赤い月にパラサイト

有澤いつき

姉さん、あなたを愛している。

 はじめて舐めた血の味はよく覚えている。

「はじめて」と言うには語弊があろう。正しくは彼がはじめて意図的に舐めた血の味を、よく覚えている。鉄の味がするというそれを舐めた瞬間、彼の世界は一変した。


 思えば、あの日から彼のすべてが変容した。生活リズムも、趣味嗜好も、あらゆるものが。変わらなかったのは唯一の肉親である姉への愛情くらいであろう。そこに至るまでどんなことがあったか……別に何か変化があったわけでもない。心境の変化もなかった。強いて言えば常々思っていたことを実行したい衝動にかられた、それだけである。

 断片的によみがえる思い出。ある日あるときある帰り道。赤い月が不気味な夜。道すがらすれ違ったあの人は、赤い月が似合う女性だった。


「ッ!?」


 繰り返される思い出。きっとあの人には赤い液体が似合う。赤い月と同じ色の化粧が。試しに切ってみた。「偶然」手元にあったカッターで。はじめてだから傷つけないように、手元を少しだけ。


「……っ」


涙目で、恐怖に身を震わせ、声さえまともに出せない女性。赤い月が似合う人。真っ赤で、静かに手首を伝う、美しい血液。


 ――素晴らしい!


 魅惑の赤と、泣き腫らした顔が見事な塩梅に思えた。きっともっと赤い色に染めたら、女性も血もより美しくなるに違いないと。

 そこから先は簡単だった。己の願望を叶えるために試行錯誤を繰り返し、ああでもないこうでもないとあちこち触れた結果、女性が死んでいただけ。

 動かなかった。さきほどまでの鮮やかさが急速に失われていった。


 そのときふと思ったことが、はじまり。この「美」を、何か残しておきたかった。何か証を、実感を求めていた。

 その答えが――血を舐めること。

 彼は思い込んだ。血を取り込むことで彼女を、「美」を、彼の「作品」を永遠にできる気がしたのだ。自分の身体のなかで生き続けると、思うことにしたのだ。

 すべては災厄にして最悪の方角へ舵をとることになる。


***


 朝、目覚めてテレビを見ると、大抵の局が自分の特集をしている。

 特に面白おかしくしてくれるのが朝八時台のワイドショーみたいな情報番組だ。姫島ひめしま淡路あわじのアートの残骸をとりあげるなんてテレビはどこまでくだらないんだろうと思ったりもする。一番美しい瞬間は淡路の体内に取り込まれてしまったからだ。

『連続変死事件』『犯人は精神不安定で幼稚』――くだらない憶測が席巻する。


「物騒よね」


 トーストをかじりながら姉が言う。


「市内で起こってるんでしょ、これ。こないだも警察来てさ、初めて事情聴取みたいなのされたよ」

「姉さんが?」


 警察とやらはなんてことをするのだろう。姫島淡路の唯一にして無二の家族である姉に手を出すとは。


 ――切り刻んでやろうか。


 淡路は家族思いの人間であり、また独占欲の強い人間である。ゆえに姉に接触した存在に仕置きするのは至極当然の結論であった。


「ただの質問よ。ほら、よくテレビで見るでしょ? 警察が家に来てさ、聞いてくるやつ」


 姉・姫路ひめじは吹き飛ばすように笑った。


「日中淡路はバイトだから会わないかな。めんどくさいけど顔出さないと。変に怪しまれたくないし」


 何も知らないけどさあ、と言って姫路はコーヒーをあおった。ブラックを一気飲みするのが姉の日課だ。淡路はそれを見るだけで胸焼けがする。


「ん? どーした淡路」


 何でもないよ、とだけ言っておく。淡路の朝食はトーストと目玉焼き、飲み物は紅茶と決めている。


「こーゆーとこは大分違うよね」


 ストレートティーを静かに飲む淡路を見て、姫路は眉を寄せる。


「何がおいしいんだか」

「好みの問題だからね」


 淡路は淡々と答えた。テレビの画面右上に映るデジタル時計が淡路を急かす。


「ごちそうさま」

「あれ、もういいの?」

「バイトだからね」


 姉はなぜか不服そうにこちらを見てくる。


「頑張るのはいいけど、物騒なんだから。気を付けてよね」

「姉さんこそ」


 もっとも自分が姉に手をかけることはないだろうから、そいつについては問題ないだろうが。

 洗い物を終えれば簡単な身支度をするだけでいい。身一つでどうにかなるバイトである、大した準備は必要ない。


「じゃあ姉さん。僕はそろそろ」

「はいはい。あたしは今日もいないから、テキトーに食べててね」


 日勤のアルバイトを掛け持ちする弟と仕事柄夜勤が多い姉。これが姫島家の日常であり、家族であり、つながりであった。


***


「……ありがとうございましたー」


 勤務態度は悪いとは言えない。だが良いとも言えない。愛想のないぶっきらぼうな店員、というのが客からの印象だろう。無骨な手のひらにレシートと小銭を押し付ける。客は途端に顔をしかめたが、淡路の知ったことではなかった。


