雄たち」エルザは同調するように大きく頷いて、ナタリアの背中を叩く。「成長したのねナターシャ。明日、明後日には、もっと成長したあなたを見ることができるのかしら。楽しみで仕方ないわ」

 そんな風に褒められると、ナタリアはようやく嬉しさで胸をいっぱいにした。



 ◇



 いよいよコンサートの本番まで残り三日というある日の夕方、七人のアイドルたちがいつもより大きな部屋に揃って練習している最中、ドアが誰かの手によってノックされた。

 「失礼するよ」

 顔をのぞかせたのは普段あまり事務所やスタジオに顔を出さないミハイルの姿だった。

 「おや、トカレーヴィチ君か。このまま続けるかな」

 彼女たちの担当講師としてダンスの指導にあたっていたペトロ・アレシンスキーは、白くて立派な口ひげを蓄えた七〇代という老齢にも関わらず、目の鋭さだけは決して衰えていない。

 「ええ、気にせず、どうぞ続けてください」

 ミハイルが自分たちの練習を熱心に見入っているということもあってか彼女たちの顔には一様に、決して失敗したくないという緊張感が漂っている。

 今回歌う曲もそのほとんどがソ連のあちこちの伝統的な民族音楽であるため、彼女たちはそれぞれの国の民族衣装を着こんでいた。

 講師ペトロの合図とともに部屋のスピーカーからレコードに録音された弦楽器の音が鳴り響いている。他の民族衣装を着た彼女たちが後ろ一列に下がって踊る中、一人だけ先頭に出て、大きな帽子が特徴的な民族衣装を着て踊っていた少女はクララだ。軽快な弦楽器の音色は、中央アジアの草原と躍動感あふれる馬を連想させる。彼女のミステリアスな踊りと、あまり聞き馴染みのないカザフ語の歌声は、まるで草原に吹く風をうまく表現したかのような繊細さと美しさがあった。

 曲が終わってクララが客席に一礼をすると、ミハイルは大きな拍手をした。

 「お見事。しかし面白いですね、まさか先生はカザフスタンの民族音楽に対しても造詣が深かったとは」

 「これこそがあんたのオファーを受けた最たる理由だよ。遠く離れたカザフスタンのことを知らないモスクワの人間は非常に多い」

 ペトロは真剣な表情で熱弁した。彼はロシア人だが、幼い頃両親と暮らしていたのはカザフスタンの北の都市、アスタナであった。

 二十歳の頃に革命に憧れてモスクワへとやって来たがそれから間も無くレーニンは死に、やがてスターリンの恐怖政治の只中に内地へ足を踏み入れてしまい、自由な音楽活動も儘ならぬ中でついに独ソ戦が始まると彼もすぐに徴兵され、その結果、敵の砲弾で肘から下の右腕を失ってしまったという。

 実際、彼の右腕のシャツの袖口はぶらんと垂れ下がっていた。

 野戦病院で隣にいた患者の男が中央アジア出身であり、彼が奏でる笛の音に感銘を受けた彼は改めて、それまで片田舎と小馬鹿にしてきたカザフスタンへの想いを強くし、それからはスラヴ圏の音楽を専門に研究する傍ら、私生活ではもっぱら中央アジアの文化を愛好していたのだった。

 「もっとカザフスタンや中央アジアのことを同じソ連国民としてロシア人に知ってもらいたかったんだよ、こんなにいい機会はない」

 二人は目を合わせると、互いに頷き合う。

 

 熱のこもった指導が繰り広げられ、ようやくレッスンが終わった時には夜の二十二時というものだった。朝の九時から練習を開始し、たまに休憩を挟んだ程度の彼女たちは床に疲れたようにへたばっている。

 「僕からは一言」

 ミハイルの言葉に、その場にいる全員の視線が一気に注がれる。

 「君たちの今回の公演には海外からも記者が来ることになっている。君たちの努力次第ではソビエト発アイドルとして世界中のラジオにも登場し、そしてレコードやカセットテープが大々的に売り出されることになるだろう。僕の狙いはそれだ」

