第5話 『英雄』(前編)


  時は流れて一年後の1985年夏。


 彼女たちがラジオでの初デビューを飾ってから早くも一年と三ヶ月あまりが経過していた。時の流れるスピードの速さには驚くばかりで、自分たちが今立っているこの場所も、それまでの主な活動場所だったラジオ局や小さな講堂のような場所とは以前とはあまりに異なっていて、まるでその場所にいるという実感など湧いてこない。

 そんなソビエト国営テレビ局の楽屋ではエルザ・ディートリヒが、白いシャツに赤いスカーフを結んだピオネールのような衣装に身を包む同じメンバー六人の少女たちの前に、本日番組で演奏する曲目のリストを広げている。


 歌う曲は三曲で、おまけに出演時間も20分と短いが新生音楽グループのメンバー全員が揃ってスタジオに登壇するのはこれが初めてのことで、短時間の出演だからといって失敗は許されない。

 これまで主にラジオの番組の出演ばかりで、コアなファンでも無ければほとんど声程度しか知られていない秘密のベールに包まれていた彼女たちの姿が、初めて公に、広大なソ連全土の何百万人というテレビの前の国民に姿を表すとあって今回のテレビ出演は国民の期待を大きく背負うものだった。

 「大丈夫?みんな少し不安げな顔してるわね」

 エルザの瞳に映り込むメンバーの表情は様々だ。メンバーの半数近くは一年以上も待たされたことを不満に思う様子であったが、それはむしろ今回の出演をそれだけ心待ちにしていたことを物語っている。

 今年はエルザや、プロデューサー的存在であるミハイル・トカレーヴィチが奔走した年でもあった。

 春にソ連の最高指導者であったチェルネンコが持病の悪化で急逝して、1985年4月、ソビエト政治は改革派の急先鋒に立つ若手の共産党員ゴルバチョフの手に委ねられたのだ。人一倍ミハイルの考えに対して理解のある彼や、彼同様に改革を目指している党の政治家たちのお墨付きのおかげで、順調に彼女たちの仕事は増え、内容も以前より充実したものになっていく。

 ・・・だがソ連の一国民たる彼女たちは、ソビエト政治の風向きが変化したことなどいまだに感じられていない。

 モスクワ市内の風物詩とも言える店の前にできる長い行列や、西側の文化が厳しく取り締まられる風潮は未だに根強くある。ソビエト経済は70年代、ブレジネフの時代に停滞を迎えて、いまだにその状況を打破できていなかったのだ。

 だからこそ、ゴルバチョフの掲げる改革政策に国民の期待は高まっている。

 「あなたたちはゴルビーの掲げるペレストロイカ(改革)の追い風なの。もしソビエトが変化しきれていないと感じるのなら、あなたたちが変えていく」

 メンバーのまとめ役的な存在であるエルザ・ディートリヒの強く力のこもった言葉に全員の目に輝きが灯された。特に彼女、ウクライナ人のナタリア・リヴォフスカヤは、おそらくこの場の誰よりも熱い眼差しをエルザや他のメンバーに注いだ。


 『ソ連の花束』という文字の掲げられた大きな横断幕の下に、拍手で迎えられた彼女たち七人は横並びに並ぶ。

 真ん中に立つエルザが司会者にマイクを手渡されて、一人ずつメンバーの紹介を始めた。紹介されたメンバーは緊張しながらも一歩前に踏み出して堅苦しいお辞儀をしたり、その一方で余裕そうにふざけて会場の笑いを取ったりと反応は様々で、そんな個性の溢れた彼女たちの姿は、ラジオの向こうではこれまで決して伝わってこなかった光景だ。

 大きなカメラを回すスタッフたちの顔にも時折笑みが溢れる。

 「そして最後にウクライナに咲くライラック・・・ナタリア・リヴォフスカヤ!」

 「・・・はじめまして!ナタリアです!」

 メンバーは各々頭に好きな種類の花飾りをつけていた。

 ナタリアが数ある花の中から選び取ったのは白いライラックで、ぎこちないお辞儀とともにその小さな無数の花びらがまるで小刻みに弾む彼女の胸の鼓動のように揺れ動く。

 会場から鳴り響く拍手に顔を上げると、観覧席にいる客たちは皆笑顔で受け入れてくれる。それが緊張気味な彼女の心を、言いようのない安堵で包み込んだ。

 「それでは早速歌っていただきましょう。ソビエトが誇る新進気鋭の音楽グループで、最初に歌う曲は彼女たちのグループ名ともなっている定番曲、『花束ブーケト・ツヴェトフ』!」

 ブーケト・ツヴェトフ・・・ロシア語で花束という、それぞれ種類も個性も違った彼女たちは今日ここでまた、新たな一歩を踏み出すことになった。

 

 そんな初の番組出演の後、控え室には額に汗を滲ませたメンバーの姿がある。

 「ソフィーのコサージュ、すごく可愛い!それってエリカの花?」

 アンゲリナ・カミンスカヤは自分より四つほど年上の彼女ソフィア・クルニコワの髪の毛に飾られた赤い花を指差す。触れようとするが自分よりも身長が30も離れた彼女の頭上までは手を伸ばさなければ、簡単には届かない。ソフィアは無表情のまま、どこか意地悪く頭を揺らしたり避けたりしてアンゲリナをいじって遊んでいた。

 「よく庭に生えてた。名前は知らなかったんだけど、そんな名前なんだね。リーナの頭に生えたひまわりの方が美味しそうだから、そっちにすれば良かったな」

 「これは食用じゃないったら」

 ひまわりの種は、ソ連国民にとってはとても馴染みのある食べ物だ。寒い地域が多く、ひまわりのイメージは湧きづらいが、これでもソビエトは世界最大のひまわり生産国である。

 モスクワの街角でも煎ったひまわりの種を売る露店が多数見受けられるほど、ひまわりの種とはその芳ばしい香りを一度でも嗅げば誰しも寄り道してつい買ってしまうようなソ連の庶民を代表する食べ物である。

 アンゲリナの頭に飾られたひまわりの花を軽々と取り上げると、ソフィアは自分の髪の毛に飾り付けてしまう。

 そのまま大きな鏡を見つめてポーズを取ってみる。

 「似合ってる。ソフィアとひまわり・・・まるで、ソフィア・ローレンね」

 彼女の背後でエルザが口にしたソフィア・ローレンとは西側世界を代表する大女優のことであった。そんな彼女が数年前に出演した映画に『ひまわり』というものがあるが、それは第二次世界大戦で行方不明になったイタリア兵の夫を探すためソビエトに赴く妻の話である。イタリアとソビエトの合作映画であり、実際に70年代、ソフィア・ローレンは撮影のためにウクライナのひまわり畑を訪れていた。

 「ソフィアだったら、きっと彼女のような女優になれるはず」

 その場のメンバーは皆いつ入ってくるとも分からない女優やソロ活動の仕事の話で持ちきりになっていたが、ナタリアたちの背後、大きな机を挟んで数メートル離れた反対側の壁際に並んだ姿鏡の前に座っていたサラ・マイネリーテもその話題には人一倍の関心があるらしい。

 「私だって絶対にこの中の誰よりも早く女優になれるわ」

 「それじゃあ、もっと努力をしなくちゃね」

 自信に満ち溢れていていた彼女の言葉だが、その近くで淹れたばかりのコーヒーを紙コップに注いでいるエルザの言葉がどこか癇に障ったようで、彼女はむっとした表情を彼女に向ける。