「姫島君、もうちょっと笑顔でね」


 年配の女性店員にそう注意されたこともあるが、淡路は大人しく聞き流すことにしている。淡路の笑顔は姫路のためにある。金も、愛も、命さえも。ゆえに他人に作り笑いを浮かべる必要はない。姉のために尽くす……姫島淡路の偏愛は至極極端である。

 定時になればすぐ上がる。アートのキャンバスを探しに行くためだ。赤く熟れた果実を刈り取る瞬間に似た楽しさを求め、彼は今日も街を夢遊病のように徘徊する。暇をもて余しては街中を、ときに市内を徘徊し、欲しい果実があれば収穫する。それをテレビが取り上げ、珍妙なあだ名をつけて特集し出したのが最近の話だ。今では警察まで動きだし、姉に事情聴取をしたと言う。


 ――僕はただ僕の好きなことをしてるだけなのにね。


 姫島淡路は今日も今日とて果実のアートを描く。一瞬の快楽、しかし永遠の愉悦、ただそれだけのために。


 今日は何にしようかと思案しながら夜道を徘徊する。主に獲るのは女性だ。淡路だって男である、悲鳴は綺麗な方が良いし、近くで顔を拝むなら女が良い。細い首に手をかけて、涙ながらに嫌がる姿がたまらなく好きだった。

 姉のように艶のある髪をしていて、姉のような線の細い身体を持ち、姉のような鈴の鳴る声で泣き叫んでくれるなら。

 だから、今日もやっぱり、そういう人を探してしまう。線が細くて儚くて、自分の手で果ててほしくなる人を。


「……いた」


 後ろ姿。カーディガンとジーンズというシンプルな装い。黒髪を無造作に束ねた女性。飾り気のない、地味にさえ思われる立ち姿だが、着飾らないスタイルがまた良い。後ろ姿だけでは年齢を推し測れないが、背筋はしゃんとしているし、あまり老けてはいないと思う。二十代だと最高だ。何にせよ、ここからでは想像するしかない。

 でも、何故かすごくそそられる……淡路が感じる、恋慕にも似た感情。


 ――決めた、彼女にしよう。


 この高揚感は久しぶりだ。蓋を開けてみないとわからない、そんなワクワクした思い。きっと獲ったら綺麗なものが見られるだろう。淡路は口元に浮かんでくる笑みを隠そうともせず、女性の様子を伺う。距離はそこそこ、行けなくもない。だが場所が悪い。せめてもう少し人目のつかない場所で独り占めしたい。

 そんな淡路の思いに答えるかのように、女性が移動した。好機。淡路は追跡を開始する。

 果たしてどこまで向かうのか。適当な場所に差し掛かったところで襲い、収穫作業にはいる算段だ。焦ることはないが、悠長に構えられるほど淡路は忍耐強くない。目の前の欲望に忠実な男だから、決して果実を獲り損ねたりしない。


 曲がり角を曲がる女性。あの先は街灯の少ない道。人通りも多くない。悲鳴が響き渡ろうともすぐに姿は消せる――示しあわせたかのような大チャンス。

 淡路の袖の下で得物がキラリと光った。


「!」


 捕捉して、仕留める直前まで淡路は口を開かないし気配だって極力殺す。それでも加速した辺りでいつも気付かれるのは、溢れんばかりの胸踊る思いが察知されているからなのか。

 女性は淡路に気づいたようで、こちらを見てきた。顔はよく見えない。だが脚は逃げ出すように動き出さないし、動きが間に合わないだろう。


 ――いける。


 淡路は女性の首根っこを掴み、壁に思いっきり叩きつけた。

 ド派手な炸裂音。


「がっは……!」


 あんまり綺麗な声ではない。首を押さえているから余計に汚い声になる。女性の息はたちまち乱れ、空気を求めるように喘ぐ。


「ひ、い……ッ」


 女性の両手が、淡路の首を押さえる手にかかる。爪を立てられ、皮膚がぷつりと裂ける。滲む血は気にせず首を絞めてしまおうかとも思ったが、もっと面白いことを思い付いた。

 女性の爪ごと、その血を舐めたのだ。


「イッ」


 女性が声を詰まらせたような悲鳴をあげる。そんなに嬉しかったのだろうか、とっても良い悲鳴をくれた。それはご機嫌の証だろう。ならば、淡路もお返ししなくては。淡路は女性の耳朶に熱い息をかけ、睦言をささやくかのようにおねだりする。