 その言葉に、皆の顔がキラキラと輝いた。

 誰しもが憧れていたことなのだ。自分たちの歌声が電波に乗って、レコードになって、世界中を駆け巡るという壮大な夢、そんな夢を叶えるチャンスがこんなにも早く訪れることになるとは思ってもみなかったのだから。

 「今日はここで解散にしよう。先生、ありがとうございます」

 「・・・互いにいい本番にしようじゃないか」

 ペトロは無愛想な顔に、ようやく初めての笑顔を浮かべ、ミハイルもそれに穏やかな微笑みを返して彼の背中を見送る。

 「ああ、ナターシャ。ちょっと」

 皆と一緒に廊下に出るところだったナタリアは足を止め、レッスン室に残ったミハイルに振り返った。

 「君だけ、まだここに残っていてくれ」

 ミハイルは彼女をレッスン室の中へと呼び戻した後、そっと防音の扉を閉めた。今まで廊下に響いていた他のメンバーの話し声はそれと同時にはっきり途切れる。

 「三日後、緊張するかい?」

 彼女に部屋の隅のパイプ椅子を勧めて座らせ、彼は音響機材のそばに行ったあと、何を探しているのか、ごそごそと棚の中に積まれた無数のレコード類を漁っている。彼女はそんな彼の背中を見つめながら、口元に嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

 「私たち、もう今までテレビ番組には何度か出演してるんですよね。ラジオ番組なんてもう何百回かを超えたくらい。今更緊張するわけないやって心の中では思ってたんですけど・・・すごいですよね、だって私たち、あんなにも沢山のお客さんを前にして、近い距離で歌うんですよ・・・?こんなの初めて・・・どうしても信じられないんです。ドキドキって、ずっと胸の鼓動が、止まらない」

 ナタリアは夢中で今の気持ちを言葉にした。ミハイルは相変わらず彼女の言葉を黙って聞きながら戸棚のレコードを漁っているようだったから、どんな表情をしているかなど全く分からない。

 「・・・でも、やっぱり不安は大きくて。私本当に、たくさんのお客さんを前にしたら、声ちゃんと出せるかな・・・上がっちゃったりしないかな・・・って」

 「大丈夫だ、ナターシャ。君が、これからここにいるみんなを引っ張っていく」

 一枚のレコードを両手に抱えたまま、ようやく彼はこちらに振り返った。

 「これからこの曲を流す。君には今回のコンサートの終盤、一人でこれを歌ってもらう」 

 レコード盤の端に針を置くと部屋のスピーカーからは音楽が流れ始めた。

 序盤に流れ始めたピアノの音。聞き馴染みのあるボーカルの声。この曲を生まれて初めて耳にしたのはおそらく部屋で兄と二人一緒にラジオを囲んでいた時だろう。

 「え、でも、これって・・・ABBAの『Dancing Queen』・・・ですよね!?」

 「十七歳の君に相応しいと思うんだ、どうかい?」

 「・・・私なんかが!?」

 椅子から立ち上がると悲鳴にも似た驚きの声をあげた。彼女が勢いよく立ち上がったことで、パイプ椅子はバランスを崩してがしゃんと音を立てて床に倒れる。

 「君の持っているウォークマンのカセットにもこの曲が入っているだろう。毎日聴いているのなら、すぐにでも歌えるはずさ」

 ウォークマンを持っていることも、普段からABBAの音楽を何気なく口ずさんでいて、そのくらい彼女が大好きな曲であることも、勘のいいミハイルにはすでにお見通しであった。