 「今に始まったことじゃないけれどあなたのそういう言葉って毎回鼻につく。この際だから、はっきり言わせてもらうけれど」

 この際だから、というわりにサラがエルザに抗議するのは決して初めてのことではない。周囲のメンバーも、また騒いでいるという様子で彼女を眺めていた。

 「あら、あなたが活躍できることを期待して・・・私はただ、頑張りなさいと言っただけ。そのどこに不満が?」

 「・・・もういいわ、分かってくれないのなら・・・」

 エルザがソフィアに対してかけた言葉と大違いであったことに彼女は腹を立てていたのだ。不満で頰を膨らます彼女は歳に似合わず、まるで駄々っ子少女のようでもある。しかしエルザは決して甘やかすどころか容赦がない。それは彼女たちが出会った昨年から一つも変わらない光景だ。

 「私の言葉に対していちいち噛みついてくるようじゃ、あなたに本当の自信ななんか芽生えるはずもないのよ」エルザはまたもやきつい言い方をする。「本当に女優になれるという自信があるのなら、言葉じゃなく行動で示してちょうだいな」

 頭に飾りつけられた白いユリが室内照明に照らされてどこか眩い後光を放つエルザは、素っ気なく言った。白いユリの美しさは彼女にこれ以上ないほどふさわしい。何事にも動じない堂々とした威厳や美しさは、格好いいというより小ぶりで可愛らしい印象を与える黄色いヒヤシンスの花を頭に飾るサラにとってどれも妬ましく感じる要素に他ならなかった。

 「あなたのことは絶対好きになれない・・・きっと今後もそう」

 小声でそっとぼやいたサラの言葉も、エルザは決して聞き逃さない。

 「そう?私は好き、はったりでも自信満々なあなたのこと。片想いじゃダメかしら?」

 本音かどうか全く見えてこないエルザの言葉に、サラの感情はますます逆撫でられる。

 「・・・いいわエルザ、どっちが先に女優のオファーが入るか、勝負しましょうよ」

 突然のサラの提案に、エルザはコーヒーを口元に運ぶ手を止めた。

「賭け事?望むところよ」

 強気のエルザは当然、彼女の挑発じみた賭けに乗った。

 「私が勝ったら、このグループのリーダーは私が引き受ける」

 普段からもっぱらメンバーの世話役は最年長であるエルザの仕事だったが、毎回彼女に仕切られることもサラは当然快く思っていない。

 「あらあら、ミーシャの許可だって降りるか分からないのにずいぶんと強気に出るものね。じゃあ、あなたが負けた場合は?何をくれるの?」

 「私が負ければ、もちろん大人しく従う。あなたの命令にもミハイルさんの命令にも。もちろん、あなたが正式にリーダーになっても」 

 エルザはキツネのようにズル賢そうな目をさらに細めてニヤリと笑みを浮かべる。

 「残念だけどサリー、この勝負はあなたの負け。実は来月、名作オペラを現代版にアレンジしたシリーズで、その第一弾『椿姫つばきひめ』に、主人公ヴィオレッタ役での出演がとっくに決まっているの。女優第一号は、この私」

「・・・は・・・えぇ!?」

 驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになっていたサラの背中を、彼女は優しい手つきで支える。ソビエト建国の父であるレーニンがヴェルディのオペラを好んで観ていたことはソ連では有名な話だが、その中でも「椿姫」はレーニンのお気に入りだった。つまり、それは党の大きな期待を背負う配役ということでもあり、サラは悔しくて惨めで、もはや返す言葉もない。

 「ゔぃ・・・ヴィオレッタなんて所詮娼婦しょうふじゃない、売春婦、あなたにお似合いよね・・・」

 負け惜しみじみた汚い言葉を吐き出すが、エルザは気にも留めない。

 「じゃあサリー、負けは負けなんだから私の言いつけはきちんと聞いてもらうわね。リーダーが誰になるかはすでに決めてある」その言葉で、その場にいる全員の目が一斉に彼女に向けられる。「ああ、安心なさい。私じゃないわ。・・・それに、舞台の真ん中に立つのが常にリーダーってわけじゃないのよ。みんなが真ん中に立つチャンスがある。それが私たち“花束”だから」

 花束は、見る角度によって見え方が変わっていく。

 どんなに目立たない花でも配置さえ変えれば途端に目立つようになるのだ。

 そう言い残して手元のコーヒーを飲み干し紙コップをくしゃりと握り潰すと、彼女はその場から遠ざかろうとした。

 しかし立ち去ろうとする彼女の背中を、負け犬よろしくサラは溺れかけている中を必死でもがくかのように呼び止める。

 「ま、待ちなさいよ!あんたってば!」エルザの仕組んだ出来レースに付き合わされたことに対しての不満をどこかに含みつつ、唸る。「いつもそうやって私のことをメンバーみんなの前で小馬鹿にして一体何が楽しいのよ?私は、それでもリーダーに憧れてる!一番になりたいの!なっちゃいけないの!?そう願うのは間違い!?」

 声を上げた彼女に、エルザは無害だがある意味残酷な笑みを湛えたまま振り返る。

 「自分の頭で考えなさい」

 当然のようにろくに答えもくれないまま、彼女が控室を出ようとドアノブに手をかけると、ちょうど戻ってきたばかりのニノ・ヴァシュキロワと鉢合わせた。

 「あらあらニノ、今までどこに行ってたの?」

 「ちょっと頼まれごとをね。ああ、髪の毛の白いユリ、よく似合ってる!すごく綺麗だよ」

 「お上手ね」

 いつものお調子な彼女の言葉にエルザは、サラに対して向けた微笑みとはまた趣の異なった笑みを浮かべる。

 「それよりも向こうで不貞腐ふてくされている、あなたと同じ黄色のお花が似合うお姫様にも同じような褒め言葉を掛けてあげて欲しいわ。お願いよ」

 耳元にそんな言葉をささやかれたニノは最初あからさまに嫌そうな表情を浮かべたが、エルザにしては珍しく頼み込むように言われては根はお人好しの彼女はどうにも無下に断れない。と言うよりも慌てて我に返ってその意図を問いただすべく声をかけようとした時には、すでに件のエルザは廊下の奥の闇へ消えていた。

 掴みどころのない彼女に放置されていたサラは化粧鏡の前に一人座りながら、ぶつくさと不満げな言葉を発している。そんな彼女の背中を、少し離れた位置にいるナタリアたちもどこか心配そうな様子で眺めていたが、彼女から発せられるネガティブな雰囲気が、誰も近寄らせない大きな見えない壁を作っていた。

 一体エルザはサラに何を言ったのだろうか。戻ってきたばかりのニノには状況など何も分からず、おまけに、その後始末を任されたことだけはようやく察しがついた彼女は思わず、周囲に聞こえるほどの大きなため息を吐いた。

 「・・・な、なぁサリー、私もあんたも、黄色だね・・・」

 サラの目の前の鏡に、ぎこちない笑顔を浮かべたニノの顔が映り込む。

 鏡に映るニノの顔を睨みつけるように、その鏡にはサラの不機嫌極まりない顔までもが一緒に映り込んだ。

 「・・・あんたのヒヤシンス。私のガーベラより」

 ぎこちない言葉は、ニノの気持ちが素直に出ている証拠だ。普段からサラとは口喧嘩ばかりで、いざ褒めろと言われたところで面と向かって褒められるはずもない。気恥ずかしさがどうしようもないくらいに邪魔をする。