「鳴いて、くれる?」

「!」


 その瞬間、女性はまた息を詰まらせ。得物を構え、あとは突き立ててやればいい。その瞬間の顔を、悲鳴を、淡路は至近距離で見るのが大好きだ。だから今回も顔を近づけ、その表情を拝む。


「……あれ」


 そこにいるのは姉という女性であった。

 姫路は涙を流し、怯えたような瞳でこちらを見つめている。歯をガチガチと鳴らし、脚をガクガクと震わせ、その姿は普段の勝ち気でどこか気怠い雰囲気を漂わせる姉とは思えなかった。


「あわ、じ」


 かろうじて呼ばれた名前さえ、闇夜に溶けてしまいようだ。


「どうして……こんな、こと」


 首根っこを押さえつけられ、か細い声で問いかける姉。明るく強気な姉からは想像もできない姿。


「姉さん。どうしてそんなに弱々しい声をだすの」


 普段ならばそんな弱い様は見せないだろうに。


「テレビで、やってた、殺人鬼ってのも……淡路なの?」


 笑い飛ばしてしまいそうなのに。


「いつもの姉さんらしくないよ」


 噛み合わない会話。


「なんで」

「どうして」


 なんでとどうしての応酬。淡路は己の内側から血が沸騰していくような錯覚に陥った。


「違うッ!」


 淡路の中で奔流のように感情が溢れてくる。思うがまま、感じるがまま、淡路は姫路の首に回した手に力を込める。


「違う、違うよ姉さん。そんな声じゃないそんな顔じゃない僕が求めるのは! そんな姉さんじゃないんだ!」


 ギリギリと音をたてて絞まっていく。姉は魚のように空気を求め喘ぐ。その姿は姉とは信じたくないほど惨めで、不細工で、美しくなく。今まで殺してきた女と何ら変わらなかった。


「わかったよ……姉さん。僕はね、ずうっと人を殺してきた。それは僕の中の快楽を埋めるためだと思っていたけど……」


 目の前で苦しげに喘ぐ女性は声さえ出せないほど逼迫していた。反応のない告白。


「どうやら姉さんを殺したくてたまらなかったみたいだ」

「……!」


 姫路の怯えきった表情。それさえも気に障る。好きで好きでたまらなくて見たい顔があるのに期待通りの顔を見せてくれない。淡路が首を絞めてまで見せてほしい顔は、そんな軟弱な顔ではないのだ。


「笑ってよ」


 姫路の見開かれた瞳のなかに映る自分は、不気味なほど晴れやかに笑んでいる。


「笑って。僕はね、姉さんが大好きなんだ。愛している。僕は姉さんのために生きているし、だから姉さんも僕のために生きてほしいんだ。僕のものにだけなってほしいんだ。それって愛だよね。恒久のものだよね。だからさ」


 頭のなかが歪んでいく。愛情が、友情が、親愛が――感情というありとあらゆる思いが脳内を支配していく。やがてそれはひとつの感情を形成する。善も悪も何もない、独占欲の塊の成れの果てが。


「笑ってよ。僕の知っている姉さんの笑顔を永遠にして、……殺したい」


 それは狂気という塊であった。

 一瞬にして紡がれる悲鳴。脳裏に焼き付く、姉の最期。飛び散る鮮血、片手に煌めく刃。首を押さえる片手は真っ赤に染まり、その血は舌に運ばれた。


「……ふふっ」


 狂った笑いが込み上げる。笑ってくれなかった姉が転がる。けれどその血は姫島淡路の体内に取り込まれ、芸術的永劫は完成された。


***


 赤い月は何故出るのだろう。

 あの赤は誰かの血の色なんだろうか。鮮やかで不気味な深紅、淡路はその色が大好きだった。つい先程まで体内を巡っていたものが体外に放出される。それはまさに新鮮と呼べるし、それを舐めることは体内に彼女を取り込むことのように思えたのだ。


 姫島家は二人家族。姉の姫路と弟の淡路。弟はアルバイトをしているから、日中は誰もいない。弟の時間は夜である。帰りと同時に煌々と灯る我が家の光。迎えてくれる、優しい姉。


「ただいま、姉さん」


 虚ろな笑顔の向こうにある「姉」へ、弟はいとおしげに声をかけた。

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