 「大丈夫だよナターシャ。怖がってばかりじゃ、前には進めない」

 不安でいっぱいの彼女を安心させるような優しさと、しかしその内側に確かな厳しさの込もった彼の言葉には何一つ反論できず、ややうつむきながら、ようやくわずかに頷いた。

 「・・・でも西側の音楽なんて、よく許可が」

 「今や世界的に有名なグループの曲のカバーだ、ソビエト当局も迂闊に退廃的と罵ることはできない」

 自分が歌いたい曲をまるで盾に取られたような気分だが、彼女はミハイルから手渡された楽譜を手にとってみると、自然と、音符の一つ一つから歌詞の一文字一文字に至るまで、じっくりと見つめていた。確かに歌う機会など今後いつ巡ってくるかも分からない。結局彼の口車に乗せられて、一か八か、挑戦してみたい気持ちが彼女の中で、十分に高まっている。

 「でも、どうしてこれを歌うのが私なんですか?」

 そんな疑問に対してミハイルは相手を射止めるような真っ直ぐな曇りのない目で彼女を見つめる。

 「君がこれからのチームのリーダーだからだ」

 信じられない言葉に彼女は目を大きく見開いた

 「君以外にはいないんだよ。君だけが持つ歌声と熱い想いはきっとこの国の人を笑顔に変えることができる」

 「・・・臆病だし負けず嫌いで、自己評価も低いし、それに・・・こんな自分は可愛くないって思うことが多いのに、こんな私なんかが、誰かの笑顔を作ることなんてできるんですか?」

 日頃言いくるめられることの多いナタリアは、さすがにそれはお世辞が過ぎると口を尖らせ、ついムキになって言い返した。

 「いくらミハイルさんがそれを望むとしても、私は、まだその器なんかじゃないんです!」

 今は珍しく、彼の真剣で嘘偽りないはずの言葉を疑っている。

 どうしても容易には信じられないのだ。自分より周りの皆の方がずっとすごくて、自分よりもずっと熱い想いを持っていると信じていたから。自分の中にある、目指すリーダー像は明確にエルザと決まっていたのだ。彼女こそが自分のゴールであって、彼女になりたい、彼女のような美しい大人になりたいと願っていたのに、まだまだ未熟な自分が、いきなりそのゴール地点に飛ばされてしまうというのは、あまりに残酷な仕打ちのように感じられたのだ。

 そんなの、上手くやれるはずがない。

 「その通り。君は自分に自信がなく、負けず嫌いで、そして怒りっぽい。その上変なプライドだってある。可愛くないといえば確かに可愛くない。笑顔を作るのもメンバーの中では特に、下手だ」

 彼は容赦無くナタリアのダメな部分を列挙する。ナタリアは初めて知るミハイルの姿に圧倒されて、きょとんとした表情を浮かべていた。

 「それでも君は着実に前へ進んでいるんだよ。いい方向にね」

 ますます唖然とするナタリアに構わず、ミハイルは続ける。

 「これからもきっと君は様々な経験を通じて、大きく成長していくだろう。最初から完璧である必要なんか微塵もない。テレビや国境の向こう側には、きっと君と同じように自信がなく、惨めだと思い込んでいる人は山のようにいるのさ。そんな人に自信や勇気を与えるために、最も説得力のある方法はなんだと思う?」

 それまで流していたDancing Queenが終わるのを見てレコードの針を上げると、部屋の中は静寂に包まれた。ナタリアには、ミハイルのそんな問いはあまりに難しく、何度考えてもむしろ混乱が生まれるばかりだ。

 「その人たちと同じ目線、スタート地点に立って共に歩んでいくこと。それがアイドルの役目だよ、ナターシャ。世界最高のスポーツ選手をいきなりテレビで目にしたところで自分には無理だし絶対こうはなれない、と多くの人はまず思うことだろう。しかし最初から完璧じゃない君が少しずつ完璧になっていく姿を多くの人が見た時、自分に自信がなかった彼らは君のようになりたいと勇気や夢をもらうんだ。アイドルという存在は、決してゴールなんかじゃない。君だけが持ってるその一生懸命で素直で真っ直ぐで、負けず嫌いで、そして誰からも愛される性格が、徐々にみんなを、夢というゴールに導いていく・・・すごく素敵なことじゃないか?君は、みんなを導く魔法使いだ。まだ、見習いだが」