 「醜い?」

 「違う」

 「汚い」

 「違う違う」

 「くすんだ黄色」

 「今日は一段と面倒くさいよもう・・・」

 今更逃げることもできない状況に追いやられるニノに残された選択肢はもはや褒めるという一択だけ。

 「・・・似合ってる」

 「・・・は?」

 「私のよりも。ずるいよ、きれいな花だし。どうしてだろうね、そっち選べばよかったなぁ・・・って」

 相手の言葉次第ですぐに気分がコロコロと変わりがちなサラは、頭を掻きながら視線を泳がせて呟くニノの言葉を真に受けて、同じようにどこか照れくさくなって微かに顔を赤くしている。

 「も、もう意味がわからない。用がないのなら早くあっちに行って」

 「うるさいなあ、行くつもりなんだよ!」

 一方のニノも、人を褒めること自体は普段から好きなのに、彼女を前にした場合は何故こんなに恥ずかしい思いをしてしまうのか分からないまま、颯爽とその場から踵を返したら、真っ直ぐにナタリアたちが控える化粧台の元に逃げるようにやって来る。

 顔を薄赤くして必死に逃げてきたニノを、サラ以外のメンバーは面白可笑しそうに出迎えた。

 「サラも可愛いけど、ニノの反応も可愛いよ」

 ナタリアが笑いながら言った。こんなことに焦り恥じらいを隠せなくなっている彼女なんかこの一年で一度も見たことがなかったのだから。

 「よして、何があったか知らないけど・・・これは全部エルザのせい」

 今でもサラの突き刺してくるような戸惑いの視線を、ひたすら背中に感じていた。どうせあとでエルザを捕まえて追及しても、彼女はメンバー全員が仲良くなるためには大事なこと、だとかそんな、さも真っ当そうな理由を突きつけてくるに違いない。

 当然ニノは、エルザという女はそんなことを自分たちにさせておいて自分一人背後に立って笑いを押し殺しているような女狐、と思い込んでいる節があるため微塵も信用してなどいない。サラを褒めさせたのも、彼女の些細なお楽しみに自分が利用されただけだと思わずにはいられなかった。

 クララから差し出されたお茶の紙コップをひとしきり飲み干したニノは急に思い出したようにナタリアに向き直る。

 「そうだナタリー、伝言がある。スタジオに電話があったらしくてスタッフに呼び止められて、あんたの代わりに対応したんだけど」

 ニノはポケットから伝言を書き記したメモを取り出してナタリアに手渡す。メモには病院の名前と、病室の番号。そして一番下には見慣れた名前が確認できる。

 そのメモに刻まれた一人の名前に彼女は言葉を詰まらせると、黙り込んだままその場に呆然と立ち尽くす。周囲のメンバーも気になった様子で、彼女のメモを真横から覗き込んだ。

 「驚いた。あんたアフガンにお兄さんがいるんだね。無事でよかった・・・」

 ニノはまるで自分のことのように彼女の兄の生存報告に安堵していたが、それより怪我の心配をするナタリアをしっかり励ますべきかどうかで言葉選びを迷うような様子でもある。

 だって目の前にいる彼女の心は一刻も早く病院に駆けつけて、兄と再会したいという気持ちに支配されていたのだから。

 「ね、ねえ!ニノ!私今すぐ病院に行っても大丈夫かな・・・!?」

 ナタリアの兄であるアレクセイ・リヴォフスキーは、アフガニスタンで負傷し、カブールの病院に運ばれた後、現在はモスクワの大病院に入院しているというのだ。無事でよかったと思う反面、それ以上に手足を喪っていたりしないか、などという心配事が今度は湯水のように、次から次へと彼女を襲ってくる。

 「行ってきて。エルザには私たちが伝えとくよ」

 「今すぐに行ってあげてナターシャ。大事な家族なんだから」

 アンゲリナが不安がるナタリアの背中を押す。彼女は強く頷くとカバンを手に取り、テレビ局の廊下を無我夢中に走った。カバンの中に手を入れて、彼から預かっていた大事なウォークマンを、握りしめていた。





 モスクワの大病院の一人用の病室のベッドでアレクセイ・リヴォフスキーは気だるそうに虚空を見つめていた。

 右脚と頭部には包帯がぐるりと巻かれている。自分の真隣で哨戒任務にあたっていた戦友と違い手足をもがれ、命を喪い・・・ということは幸運なことになかったものの、アメリカをはじめとする西側の国家が支援したアフガンゲリラが自陣に向けて撃ちこんできた迫撃砲弾の破片は、彼の身体から肉を抉り取った。

 たったの一年間のアフガン駐留。その拭い去ることもできない惨めな事実の前に、アレクセイの目には悔し涙が滲む。本当はもっと活躍できたはずなのに、戦場で過ごした日々は自分が思っていたものとは明らかに違っていたのだ。見えない敵から攻撃を受ける自分たちは銃を撃つ機会もほとんど与えられなかった。

 「アリョーシャ・・・」

 病室の扉が、小さく開けられる。かすかに顔をのぞかせたナタリアの顔をアレクセイは一瞬、認識できなかった。そもそも彼女の小さな呼び声も彼の耳から脳へ届くのに、少しの時間を要した。

 ようやく彼女の声が現実味を帯びて頭に入り込んでくると、彼は無言のままで、ドアの隙間から覗かれる彼女の全身をゆっくり目に収めた。

「・・・ナターシャ?」

 ようやく言葉を発した彼に、彼女は安堵の笑みと、そして少しの涙を目に浮かべて病室に足を踏み入れ、夢中で彼が横たわるベッドに駆け寄った。

 ナタリアはアレクセイの体に巻かれた包帯の存在などまるで気にした様子もなく、彼を抱きしめる。その瞬間彼は懐かしさに目を細めた。ずっとこれまで自分につきまとってきたのは消毒液と包帯の匂い。そして生臭い血の匂い。

 だがそんな世界に彼女がもたらしたのは忘れかけていた実家の暖かい香りだ。ムィコラーイウ村から遠く離れたこのモスクワにやってきてもなお消えることのない昔からの彼女の香りが、自分を地獄の戦場から現実へと引き戻していくような気がしたものの、瞬間、彼は自分はこんな幸せな場所にいるべきではないと、無意識に優しい彼女の腕を振りほどいている。

