第3話

 少し前から、視界の端に、何やら壊れかけのゼンマイ仕掛けの玩具のような、鈍く醜い動き方をしているものがある。───ああ、どうやら一匹のムカデが、いつの間にやら部屋に迷い込んだものらしい。硬いとも柔らかいとも外見からだけでは今一つ見当がつかないけれど、そんなことは今の僕にはどうでもいい。ただ、心底どうでもいいものに自分のテリトリーを荒らされているのだと思えば、それはそれで実に不愉快だ。

 まるで僕の胸の内など初めから存在していないかのような不躾ぶしつけな素振りで、安っぽい玩具の宝石のような黒い肌に電灯の光を僅かばかり反射させながら、音も立てず小奇麗で小汚い匍匐ほふく前進に酔い続ける、一匹のムカデ。

 玩具の宝石のような肌とはいえ、曲がりなりにも宝石に似た物であると言うなら、何らかの系統の美をあたかも香水のように振り撒くのが世の常だ。


 しかし、このむしの醜さは、一体どうしたことだろう? 


 そこでは、一切の美というものが、我が物顔で腐り果てている。僕の小指にも満たないくらいのちっぽけな体に、ほとんど絶望的な程の大きな不快感の種をまとっている。

 ただ、僕の視界を、例えば天国にでもグイッと持ち上げてこの風景を見下ろしてみれば、きっとそこには全く違った現実が広がり始めるに違いないという気もする。


 「自然界においては完璧な秩序の下に生きているはずのこの小さな蟲は、ひとたび人間社会に踏み入った正にその瞬間、およそ役に立ちそうにもない脚ばかりを胴体から無邪気に生やした、招かれざる害虫という地位に身を堕とした……」


 別に同情しているわけじゃない。ただ───


 と、その時。


 例のムカデが、突然向きをクルっと変えて、来た道を再び戻り始めた。

 ……やれやれ、相変わらず何を考えているのかさっぱり分からない。こちらからグッと顔を近づけて細やかに観察すればコイツの表情くらいはうかがい知る事ができるのかもしれないけれど、でもまあそれはやめておこう。ふとした拍子に僕の眼球にガブリと喰らい付いてくる可能性は否定できないし、できることならそんな厄介事は避けるに越したことはない。

 何と言っても、僕にはまだ、自分の両眼がこれから嬉々として吸い込むはずの、研ぎ澄まされた刃の顔で狂い始める未来が、絶対に、絶対に必要なのだから。


 諦めてはいけない。

 近い未来のその先の、全ての未来を諦めるまで。



 さて、そろそろ椅子から離れよう。───とは言え、ムカデとの距離なんてたかが知れている。

 目測では、せいぜい四歩くらいだろうか。幸い、今はアイツもすっかり這いつくばる歩みを止めて、まるで鉛を被った同情心のように、ピクリともせずに無音のままでたたずむばかり。


 「軽いよなぁ……、命って」


 そんなことを考える僕の頭には、どことなく冷たい重力が、勢い良く土塊つちくれに飛び出した大量の鮮血のように、許しを請うような言い訳もなく、ただ静かに、けれど確かな角度で、そっと滲み始める。

 凍て付いた穏やかさが、僕の描く小さな幸福を、グロテスクなまでに掻き乱す───。


 それにしても、さっきはまるで行方を決めかねているように地を這い続けていたこの蟲は、今この瞬間には一体何をどのように感じ、どのように思考を巡らし、そして、これからどのような顔で、余りにも突然すぎる自らの死の現実を受け入れようとするのだろう? 

 自然の掟に導かれるように、あるいは抗うように、この小さな生き物も本能としての防御手段をきっと持っているに違いない。そして、やはり同じように生命を保持するための本能に縛られた生命体でもある人間には、ある対象に向かって嫌悪感を抱くことが許され、その小さな命を拒絶し、排除する権利があるとされている。

 いや、正しく言うなら、それは権利ではない。生物学的反応という決定的な事実だ。そして、事実というやつはいつだって、まるで積み木のようにぴったり重なり合いながら、責任感の芽を偽善の鎌で刈り取りつつ、社会の羅針盤に少しずつ「精確な」誤差を加えていく。

 そんな思いに項垂うなだれながらも、相手に目敏めざとく悟られないよう、僕は息を殺してこの小さな命の方へ一歩ずつ近づこうとしている。

 本能によって肉親から産み落とされた、嫌われ者の、害虫の、この豊かで小さな命の方へ。


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