 魔法使い、という言葉は卑怯だ。きっと誰だって魔法という魅力的な力に憧れるのに。

 「・・・私は、本当に、みんなに影響を与えられますか・・・?」

 「もう既に与えているだろう?世界は徐々に変わり始めている、あとは君が、その波に乗るだけ。空を飛ぶためのうす(ロシアの魔女バーバ・ヤーガは臼に乗る)は持っている。上手く乗りこなせるかどうかは君次第だ」

 またもや彼の上手い言葉に乗せられてしまったことを半分悔しがりながらも、しかし彼の言う通り、もし誰かに影響を与えられるとしたら・・・。

 彼女には、真っ先に影響を与えたい人物がいる。

 そもそもつい先日、自分は英雄になってやると誓ったばかりだ。早速臆病風に吹かれている自分を恥じ入るように、彼女は自分の両頬をつねり、喝を入れる。

 「私はダメダメですけど、自分に負けたくはない・・・だって私はソビエトが誇る英雄なんですから」彼女は手元の楽譜を、ぎゅっと力強く握りしめる。「リーダーの仕事、引き受けてみせます!絶対誰にも負けない存在になってやる・・・!」

 その力強い言葉にミハイルはただありがとう、とだけ呟いて、彼女と何度目かも分からない固い握手を交わした。

 

 ナタリアがミハイルとの会話を終えてスタジオを出ると真っ暗な夜の闇に相変わらず雪がちらついていた。髪の毛に沢山雪をかぶりながらすぐ隣の自宅があるコムナルカに戻ると、その一階のエントランスにはたっぷりコートを着込んだサラが白い毛皮帽子を頭にかぶって待ち構えていた。

 「サラ、どうしたの、こんなに寒いのに」

 エントランスには雪がかすかに吹き込んでいた。

 「あんたを待ってたの、“リーダー”さん」

 とっくにそのことを知っているとは思わずに意表を突かれたが、サラが言うには、他のメンバーもすでにそのことを知っている様子だった。サラが誰よりもリーダーに憧れていたことを聞き知っていたから気まずくて、ナタリアは言葉を発するのをどこか少しだけ躊躇っている。

 「悔しいの。すごく。ムカつく・・・」

 ようやくサラが、不機嫌そうに言葉を口にした。

 ナタリアは頭をフル回転させて、彼女に対し掛けるべき言葉を必死に探している。

「でも・・・あなただから、許せるの。特別なんだから」

 サラは手袋の上から持っていた暖かいコーヒーの入ったマグカップをナタリアに差し出した。細い湯気が天井に向かってゆらゆらと漂っていてとても温かそうだった。

 「コーヒー、好きだっけ?」

 「・・・ううん、そうでも・・・」

 「だったらあげない」

 「い、いや嘘!・・・いや、嘘じゃないかもしれないけど・・・」

 「もう優柔不断!しっかりしなさいよ、その程度の判断力じゃやっぱリーダーには不向きね。回れ右して実家に帰りなさい!」

 「そんなぁ!」

 少し意地悪なサラからコーヒーを慌てて奪い取ると、それは、時々口にしているものよりずっと美味しく感じられた。一年経って、ようやくコーヒーというものの味にも慣れてきたのかもしれない。それか多分、このコーヒーを淹れた誰かさんの腕が良かったのか・・・。