 「・・・すまないなナターシャ・・・その、痛むんだよ」

 気まずさを紛らわすためか、ナタリアは懸命に首を振った。

 「そうだよね、まだ傷だて治りかけなのに私ったら、こんなに早く再会できると思ってなかったから・・・ごめん、アリョーシャに会えたの、すごく嬉しかった」

 二人の間には微妙な空気が流れている。

 彼は、彼女ほどこの再会を素直に喜ぶことはできなかった。早々に戦場を離れてモスクワにやってきたのは全く不本意なことなのだから。

 自分がこれまで思い描いてきた理想とは、アフガンで誰よりも活躍し、モスクワの群衆に笑顔で出迎えられる景色に他ならなかったのだ。

 「信じられないかもしれないけど・・・私ね、今日初めてテレビ番組に出演したんだ!」 

 「・・・そうか」

 彼はどこか関心もなさそうに言った。

 「信じてないでしょ?私だって信じらんないよ!放送は後日だから・・・アリョーシャにもちゃんと見て欲しくて」

 「・・・うん」

 何を言っても彼は上の空で、ナタリアはそんな様子に戸惑ってしまう。目線もふわふわと漂いがちで、ろくに自分には合わせてくれない。

 「本当に、観てくれる?」

 「・・・ああ」

 自分の知っている兄の姿とはかけ離れた別人が自分の目の前に横たわっているような気がした。匂いだって彼女が知っている兄の匂いではない。

 一体何が彼を変えてしまったのだろうか。

 ・・・欲しい言葉は、相槌なんかじゃないのに。


 彼女はせめて彼に気分を良くしてもらおうと、思い出したように手元のカバンからウォークマンを取り出した。その機械に見覚えのあった彼は、わずかに目を向けた。

 「兄貴、この約束覚えてる?もし無事に再会できたら、私が兄貴にこれを返すと・・・」

 彼女は彼の固く握り締められた右手の拳を優しく開くと、その手にウォークマンを握らせる。中に入ったカセットテープにはビートルズの曲が入れられていたが、それを裏返せばちゃっかり彼女が初めてラジオで歌った時の曲も一緒に録音されていた。

 あとで自分の歌も彼に聴いてもらおうという魂胆だった。

 「・・・なんで、今返すのさ」

 ところがアレクセイは、どこか怪訝な表情で、彼女に握らされたウォークマンを見つめる。

 「約束、覚えてないの?」

 寂しくて、悲しそうなナタリアの目がアレクセイを捉える。

 「その約束は覚えてるよ。でも・・・今返されたら仲間のところに帰れないだろ。俺はいつまでもこんなところに居座るつもりはない。これはまだお前が持っとくべきものだろ、でなきゃ次こそ再会できなくなりそうだ」

 彼は機嫌が悪そうにそれをナタリアに突き返す。

 何を言っているのかさっぱり分からない彼女はますます困惑した表情を浮かべた。

 「どういう、こと?」

 「まだ俺は、やるべきことをやれてない」

 相変わらずの不満顔で言った兄の態度に、とうとうナタリアは感情的になっていた。

 「せっかく人が心配ばしとるとに・・・!なんね、さっきからそん態度は」

 「お前に心配して欲しいとは、これっぽっちも思っちゃいない」

 「アリョーシャの馬鹿!正気じゃなか!こんなにボロボロになって、またアフガンなんかに行くつもり!?・・・信じられないよ」

 ナタリアには戦場に戻りたがっている兵士の気持ちなど微塵も理解できないが、戦場にいる仲間のことを忘れられず、あの地獄から逃げ出して自分だけが安全なところにいることに対し、計り知れない大きな罪悪感を抱える兵士は、この病院にも数多くいる。

 とりわけ強い正義感を持ったアレクセイも、まさにそんな兵士の一人だった。

 「分かってくれ、ナターシャ。ソ連に精一杯奉仕して西側と戦うのが俺の役目だ。国民の仕事だ。お前がアイドルなんてものを目指してるのも、そのためだろう?」 

 「・・・そうだけど、私は兄貴みたいに命の危険なんか冒したりしない!」

 「お前だってもう立派な大人だ。・・・分かるはずだ。どんなに危険なことでも、誰かがやらなきゃいけないことはある」

 「それは・・・でもそれは、他の誰かに任せればいい仕事じゃない!?」

 「他の誰か?」アレクセイの表情には怒りが込もる。「ふざけんな・・・!なして俺が英雄になったらいかんば言うったい!?今こうしよる間にも、たくさんの仲間がアフガンで命ば落としよるったい、なして!なして、俺ん大切な仲間ば救うことば許してくれんったい!?」

 アレクセイは感情的になると珍しくウクライナ語で声を荒げるが、目の前で少し怯えた表情をのぞかせた妹の顔を見つめると途端に冷静になる。

 ・・・彼は昔からひたすらソ連の英雄になることに憧れを抱いてきた。ガガーリンになることを夢見てきたのだ。皆が英雄になるように学校で教わってきたのだ。

 ソ連という国は常に戦時中である。常にお国のため、というスローガンが叫ばれ、国のために働き、国のために考え行動し、家庭はいつも二の次だった。この国では何があっても生活の豊かさよりも軍事力や思想が優先される。軍隊生活によって彼はますますそれに磨きがかかっていた。自分の力で少しでも多くのソ連国民が幸せに、安全に暮らすことができるのなら、彼はそれだけで幸せに感じていた。

 利益ばかりを追い求めて貧富の格差が生まれるようなアメリカや資本主義を憎み打倒しようなど、かつての西側の音楽を愛する彼なら馬鹿馬鹿しいと一笑に付していたというのに、今ならソ連国民の幸せのためなら自分の身体を犠牲にしてもいいとまで思い込んでいる。

 「でも・・・私たちにだって家庭はある。私にとってアリョーシャは大事な家族だよ、そんな私たちよりも誰かの家庭を守る方が、大事だとでも言うと・・・?」

 悲しそうに訴えるナタリアに対してアレクセイは変わらず黙り込んだままで、何も言わなかった。

「そんなに勲章を手に入れるのが偉いの?勲章のため、自分の命を国に差し出すことが偉い?ううん、そぎゃんのはおかしか、絶対に馬鹿げとる・・・!」

 ナタリアは見えない何かに洗脳されてしまった兄を救い出すかのように、さらに言葉に力を込めた。

 病室には彼女の訛りの強いウクライナ語だけが響く。

 「全員が全員英雄やったら、そん勲章ん価値だって英雄ん価値だって、きっと全部が薄れてしまうに決まっとるばい!英雄なんて・・・なるる人間だけがなればよか!アリョーシャは所詮、そん器じゃなかっただけばい!」

 ナタリアはただかつてのように一緒に西側で生まれた洋楽を、彼と一緒に楽しんで聴きたかっただけなのだ。

 それなのに、そんな彼女の言葉が追い討ちのようにアレクセイの心を深く抉り取るだけだった。

 「今すぐ、出て行け」

 何を言ってもそんな赤の他人のような冷たい言葉しかくれない兄に、ナタリア自身も深々と傷ついていた。気がつけば足は回れ右をして病室を飛び出し、彼女は今、病室の前の廊下に立ち尽くしていた。

 なぜ自分の気持ちを彼は分かってくれないのだろうか。

 ・・・そんな思いが彼女の胸を苦しいほどに締め付けていく。

 苦しみは涙になって頬をとめどなく伝い、ナタリアは嗚咽を含みながら廊下の壁際にしゃがみ込んで泣きじゃくっていた。


 病室に一人残されたアレクセイは、変わらず病室で一人虚空を見つめていた。

 来る日も来る日も吹き荒れる砂塵の中で見えない敵と戦い続けた。食料や物資を運ぶ補給部隊がムジャヒディン(アフガンゲリラ)の襲撃を受けて散々な目に遭い、アレクセイの部隊はムジャヒディンが潜伏していると思われる村に対して報復を加えたことがある。

