第4話

 ところが。


 人間の踏み出すかすかな一歩は、どうやら存外大きな影響を与えるものらしい。

 はてさて、一体どんな仕掛けをその小さな体内に宿しているのやら……。僅かばかりの視線の先でじっとしていた例のむしは、ただの一歩、いや、ひょっとしたら未だ半歩にさえ至らなかったかも知れない僕の動きを後目しりめに、すぐ傍でいかめしくそびえ立つ紫檀色したんいろ箪笥たんすの陰へと、難なく隠れ去ってしまった。

 そして、ここから見てほぼ真正面、つまり、机の位置とは丁度ちょうど正反対の一隅いちぐうを重々しく占めるくだんの箪笥の、如何いかにも世間とは没交渉であるかの如く超然としたその様のせいでもあるのだろうか───物理的にちっぽけなムカデに対する僕の興味は、まるで一寸の夢から多くを忘れて醒めたように、生き生きと死を彩っていたその呼吸を、今はもうほとんくし終えていた。


 それにしても、椅子から用心深く立ち上がってようやく歩を進め始めた───そして、明らかな殺意をくるんでいた───僕の思考を、あの蟲は、美しくも醜いその黒い肌を使って、あたかもスポンジと水の関係のように、スッと吸い込みでもしたのだろうか?


 ───いや、くだらない。


 我ながら、とんでもないくらいに酷く馬鹿馬鹿しい問いかけだと思う。

 ただ、いつもとんでもなく馬鹿馬鹿しいものに囲まれているにもかかわらず、なお生きる事を選び取る「人間」という存在もまた、唾を吐きかけてやりたいくらいに馬鹿馬鹿しい。───歳を経るごとに身心ともにやつれてきた近頃の僕には、どうしても、そういう身の構え方が一番しっくりくるようになってしまった。

 何が起きたのかを理解することは、大抵の場合、いつだって容易い。現に今も、いつものように西日焼けした壁が憮然ぶぜんと立つこの五畳半の部屋の片隅で、その場を宛がわれている僕が一匹のムカデを取り逃がした、というに過ぎない。しかし、「現実」という、つらの皮の妙に厚い厄介者を、ありのままに受け入れるということ───それは時として、体中のあらゆる神経を目掛けて、抜き身の刃が延々と抜き刺しを繰り返すような、透明な顔でゲラゲラとわらいかける不遜な痛みを孕むことに繋がりかねない。そして、この厄介者は、まさにそれが厄介者であるが故に、矢鱈やたら目立ちたがるという卑劣な癖を持っている。


 ───と、そんな思考を止めなくつるのように絡ませている自分にふと思い至り、少しばかり苦い溜息をつきながら、また椅子にどっぷりと腰を下ろす。冬の寒さに意識をコツンとつつかれて、慌てる必要もないのに何処となく気忙きぜわしい仕草で両手を齷齪あくせくと揉みながら、左脚をかかとからヒョイと上げては右の爪先の辺りでほんの僅かに床を蹴り、座部をほぼ直角に回して再び無機質な机に向き直る。

 机上のやや左寄りには、いつの間にやらすっかり冷めたマグカップがポツンと一つ。のらりくらりと珍妙にはしゃいでいた湯気は、もううに息をしていないらしい。しかしそれでも、カップの持ち手に指を通して中を覗けば、薄茶色いコーヒーが、前後左右、上へ下へと、ただひたすら、小刻みに生きていた。

 相も変わらず事務的な灰色を帯びた机の上に、その陶器のカップを、中身が揺れを忘れないうちに軽く置く。思いのほか、鈍くゴンッという音を響かせたのには少しばかり驚いた。

 それから僕は、心地良さとはすっかり無縁の疲労感を首の付け根に躍らせて、少しだけ右にねじりながら静かに顔を上げてみる。正面奥に並ぶ本の列を半ば無視してすうっと上げ続け、着ているフリースの襟がグチャッと潰れるのもお構いなしに、僕の頭と重力との無垢な戯れが、ただただ自然に止むのを待つ。



 03:23 AM。



 いつも通りの場所、そしてまた、いつも通りのやり方で、視界の真ん中にするりと入り込んだデジタル時計が、これまたいつも通り、淡々と自分の役割を果たしている。

 それを見た僕は、何が何だか意味の分からない不具の満足と、どんな「普通」の満足も知らない自分の不甲斐なさの両方から、こちらが挨拶代わりに差し出したてのひらを手首ごとバッサリ斬り落とされて、断面からほとばしるどす黒い血のシャワーを、泣きわめきながら自分の全身に浴びてはいたずらに膝を折り崩す───。

 そんな、やはりいつも通りの、禍々まがまがしくもほとほと哀れな幻想の奔流に、ふと、幾許いくばくかの安らかな知己ちきを得たような気がした。


 冷たく残ったコーヒーを惜しみなく一気に飲み干すと、からのカップを手にしたまま、座部を180度、くるりと回転させて席を立つ。そして、三歩ほど進んだ右手にあるドアをくぐって台所に入り、そのほぼ中央にある照明器具に明かりを灯そうと、それに吊り下げられた紐をカチンと引く。すると、真昼には聞こえてこないかすかな反響音を伴いながら、すぐ真下にある一畳程のテーブルをはじめ、くすんだ灰色の古壁に備え付けの、塗装の禿げた跡から枯れた白木の木材がひょっこりと顔を遊ばせている食器棚だの、不整脈患者の心音のようにモーターを不規則に唸らせる年季物の冷蔵庫だのといった生活用品達が、僕の見慣れた色を銘々めいめい一気に取り戻した。


 しかし、命ある者がそこに暮らしている以上、時折、思いもよらない景色に胸をかれる事もある。


 テーブルの脚の内側に添えられて、大した光も届かないゴミ箱の陰。

 恐らくは誰かの手によって無造作に投げ捨てられた際に、幸か不幸か、その口に入り損ねたとおぼしき使い古しのゴムが三つ、───まるで赤子の死体のように、その背の辺りをグニャリと曲げて無言のまま無邪気に転がり込んでいる様が、何とも刺々とげとげしく僕の目に焼き付いた。


 僕は、いつものように、死にたくなった。


 そう、それだけだ。





 それだけだ。





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尖鋭の器 もざどみれーる @moz_admirer

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