 「あ、あの、ごめんね、サラ!私なんかが・・・」

 「そうやってすぐ謝らないで。鬱陶しいわ」

 サラにじろりと睨まれるとナタリアは蛇に睨まれたカエルのように小さくなった。

 きっと何かにつけて引きずりがちな彼女のことだから、今だってひどくやせ我慢しながらもナタリアが何か気まずい思いをしなくて済むようにしてくれているのだろう。

 そう思えば思うほど、なんだかんだ言っても優しいサラのことが大好きだった。

 「・・・サリー、ありがとう、私嬉しいの!」

 「いい気になって愛称で呼ばないで、何個も年下のくせに」

 サラはナタリアを突き放してさっさと階段を駆け上がっていく。そんな仕草が可笑しくてナタリアは彼女の背中を最後まで黙って見つめていた。

 それから寒さのせいであっという間にぬるくなってしまったコーヒーを、彼女はゴクリと音を立てて飲み干した。



 ◇


 

 12月31日のコンサートの当日。

 夕方六時から始まった大晦日開催のコンサートの本番はプログラム通り順調に進行していく。会場はほぼ満席で、客層もロシア人ばかりではなく、ソ連中のあちこちから集まって来た様々な人種で構成されていた。皆ラジオやテレビで彼女たちを知り、駆けつけたファンの人々であった。

 それぞれの共和国の民謡がモスクワ放送交響楽団の多彩な民族楽器によって演奏され、カラフルな民族衣装を身にまとったアイドルたちが歌やダンスで素晴らしいパフォーマンスを繰り広げる。

 やがてコンサートも終盤に近づき、ついに、全員で最後の曲を歌った瞬間、会場からは大きなどよめきとともに、万雷の拍手が送られた。

 「本公演の指揮・監修は、モスクワ音楽院、ペトロ・アレシンスキー氏!」

 楽団の指揮者であり、今回ずっと講師として彼女たちに寄り添ってきた彼が登壇し、ステージ上で横一列に並んだアイドル一人一人と左手で握手を交わす。

 「(さぁ、頑張ってこい、ここからが君の正念場だ)」

 ナタリアと握手する際、ペトロは彼女の背中を優しく叩き、耳元にそう囁いた。

 

 拍手がまだまだ鳴り止まない中、一度全員が退場し、指揮者が何度かステージや幕間を行ったり来たりしては聴衆を盛り上げる中、ナタリアは大急ぎで一人控室に戻ると民族衣装を脱ぎ、ネクタイを締めたフォーマルな私服に着替えた。  

 控室の鏡の前には薄紫色のライラックのコサージュが置かれており、彼女はそれを忘れないように取り上げると胸元へ挿す。鏡に映る自分は誰が見ても可愛い。そう思うと、彼女は心の底から嬉しくなって、緊張するのも忘れ足取りも軽くなり、小走りで再び壇上に立った。

 拍手が鳴り止むとスポットライトが一人、舞台の上の彼女にだけ照らされた。先ほどの熱気から一転して、静まりかえる大海原のような客席のざわめきが肌にビリビリと伝わり、実感とともにようやく襲いかかってきた緊張感でひどく震える指先を彼女はどうにか抑えて、言葉を形にする。

 「・・・皆さん、こんばんは・・・今日から私がグループのリーダーとなりました、ウクライナ出身のナタリア・リヴォフスカヤです」観客の反応を逐一確かめるように慎重に、少しずつ言葉を吐き出す。「私はまだまだ未熟な十七歳。何もかも自信が無くて、可愛げもない私ですが、それでも私のこの歌をどうか聴いて欲しいんです。・・・ソビエトの人はまだ聴いたことがない、馴染みの薄い曲だと思いますが・・・」

 ナタリアの言葉に観客席が静かにどよめく。自分がこの歌を歌ったら、彼らはそれを受け入れてくれるのだろうか。どんな反応だったとしても、自分は傷つかないでこの場所に立っていることができるのだろうか。