 情け容赦なく、村ごと火炎放射器で焼き払っていく。

 不審な動きをする者を容赦なく殺害した。

 ある村を訪れた時、一人の子供が彼のもとに近寄ってきた。その子は爆弾を衣服の下に隠し持っており、子供だと思って油断して近づいた兵士たちの前で起爆装置を作動させようとする。

 すぐさま兵士は反撃に出た。

 愛らしい顔をした男の子は周囲から浴びせられた一斉射撃で一瞬にして肉片となる。

 ・・・爆弾は爆発しなかった。

 そして、子供のいた村はゲリラが潜んでいるという疑いをかけられて焼き払われる。


 昔、アレクセイはこんな光景を戦争映画で見たことがあった。

 ナチスがベラルーシの村々を焼き払う映画だ。

 大祖国戦争(第二次世界大戦)によって、六百以上もの村がベラルーシの地図から消えた。どの村でも全く同様のことが繰り返されて、パルチザン(反独ゲリラ)狩りに燃えるドイツ軍の親衛隊、アインザッツグルッペン、それらの犯罪集団に加担するドイツ国防軍の兵士たち、そして昨日までは味方だと思っていた隣の家の、実はナチスの協力者だった住民・・・ありとあらゆる鬼どもが、パルチザンと、パルチザンの疑いをかけられた無実の住民すべてを一つの大きな納屋や教会に押し込んだ挙句ガソリンを撒き、手榴弾を投げ込み、火炎放射器で焼く。

 地獄の業火の中からは人々の阿鼻叫喚の断末魔がこだました。

 ドイツ軍はそれらを笑い飛ばすと、次の村へと進軍する。時々子供は焼き払われた村で許してもらい生き残ることもあったが、そんな子供たちの目という純粋で曇りのないレンズには、自分たちの親が木に吊るされ、目の前で焼かれ、身体中を銃弾で蜂の巣にされていくさまがはっきりと焼きついた。子供たちの一生消えることはないトラウマはこうして形成されていく。

 ・・・彼らは一生ドイツ人を恨むだろう。

 アレクセイは自分たちの行為もまたアフガン人の恨みを募らせるのに一役買っていることを自覚していた。最初はアフガニスタンをアメリカの帝国主義から解放しようという信念に燃えていたのに、その地にやって来れば待ち望んだ現地住民からの暖かい歓待の声は殆どなく、家を喪い悲観にくれる老人の姿が、親を喪ってむせび泣く子供たちの姿が、正義を信じて銃を握りしめていた彼の目に飛び込んできた。

 敵は軍服を身につけていなかった。

 西側社会は、自分たちソ連軍を“殺戮者”として新聞に書き立て、朝のニュースで盛んに報じるだろう。

 全ては敵が悪い!・・・軍服も身につけずに女子供、老人を使って卑怯な攻撃を企てる連中が!!

 ・・・ところが、そう彼が思えば思うほどナチスの蛮行は否定できなくなってしまうのである。彼らもまたパルチザンの卑怯な手口に対するひとつの対抗策を打ったまでで・・・。

 アレクセイはまた、どうすることもできない葛藤に涙を頰につたわせた。


 

 ◇


 

 夏が終わり日照時間が徐々に短くなって秋もすっかり深まったモスクワの夕暮れの中、ミハイルは一人の男の背中を追っていた。

 昨年からその居場所は突き止めていたが、その時はまだ私服姿のKGBに周辺警護を受ける要人の身であったため、殺害を実行に移すことは極めて困難であった。

 しかし安全であると判断されたらしく、この度KGBの警護リストから外されたという情報を、ミハイルはルビャンカ(KGB本部)に潜り込ませた内通者から得ていた。

 彼は狼のように、そんな彼の背中を追う。

 どこか挙動不審な動作で、人目を気にするように人通りの少ない道ばかりを選んで歩くその姿からは、誰かにつけられることを警戒した様子がありありと伺える。男が手に提げる網状の手提げ袋には牛乳瓶のラベルがぼんやりと見えた。

 それは、孤独な老人の背中だった。

 「エフゲニー・リガチョフだな?」

 カビのような湿った匂いの充満する古びた建物のエントランスへ足を踏み込むと、ミハイルはすぐさま目の前を歩いているあまりにも無防備な老齢の男に後ろから声をかける。

 「だ、誰だあんたは・・・」

 咄嗟のことにひどく狼狽した男が怯えきった顔を後ろに向けると、そこには脛まである丈の長い、灰色のロングコートに身を包み、ぎらりと鋭い目つきをしたミハイルが茶色い革手袋をつけた両手をぶら下げて、堂々と立っている。その姿に驚き、慌てふためく男は手に下げていた買い物袋を床に落とし、牛乳瓶の割れる音がエントランスにこだまする。

 「1978年。黒海で、原子力潜水艦の大規模な事故が起きた。」

 「し、知らん!私はエフゲニーなんて名前じゃない!私の名前はボリス・・・」

 戦慄した表情を見せたのもつかの間、アパートの入口のエントランスでミハイルは胸元から消音器サイレンサー付きのトカレフを素早く引き抜くと、逃げようとした彼の背中に三発の銃弾を即座に叩き込む。

 その挙動に一切の迷いはない。銃口からは白い煙が天井に向かってまっすぐ立ち昇っていた。

 「ルスラン、この男をそっちの世界に寄越すよ。どうしたいかは・・・君が決めてくれ」

 男は何も語らないまま血まみれになって床にずしりと倒れこんだ。流れる血だまりに真っ白な牛乳も混じり合い、コンクリートの床には異様な文様が描かれる。

 かつて兵器設計局に勤務していた彼は原子力潜水艦に搭載する原子炉設計の責任者であったが、納期に間に合わせるため安全テストが不合格だった項目を無視して書類を改竄し、軍に潜水艦を納品した。この国では“どの月の何日までに納品せよ”という命令が出されれば厳密に守らねばならない。自己保身のために平気で道徳や倫理を無視し、そのことで生じる弊害にも目を瞑る。

 黒海でまたもや起こった原子力潜水艦の事故はソ連当局にも大きな衝撃を与えたが、政府は責任者の更迭だけでその事件を収束させたばかりでなく、炉心溶解メルトダウンを食い止める作業に従事した際の被曝によって犠牲になった隊員5名を、潜水艦の沈没という最悪の事態を退けた英雄として美談に仕立て上げ、国民の関心を逸らしたのだ。裁かれるべき人間は公正に裁かれず、目の前を歩くその男もまた職を追われただけでそれ以上の処罰は受けず、年金まで受け取っている・・・ミハイルはこの男の抹殺こそがせめてもの、親友に対しての弔いだと考えていた。

 エントランスに散らばった薬莢を三発分すべて拾い上げるとポケットに放り込み、遺体を軽々と引きずったのち、暗緑色の死体袋に包むと彼はそれを引きずりながら人気の無い裏口に出た。裏口には一人の男が壁に寄りかかってタバコをふかしている。今日もその容姿はまるで赤の他人だが、よく見知ったCIAと繋がりがある協力者だ。

 「ゲオルギー。手伝ってくれ」

 ミハイルの呼びかけに気づいた彼はタバコを足でもみ消し、人目を気にしつつ重たい死体袋を車のトランクに二人掛かりで押し込む。

 「君はこうやって時折面倒ごとを起こすんだから、困ったものだ」

 「情報提供の見返り程度の仕事はやってもらいたい」

 「ミーシャ、君は感情的になりがちだ。スパイとしては失格かな」

 確かにミハイルの行為はかなり個人的なものだ。殺したところでどうなることでもないという自覚はミハイル自身にもあったのだが、かと言って、このまま自分の親友を殺した元凶の男をのうのうと生かしておくわけにもいかない。

 トランクに積んだ死体袋はモスクワ郊外に運び出し、硫酸をかけて重石ごと下水道に放り込む算段だった。

 「アイドルたちの方はどうだ?」

 車の運転席に腰を落ち着かせた愛煙家であるゲオルギーは香りの強いフランス煙草に火をつけながら言った。 

「順調さ。去年と比べたら皆ずっと成長している」

 ゲオルギーはミハイルの自信たっぷりな言葉に満足そうに煙を大きく鼻から吐き出しながら笑みを浮かべた。ミハイルのことを信用していないわけではなかったが、正直なところ当初、荒唐無稽なその計画には少し半信半疑だった。ところが彼は一年でそれなりの成果を見せつつある。

 今やラジオの電源を入れれば1日に4回は彼女たちの歌が聞こえてくるような有様だ。無論そんなプロデューサーという名を借りた工作員としての腕前もさることながら、スパイとなった彼が提供する共産党内部の機密情報もCIAには大いに役立っている。特に政府の国家戦略の機密情報を知るには、ミハイルのような上層部という立場に属するスパイから得る情報は誰よりも信憑性があり、非常に有益だった。

 「ソ連政府は彼女たち『ブーケト・ツヴェトフ』を、外貨獲得の手段と位置付けているようだな」

 「そうなることを見越している。彼女たちが世界的に有名になれば、それだけ世界ツアーの機会も増える。世界を知ればソ連がいかに間違った国かを、自身の目と耳で知ることになるだろう。その時ようやく、彼女たちの手でソ連は崩れ去る」

 「しかし・・・もし君の目論見が外れたら?ソ連の経済が彼女たちの手によって持ち直し、かえって再びソ連が強大な国になれば?彼女たちが人種や宗教の隔たりを超えて団結すれば、その時こそ我々CIA《ラングレー》は、君を見限りかねない」

 CIAが彼の計画を支援するのはあくまでも彼がソ連を弱体化させる工作活動を行う、と約束したからであった。もしソ連の経済を弱体化させるどころか逆に意図せず強めてしまい西側との冷戦が再び激化していくとなると、アメリカにとってミハイルや彼女たちはもはや邪魔者に他ならない。

 彼女たちの存在はいわば諸刃のつるぎでもあった。

 だがそんなゲオルギーの懸念の声をミハイルは強く否定した。

「いや。ソ連国民は自由を縛られることに十分嫌気がさしているよ。アイドルが民主化の起爆剤になるなら、それは確実に誘爆を引き起こして、たちまちこの国は崩壊する」

 昨年と変わらず確固たる確信を抱く彼の言葉に、ゲオルギーはもはやこれという疑問を挟む余地もなく、頷くと、すでに山盛りになった灰皿のわずかな隙間に、吸い終えたばかりの短い煙草を擦り付けた。


 

 『ブーケト・ツヴェトフ』のメンバーが皆共通に抱くのは愛するソ連という国を良いものに変革したいという想いだった。ミハイルはソ連を内側からことごとく破壊するという本音を隠しつつもそんな想いを理念として掲げ、建前にしてきた。

 だが時々ではあるが・・・そんな建前が時々ぐるりと、逆さまに反転してしまいそうになることがある。

 ソ連が変われば果たして皆が幸せになれるのだろうか。ナタリア・リヴォフスカヤという純粋で無知な、ソ連を真っ直ぐに愛する少女に出会ってから、あえてソ連を崩壊させず、その改革を心の底から望んでもいいのではないか、という想いも時折感じるようになっていた。

 彼女にはそんな誰かの心を揺り動かす不思議な力がある。

 だがそんな時、同時に天秤にかけられるようにして潜水艦事故で死んだ友人の悲痛な顔が彼の脳裏を掠める。


 放射線で真っ赤に腫れ上がった彼の顔が、形を失って次第に溶けていく・・・。

 痛みや悲しみという忘れたい記憶は、時間の経過とともに忘れてしまうが、自分はそんな記憶を決して忘れないようにしてきたではないか。

 きっとソビエトを崩壊させなくては、いずれ近いうち、またもや誰か近しい人が死ぬ羽目になる。

 ミハイルは常にそう感じていた。友人の復讐のためだという個人的な執念によって、純粋な彼女たちを利用していることには若干の罪悪感も感じることはあったが、あくまでも万人の正義に繋がることを信じ、そのような葛藤を押し殺すようにミハイルは車をゲオルギーに任せて降りると、黙々と人気のない路地を歩いた。

 

 『花束ブーケト・ツヴェトフ』のメンバーたちが住まう集合住宅コムナルカの四階、最上階の広い部屋で、ソファに腰掛けるエルザはアメリカ大使館の職員から密かに受け取った西ドイツの新聞に目を通していた。情報統制が相変わらず厳しいソ連では決して知り得ない情報が多く掲載されているが、その中でも東ドイツの情勢に関して書かれた記事が彼女の目を惹く。

 近頃では反政府集会が盛んに繰り広げられ警察との乱闘騒ぎも増えてきているのだという。

 数年前まで、西側でもベトナム反戦運動といった若者達の運動が盛んに繰り広げられていたが、それは東側にも別の形で波及しつつある。

 時代はもはや強力な警察権力では大衆を抑えきれず、マスメディアによって良くも悪くも変容する世の中になっていた。アイドルとして、マスメディアの急先鋒に身を置いているエルザは、自分たちなら絶対に世の中を変えられるという強い自信を改めて胸に強く抱いていた。


 「何を読んでいるんだい」

 ソファの後ろからミハイルが顔を覗かせると滅多に帰らない主人の姿に彼女は少し驚いた様子で肩を揺らしたが、すぐ彼を抱き寄せる。

 「ミーシャ、珍しく帰ってきたのね」

 「またすぐにここを離れるよ。党の仕事が忙しくてね。君には重ね重ね仕事を任せることになると思うが」

 「いいのよ、私がここじゃ一番の歳上なんだから、しっかりしなくちゃね」

 歳が20近く離れた彼女が、自分に対して好意を寄せていることをミハイルは肌で感じていた。

 それだけの歳の差があれば子供となんら変わらないと言っても彼女は一向に構わない様子で、あれだけ皆の前では気丈に振る舞う彼女でもミハイルの前だけではどこか甘えた様子を見せる。

 確かに彼女が持つ美貌は世界的な映画女優と比べても決して謙遜はない。しかし彼女のそんな甘え方が娘のように可愛らしく思うことはあっても恋に発展するようなことはあり得なかった。誘惑するように身体の関係を求められても、ミハイルはわざと鈍感なふりをしてそんな誘いを断り続けている。彼女がそれでもそんな冷たい彼のことを諦めないのは、アイドルのふりをしてミハイルと同じ危険な工作員、スパイとしての道を歩んだ部分からも伺えた。

 

 1963年。霧に包まれるドイツのベルリン市内で、数発の銃声が響いた。ベルリン市内を東西に二分する壁、いわゆる“ベルリンの壁”を乗り越えようとして一人の男性が射殺されたのだ。