 不安はそんな風に、いつものようにとめどなく押し寄せてくるが、彼女は全ての迷いや不安を打ち消すように大きく息を吸い込むと、マイクに向かって思い切り吐き出す。

 もはやここまで来た以上は決して負けるわけにはいかないのだ。

 「だけど私はこの歌が大好きなんです!大好きだから、皆さんにも好きになってもらいたい・・・この国に住む人たちが思想も国境も関係なく、世界中の音楽や文化を愛して欲しいと願って、私は一生懸命に歌います!・・・どうかお聴きください。ABBAで!『Dancing Queen』!!!」

 彼女のそんな力強い言葉とともに、舞台はディスコ会場のようにミラーボールの輝くカラフルな照明に彩られていく。

 そして、軽快でノリのいいリズムが会場全部を一気に包み込む。


 今、この世界は全て彼女のものだった。




   You can dance, you can jive, having the time of your life

   あなたは踊れるわ、ノリノリに踊れるの、人生を楽しんで

   See that girl, watch that scene, digging the Dancing Queen

   あの子を見て、あんな風に。さあ、ダンシングクイーンになりなさい


   Friday night and the lights are low

   金曜の夜、明かりが暗くなって

   Looking out for the place to go

   行く場所を求めている

   Where they play the right music, getting in the swing

   踊れる音楽が鳴るところ、スウィングを踊るの

   You come in to look for a king

   あなたもキングも見つけてみようよ

   Anybody could be that guy

   誰もがキングになれるから

   Night is young and the music's high

   夜は始まったばかりよ、音楽も素敵な感じ

   With a bit of rock music, everything is fine

   あと少しロックがあれば、全てが完璧ね

   You're in the mood for a dance

   踊りたい気分でしょう?

   And when you get the chance...

   チャンスが回ってきたら


   You are the Dancing Queen, young and sweet, only seventeen

   さあ、あなたはダンシングクイーンよ、若くてキュートで、まだ17歳

   Dancing Queen, feel the beat from the tambourine

   ダンシングクイーン、タンバリンが奏でるビートを感じてよ

   You can dance, you can jive, having the time of your life

   あなたは踊れるわ、ノリノリに踊れるの、人生を楽しんで

   See that girl, watch that scene, digging the Dancing Queen

   あの子を見て、あんな風に。さあ、ダンシングクイーンになりなさい



 ・・・



 人生におけるたったの4分間の出来事に過ぎないのに、それは人生における最高の瞬間に違いない。歌い終えた時、観客席からは大きな拍手が、まるで津波のように彼女のもとへ押し寄せてきた。

 首筋には汗が滲んでいた。とても爽快な汗だった。ハンカチでそれを拭いながら、彼女は目の前にいる大海原のような観衆に向かい丁寧なお辞儀をした。予想もできなかった鳴り止まない拍手に圧倒されつつ、まるで逃げ出すようにそそくさと背を向けて幕間に移動すると、そこで彼女を暖かく見守っていたメンバーたちが一斉に駆け寄ってくる。

 他のメンバーは皆彼女をねぎらうような、おまけに歓喜に包まれたような眩しい笑みを浮かべているのに、ナタリアだけは他のメンバーと比べても一人だけ浮いた難しい表情をしていた。

 「何よナターシャったらその変な顔!もっと喜んで!」

 「そうだ!可愛くない!」

 「そうだよね、うん、・・・それは、そうなんだけど・・・!」

 皆に頬を突かれながらも彼女は微妙な作り笑顔をなかなか崩せないでいる。

 背中で今も響いている大きな拍手喝采の音を聞いてもなかなか実感が湧いてこなかった。先ほどいた場所を少しだけ振り返り、綺麗なスポットライトが真っ直ぐに当てられたままの何もない舞台の上を見つめる。今まで自分があの場所に立っていたという事実がどうしても信じられない。

 「ねえエルザさん!」ナタリアはエルザを捕まえて、すがるような表情で見つめた。「私、あの場所で・・・本当に、輝けていましたか・・・!?」

 今はとにかく誰かからの感想が欲しかった。自分が多くの人の前でどのように映っていたのか、どうしても知りたい。

 常にメンバーと共に数々の舞台を踏んできたものの自分一人だけで舞台に立ったことなどなかったのだから。周囲からの評価を気にする心配性なのが、いつも通りの可愛くなくて自信の無い自分だから。