 上に深緑のシートを被せられた遺体が横たわる担架の横で泣きじゃくる少女がいる。

 ・・・彼女は射殺された父親に連れられて西側に亡命するはずだったのだ。

 東ドイツ政府は壁が建設されて以降、西ベルリンに亡命しようとする自国民を容赦なく射殺するよう軍や警察シュタージに強く命じてきた。

 自分の国から人材が流出することを極端に恐れていたのだ。捕らえられた少女は警察に連行され、思想の再教育・矯正施設に何年か入れられたのち今度は孤児院に預けられ、やがて東ドイツ市内の熱心な共産党員の家庭が彼女を引き取った。

 教育熱心な家庭に育てられた彼女は亡命未遂者としての父親の汚名など忘れさせるかのように共産主義者に染まり、やがてシュタージに入隊し、今度は政府の体制に批判的な国民を厳しく取り締まる立場になった。

 一見すると彼女は東ドイツの目論見通り政府に忠実な、理想の国民になったわけだが、決して自分の父親を殺された恨みを忘れてはいなかった。したたかな彼女は何年も我慢に我慢を重ねて、東ドイツにさも忠実であるふりをしてきたのだ。

 自分の父親を撃った張本人である警察組織に入隊したのも、復讐以外の目的はない。国民の中に潜む反体制派を調査する彼女は十数年前に射殺された自分の父のことを記録したファイルを閲覧し、父を射殺した人物の名前を割り出した。その男はすでに退職し、おまけにベルリンの壁突破を阻止したとして勲章まで授与されていた事実が明らかになった。

 当時から工作員としての訓練を積んできた彼女はためらいもなく彼の殺害を実行に移す。その際、自分の手を汚すようなことはしなかった。まずは隠居生活を送っていたその男に接近して誘惑し・・・相手が老齢であるにも関わらず、彼と身体の関係を持つ。

 それと同時に、彼女は、彼とは全く無関係な現役兵士である若い男とも身体の関係を持ち、やがて彼との枕元でこう囁いた。


”老いぼれに毎日のように強姦されている”


 ・・・若い兵士の憎しみを利用し、その彼に老齢の男を殺すよう仕向けたのだ。

 その若い兵士というのも、やはりベルリンの壁を突破しようとした無実の民間人をかつて射殺した人間であったため、彼女には何の罪悪感もなかった。彼女は父の仇を討つと同時に、同じように壁のそばで誰かの命を奪った彼を労働収容所に送ることにも成功する。

 復讐はそんな風に、さもあっけなく終わってしまう。

 自分を苦しめ続けた悪人を倒したのだ。

 ところがそんな彼女の心を覆ったのは・・・なんと言いようもない虚しさだけだ。彼を殺害したからと言って、父親が帰ってくるはずも無ければベルリンの壁が建設された際にベルリンの西側地区に買い物に出ていた自分の母親と弟にもどのみち、会うことはできない。

 彼女の新たな復讐の手は祖国東ドイツ、ましてや東側陣営の盟主ソ連そのものに向けられることになった。歪んだ共産主義体制を壊さねば自分の復讐は完遂しないと考えたのである。彼女は東ドイツ国内に潜伏するアメリカCIAの工作員といつしか接触し、様々な機密情報を彼らに提供するようになっていくが、そんな彼女の美貌にもしや、と思ったCIAの職員は彼女と、表向きにはソ連の共産党員であり、裏の顔はCIAの協力者であるミハイルを引き合わせる。

 ミハイルは計画のためにソ連中のあちこちから人材のリクルートを行なっていたが、初めて知り合った彼女の魅力や生い立ちに強い共感と関心を抱き、東ドイツ出身者である彼女も『花束ブーケト・ツヴェトフ』のメンバーとして引き入れることを決意した。

 ソ連の改革に燃える救世主たちを、共産党一党独裁による悪夢の体制からの解放に導く“自由の女神たち”へ、内側から変える牽引役として期待したのだ。


 「エルザ。君には、本当にソ連を破壊する気があるか?」

 唐突にそんな質問を投げられて、振り向いたエルザはミハイルの意図を汲み取ろうと考えているのか、しばし黙り込む。

 「ねえミーシャ、どんな回答なら満点をくれる?」

 「・・・正直に答えてくれたらどんな回答だって満点だ」

 エルザはそれまで手に抱えていた新聞をテーブルの上に置くと、まっすぐにミハイルの目を見据える。

 「私はソ連を内側から叩き壊すつもりよ。最初からそう。あなただってそうでしょう?」

 「・・・120点だ。君のことを疑ってすまない」

 ミハイルはまるで先ほどから葛藤に揺れていた本心を覆い隠すように、笑顔で言った。

 「変ね、ミーシャ。何か隠していることがあるんじゃ」

 エルザは彼の汚れた靴のつま先を、まるで先ほどからずっと気になっていたかのように見つめる。その仕草に、ミハイルは心を見透かされたように、心臓をややどきりとさせた。

 「血は革が傷むから早く拭いたほうがいいわ」

 「・・・相変わらず鋭い観察眼だね。ぜひ見習いたい」

 エルザは先ほどミハイルが誰を殺害したのかを知っている様子だった。

 「ほらね、・・・心に抱えた傷は消えない。復讐心は決して消えないのよ。だからあなたがソ連を、もし壊したくないと考えたとしたら、それはきっと一時の気の迷い」

 そんなことも、とっくにバレバレだったのかと・・・ミハイルはかすかに息をつくと、降参するように両手を上げて笑う。

 「ああ、そうかもね。君の言う通りだ」

 「だって、これは私の悲願なのよ。家族揃って食卓を囲むこと。西側にいる私の弟は、最後に会った時まだ3歳だった。でも私と同じくらい大きくなった彼はきっと私のことなんて何も覚えてない・・・。この痛みが分かる?」

 彼は真剣な表情のまま、黙って大きく頷いた。

 「あんな壁を建設した連中・・・ソ連さえなければこんな目に遭わないで済んだのに。私には心から信頼する人はあなたしかいない。KGBに捕まって殺されたって構わないわ、それでも私は自分の復讐を絶対に成し遂げたい」

 「でも不思議だ。国を引き裂かれて悲劇を味わっている君が、民族共同体であるソ連という国家を引き裂こうだなんて」

 ソ連が崩壊すればこれまで団結していた多様な民族はことごとく分断されてしまうというような恐れも、最初からミハイルの胸中にはあった。

 「それは違うわミーシャ。本来あるべき形に戻るだけ。だって今のソ連は力のない民族を武力で虐げた上に成り立っているもの。民族の調和なんて、そんなのは欺瞞ぎまんに過ぎない。悪夢のスターリン時代から何も変わっちゃいない」ミハイルの迷いを打ち消すかのようにエルザは先ほどよりもずっと強い口調で言った。「だから『花束ブーケト・ツヴェトフ』は私の理想。現実の世界は理想みたいにはいかない。でも・・・せめて人種も宗教もルーツもバラバラなあの子たちには、たとえソ連がバラバラになって壊れても、いつまでもこのまま家族でいてほしい」

 理想が現実に決して追いつかないことは、皮肉にも共産主義という皆が幸せに平等に暮らすという理念を追い求めているはずなのに実際には全く追いつけない・・・そんなこの国のどうしようもない現状が、何よりも物語っていた。

 エルザの切なる願いに胸を打たれたミハイルは、改めて目の前の彼女を心の底から尊敬する。

 「やはり君は僕が見込んだ通り、素晴らしい女性だ」

 そんな風に、ミハイルから一人前の女性として扱ってもらっただけで、エルザはたまらなく嬉しかった。自分のためより、もはやミハイルのために身を捧げたいという気持ちの方が、彼女の中で強まっていた。

 

 彼が部屋を出て階段を降りていくと、階下に部屋があるアンゲリナとミハイルは、ばったりと出くわす。

 なかなか会う機会の少ないミハイルを見つけたアンゲリナは元気いっぱいに手を振って嬉しそうに駆け寄ってきた。彼女たちのプロデューサー的存在でありながら、いつも本業の共産党員としての公務が忙しそうな彼を、彼女たちの皆誰もが気遣っていた。中でも特にアンゲリナは、昔からの知り合いである彼のことを実の父のように慕っている。

 「やあリーナ。今日もテレビの収録だったんだね」

 メンバーの中でも歌唱力が最も優れたアンゲリナの初めてのソロでの番組収録であり、それはベラルーシに住む人々の彼女への反響の大きさから実現した企画だった。

 歳は今年で16になる彼女は低い身長のせいか、ずっと歳下に見られがちだが、プロとしての意識はおそらくメンバーの誰にも負けない。

 見た目からは考えられないほど彼女は芯の強いしっかり者だった。

 その性格は、自分の知っている誰かにそっくりで・・・。

 「よく頑張った。あんなに背丈の小さかった君が今じゃこんなに立派に活躍している。僕は堪らなく嬉しいよ」

 「今だって私の背が小さいこと分かってるくせに・・・私だって、こんなに頑張れているのが嬉しいです」

 今からほんの数時間前に人を殺してきたことなどおくびにも出さず、ミハイルは遺体を引きずってきたその手で、アンゲリナの白銀の髪の毛を優しく撫でた。 

 同時に、彼女の両手に握られていた真っ黒な毛皮帽子が彼の目に鮮明に飛び込んでくる。

 もうそんなに寒くなってきたのかと思う一方、普段の何気ない日常の一風景として見落としがちだがその帽子はじっくり見ると一般市民が被るものにしてはどこか奇妙で不釣り合いだ。

 ロシアの秋は短く、もう間も無くやってくる冬は想像を絶する気温にまで下がることが常で、帽子をかぶっていなければ命の危険にすら晒される。毛皮帽子をかぶることは全く珍しいことではないが、彼女が大事そうに抱えるその帽子は一般的に売られているようなものではなく、ソ連海軍の兵士が被っているものなのだ。

 「リーナ、その帽子は・・・」

 「え、これですか?」 

 彼女はミハイルの目を釘付けにしていた帽子を取ると、大事そうに胸の中に抱える。こうしてみるともはやその帽子は彼女の身体の一部分に他ならなかった。

「これと一緒なら私、どんなところでも寂しくない。お守り代わりなのかも」

 無理やり明るく振る舞う表情に、微かな暗い影が刻まれたのを彼は見逃さなかった。

 彼の頭の中に1978年の事故が脳裏へ鮮やかに蘇る。

 もともとこの帽子を被っていた男は、小柄なミハイルとは対照的で大柄な体躯と凛々しい顔立ちの海軍士官、ルスラン・カミンスキーである。

 幼い頃母と二人暮らしだったミハイルが移り住むことになったベラルーシ南部ホメリの近所に住んでいた彼とは昔馴染みの親友であり、ともにソ連という国家のために尽くすことを誓い、それぞれ別の道を歩んできた。

 アンゲリナ・カミンスカヤが、亡き父であるルスランに恋い焦がれているのは知っていたが、彼女が被っているその黒い帽子を見た時、ミハイルは改めて言葉には言い表せないほどの衝撃を胸いっぱいに感じていた。

 「君は、それをまだ被り続けていたのか・・・?」

 父の遺品は全て・・・その愛読書やレコードの類も含めて処分したものとばかり思っていた。辛い過去は忘れるようにとミハイルが娘である彼女と、彼女の母にそう助言したのだ。

 彼がこの世にいた証拠なんて、もう何も残っていないとばかり思っていた・・・。

 「ミハイルさん、ごめんなさい、言われたことをきちんと守れなくて・・・ダメだったの・・・どうしても、この帽子だけは捨てられなかったんだ」

 アンゲリナは父親が事故当日も被っていた帽子を、ぎゅっと強く握りしめる。その痛ましい姿を見るだけで、ミハイルの胸も締め付けられるように痛んだ。

 「謝ることなんかじゃないリーナ。きっと天国の彼は報われる」

 娘が大好きで、常に幼い彼女の写真を持ち歩いていた彼のことを思い返すたび、今でもミハイルは目頭が熱くなっていく。彼が娘を愛するのと同じくらい、目の前にいる彼女も彼のことを愛していたのだ。

 辛いはずの今を必死で生きる彼女の姿に胸を打たれると、いつの間にか彼女を強く抱きしめている。

 暖かいミハイルの腕の中に包まれた彼女は戸惑った様子で彼を見上げた。 

「君のお父さんのかたきはとった」

 「え、仇・・・?」

 16歳とはいえ、まだまだ子供の容姿をしたアンゲリナが自分の父を殺害した人間を可視化できるわけではない。巨大な事故の裏側には必ず事故を引き起こす元凶となった人間が複数存在している。・・・しかしそんな嫌な世界の現実を、ミハイルは無垢なアンゲリナに対して素直に伝えようとはやはり思えず、言いかけた言葉をつぐんだ。

 「・・・絶対に君は一人ぼっちじゃない。いいかい?これからは、悲しいことがあっても君には花束ブーケト・ツヴェトフのメンバーがいる。彼女たちが君のもう一つの家族なんだよ」

 別の意味でそんな彼の物騒な言葉を解釈したアンゲリナは、ようやく照れ臭そうに笑った。

 「だからミハイルさんは、お父さんを亡くして独りぼっちだった私なんかを・・・みんなのところに誘ったりしてくれたんだ。でも、それが仇だなんて、なんだか大袈裟ですよ」

 ミハイルに招待されたことで、初めて彼女に友達や兄弟と呼べる相手ができた。これがどんなに嬉しいことか、彼女自身にもはっきり言葉にするのは難しい。

 「・・・リーナは、この国を恨んでいるかい?」

 エルザにも問いかけたような疑問をミハイルは彼女に対しても、いつの間にかぶつけていた。「君にとっては大事な父親を殺したような祖国かもしれない」

 「とんでもない!」しかしアンゲリナは真っ向から否定する。「事故なんて、どんな国でも起きますから。私はこのソビエト連邦が好きなの・・・ナターシャやソフィー、他にもいろんな人種のみんながいるこの国が好き。みんなに出会えたのは同じソ連人だから。この国と、この国の人たちのことを恨むことなんて・・・そんなこと私には絶対にできない。私は今・・・みんなと一緒にいることが、とても幸せなんですから」

 恨み節は、にっこりと笑う天使のような彼女にはあまりにも似つかわしくない。

 彼女の答えはむしろ、期待通りでもある。

 しかしミハイルはエルザの言葉でようやく固まりかけていたソ連を崩壊させるための決意が、またしても葛藤によって揺らいでいくのを感じていた。



第三章(前編) 完

 

 

 

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