 エルザは、彼女が真っ先に発した言葉にきょとんと真顔になった後、可笑しそうに笑う。

 「何言ってるの。当然でしょ?あの舞台の真上に光っている照明より、ずっと輝いていた。ここにいる大観衆だけじゃなくて、きっとソ連中のテレビやラジオの前にいた人たちが、あなたに注目していたのよ」

 ナタリアの性格を理解しているように、わざと大げさに褒めちぎった。

 エルザの目は真剣そのもので、お世辞でもなんでもなく、嘘偽りのない言葉だ。おかげで、ようやく実感が溢れてきたナタリアは初めて満面の笑みを零し、周囲のメンバーたちと抱き合う。

 

 ナタリアがスタッフに呼ばれたのはそれからほんの数分後のことだった。彼女に、ファンを名乗る男性が一人花束を持って訪れているという。どうやら知り合いらしいその男性の名前を聞くと、彼女は驚いたようにその場で飛び上がり、気づけばろくに話も聞かず一目散に楽屋の廊下を全速力で駆けていた。

 廊下の突き当たりの非常階段のそばに、松葉杖を突く彼の姿があった。

 まだ見た目はわずかに痛々しい彼との距離感は十数メートルくらいで、その距離を埋めるために一歩一歩、慎重に足を踏み出すのは、どこか勇気が必要だった。

 むしろ彼の方からナタリアの方へとゆっくり近づいてきたのだ。

 こんなにも必死になってここまで駆けつけてくれたのに、いざ彼を目の前にすると緊張してしまって、ろくに目も合わせられなくなっている。

 「顔を上げてごらんよナターシャ」

 アレクセイは少し俯いていたナタリアの顎を掴み上げる。

 「・・・嫌いなんでしょう、私のことなんか・・・嫌いなら、どうか、はっきり嫌いだと言ってよ・・・!」

 ナタリアは拗ねたように頬を膨らませると、彼に向いていた顔をまた背ける。

 「嫌いだったらリハビリ中にこんなところに来たりしない。プロのボリショイバレエ劇団のチケットをタダで貰っても、雪の中での外出なんかお断りだ」

 アレクセイは彼女が以前病室で目にした時よりもずっと明るい笑顔で微笑んだが、その表情は自分のよく知っている兄の優しい笑顔に違いなかった。

 「私、まだ怒ってるんだよ、許してなんかない・・・!」

 大好きな兄の姿がようやく自分のもとへ帰ってきたというのに、彼女は嬉しさを誤魔化す引きつった表情のままで、なかなか素直に笑うことができないでいる。

 「許してくれるなんて思っちゃいない」

 アレクセイは松葉杖をその辺に煩雑に投げると、少しよろめきながら彼女を抱きしめる。

 ナタリアは驚きで目を見開き、呆然と宙を仰いだ。

 「間違ってたよ。お前の言う通りさ・・・戦場に行かなくてもソ連のために何かしらできることは、あるんだろうな」

 松葉杖なしではまだしっかり立つことができずに脚をやや小刻みに震わせている彼の身体を両腕で支えながら彼女の目頭は熱くなる。

 ボロボロになりながら、自分の生きる道を必死で模索していた彼の役に立てただけで、なんと幸福なことなんだろう。

 彼女の頭の中は今、幸せでいっぱいだ。

 「全部、お前の歌のおかげなんだ」

 「・・・そっか、私、兄貴にとっての英雄になれたんだ・・・」

 自分の歌には誰かを変える力があると確信した時、彼女はついに我慢できなくなり、泣き始める。

 彼を支えていた彼女の両腕はもはや力を失い、兄の重みで、二人は抱き合ったままその場に座り込んでいた。

 



  第三章 完

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